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『日暮の記』
日暮 さくらla2809

 一生のお願いは、保育園の年少さんのときすでに使ってしまった。
 あの日から10年。中学生となった日暮 さくら(la2809)は閉じた口の中へため息を封じ込める。
 今にして思えば、一生を賭けてまでお願いするようなことではなかったのかもしれない。だが、「桃太郎」という役どころは“武士”である自分がやらなければ嘘になる……そう思い込んでしまったのだ。
 嘘も誠もない話なのですけどね。
 年少さんのときは、今以上に剣技というものへ入れ込んでいた。同時に習い始めた忍術を、どこかで人を騙す術と感じていたことも、もしかすればあったかもしれない。

 剣の師でもある父の剣筋は美しい。大別すれば剛剣となろうが、直ぐにはしるその一条に魅せられた彼女は必死で体得しようと精進したのだが、しかし。
 どれほど教えをなぞっても、鍛錬法を工夫しても、はたまた他の流派への出稽古で学ばせてもらっても、まるで理想の一条には辿り着けなくて。
 あがく中でついに気づいたのだ。
 自分の剣は綺麗だと言われるが、父の剣の美しさとはまるで違う。基本からなにひとつはみ出せない、つまらない剣でしかない。
 自分という人間は、剣と同じほどつまらない。つまらない者がつまらない考えを巡らせたところで、それこそ休んでいるのと変わるまい。
 悩みは自己嫌悪へ育って枷となり、彼女の挙動はおろか思考をも縛る。
 まさに自縄自縛へ陥った彼女は、さらなる重石を自らへくくりつけ、淵底へ沈みゆく。
 ああ。今のこのときに一生のお願いが残されていたなら、私は……

 娘をどうしてやればいいものか。当然、夫婦は悩んだ。
「ああなると他人の気づかいすら障るものだ」
 夫は過去、深淵のどん底にあった自分の様を思い出す。光を求めていながら照らされることを恐れ、それでも光が与えられぬことを呪い、呪うしかできぬ自分の無力に憤ったあの時間を。
 娘に同じ苦みを味わわせたくない。そう思っているのに、結局は自力でなんとかするよりないとあきらめるよりなくて……先人はいつの世にも後輩にとって無責任なものだが、その理由は存外そうしたものなのだ。
「難しいね。さくら、不器用だから」
 妻も重い息をつき、うなずくよりなかった。
 さくらは早熟だが、要領がいいわけではけしてない。生来の頑なさに足を取られ、普通の人間よりもうまくできないことも多いのだ。
「昔の俺も今のさくらも、人の倍以上の努力をしているからこそ天才ではない――その事実に苛まれる」
 夫の低いうそぶきに、妻はただ頷いた。
 彼女の師匠は、教える才能を欠片も持ち合わせない頂の剣士である。体験してきた絶望の深さだけで言えば、夫やさくらを遙かに凌いでいる。
「んー」
 かくて妻は腕を組んで考え込み、ゆっくりと目を開いた。
「さくらってほんと思い詰めるタイプだし、今のままだとどうにもなんないから気分転換できるといいかな?」
 夫もうなずき、
「ああ。せっかく高校に入ったことだし、剣技や忍術のことは一度忘れて、普通に暮らしてみるのがいいだろうな」
「いやいや、そんな長期的なプランじゃなくてね」
 ぱたぱた手を振り、妻は夫の生真面目を吹き払う。
「うちにはさくらの気分も発想も転換させられる人材がそろってるでしょ?」


