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『いつかの風景』
若菜la2688

 真っ白い霧の中を歩いていた。
 足は地面を踏んでいるはずなのだがすこしふわふわと頼りない。
 でも周囲がぼんやりと明るいせいか不思議と恐怖はなかった。
 ゴウッと強い向かい風。若菜(la2688)は思わずぎゅっと目を閉じ腕で顔を守る。
 風が吹き抜けた後、大気の匂いが変わった。
「あれ……?」
 鼻を鳴らす。嗅ぎなれた濃い緑の匂い。
 ゆっくりと目を開く。
 下草と落葉の柔らかい感触、見上げれば空を覆う木々の枝から零れる木漏れ日。
 そこは緑が茂った雑木林だった。
 少し先には二つに割れた大きな木。
 そのとても見覚えのある大木へ引き寄せられるように向かっていく。
「やっぱりそうだ」
 ポンと枝に手をかけた。表面の凹凸が妙に手に馴染む。
 子供の頃、双子の弟と登って遊んでいた木だ。
「……ということは」
 周囲を見渡す。木々の合間からみえるのは酷く懐かしい街並み。
 自分は今、故郷の街外れにある雑木林にいる。
 そう自覚した途端、若菜の視界がぐぐんと下がった。
「へ……?」
 何、と自分の手足を確認すればとても小さくなっている。
 そして腕には香草や薬草が詰まった籠。
 お風呂に入れると体が温まるもの、お茶にすると気持ちを穏やかにしてくれるもの――。
「これは――」
 弟が生まれる少し前の頃だと思い当たる。
 間もなく赤ちゃんが生まれるというのに一日診療所で働いている母のために、雑木林に薬草を採りに行ったことがあった。
 一人で雑木林に行ったことを母から怒られはしたが、その後にありがとうと抱きしめられたことがとても誇らしかった。
 母が子供の頃飼っていた犬のために一人で雑木林に薬草を探しに行って迷子になったことをこっそり教えてくれたのは父だ。
 おっとりはしているがしっかり者の母が迷子になったなど想像もつかなかったからとても吃驚したのを覚えている。
「懐かしいな……」
 ふふっと笑みが零れた。
 これは夢だ。
 昼間、医療者養成機関の友人たちとハロウィンの話題からそれぞれの故郷のお祭りのことなどを話していたから。
 久しぶりに故郷の事を話してちょっと懐かしくなってしまったのだろう。
「でも折角だし」
 若菜は街へ向かって歩き出す。
 醒めるまでは久しぶりの故郷を堪能しようと。
 その足は次第に本当に子供の頃のように元気よく大地を蹴って駆けだしていた。

