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『紅、重ねる』
不知火 仙火la2785)&不知火 楓la2790

 厳冬。
 日本各地は数年ぶりの雪害に見舞われ、血ばかりならぬ縁をもって集うた多くの者が住まう不知火邸もまた、逃れる術なく巻き込まれている。
 朝日を覆い、雪を散らす厚雲の下――不知火の母屋に並び建つ剣術道場では、寒気を吹き散らす程の熱を込めた稽古が繰り広げられ、そして。
 一礼をもって仕舞となった後には、不知火 仙火(la2785)がひとり、構えた木刀を揺らして何事かを計り続けていた。
 彼の父にして剣の師は、誰よりその人となりを知るはずの息子ですら思わずにおれぬほど教え下手であり――こればかりはしかたない。父は天才だから――教えを理解するには相当な苦労が必要だ。昔は理解どころか見まねすらできぬ己を責め、苦しんだものだが。
「さっぱりわかんねえ」
 苦笑する。
 父の説明が解せぬのは、今の己がそれを為せるレベルに至っていないからだ。だからこそ、今まで以上の気持ちを込めて木刀を握る。いずれ解せるまでになれたとき、この教えを忘れ果ててしまっていては意味がないから。
 そして一度木刀を振り、こうではないと息をついたとき。
「相手は要らない?」
 差し挟まれたやわらかな声音に、振り向いた。
「剣においては大根役者もいいところだけど、空に打ち込むよりは捗るよ」
 不知火 楓(la2790)。涼やかなる麗貌を備えた薙刀遣いであり、20年近くを共に過ごした幼なじみであり、今はそう、仙火の恋人となった女子である。
「助かる」
 仙火は迷うことなくうなずいた。
 常であれば、仙火はいくら相手の腕を信じていても、そう簡単に相手を頼みはしない。手にしているのが容易く骨を砕く木刀なのだ。こちらが責め損なっても相手が受け損なっても、どちらにせよ相手を殺してしまいかねない。
 それが楓にだけは預けられる。彼女ほど自分の剣技を知る者はいないと確信できればこそ。それこそ、父が母相手ならば自身の技を試せるようにだ。
 結局、甘えてるってだけかもだけどな。
 心の内のうそぶきを聞き取ったかのように、楓は仙火へ薄笑みを傾げてみせた。
「気にしないで。僕がしたいだけのことだから」
 自覚していないだろうけど、仙火はずいぶん成長した。できない今に腐ることなく、先のために努力できるほど。それを見守って支える立場、誰にも渡したくないだけのことだよ。


 居残り稽古を終えたふたりは汗を流し、再び顔を合わせた。
 食卓につかず、楓の居室で待ち合わせたのは、今日はこれからふたりで出かけようかという話になっていて、そこで軽く食べるつもりであるからだ。
「髪っ」
 迎えに来た仙火がドアを開けたまま言葉を詰めて固まる様に、楓が小首を傾げてみせれば、
「その、ちゃんと乾いた、か?」
 褒めてくれようとしたらしいことはわかったし、さりげなさを醸し出すことに失敗して詰まったのは丸わかり。
 これまで何人もの女子と付き合ってきた――もっとも形ばかりは、となるわけだが――経験があるはずなのに、誰より付き合いの長い楓へどうしてこれほど緊張するものか。
「乾かしてきたよ。女はセットだってしなくちゃいけないんだから」
「あー、それでか。あれだよな、うん、あれ」
 まるで意味がわからない。『綺麗にまとまってるよな』くらい、普通に言えばいいだろうに。
 思えば、楓はずっと仙火の傍らに収まっていたわけではない。斜め後ろに控えているか、あるいは目の届くぎりぎりの場所へ潜んでいるか……時折は露払いのため前に出てもきたが、一定の距離を保ってきたのだ。そう。仙火を守るため、と言いつつ、裏で自分がしている何割かの身勝手を見られたくないばかりに。
 たとえば、彼と付き合い始めた女子を陥れるなどはその筆頭格である。そうした自分を弁えていればこそ、仙火の視線の裏を取るように生きてきた一面があった。
 考えてみれば、彼女がそうなったのは、仙火の身代わりとして死にかけたことからだ。
 仙火はあれから長く、楓を避けるようになった。楓を見ることで自身の無力を反芻するはめに陥るからと、彼女は思ってきたものだが。
 その実仙火は彼女を疎むと同時、憧憬を抱いてもいたのだ。人のために命を投げ出してみせた彼女の心に、かつて自分が目ざした正義のヒーローの有り様を幻(み)て。このことが恋仲となった今にも作用し、進展を鈍らせていることは、さすがの楓も知りようがない。
 というわけで、知らない楓は思うのだ。
 慣れていないんだよね。恋仲の間合で甘やかに打ち合うことに、仙火はもちろん僕自身も。でも。
 僕のこと、もう少し強く求めてくれてもいいのに。
 ほろりと胸へこぼれ落ちた言葉が剥き出しの本音であることは明白だ。こちらが心を据えて待っているのだから、どうとでも打ち込んできてくれればいいのにと焦れてしまうことが、結局は自分の我儘であることも。
 かわいくないよ、僕……それはさすがに身勝手すぎる。
 仙火がこの期に及んで不器用な紳士を演じているのは、これまで自分が立ち回わってきたことの結果ではないか。そして、それでもだ。
 そんな彼女の悪行を踏み越え、踏み込んできてほしい。どれほど拗らせていようと、これは楓が18年あたため続け、ついに花を咲かせた初めての恋だから。
 楓は唇を懐紙で拭って差した紅を落とし、仙火へ告げた。
「今日はどうにも口紅がうまく乗らなくて。仙火が差してくれない? 付き合った元カノに塗ってあげたことくらいあるだろう?」

