『隣の隣に君はいる』

神埼　夏希（la3850）＆吉良川　鳴（la0075）

　昨日の夜は明日が楽しみ過ぎて眠れなかった。そして明日が今日になった今、神埼　夏希（la3850）は姿見の前で睨めっこしている最中だ。透き通る海のような蒼色の長髪に寝癖が付いていないか、櫛を通しながら何度も確認し、終いには家族の所まで行って、自分には見えない後ろの部分まで確かめてもらった程である。腰の位置まで届くロングヘアーは夏希の自慢の一つ。但し今、褒められたい相手はただの一人きりである。勿論いうまでもなく、恋人の吉良川　鳴（la0075）のことだ。少なくとも、一瞬で気付いて褒めるようなタイプではないのだが、それでも少し期待してしまうのは仕方のないことだろう。というのも今日は二人が交際して初めてのデートだから。行ってきますと、語尾に音符が付きそうな程弾んだ声で言い夏希は家を出ることにした。約束には早いが恋人を待つのもデートの醍醐味というものだろう。裏にある神埼家の出入口から出ようとして、ふと正面からが近いと思い直すと、小走りに店のほうに向かった。夏希の実家は楽器店の為店内には各楽器から音響機器に至るまで、多種多様な商品が種類ごとに並ぶ。といってもあまり大規模なお店ではないのだが、通り過ぎかけた夏希の視線はとあるコーナーに惹かれて、思わず足が止まった。ギターやベースなどの華やかなものではなくて、素人は名称がぱっと思い浮かばないだろう機器――ミキサー。鳴は歌う以外にもミキシングを好んでいて、いつ頃からか具体的には分からないが週一回はお店に来る常連であり、前髪の一部が紅かったりヘアピンやシルバーアクセサリーをじゃらじゃら着けていたり、バンドをやっていても不思議ではない、派手な外見なのにいつも見ているのは音響機器系というちぐはぐさが物心ついたときから手伝いで客を見る自分にはとても新鮮に映ったのだ。暇な日は現在でも父と一緒に店番することが多い夏希は頻繁に顔を見せる彼に興味本位で話し掛けて自身もその手の知識はあるので話は弾み、そのうち恋愛感情を抱くようになった。などと感慨に浸るも我に返って扉の前に向かい一息に飛び出した。とまるで追従するように夏希のすぐ後ろから足音が聞こえる。一瞬ストーカーの単語が脳裏に過るが、
「夏希」
　と呼ぶ声を自分が聞き間違える筈もなく、即座に振り返る。そして駆け寄っていった。
「鳴っ！　わざわざ迎えに来てくれたの？」
「まぁ、待ち合わせ場所決めてなかったし、ね」
「あれ、そうだっけ……勝手に駅と思ってたよ」
　今後は普通にメッセージアプリというのも増えるだろうが、最初の一回は絶対に口約束がよかった。その上今回は夏希が自分から誘おうかと機会を窺っていたところ、まさか鳴から誘われるなんて想像していなくて嬉しい誤算に気持ちが動転して、絶対に目的地を忘れないようにと必死になっていたのだった。ほっと胸を撫で下ろすと、鳴は小さく溜め息を零す。呆れられたのかと思いきや彼の顔に浮かぶのは微笑みだった。
「夏希はかなりしっかりしてるほうだと思うけど……急に思い切ったりだとか、なんか結構男前、だよな」
「それって褒めてるの？」
　電車の都合もあり、隣同士並んで歩きながらそんな話をし、夏希は頬を膨らませ、腰に手を添えるとそう言い返した。じっと覗き込めば翡翠色の瞳が横目でちらりとこちらを見返してくる。勿論褒めてるよと適当に返されてもむっとならない。意地悪な素振りは近頃の鳴はよくするから。
「男前かどうかは別としても、確かに思い切りはいいかもね。もしも鳴が仕事か何かで、どこか遠くに行っちゃったら、私はただ鳴の帰りを待つより追いかけていっちゃうかな」
「俺は、どこにも行くつもりないけど、ね」
「うん。分かってるよ♪」
　二の腕がくっつくくらい身体を寄せれば、鳴は歩き難いと軽く不満を口にするが、しかし離れたり押しのけたりはしない。本当は手を繋いだり腕を絡めたりしたいが心の距離を測り兼ねていた。
（告白したのだって私のほうからだし、鳴は好きとか側にいたいとか、そんな甘い台詞、全然言ってくれないから……）
　不満という程の大きな問題ではない。ふとした瞬間不安になるだけ。もし自分の気持ちと彼の気持ちを天秤に乗せたら手を離した瞬間、限界まで傾いてしまうのではないかと。思いつつも、足は勝手に前方に進んで、唇からは他愛のない話題がぽろぽろ零れる。駅に到着し電車に乗れば、休日の車内は乗客でごった返して、窮屈だった。
（こんなだと鳴とはぐれちゃうよ……）
　よく目立つ鳴も簡単に見失ってしまいそうだ。特徴のある頭部は辛うじて見えているものの、いつ消えても可笑しくない。とそんなことを考えていると髪の毛を引っ張られる感覚に夏希はあっと小さく声を漏らした。誰かのボタンに絡まってしまったのだろう。押さえようとしても見えないのでどうしようもない。相手も気付いていなさそうで軽くパニックに陥る夏希の手に、誰かの手が重ねられた。もう大丈夫と囁く声が聞こえる。それで誰なのか分かって夏希は腕を下げた。毛先を辿る手が器用に解き、それから肩に回って引き寄せられた。ぎゅうぎゅう詰めの状態、顔を上げれば吐息が掛かりそうなくらい近くに鳴の顔がある。その上、前に進みたがる乗客に背中を押されて、鳴の身体に自らのそれを押し付ける羽目になったが、彼は嫌な顔一つせず、むしろ乗客をひと睨みし、それから労わるように夏希を見下ろした。背に押し当てられた手からじわじわと熱が広がっていくようである。
「夏希、俺にくっついててもいいから、な。……人のものに、気安く触らないでほしいねぇ。綺麗な髪が台無しになるところだった」
　小さく呟かれた言葉は多分本人的には聞かせるつもりのないことで、そしてそれは夏希の知らない、けれど強く望んでいた感情を物語っていて、なんだか泣きたくなってしまった。勿論嬉しさからくる涙だ。
（私は鳴に愛されてるんだね）
　独占欲が強くてもいい。むしろ、夏希自身も強いほうかもしれない。だから願う。こんな幸せな日々が少しでも長く続くようにと。終わるときはいつか死ぬときでありたいと。その瞬間は心底そう思っていたのだ。

