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『争』
水嶋・琴美8036

 自らの姿形をそのままに映す人外――現身と対する水嶋・琴美(8036)。
 裂けたキャンバス地の下からコンクリートを覗かせるリングの中、彼女は息を絞り、止めた。
 現身は細糸を結んだ、元は琴美の撒いた菱を蠢かせ、彼女の歩を妨げにかかる。
 琴美は振り出した足を鋭く横薙いだ。ワイヤーで苦無を結んだ爪先である。足首のスナップをもって加速した刃は操糸を断ち落としていくが。
 現身の苦無が琴美へ降り落ちる。投げ打った苦無が描けるはずのないその不可思議な軌道は、すでに隠す気のない操糸の誘導によるものだ。
 琴美は菱を払ったリングへ手をつき、身を逆立てた。そのまま手を軸に両脚を前後へ開き、渦巻くがごとく苦無を結んだ足を巡らせる。
 かくて琴美の苦無蹴りが現身の苦無、その柄頭近くの糸を打った。
 と、現身の苦無から操糸がずるりと解け、支えを失った刃が力なく落ちると思いきや。新たに伸び出した糸が苦無を掬い上げ、さらに琴美を攻め立てる。
 敵の挙動を阻むため必要なのは迅さばかりではない。前にでも後にでも、相手が予測から自らの行動をずらすことが肝要だ。現身が操糸を断ち斬らせず、迅速に攻勢を取り戻したことで、琴美は立ち上がることも反撃に転じることも封じられた。
 しかし彼女は両脚を強く振り、回転を加速した。遠心力を吸い込んだ両脚が渦巻き、渦巻き、ついには逆巻いて、現身の苦無も菱も弾き飛ばす。そして、その苦無蹴りは一回転ごとに精度をいや増し、正確に操糸を断ち斬っていくのだ。
 とはいえ、斬るごとに回転の勢いは一度、がくりと落ちる。現身はその一瞬に横蹴りを突き込んで回転を押し止め、琴美の胴へ苦無を打ち込んだ。
「逸りましたね」
 苦無は当たらなかった。いや、そんなことより、自らの腕だ。苦無を投じるため伸ばした右腕が、琴美の左脚に巻きつかれていた。しかもその脚はずるりずるりと腕を巻き取りながら這い上り、肩関節を引き伸ばしつつある。
 もちろん、現身もまた対抗していた。自らの手首と肘の角度をずらしつつ、肩を固定しにきた足へ苦無を突き立てて。とはいえ琴美の足を貫くどころか、逆に顔を蹴り上げられることとなるのだが、その勢いに乗せて腕を引き抜き、飛び退いた。
 肩も肘も手首も指も、もれなく動く。あれだけのチャンスを得ていながら指1本へし折れずに終わるとは。琴美の関節技、ただの苦し紛れだったわけだ。
 現身が口の端を吊り上げた、そのとき。
「球体関節。形代でしたか」
 琴美のうそぶきに、現身は笑みを強ばらせた。まさか、今の攻めはこちらの体構造を探るための――いや、そんなことをしてなんの意味がある?
「試しましょうか、互いの限界を」
 琴美は言い放ち、両手にそれぞれ握り込んだ苦無を示してみせた。その柄頭へ結ばれていたワイヤーを解いて足下へ落とし、ゼロ距離での対決を促して。
 現身は当然、それに乗る。負ける可能性は万にひとつも有り得ず、挑まれた闘いはこちらにとってなにより都合がいい。

