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『貴方とすれ違った先に私はいる』
柞原 典la3876

 通り過ぎ際の看板にかつて幾度となく見た漢字二文字が書かれているのが映って、私はついハンドルを握る手が強張ったことに遅れて気付いた。意図しない邂逅に数年前の記憶が脳内を駆け巡る。時間にしてみればほんの一瞬。しかし、その一瞬がハンドルを掴む手元を僅かに狂わせて本来は行くべき方に曲がるのを許さずその文字が書かれている正面に進んでいた。引き返すなんて楽なのに結局しなかったのは行く予定も立てない小旅行のようなものであること、あれ以来ずっとしこりとして残る記憶が苦味を感じさせながらも文字通りあの罪の意識を忘れるなかれと、私を苛んだからだろうと思う。勿論私は地名と知らず、通りがかったことも本当に偶然としかいいようがなくてその事実が因果という単語を脳内へとちらつかせてくるのだった。散る真紅の液体と白のぞっとするコントラスト――込み上げる嗚咽は浮かぶ光景よりその状況を作り出した己に対するものだ。ハンドルを握る手に不要な力が込み上げては汗が滴る。抱いているのが彼への懺悔なのか、自分への悔恨なのかさえも判然とせず。赤と白が彩る顔貌は私を叱る冷め切ったものにも見えた。そうした過去を振り払うように小さな橋を渡れば左手側に青い看板が見え私の意識はその方向へと引き寄せられる。地名を書いたその下にはホタルの郷という文字が見えた。山間の道に民家がぽつりぽつり横に並ぶ景色は、ありふれた田舎のものであの人のイメージとはどうしても結び付かないけれど。名前と出身が一致しているだけで縁もゆかりもないのだろうから当然といえば当然。或は地名を連想されて迷惑しているから名字で呼ばれた際のあの微妙な反応だったかもしれないとも思う。今不思議と先程よりは穏当な気持ちで、過去の重い罪と向き合う自分に内心驚きつつも私は無計画な旅を続けることにしたのだった。