 母に言われ、さくらは家族の夕食を作ることになった。
 正直なところ料理は苦手だ。レシピの分量通りにすべてを整えてもおいしく仕上がることはなく、食中毒を防止しようとすれば瞬く間に食材は炭と化す。
 もちろんそれは母もわかっているから、ちゃんと料理人を手配していた。
「姉ちゃんのポジションはコンロの2メートル後ろだ。油ってやつは料理下手なヤツの素肌が大好きだからな……」
 鋭いのにどこかぽやっとした言葉でさくらを火から遠ざけるのは彼女の3つ下の弟、桐真だ。
 彼の料理の腕、小4にして最高で、バレンタインにはホワイトデーのお返し目当ての女子が殺到するほどだ。真実の愛はないけどな……義理チョコを食む彼の笑みは、実に苦い。
「桐真、私もせめてなにか手伝います」
 姉は生真面目で、丸投げにしておけない性格だ。それをよく知る桐真はすっと作業台を指し、
「きたあかり、櫛切りで。皮剥かなくていいから」
 皮を剥かせればずびずば削ってビー玉を拵えてしまうのがさくらだが、斬り下ろすだけならさすがに大丈夫。
 作業を進めつつ、さくらは真剣な顔で油の温度を調整する桐真へ声をかけた。
「桐真は、剣について悩んだことはありませんか?」
「あったら姉ちゃんに言ってる」
 さくらが切ったジャガイモを目の前まで持ち上げて寝かせ、鉋の歯の出を見る親方さながら透かし見て、桐真はさらに言葉を継いだ。
「姉ちゃんのきたあかりはまっすぐだ、これじゃ味がうまく乗らない」
 桐真の見ているものがイモの切り口であることは知れる。切り口がでこぼこしていないがため味がうまく絡まない。そういうことだろうか?
「でも別にチーズソースとかかけたらうまい」
 桐真は力強くうなずき、サムズアップでいぇー。
 で。
「そういや俺、悩んでることある」
 いきなり話を変えてきた弟に「どうしました?」、わけがわからない流れを引き戻したくないさくらがすかさず食いつけば。
「なんかもう、剣持つとかめんどくさいし……手からビーム出ないかなって」
 最近、異様な気合をひとりで発していたのはすべて、手からビームソードを出すあめだったか。めんどくさくなくなるために恐ろしくめんどくさいことをしていることは、多分彼にとって些末なことなんだろう。
「出ます」
 姉は弟に断言してみせた。出なくてもいいのだ。大事な弟が全力でがんばっているなら無条件に応援する。それが姉の心意気。
「え……まじで?」
 なぜ言い出したあなたがどん引くのですか!? 弟のフリーダムさに戦くさくらだったが。
「出る出る。お兄は出るよー」
 とろんと間延びした言葉とは裏腹、鋭い踏み込みで台所へ突入してきたのは、末っ子の胡桃である。桐真のひとつ下だから今は小学校3年生で――ギャル。
「うちのお兄はできる子だし?」
 父親譲りの銀髪をゆるっと巻いて、鮮やかに彩った目元や唇を笑ませる胡桃。
 最低限のポイントを押さえる形での化粧なのに、ここまで自分を際立たせられるのは職人芸ならぬ忍芸(しのびげい)というやつか。
 技でも業でも、戦闘能力というものについてこの妹に秀でた才はない。ただ、詐術を初めとする忍の術は、さくらや桐真を足下にすら寄せ付けない。
 だからこそ、胡桃は常に暗躍している。
 クレバーに自分を使うような性格だったなら、限りなく酷い悪女になっていたかもしれないが、母と姉とに育てられた彼女は金や権力など求めたりしなかった。
 誰より気安く、それでいて誰より慎重に事件の端へ取り付き、なんとなくの内に丸め込んで事件そのものをなかったことにしてみせるのは、グループの、クラスの、学年の、学校の、地域の平和を守るため。
 姉に対してはただの甘え上手なのだが、そんなものに収まる器ではないと思うのは姉の欲目ではあるまい。
「お姉、なんか困ってない?」
 胡桃がんー、すがめた目を向けてきた。勘の鋭い彼女に、不器用なさくらが隠し事をしきれたことはない。
「困っては……いますね」
 あきらめて話し出す。向こうで「な、なんだって!? 姉ちゃん、こっそり悩んでたのかぁ!!」という顔をしている桐真は放っておいて。
「私の剣はつまらない。これでは突き詰めたところで行き着ける先などたかが知れている。でも、あきらめたくないのですね、私は。私の剣を――」
 いじましいにも程がある。思い知りつつ、さくらは言葉を継いだ。いざ話すとなればごまかさないのは、姉と弟妹が幼い日に交わした約束だから。
「もし、私に“一生のお願い”が残されていたら神様にお願いしていたでしょう。どうか私の剣の先を示してくださいと」
 黙って聞いていた胡桃が「それ、お願いしなくてよくない?」。
「上手に使えないカタナとか投げちゃえばいいだけっしょ」
 剣を投げる?
 なにを言っているのだと思いながら、それこそ投げ棄てることのできないなにかを含めた言葉。
 ただ、さくらより先に天啓を受けたのは桐真のほうで。
「俺は剣に囚われてた……ビームガン」
 ちなみにこの3人の内でもっとも剣才に恵まれたのは彼だ。天然故の型破りな剣は、その有り様を自在に変え、瞬く間に相手を打ち倒す。これで競技ルールが守れれば……数多の指導者が異口同音に漏らす言葉である。
 いえ、確かに銃は剣ではありませんけれど。ツッコみかけたさくらはふと動きを止めた。
「打つのではなく、撃つ。ですか」
 思いつけば単純な話だ。剣がつまらないなら、剣に拘ることなく別の手を使えばいいではないか。
「お兄のお世話はうちがしとくんでー、お姉はどぞどぞ、行っちゃってー」
 なにかを掴んだらしい姉へひらひら手を振った胡桃は唐突に表情を引き締めて、
「うちのお姉は超できる子だし!」
 その後ろから、桐真は「みんなちがってみんないい」、彼にしか辻褄の見えない決めゼリフをかましてきたが、それでもだ。
 無条件に愛してくれて、送り出してくれる弟妹がいる。さくらを信じて見守り、迎え入れてくれる父母が。
 どうして私は忘れていたのでしょう。ひとりではない、たったそれだけの真実を。
 さくらはまっすぐリビングへと向かった。


