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『月と薔薇・後』
水嶋・琴美8036

 いつの間に、と女は震えた。
 自分の思い通りにしていると思っていた、水嶋・琴美(8036)が思惑と違う行動を取っているのだ。
 女の吐息がまとわりつき、四肢の自由を奪ったと思っていた。どれだけ抗おうとしても、吐息がまとわりつく限りそれは叶わぬことなのだと思っていた。
 それなのに、今、琴美は女の背後を取っている。
「あれで、よく振りほどけないと思っていましたね」
 あきれたように、琴美は言う。
「たった、あれしきの力の拘束で」
 琴美の言葉に、ぐっと女は唇を噛む。
 どこかで力を緩めてしまったのだろうか、と女は思考を回す。いつも通り簡単に相手を屈せたと、制御を緩くしてしまったか。だから、今こうして背後を取られているのか。
 女は扇を握り、背後の琴美を払うように振り払う。刃のついた扇は、背後の琴美を振り払うことはできた。
 琴美は距離を取った後、なるほど、と小さく頷く。
「事態の把握ができていないようですので、ご説明しましょうか?」
 呆気にとられる女に、琴美は構わず言葉を続ける。
「あなたは今まで、自分と同等以外の相手と戦ったことがないのでしょう。格下や格上の存在は、相手にしないと決めてきた。だからこそ、今の事態についていけていないのです」
 琴美の言葉に、女は「格上なんて」と言葉を紡ぐ。が、それが最後まで紡がれることなく、琴美によって遮断される。
「残念ですが、存在するのです。そうして、対峙する相手の数が圧倒的に少なかったため、現在実力差が分からずにいるのです」
 琴美は、言い聞かせるように話していく。わがままな幼子に言い聞かせるように。
「格下だと嘲り、相手にしなかったではないですか。それは対峙したとは言えません。相手がどういう実力を持っていたとしても、対峙しなければ分からないことはあるのですから」
「あなたは私よりも上だと?」
「当然です。私は、あなたより格上なのですから」
 きっぱりと琴美は言い放つ。女の顔が、ぐにゃり、と歪む。
「はっきりと言い放つじゃない!」
 女は叫び、扇を振りかざす。青紫の薔薇の花びらが、辺り一帯にひらひらと舞い踊る。
「指摘したら逆上するのも、図星だからではありませんか?」
 琴美はそう言い、クナイを両手に握って構える。そうして一息吸ってから、両手のクナイで花びらを次々に撃ち落としていく。
「このような子供だましに付き合ってあげるほど、私はお人よしではありません」
 女のことを気にすることもなく、琴美は花びらを撃ち落とす。残せば軌道修正して琴美に襲い掛かってくるため、確実に全てを落とす。
 別に、難しい事ではない。他者がどれだけ難しい事だと思ったとしても、琴美にとっては安易なことだ。
 全ての花びらを地に落としたのち、琴美は地を蹴って飛ぶ。女が扇で琴美に応戦しようと構えるが、その動作すら許さず琴美は女の背後に着地して腕をねじり上げた。
 あっという間の出来事と突如湧いたような痛みに、女は喘ぐ。そして、気付けば地面に伏せられる。
「逆転された気持ちは、いかがですか?」
「最悪ね」
「そういえば、面白い事をおっしゃっていましたね。四肢をもぐとか、なんとか」
 琴美の言葉に、さっと女の顔色が変わる。
 確かに言ってはいたが、実行はされていない。だが、本気だったのも確かだ。
「そうですね、少なくとも腕はもがれそうになりましたし、もぐというのはどういうことなのかの一端だけでも味わっていただきましょうか」
 琴美はそう言うと、ねじり上げていた腕をさらにねじる。
 ぼき、という音がしたかと思うと、女の悲鳴が夜空に響き渡る。
「痛みを知ることができて、良かったですね」
 女は背筋が震えるのを感じる。
 琴美の口調は柔らかい。心から良かったと言っている。恐怖を与えるためでも、交渉を行うためでもない。
 ただ、女が腕をもごうとしたから、ねじり上げたのだ。痛みを知らせる、その為だけに。
「やめてやめて! 負けでいい、負けでいいから! 私の、負けで、いいからぁ!」
 女が叫ぶと、琴美は「分かりました」と言って微笑んだ。
「拘束させていただきます。約束でしたから」
 女はゆっくりと首を回し、己を組み伏せている琴美の顔を見上げる。
 満月を背にし、薔薇の香りの中で微笑む琴美は、まるで月の女神のようであった。