 元々只の会社員というには彼は派手な外見だった。社内で喋る際はどこの出身か読ませない完璧な標準語のイントネーションなのにプライベートでほろり零れ落ちる奈良弁は、私が彼にとって特別な存在に違いないと思い上がらせたことを昨日のことのようにも思い出せる。今から思えば実に酷いことに私は彼をブランドのアクセサリーやバッグとでも考えていたかもしれなくて。化粧をすれば女は醜い素顔を誤魔化せるように、一目で判る素敵な相手と腕を絡めて歩けば、誰もが憧れる人間になれるのではと錯覚をして彼を利用した、それだけで実のところ本質を見ようともしていなかった、きっと。
 川沿いに道を走って数分ばかり経ち全く以って変わらない、木々と法面と時たま見える民家に飽きた頃、道路沿いの更に奥の食事処という字が目に入る。何も思っていなかったのに下手な絵でもラーメンやらカレーライスやらを描いた看板を見た途端急にお腹が空き始めた気がするから、人間は愚かだとしみじみ思う。もう随分と車を走らせっぱなしだったので感覚が麻痺していたけれど丁度昼過ぎといい時間になっているしで、迷わず私は停まることにした。
 暖簾を潜り中に入れば、余所者の来訪は予想外だといわんばかりに、気の抜けた声で挨拶をされてその後私の顔を見て知らない人間と気付きひどく驚かれた。若干居心地が悪く感じつつもまあ田舎だったらままあることなので深く気にせずに適当に選ぼうとメニューを手に取る。しっかり食事したい気持ちはあれども何かしら興味を惹かれるものもなく、悩んだ結果、空気を悪くするのも嫌で、小さな字で判り難いけれども店長のお勧めと書かれたものに決め、野生動物を見る目を向けてくる店長と思しき女性にオーダーした。その彼女が厨房に入っていくのを見てほっと気が抜けるのが判る。妙に排他的なこの空気に紫水晶に似た、あの瞳孔が脳裏によぎる。誰にも愛想良く、私に対してすら常ににこやかだったあの視線が何一つ前触れもなく冷める瞬間の衝撃は記憶の底に沈んでいなかったようで、はっきりと思い出せた。今振り返れば、私がずっとこれが彼なのだとそんな風に思っていた姿こそ虚像で、あの冷たい瞳が本性だと断言が出来る。しかしそんな彼を責めようと思わないのは、私自身疾しい気持ちを抱き続けているせいなのかもしれない。自分のしたことを贖わずにいるから忙しい日々の中に埋もれても、今こうして気が緩めば打ちのめされる。結局はでも本人に会って直接謝罪しようという行動に思い至らないなんてその罪の意識さえもエゴだった。もしも彼の立場と置き換えてみたなら会いたくないと思うにしろ。今の私には会う資格もなければお詫びに渡せる何かもなくて。それでもまだ慰謝料を支払えただけ少しマシだろう。正確には私がしたわけではなくて、体面を保ちたい親が勝手にしたことでもだ。いや私自身は何もしていないせいで尾を引き続けているかもしれない。胸元で開く両手が汚れているように思えて、吐き気が込み上げる。と同時にカタンと結構大きな音を立て、注文をした料理が目前に置かれた。湯気が今ももくもくと上がっているのは自家製の醤油ラーメンだ。具材もラーメンと聞き想像をする量が、想像のままに並んでいる。けれどその普通を絵に描いたような見た目が何故か安心をさせてくれるのだから本当に不思議だなと思う。割り箸を取って適当に割ればいやに歪な形になった。何か手を合わせるのも酷く億劫で私はそのまま箸を付けてみることにする。
 ――まぁ、美味いに越したことないけど、別にこれはこれでええんとちゃうんかなぁ。普通って案外世の中には転がってないもんやし。……ほんで、この後何をどうしたいん?
 彼は空想の世界の住人みたいな見た目で、でも食事に案外庶民的な感覚を持った人だった。まだ付き合う前彼からすれば、付き合う以前の話だった当時、今日と同様選択肢を持たず入った店はチェーン店でもない上ぼろい外観で。絶対嫌われたくない一心で内心辟易としているのを隠して真横の席に並び――彼は食べ物にしても衣服を買ってあげるにしても決めるのに一切迷わない人で、あのときもさっきの私みたいに適当に選んだんだった気がする。そうやって来た良いとも悪いともいえない味の料理に対して、彼はそういう風に言っていたと不意に思い出す。親が稼いだ大金やら立場やらだけが、私の価値だったからまるで、肯定をされたみたいで嬉しかった。だからますます彼にのめり込んでいって、思い通りにならないのならと刃物を手にしてしまったんだろう。きっと本能的に私に彼からの気持ちがないのを分かっていた。だから、不安で片時も目を離したくなくて束縛して、本性を引き摺り出し勝手に期待をした癖に失望した。あまつさえ彼が死んでしまってもいい、と本気で思っていたのだから笑えないことだ。私が白い部屋に入り彼とも親とも会わず――本当はもう、この時点で見捨てられていたわけだけども――顛末を考えるのに困らないだけの時間が出来て漸く目が覚め、今そして何にも縛られることない生活を送っている。罪として裁かれずとも私が彼を刺して殺しかけたのは不変の事実だけれど。
 柞原 典(la3876)という一生忘れない名前をこうして地名として巡り合ったように、幾度も思い起こし苛まれながらこれからも、私は生きていく。どれだけ普通に生きることが尊いものなのか普通に生きられやしない人生を歩みながら。私はそんなことを漠然とながらも考えた。

━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
ここまで目を通して下さり、ありがとうございます。
やっぱりおまかせでしか出来ないものを書きたいと
思った結果、モブ視点の話にするのはすぐに決まり、
また過去話をとも考えたものの過去を振り返ろうとする
現在のモブというのもありかなと思ったので全く以って
典さんが出ずに回想の台詞のみという結構変則的な形に
なりましたが、過去典さんに危害を加えた人視点の話に
今回しました。具体的にいつどこの傷を残した人か等は
特に深く考えていないです。刃傷沙汰を金と権力で
揉み消しそのまま、典さんとも家族とも縁が切れた人と
いうイメージです。地名由来といってもこじ付け気味な
感は否めませんが。
今回も本当にありがとうございました!
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グロリアスドライヴ
2020年12月28日

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