　◆◇◆

「夏希、大丈夫そうか？」
「うん。良くなってきた、と思うよ？」
　微笑み夏希はそう返すものの彼女の顔色はまだ少し蒼褪めて見える。照明の色の関係で判り難いのが困りどころだと鳴はその顔を見下ろしつつ不意に違和感を覚えた。数秒遅れで気が付いたのは全く会わない空白の期間は思いの外大きいものだということ。知らないうちに人は変わっていく。あの幼馴染と再会した直後ぎくしゃくとしたように。会わずにいても関係につく名前は変化して、自分の与り知らぬところで違う何者かになっていくのである。元カノの夏希も例外ではなかった。初デートの日が遠い昔のことのようだ。
「鳴はそっち側の椅子に座ってね」
　手持ち無沙汰にうろうろとするのもどうかと思い、彼女の隣に腰掛けようとした矢先、牽制するようにその右手が横に並ぶ座席を指し示す。確かに誰もいないし座っても問題はないが――仕方がないと鳴は息をつき、横の空いている席に腰掛ける。複雑な心を見透かしたように夏希は言った。
「誤解されたら困るのは鳴のほうなんだよ」
「あいつはしないと思うけど……」
「誤解はしなくても、いい気にはならないでしょ？」
「……そういうもん、なのかねぇ」
　そうだよと追撃されて、鳴は口を噤んで肩を竦めてみせた。何となく夏希の顔を見返すのが憚られ、正面の巨大水槽に目を向ける。意図的に暗めに落とされた館内で、水槽だけ青白く光を放っている状態だ。複数の人間に観察されていることなんて彼らの知ったことではなく悠々と魚は泳ぐ。大きさも種類も非常に豊富で小さい一匹を追ってもすぐ見失った。硝子にぴたと顔をつけた子供がマンタを見つめて歓声をあげ、両親と思しき男女は他の客たちに遠慮して、こらと小声で叱りながら横目で窺っている。鳴が微笑んでみせ目線で平気だと伝えると、ほっとしたらしい夫婦も子供を間に挟んで水槽の中の魚を眺め始めた。足を開き気味にして股の間のクッションの縁に両手を乗せる。そうしてぼんやり鳴自身も魚を観察していると、急に夏希が話し出す。
「邪魔をしちゃってごめんね」
「体調が悪くなるのは仕方がない、んじゃない」
「それはそうだけど……一人でもよかったのに」
　ぽつり消え入りそうな声で夏希が呟いた。それは誰かの話し声に掻き消されることなく耳まで届く。鳴は人一人が楽に通れる程度には空間が空いた先にいる夏希を横目で見た。その横顔は蒼色の髪に隠されていてよく分からない。ただ伏し目がちで声も僅かに震えていては、ブランクも無関係に彼女の心は察するにあまりある。
「俺じゃなきゃ、駄目って以前に――俺が、夏希の面倒を見たいって思ったんだよ」
「同情してるの？　鳴は優しいね」
　一番最後優しいねと言ったその声は涙混じりにも聞こえた。久しぶりの休日、皆一緒にこの場所に行くという話になったからと行く前から体調が悪いのに無理を押して気分が悪くなり動けなくなった彼女だ。他のメンツは幼馴染兄妹と鳴の妹分で、その内兄のほうはまだ鳴を通して関わっている関係、鳴の妹分とは昔から犬猿の仲、ペンギン大好きっ子の“あいつ”は、今はまだ二人で話すのはどうだろうと、鳴が勝手に心配している状態。だから、元彼の自分がその役目を買って出るのが一番丸いと思ったのも確かだ。しかし特別ではなくなったとしても心配するし、大切にしたいとも思っている。元彼としてか友としてなのかその気持ちに名前を付けられなくても一緒だ。
「同情、っていうか……悪いとは思ってる、よ。……ほら別れるとき、一方的だったし」