 大きな川にかかる丸太橋を渡れば街へと着く。
 船着き場でもあるこの場所には市が立っており、人の往来が多く賑やかな場所だ。
 若菜も双子の弟と一緒によくお使いに来ていた。
 顔馴染みの八百屋が若菜を呼び止める。
 ほら、こいつを持って行きな――少し青い夏蜜柑をほい、ほいっと二つ放る。
「ありがとうございます!」
 元気に礼を述べて、再び走り出す。
 若菜ちゃん、先生によろしくね――近所のおばあちゃんとすれ違う。
 危ないよ――荷を積んだ荷車が道をすごい勢いで通り抜けていく。
 土を固めた道も木でできた家屋も白い漆喰の壁も黒く光る瓦も記憶と同じ。
 確かこっちに曲がるとお気に入りの貸本屋さんがあって――。
 その先には時々家族でいった甘味処。
 夢だからか、それとも体が小さいからか走り続けても苦しくはない。
 その勢いのまま自宅に駆け込めば、薪を割っていた父が何事かととても驚いた顔で迎えてくれる。
「お母さんは診療所だよね」
 若菜は籠を玄関に置き、父の返事を待たずにまた走り出した。
 自宅から少しいったところにある診療所。
 足音をしのばせて入口の前を通り、診察室のある裏手へと回る。
 開いた窓からそっと覗きこむ。
 昔も今もずっと身近にあるはずの消毒の香がなぜかとても懐かしい。
 思わず鼻を鳴らしそうになってぐっと息を止めた。
 母と患者のやり取りが聞こえてくる。身重なのを感じさせない動きで母は立ち上がり薬の瓶へと手を伸ばす。
 辛そうな素振りは一切みせないが、負担がないなんてことはない。
 医学を学んでいる今なら余計に分かる。
 しかし母は医者が患者に心配をかけるわけにはいかない、と常に自分を律していた。
 母は誠実でそして優しい。時に医者として非情とも言える判断を下さねばならぬことを理解していても、その上で患者の気持ちに寄り添おうとしている。
 地球で医学を学ぶのも恩師の医院を継ぐにあたり、もっと広く知識と技術を身に着ける為。
 診察室には次から次へと患者がやってくる。
 医者は盛況ではない方がいいのかもしれない。
 でも母はほんのちょっとしたことでも相談できる身近な存在でありたい、とも話していた。
 医者からみれば心配するほどではなくとも患者さんにとっていつもと違うことはとても不安なのだ、と。
 技術や知識に貪欲な反面、大きな病院で働くことを目指すのではなくあくまで患者の傍らに立つ街のお医者さんであろうとする母。
 そんな母は若菜にとって誇りだった。
 だから自身も気付けば医者を志していた。
「私も……」
 お母さんのように思いやりに溢れる医者になれるかな、と心の中で問いかける――と声が通じたわけじゃないだろうがふいに母と目が合った。
 診察がひと段落ついたところで母が窓辺へとやってくる。
 どうしたの――問う声に思わず答えていた。
 この頃、もう医者になりたいって思っていたかななどと考える暇もなく。
「私もお母さんみたいなお医者さんになるから」
 それだけ言うと走り出す。
 うん、応援してるよ、母の声に胸の奥がぽっと温かくなった。

 やはり一人で雑木林に行ったことは怒られた。
 夕食の片づけを一緒にしていた父が子供の頃母が迷子になった話をしてくれる。
 口数は少ないが優しくて頼りになる父だ。
 でも時々、どこか遠くを見ていた。
 その横顔にどこかに行ってしまうのではないかと不安になり、でも口に出したら本当にそうなってしまいそうで代わりに父の服の裾をぎゅっと掴んだ。
 そうすると父は笑顔で頭に手を置いてくれた。
 大きな手の温もりは今でもはっきり覚えている。
「お父さんがお母さんの子供の頃の秘密を話していたことは内緒にしてあげるね」
 笑みを浮かべて片目を瞑れば、父も人差し指を唇に当てて笑った。
 夢は醒めることのないまま若菜は布団に入る。
 夢で寝るのも変な感じだ。
 部屋の天井から下げられた星のモール。
 星が好きな若菜のために両親が取り付けてくれたもの。
 地球に持ってくればよかったなあ、とぼんやり思った
 隣ではとっくに寝入った弟が何やら寝言を言っている。
「おやすみなさい」
 家族皆の顔を思い浮かべ若菜は目を閉じた。

 リリリリリリ……アラーム音で若菜は目を覚ます。
 見慣れた天井。
 ベッドから起きるとカーテンを開けた。
 四角い建物、玉虫のように光る硝子――故郷とは似ても似つかぬ風景。
 ジダイゲキって言うんだっけ――日本出身の友人が若菜の故郷をそう言っていたような気がする。
「……全然違うなあ」
 それでもこの景色も嫌いではない。
 故郷とはまた違う魅力がたくさんある。
「さあ、朝食の準備、準備っと」
 忙しい両親にかわって朝食の準備するのは子供たちの仕事だ。
 それはどちらの世界にいても変わらない。
 自身の夢に向け、今できることをすることも変わらない。
 どの世界にいても自分たち家族はきっと変わらないのだろう。
 軽やかな足取りで若菜は部屋を出ていく。




━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・

【若菜 / la2688】

この度はご依頼いただきありがとうございます。

どの年代のお話にしようかと考え、最初のノベルなので若菜さんの
心の原風景に近いところがいいかなと思い子供の頃のお話とさせていただきました。
執筆していた私がとても懐かしい気持ちになりました。

気になる点がございましたらお気軽にリテイクを申し付け下さい。
それでは失礼させて頂きます(礼)。

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