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『彼女の名は(1)』
水嶋・琴美8036

 試着室から出てきた少女を、周囲の客が思わずもらした感嘆の声が出迎えた。
 芸能人だろうか?とささやき合う声が耳をくすぐり、羨望の視線が彼女の肌を撫でる。
 行きつけのブティックでショッピングを楽しんでいる水嶋・琴美(8036)は、自身の肌を無遠慮に撫でる視線にはさして興味を示さず、優しげな声で店員を呼んだ。
 試着した衣服がお気に召した様子の琴美は、この服を購入する旨を店員に伝える。有名なモデルや女優もよく訪れる高級ブティックの店員すらもしばし自分の仕事を忘れ見とれてしまう程、美しき笑みを携えながら。
 好みの服を購入し、上機嫌な様子で店を出た琴美の後ろで、彼女が先程身に纏っていた服と同じものを求める少女達の声が響く。次のブームは、琴美が選んだ衣服になるかもしれない。
 こうしてブームの最先端に彼女が立つ事は、珍しい事ではなかった。センスがある上に、琴美はどんな服でも華麗に着こなしてしまえるのだ。
「ふふ、私好みの服が入荷していて良かったわ」
 琴美の艷やかな唇が、上機嫌な様子でそう紡ぐ。今日購入した衣装は、琴美のお気に入りになりそうだった。
 もっとも、彼女の一番のお気に入りの衣服には敵う事はないだろうが。
「そろそろ、あの衣装を着る機会が欲しいけど……あら? ナイスタイミングね」
 特別な仕事の時にだけ身につけるその衣服に思いを馳せていた琴美は、突然の上司からの通信に笑みを浮かべてみせた。
 休暇中の琴美を、わざわざ上司が呼びつける時の用件は決まっている。
「とびきり危険な仕事の話……ね」
 物騒な言葉を呟きながら、琴美はくすりと悪戯っぽく微笑むのだった。

 ◆

 司令室にて、琴美は上司の話に耳を傾ける。これから自分が任される仕事が、命に関わる危険な任務である事は雰囲気からすでに察しがついていた。
 確認するように、上司は琴美に向けて本当にこの任務を引き受けてくれるのかと何度も尋ねてくる。
 しかし、やはり美しき女が浮かべるのは、人を惑わす魔性の笑みだ。
「そんな事聞いて良いのかしら? 私に断られると、司令が困るのではなくて?」
 そう悪戯っぽく問いかけ返してくる琴美に、図星をつかれた上司は何も言葉を返す事が出来なくなってしまった。
「少しいじめすぎちゃったわね」とからかうような声音で肩をすくめ、琴美は上司の手からいつの間にか抜き取っていた任務に関する資料を眺める。
 資料に書かれているせん滅対象である組織の名には、琴美も見覚えがあった。表向きは何の変哲もない企業だが、裏では非合法な武器の製造や人体の強化実験を行っているという噂を耳にした事がある。
 以前別の任務の時に倒した相手が、裏でこの組織と繋がっていた事もあった。
 しばらく泳がすためにあえてその者を琴美は見逃し部隊の者達に監視させていたのだが、ある日突然その者は失踪してしまった。十中八九、件の組織が絡んでいると琴美は踏んでいる。
 組織が持っている実験の技術や武器の製造法を狙った別の組織もいるという話も聞いた事があるが、この組織へと潜入した者は一人として帰ってきてはいないらしい。
 実験により人を超えた強大な力を得た者達によって返り討ちにされ、その後は恐らく彼らもまた実験体にされてしまったのだろう。
 今までこの組織に関する事で得た情報は、人を人とも思わない悪逆非道なものばかりだ。
 そんな組織を、たった一人でせん滅しなくてはならない。失敗の許されない、危険な任務になるに違いなかった。
 当然、命の保証はない。万が一一手でもミスを犯したら、その先に待つのは実験体として利用されるという地獄のような末路だろう。
 だからこそ、この任務は優秀な者揃いのこの部隊において、最も実力のある自分へと回ってきたのだろうと琴美は察する。
 もう一度、司令は琴美へと問う。本当に、この任務を引き受けてくれるのか、と。
 しかし、琴美はむろんその問いかけにも笑みを返すのだ。夜空に星が灯るように、彼女の黒い瞳は期待に満ち、輝いている。
「私を誰だと思っているのよ? 安心してちょうだい。今回の任務も、完璧にこなしてみせるわ」
 何も虚勢を張っているわけでも、敵の力を見誤っているわけでもない。彼女は信じているのだ。自分の持つ、圧倒的な力を。
 司令室から出て、彼女は戦闘用の衣服に着替えるために、私室へと向かう。その足取りに、迷いはない。

 彼女の名は――水嶋・琴美。
 非公式に設立された暗殺や情報収集という任務を担う特殊部隊、自衛隊 特務統合機動課において間違いなくトップの実力を誇る優秀な隊員である彼女は、今宵もまた戦場を美しく舞うのである。


東京怪談ノベル(シングル) -
しまだ クリエイターズルームへ
東京怪談
2020年09月10日

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