「危険なことが多くなってくるから別れる、ってそう言っていたよね。あのときは、危険なことって一体何なのか、私には分からなかったよ」
　ぐすと洟を啜って、夏希は吐息に似た笑い声を零した。三人での通話中、鳴に想い人に自分の感情を明言するようにと促して、けれど同時にまだ好きだと告白し、それでも晴れて付き合うことになった二人を祝福し喜ぶ――それ程今も自分を想っている夏希はあの当時、果たしてどんな思いだっただろう。受け入れられなかっただろうに泣き喚いたりはせず、生活に試行錯誤する姿を見てきたからか強く反対しなかった。目を擦る夏希の右手にはいつも通りに水色のブレスレットが嵌まっている。そして勿論、鳴の左手にも銀のブレスレットが三連。
「……もう外してもいいんだよ？」
「これから会える時間が減っても、代わりにこれが守ってくれますように。そう願い贈り合ったものだから、ね。……俺は絶対外さないよ」
　私も、と夏希は頷いた。そこでようやくこちらを向いた彼女と目が合う。ほんのりと目元が赤く真っ先に思ったのは恋人に怒られそうというものだった。鳴と“あいつ”との関係に名前がついてから、元々ギスギスはしていなかったのだが、徐々に仲良くなってきた二人。なので、友達の夏希を心配し、恋人である自分のほうが怒られる気がした。泣かせるようなことしちゃ駄目だよと腰に手を添え、真面目な顔して。ブレスレットを交換し合った直後、連絡手段を絶ったときも、夏希は泣いたのだろうか。後を追うように、ライセンサーになり再会した彼女は凄く元気に見えたけれど。
「鳴の為に譲ったんだから絶対幸せになってね」
「幸せになるし、幸せにするって約束する、よ」
「うん。なら私も良しとするよ！」
　そう言って晴れやかに夏希は笑った。二人顔を見合わせて笑い合う。久しぶりに二人きりでこんなに深く彼女と話せたような気がした。さてともう具合が悪そうな様子もなく立ち上がった夏希が手を差し伸べてくる。真後ろの巨大水槽が青くライトアップされているのと彼女の髪が蒼いのも相まって、とても幻想的な光景に見えた。お互いにブレスレットを着けた手を取って、鳴も立ち上がる。
「そろそろ、私たちもペンギンパレードを見に行こっか♪　もう元気になったから大丈夫だって伝えに行かなくっちゃ」
「んむ、解った、よ」
　頷き、隣同士並んで水族館の中を歩いていく。手を繋いだり腕を絡めたりする恋人同士の距離とはもう違っているけれど。名前が変わっても二人の関係はこれからも続く。相手を思いやる気持ちがある限り、ずっと――。

━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
ここまで目を通して下さり、ありがとうございます。
日常の比較というか付き合い始めた頃と譲った後を
描いた二人のこれまでのダイジェストといった話ですが、
教えていただいた情報を詰め込みながら書くのがとても
楽しかったですね。別の形に変わってしまってもずっと
鳴くんと夏希さんの関わりが続けばいいなと思いますし、
鳴くんだけじゃなく夏希さんも幸せになってほしいです！
初デートは二人とも好きな生物がいるわけではないのに
リニューアルオープンの水族館に行ったところまで
勝手に妄想していましたが字数に余裕がなかったし、
初デートは大事にしたい気持ちもあるしで書きませんでした。
今回も本当にありがとうございました！

パーティノベル

りや

グロリアスドライヴ

2020年08月28日