 □ □ □

 機動課で拘束され、取り調べを受ける女は、琴美の事を尋ねられた。対峙して、どうだったか、と。
 女は言葉を紡ぐ。
 慢心していた女を、あっという間に打ち崩した。強くて、美しくて、自信たっぷりで、その自信に値する実力を持っていた、と。
 女は琴美を思い返し、痛む腕をさする。
 手当された腕は、もがれてはいない。もがれてはいないが、すぐには治らない。下手すると、元のようには動かないだろう。
 同じような状況になればいい、と女は呟いた。自分と同じような状況になればいい、と。
 取調官は呪いのような女の言葉を調書にまとめたのち、取調室を後にする。
「どうでしたか?」
 取調室を出ると、琴美が立っていた。ほんのり頬が赤い。戦闘の高揚が続いているのかもしれない。
「背後に組織的なものはなさそうでした」
「そうですか。いっそ組織がついていれば面白いことになるかと思ったのですけれど」
 琴美はそう言って、小さく笑った。
 今回も、傷一つ負うことなく与えられた任務を全うした。そして今回も、己の戦闘欲を満たしてくれることはなかった。
(弱すぎるんです、どなたも)
 琴美は残念そうにため息をついたのち(それでも)と思考を続ける。
(まだ任務はこれからも受けるでしょうし、その中には強敵もいることでしょう。きっと、私を満足させてくれる敵もいるはずですから)
「どこまで私の力を引き出してくれるのか、楽しみですね」
 取調官に聞こえぬくらいの小声で、琴美は呟く。
 聡明で、華麗で、美しく、圧倒的な実力を持つ琴美。
 敗北はこれまで一度たりともないし、これからもきっとあり得ない。
 調査官はどこか楽しそうな琴美を見て、先程の女の言葉を思い出す。

――私と同じような状況になればいい。

 それはつまり、苦戦や敗北を予期していない彼女が、それに対峙するということだ。
 女も、琴美と対峙するまでは自信と傲慢さで溢れていたという。苦戦も敗北も、一切ないと確信して。
 だが、今や女は拘束されている。地を這わされ、腕をねじり上げられ、己の弱さを叩きつけられて。
 琴美もそのような事態に陥るのだろうか。
 勝利を確信する琴美に、背後から敵が地に組み伏せられる。声を上げる暇もなく、四肢をもがれ、動くことも許さず、かといって命を落とすことも許されぬ。
 その時には、彼女の持つ聡明さも美貌も役には立たない。ただただプライドと自信をへし折られたまま、死すら生ぬるい末路を迎えるだろう。
「どうかしましたか?」
 琴美に問いかけられ、調査官はハッとする。目の前の琴美は、いつも通り聡明と美貌を兼ね備えた実力者だ。
 なんでもない、という調査官の返答に、琴美は「そうですか」と頷いた。
 調査官の抱く不安感をよそに、琴美は胸を躍らせる。
 それは、まだ見ぬ強敵と対峙できるその時を、心から楽しみにしているからであった。

<未来がどちらに傾くかは分からぬまま・了>

━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
初めまして、こんにちは。霜月玲守です。
この度は東京怪談ノベル(シングル)の発注、ありがとうございました。
こちらは、連続した3話のうちの3話目になります。
少しでも気にって下さると嬉しいです。
東京怪談ノベル(シングル) -
霜月玲守 クリエイターズルームへ
東京怪談
2020年08月26日

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