「酷く悩んでいました。私の剣があまりに拙くて、これからの期待が持てなくて」
 さくらは父と、そのとなりの母へ吐露した。
「でも、やっと思い至りました。私の剣がつまらないなら、私がこれまで修めてきた忍術でおもしろくすればいいと」
 さくらの言葉に父は深く頷き、妻を見やった。
「俺は二度、心の底から負けた経験がある。一度めはおまえの母にで、二度めは……何度か話していたか。もうひとりの俺にだ」
 父は多くを語らないが、母に負けたいきさつはなんとなく知っていたし、「もうひとりの俺」については、両親の口にのぼる機会が多いこともあってはっきりと知っている。シベリアという時代後れの、しかし滋味の深い菓子が振る舞われる度に聞いてきた、母の『お師匠様』の話。
 性格は多分、若い頃の父を煮詰めてさらに拗らせた感じなのだろう。とても大人げがあるようには思えない。しかし、強い。全盛期の父母がふたりがかりでかかり、まるで歯が立たなかったほどに。
「二度の敗北は俺を今の俺にしてくれたが、俺に似ているからといって同じ道を辿る必要はない。さくらはさくらの気づきをもって変われ」
 さくらが早熟なのは感受性が強く、先を正しく見通せるからだ。しかし裏を返せば、自分の行き詰まりすらも見てしまう。陥る絶望もまた、それだけ深くなろう。
 だからこそ父は娘になにがしてやれるかと思い悩んできたのだが。
「さくらならかならずできる」
 信じる。
 ただそれだけのことを全力でやり抜くことを自らに課すと決めた。
 おまえが力尽きて倒れ伏そうとしたそのときには、俺もまた馬鹿親に戻る。だから今は、前だけを見て行け。
「忍術かー。じゃあ私、今こそ本気であれこれ伝授しちゃわないとだね!」
 夫の肩へ手をかけ、ぐいと押しつけながら立ち上がる母。ふっ、ここからは私のターンだから! 剣士さんはそこでおとなしくしてて?
 くっ。妻のどや顔を為す術もなく見上げた父は息を詰めたが、そのときだ。
「忍術を新たに習うのではなく、習い覚えてきた術に銃を組み合わせてみたいのです。剣の一条へ繋ぐ、忙しなく騒がしく捉えどころのない忍銃。桐真と胡桃が、私にビジョンをくれました」
 やる気と元気と女気のやり場を失って立ち尽くす妻をそっと引き下ろした父へ、さくらはさらに宣言した。
「私がおもしろくなれたなら、そのときこそ父と母の仇を討ちに行きます。宿縁の敵に勝ちを預けたままでは日暮の名折れですから」
 父母を負かした最強の敵に打ち勝ち、日暮に結ばれた宿縁をこの手で断つ。それこそが自分を愛し、案じてくれる家族へ返せる「証」となろう。
 今や世界各地に出現している異世界へのゲート。それをくぐるときを思い、さくらは心身を引き締めた。
 日暮 さくら、推して参ります――!


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2020年12月11日

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