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『天守の姫』
氷向 八雲la3202

 乱するまで至らぬながら戦絶えぬ地の何処かに、とある国があった。
 民住まう町並のただ中にある主城、その最奥には堅牢な五重の天守がそびえ立ち、近隣諸国に知らぬ者なしの威容を誇る。
 そして。
 通例では籠城戦において主君が篭もるためのものであるはずの最上階には、大層美しい姫が住まっていて――

 数ヶ月前には明かり取りの窓があるばかりであったはずの壁を打ち抜き填めた、開閉式の鎧戸が大きく開け放たれた。
 堀のまわりに群がり、待ち受けていた町民たちが、開いた方向を口々に伝え合ってはわっと走り出す。
 果たして、あっという間にできあがった人だかり、いや、人団子。それを追い散らすべく駆けつけた足軽どもは大声で威嚇しながら刺股を突き出すが、そんな無粋を働くなら堀へ飛び込み騒ぎを起こすぞと脅し返される仕末である。
 と。
 天守最上階の先へ淑やかに人影が進み出て、その場の全員がそろって息を飲んだ。
 御姫(おんひめ)様じゃああああああ!!
 彼らの視線の先に顕われた影――朱の和傘を傾げて面の上半ばを隠し、黒地に銀の百合紋を散らした打掛を羽織った“姫”が、尖った頤(おとがい)を傾げ、唇の朱で笑みを描きだす。
 御姫様が微笑んでくださったぞお! 肩を叩き合って互いの僥倖言祝ぐ民どもへ苦い顔を向けながらも、足軽はやれやれと刺股を引っ込めた。姫が民を祝福されたならば、それを穢すことは赦されぬ。そう、たとえあの姫がとある事情を抱えた存在であっても。

 一方、天守最上階。
 民へ笑みを投げた姫が腰元に促されて奥へ戻れば、そこには同じ衣に身を包み、かわいらしい顔をぷうと膨れさせた“姫”がいた。
 妾もお外を見たかったのに。
 対して傘を畳んで素顔を現した姫は、艶やかな美貌に苦笑を浮かべてなだめにかかる。
「曲者がおらぬかを確かめるためのこと。危険はこの“影”にお任せを」
 この天守を守る武者どもは未だ厳戒態勢を解かずにいる。町へ放った手下(てか)の足軽から安瀬確保の報が入るまでの間、彼らは休憩を取ることも許されないのだ。
 いや、それよりもだ。今語り終えた姫の声音は、どう聞いても男のそれであり……いやいや、それはそれとして、美しさという一点において眼前の姫に大きく勝っているのはどうしたことか。
 好きにするがよい。諸国に謳われる“姫”の有り様、すべからくそちの手柄なのじゃからな。
 ますます膨れる姫に対し、影を名乗ったもうひとりの姫はつと跪いて一礼し。
「……私が目立つほどに姫の御身は固く守られるのです。けして私心や私欲のためにしているのではないと、それだけはお疑いくださいますな」
 影の名は氷向 八雲(la3202)。心身共に健全な男子ながら、幼少期にその美貌を見出され、姫の影として育てられた経緯を持つ小姓であった。
「いずれ姫が輿入れされるそのときまで、御身に降りかかるすべての面倒を引き受けるため私がおります」
 深く頭を垂れたまま言葉を重ねる八雲。
 姫の顔が強ばったことは、空気を伝う気配で知れたが、顔を上げたりはしない。姫の心を察していればこそ、上げられない。できるのはただ、姫の要求に沿って謙譲語を使わずに話すことばかりだ。
 私が姫様に対してお見せできる誠は、これしきのものに過ぎませぬゆえ。

