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『長いお別れ』
来生・十四郎0883)&来生・一義(3179)

 8月30日朝9時、未だ夏真っ盛りの頃。草間興信所の所長である草間・武彦(NPCA001)は、珍しくこの時間から真面目に机に向かっていた。いや、正確には日付が変わる前からと言った方がよいだろうか。
 くわえ煙草でレポート用紙へ一心不乱にペンを走らせる草間。灰皿には煙草の吸殻が積もり、机の隅に追いやられたコーヒーカップには何度となくお代わりをしたのであろうコーヒーの染み跡が、カップの縁やらに見られた。明らかに徹夜明けである。
「……ふう」
 やがてペンをレポート用紙の上に転がし、それまでくわえていた煙草を灰皿で押し消すと、草間は大きく息を吐き出して椅子の背もたれに寄りかかった。
「あとはコピーを取って仕舞いだな……」
 そう言って、軽く目を閉じる草間。ともすればそのまま眠りに落ちてしまうのではないかと思われたその時だ、事務所の扉がノックされたのは。
「……おっと。はい、どうぞ」
 草間は椅子の背もたれから身を起こすと、扉の方に向けて声をかけた。ややあって扉が開き、連れ立って入ってきたのはジーンズを履いてラフな格好をした乱髪の男と、対照的にきっちりオールバックに髪をセットした紙袋を手に提げたスーツ姿の男であった。
「何だお前らか。俺は今、徹夜で報告書を書き上げたばかりで眠いんだよ」
 と言って、やれやれといった様子で草間は再び椅子の背もたれに体重をかけた。
「つれないな、せっかく挨拶に来たってのに」
 ラフな格好をした男、来生・十四郎(0883)はそう言って、草間から何か言われる前にさっさと来客用のソファーに腰を下ろした。
「挨拶?」
「ああ、引っ越しのな」
 訝しげに返した草間に向かって答える十四郎。
「何だ何だ、ご近所さんにでもなったのか?」
 と草間が問えば、スーツ姿の男、来生・一義(3179)が手に提げた紙袋を両手に抱え直して頭を下げた。
「これまで本当にお世話になりました」
 そして一義は紙袋を草間の机の上に置いた。その言葉で草間は全てを察した。
「ああ……そっちだったか」
 草間は十四郎の方へ向き直り、首元で右手を水平に動かすジェスチャーを見せた。
「コレか?」
「いや。こっちだな」
 十四郎は、上から空き缶でも押し潰すかのようなジェスチャーを返した。
「……出版業界も不況が長いとは聞いてたがなあ」
「正確には清算、ですかね。末日に最終号が出るそうですから」
 草間に向けて、そう補足する一義。とはいえ雑誌社はなくなり、十四郎の勤める編集部も解散となったのだから、無職になったことには変わりない訳で。
「ま、朝出社したら、会社の玄関前に紙切れ1枚だけ貼ってて、中に入れなくなってるってのよりは、まだましか……」
 慰めになるようなならないような微妙な言葉を、草間は十四郎にかけた。
「だな。一応、退職金のようなものも出たしな」
「雀の涙でしたがね」
 十四郎の言葉を受け、一義は草間に向けて皮肉混じりの補足をした。そして横目で十四郎をちらと見る。若干不穏な空気が兄弟の間に流れたように、草間には見えた。
「で……これからどうするんだ?」
 話題を変えるべく、草間は今後の身の振り方を十四郎に尋ねた。
「ああ、それなんだがな」
 十四郎はソファーに座り直すと、草間の質問に答え始めた。何でも大学時代の友人の紹介でローカル新聞の記者に転職するために、新聞社のある兵庫県K市に引っ越すのだという。だからこうして、草間へ挨拶にやってきたという訳だ。
「明日の朝には向こうに発つつもりだ」
「早いな」
 十四郎の言葉に素直な反応を口にする草間。すると一義が会話に割り込んできた。
「ええ、早いですとも。早過ぎますとも」
 と言って、一義は十四郎をじろりと睨んだ。
「聞いてください草間さん。話があったのが5日前ですよ、5日前。そこから引っ越し業者を決めて、荷物をまとめて、今の住居や電気ガス水道の解約手続きをして、転出届ももらってきて、徹夜で諸々の作業をやって……」
 草間に向かって一義が捲し立てる。よほど溜まっているものがあった様子である。
「……そうすると今度はお金の問題がありましてね。先程の雀の涙ほどのものではとうてい予算が足りない。仕方ないから、内職でこつこつ貯めたへそくりも全て使い、業者の方に頭を下げて拝み倒してどうにか値切りを受けてもらって、何とかした次第という訳です」
 そこまで言うと、一義は大きく息を吐き出した。言いたいことはある程度ここまでで言い切ったようだ。
「た、大変だったな……」
 草間としては、そのように返すしか言葉はなかった。が、それがまた一義の言いたいことの起点になってしまったようで。
「ええ大変ですとも。ですが未だ進行形でしてね。引っ越しとそれに伴う諸々の事柄はどうにかしましたが、向こうでの生活の目処がろくに立っていませんからね……」