 現身の右刃の突きが琴美の左刃に払われ、琴美の返し突きは現身の左刃に落とされ、現身が突き上げた左膝を右肘で押さえた琴美が左苦無を突き込んで、それを脇に抱え込んだ現身が肩を狙った立ち関節へ移行、琴美は現身の顎を右苦無の柄頭で鉤打ち、顔を逸らしてかわした現身は琴美の腕を離し、次いで蹴り込まれた彼女の右踵を十字受けでブロック、重心を流して衝撃をいなしつつ蹴り返して空振りさせられ、斬り込まれた苦無をあわてて自らの苦無で弾いた。
 わずか2秒余りの内にこれだけの攻防が押し詰められているのは凄絶と云うよりあるまいが、後半の1秒で琴美がすでに自らの優位を確立しつつあるという事実は驚嘆すべきものであろう。
 かくて3秒め。琴美の苦無が現身の右肩へ潜り込み、ばつりと断ち斬った。糸だ。琴美を摸した人型の内には肉も骨も臓腑も詰まっておらず、ただ中空を操糸で繋がれているばかり。それ故に、断たれたなら繋げばいい。
 左の苦無ひとつで防御しつつ、速やかに右肩を繋ぐ。その間に首を貫かれたが、こちらも別にどうということはない。肩同様に繋ぐだけだ。さすがに今抉られた目は繋いだところでどうにもならないが、そもそもこのい目は飾り。問題そのものが生じていない。
「形代に過ぎない移し身、そして内の操糸も“芯”ならず」
 語りながら琴美が右手を振った。
「ここまで闘いを長引かせていなければ」
 その手に投じられた苦無がロープに弾かれ、また向かいのロープに弾かれ、放物線を描いて降り落ちた。なにもないはずのリングの片隅へ――いや、あった。ロープにもたれかかるように放置された、現身の苦無から解け落ちた操糸が。
「あなたが唯一断たせなかった繰り糸。それこそが芯であり、本体であることを私が確信するより先に搦め取れたかもしれませんね」
 操糸、いや現身の本体は急ぎ身をよじろうとしたが、先に琴美が解き落としたワイヤーに搦め取られ、動けない。いつの間に繰っていた!? 琴美が本体の居場所に気づいていないと思い込ませるため打ち合いをしかけてきたことはまちがいないが、いったいいつから自分は彼女の策に嵌められていたのか――ばつん。ワイヤーに引き絞られて伸ばされた芯は苦無の切っ先で断ち斬られ、現身ががらりとその場へ崩れ落ちた。


 またひとつ、勝利を得た。
 国を人外の侵蝕から救った価値ある勝利であり、琴美個人からすればあたりまえの、心動かすほどの価値なき勝利。
 しかし、彼女は価値のない毎日にこそ価値を感じていた。いつか彼女に価値を感じさせてくれる敵と出逢えるときを、この退屈なる日々はこの上なく盛り上げてくれるだろうから。
 と。琴美の足下をずるり、這い上がるものがあった。琴美が繰ったワイヤーだ。それは琴美がいぶかしむ内に脚を取り巻いて這い上り、体そのものを拘束して絞りあげ――
 わけがわからぬうちに転がされた琴美の頭蓋が踏みしだかれ、頭蓋がみしりと嫌な音を立てた。
 すべてを見切り、踏み越えられると無邪気に信じる幼き心、嗤うよりない。
 音ならぬ念でささやきかけたそれはワイヤーをさらに絞り、捕らわれた琴美の四肢をあっさりと断ち斬った。
 あ、あああああああああ……絶叫は虚空に吸われ、琴美はただ虫のごとくに蠢く。せっかくワイヤーの縛めを解かれても四肢はすでになく、頭は躙られ、縫い止められている。それ以上にできることがなかった。
 その様を嗤うこともなく見下ろしていたそれは、この程度か、つまらんな。それだけ言い置いて足へ重さをかける。
 私がつまらない? 数多の勝利を重ねた私が。国と人を護り続けてきた私が。人も人外も足下へすら及ばせなかった私が、つまらない? 私がつまらない? 私は、つまらない? 私は、私は私は私はわた。
 繰り返すばかりの言葉は、頭蓋を砕かれ脳を躙られることで唐突に途切れ……後には無残な骸ばかりが残された。

 ――琴美は目蓋の裏に映った辿るかもしれない末路を振り払い、深く息をつく。
 結局、彼女が演じているのは完勝という名の綱渡りに過ぎないのだろう。しかし、今さら辞めるわけにはいかない。守り、戦うことこそが我が天命と思い定めた身であればこそ、如何様な末路を辿ろうと、果てへ行き着くまでは全力で渡り続けるよりないのだから。


東京怪談ノベル(シングル) -
電気石八生 クリエイターズルームへ
東京怪談
2020年10月05日

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