 初めて顔を合わせた姫は、固く鎧われた天守の最上階にて、最小限の灯ばかりを頼りに暮らしていた。
 城主は彼女を物心つく前よりここへ押し込め、置いておくばかりであったそうだが……理由など知りようもなかったし、知りたくもない。だから八雲は、閉じ込められている割に明るくていいなと思ったものだ。
 その後、姫の影として教育を施される中、思いは確信へ変わる。姫は不遇な境遇の中で小さな驚きに目を見はり、笑み転げる天真爛漫さは嘘偽りじゃねぇ本物だ。
 そうなれば、姫の不遇に胸を痛めずにいられない。姫様は生きているだけだ。こんな暗がりに縛りつけられ、もうすぐ死を迎えるばかりの病人さながらな一日を何十年も繰り返すだけだなど……ただの地獄ではないか!
 姫への同情と城主への憤りは、この天守に務めるすべての者が同じく抱くもの。城の内には彼を「女小僧」と侮る者も多くあったが、彼らの有形無形の助けを得て、その軽口を噤(つぐ)ませてやった。すなわち、武者どもから授かった武芸の腕前でだ。そして。
 八雲は強く心を定めたのだ。
『私が変えてみせる。姫様の明日が地獄ではなくなるように』
 それ以降、彼はより務めへ集中し、さらに城内の撃剣大会――この場合は武芸を競う大会――へも積極的に参加して、文字通りの名実を得ることに心を砕く。果たして手にした褒美は、天守の壁をぶち抜いて姫に日と月との光を与えることであったわけだが、ここで多くを語ることはすまい。
 とまれ、八雲は今日も影として務め、技を磨き続けているのである。

「……もうご機嫌をなおしていただけませぬか。姫が怒っておられては、皆が困ってしまいます」
 皆だけか? 横を向いたまま訊かれて、八雲は困り顔で付け加えた。
「誰より私が」
 そうか。ならばもうしばし、そちばかりは困っておれ。今度は後ろを向いた姫の子供じみた背へ思わず笑みを漏らし、八雲は腰元に一礼して立ち上がった。
「下の様子を見て参ります。戻るまでに姫が笑っていてくださると、私が、助かります」
 私が、の部分を特に強調しておいて、八雲はするりとその場を辞した。付け入るつもりは毛頭ないが、姫はきっとこの願いを聞き遂げてくれるはずだ。


「町からの知らせは?」
 天守の守りを束ねる侍――番頭(ばんがしら)と呼ばれる大柄な男はひげ面をうなずかせ、答えた。数匹は捕まえた。が、それを見て隠れ仰せた鼠が何匹いるかは知れん。
「確実に取り逃がしているだろうな。しかし、最近多過ぎやしないか」
 戦をいうものを駆逐できぬ世にあって、敵となりうる国に間者を紛れ込ませることは常道だ。この国にしても多数の間者を放っている。しかし、ここひと月ほどの間で、裏通りに垣間見えるどころか表通りで肩をぶつけるほど隣国の間者が増えているとなれば、それは一大事というよりなかろう。
 手引きしておるものがいるのだろうが、それが誰なのかは皆目見当もつかんのが正直なところじゃ。
 番頭はため息をつき、ふと人の悪い笑みを浮かべて。
 して、わぬし。御姫のご機嫌を損のうてきたようじゃの。
「……どうして番頭殿が知っている? それこそ間者でも潜ませているのか?」
 不機嫌な八雲の問いへ、さてな。とあいまいに応えておいて、番頭は表情を引き締めた。
 万が一が起きたときには……我らに構わず御姫をお守りしろよ。
「心得ている。そのときには絶対、迷わない」
 万が一とはすなわち、この城が敵に攻め立てられることを指す。いや、包み隠したところで意味はあるまい。番頭が言う万が一とは、城の最奥に位置するこの天守にまで敵の手が及ぶそのときを指しているのだ。
 いつ何時、どの国がどの国と戦端を開いてもおかしくない時勢、この国とて平和という綱を今のところ渡りおおせてきただけのことで、半歩踏み外せば戦火の内へ真っ逆さまに落ちることとなる。
 そのときが来なければいいと思いつつ……八雲は無言で番頭から目線を外した。


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2020年09月24日

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