 そう言って頭を抱える一義。十四郎はかろうじて転職先を見付けたものの、勤めて即日で給料が入ってくるはずもなく。引っ越し作業で貯金がほぼ底をついたような状況で、ポジティブに考えろというのがそもそも難しい話で。
「……ああ。出来るなら、全て放り出して成仏してしまいたい……」
 一義はぼそりつぶやくと、十四郎を睨み付けた。
「おい! 何ふざけたこと言いやがる!」
 一義のつぶやきが耳に入ったか、十四郎が言葉を荒げソファーから腰を浮かせかけた。そこへ慌てて椅子から立ち上がった草間がやってきて、二人の間に割り込んだ。
「まあ待て! まあ待て、お前らなあ……。兄弟喧嘩を見せに来た訳じゃないだろ?」
 そう切り出し、互いの取りなしを始める草間。少しして、先に矛を収めたのは兄である一義の方だった。
「……最後の最後まで申し訳ありません」
 と言って、一義は再び草間に頭を下げた。
「……悪かったな、手間かけさせて」
 十四郎の方も、若干の照れでもあるのか草間からは顔を背けつつも謝罪の言葉を口にした。
「あー……そうだそうだ、お前結局何年勤めたんだ?」
 あからさまに話題を変えようと、草間が十四郎に話を振った。
「ん? そうだな、大学の時にアルバイトで入って以来で、そのままずるずるとだから……」
 思案顔で指折り数える十四郎。その様子からして10年前後といった所か。
「ま、そんだけ居りゃ、編集部にも今の仕事にも愛着はあるけどな」
 一瞬ニヤリと笑みを見せたが、また思案顔に戻って十四郎は話を続けた。
「……この不況じゃあなあ。それに編集長も同僚たちも、皆転職したり他の雑誌社に移ってバラバラになったし……」
 愛着はあっても、状況がそれを許さないことも少なくない。十四郎の思案顔も、話が同僚などのことに及ぶと、どこか寂しげな表情へと移り変わっていた。
「そうそう、ここの手伝いもこないだの依頼が最後になったな。今後は『大親友』の草間の依頼を手伝えなくなるのは残念だ、ああ残念だ」
 珍しく草間に向けたしんみりとした口調で語る十四郎。草間はというと、大親友などと言われたからかどこかむず痒そうな様子を見せ、渋い表情を浮かべていた。
「まあ、とはいってもだな」
 十四郎がすくっとソファーから立ち上がった。
「取材やら私用でこっち来ることがあったら寄らせてもらうからよ。そん時ゃ飲みに行こうや、お前の奢りで」
 草間の肩を軽くぽんっと叩き、十四郎はニヤリ笑って言い放った。
「ああ。ギムレットの美味い店でも探しておいてやるさ」
 草間の方も、ニヤリと笑い言い返す。それから数秒ほど互いに無言になり、十四郎が最後の挨拶を口にした。
「……またな」
 そう言って草間に背を向け、あっさりと立ち去ろうとする十四郎。一義がその後を追おうとして、草間の前で一旦足を止めた。
「ゆっくり出来なくてすみません。まだ引っ越し準備の途中なので……では草間さん、お元気で」
 一義が丁寧な挨拶とともに草間へ頭を下げる。そして先に事務所を出た十四郎に続いて、自らも出ていった。
 一瞬にして草間一人きりとなった事務所の中は、一気に静まり返った。草間は頭をぽりぽりと掻くと、机の方へ近付き一義から受け取った紙袋の中身を覗き見た。入っていたのはお酒が1本と、草間でも知っている有名菓子店の包装紙に包まれた箱1つ。おそらくは焼き菓子の類であろうか。
「やれやれ、律儀なもんだなあ」
 一義と十四郎の顔を交互に思い浮かべ、ふっと笑みを浮かべる草間。
 その時だ。事務所の電話が勢いよく鳴り響いたのは。

 同じ頃、事務所の入っている建物から出てきた十四郎と一義が、他愛のない会話を交わしていた。
「今頃しんみりしてるかもな、草間のやつ」
「……いや。さっそく面倒ごとに巻き込まれているような気がする」
「おいおい、さすがにそんなことはな……いや待て……草間のことだからあり得るか……?」
 一義の、そして十四郎のその推測は大正解である。その時まさに、草間はかかってきた電話に出た所だったのだから。


「はい、草間興信所」
 出会いと別れを数多く繰り返しながらも、その探偵は今日も東京の空の下に居る。音なく忍び寄る何とも奇怪なる事件とともに。


【おしまい】



━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
 ライターの高原恵です。発注どうもありがとうございました!
 高原にとっても、このお話が「東京怪談」における最後のお話となります。最後まで楽しんでいただければ幸いです。
 今回のお話のタイトルは、草間が貫こうとしているハードボイルドにちなんだものとなりました。
 それではまた……。


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東京怪談
2020年10月15日

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