 なにが起きてる?
 仙火は目をしばたたき、楓を見つめる――と、楓はふわり、部屋を駆け出していって、すぐに戻ってきた。口紅と、リップブラシを手にして。
 帰ってくんの早いだろ。せめて俺が状況飲み込めるまで待てって。
 心の内で愚痴ってみたが、たとえ半日待ってもらったところで飲み込めるはずもないのであきらめた。
 すべてではないとしても、さすがに楓がなにかを訴えたいのだということはわかる。訴えたいことが、やっと恋仲になったふたりの距離を詰めたいのだということも。
 って、ほとんど全部わかってんじゃねえかよ俺。
 なにせ自覚があった。幼なじみとして過ごしてきた時間の中、互いのことは存分に知り合ってきた。これ以上、なにを測って計る必要もないのに踏み出せていないことは。
 楓にもどかしい思い、させてるんだよな。
 しかし、それが知れたとて、じゃあどんどん進めていこうぜなどと盛り上がれようはずはない。最初から特別な存在だった楓が、さらに特別な存在となった今となっては。
 正直、俺には楓を神棚に乗っけて大事に奉っておきてえ気持ちがあるんだよな。
 それが楓に命を救われたあのとき、自らへかけた呪縛であることには思い至れぬまま、仙火は差し出された口紅とブラシを見やって途方に暮れる。
 これまで付き合ってきた女子にも、願われればできる限り応えてきた。
 ならば特別な楓には、できる限りを超えた全力で応えたい。
「化粧はとにかく、変装なら俺もそれなりに勉強してきたしな。っても、他の誰かに塗ったことなんてねえぞ」
 楓のリップブラシは山型で、それは彼女が紅を薄く取り、細部まで綺麗に塗り整える質であることを示している。
「お代は見てのお帰りってことで――推して参るぜ」


 楓の紅は、ほぼ透明な桜色の内に金粉とドライフラワーを散らしたもので、日本限定で販売されたもの。
 なぜそこまで仙火が知っているかといえば、楓にそれを贈ったのが彼だからだ。
 楓を飾る彩(いろ)を決めかねていた中、唇の温度や水分量で色合いが変わるというこの商品を見つけ、考えるより早く手に取った。
『口紅の色で悩むのが間違いだったって気づいたんだよ。楓がつけた色が、俺にとっては彩になる』
 不器用ながらなかなかな殺し文句を添えて差し出した紅を、楓は陶然とした笑みをもって受け取り、
『僕の21年めの人生を飾る彩(いろ)は、仙火の贈ってくれたもの。せめてきみに魅せられるほどの僕になれたらいいんだけど』
 少々固いながら、なかなかにかわいらしい応えを返したものだ。
 なのに仙火はあわてて手を振り、
『あんま魅せてくんなくていいからな! 今だって十分魅せられてんだから!』
 仙火が彼なりに気づかってくれているのはわかる。でも、それを少し寂しく感じるのは、恋人という存在になれたことで楓がますます欲深くなったせいなのだろうか?

 仙火は楓の頤を指先で上げさせ、その口角へ置いたブラシの先を中央へ向けて引いた。
 ん。くすぐったさに息を漏らす楓。
「舞台化粧ならもうちょい押しつけられるんだけどな」
 楓が落ち着くのを待って唇を縁取り、色合いを確かめるが――そうしたことで楓の唇の形そのものが浮き彫られ、思わず胸が跳ねた。
 なんかこう! 恥ずかしくねえ!? そりゃそうだよな! こんなふうに相手の口じっくり見ることなんて普通ねえんだから!
 胸の中でわめきちらしておいて、あらためて噛み締める。
 見せてくれる女が、俺の前にいる。それどころかこうやって預けてくれる女がだ。
「仕上げてくぜ」
 塗り残した中央部へブラシでていねいに紅を乗せたが、今ひとつ納得できない。綺麗な薄桃色に塗り上がっていながら、なんというか、楓の様に馴染んでいない気がして。
「っ」
 楓の吹いた音に我を取り戻せば、仙火は薬指の腹で薄桃をなぞり、軽くこすっていて。
「あ! ああ、動くなって。馴染ませたかっただけだからよ」
 動揺を抑え込んで言い切り、仙火は両手で楓の顔を挟み込んで直ぐに向けさせる。こうなりゃ最後までやりきる! という気持ちがあった。そしてそれ以上に、見たい。魅せられたいという願いが。果たして。

「仙火。どう、かな?」
 薄桃は鮮桃へと彩を変えていた。紅の特性から言えば、唇の温度が上がっているということなのだが――頬に差した朱と相まって、それはもう美しく楓を飾っていて。
「綺麗だ」
 ただそれだけを応え、仙火は目を閉じた。これ以上見ていたら、魅せられるだけでは終われない。
 俺は楓を大事にしたいんだよ。傷つけちまうようなことは、しねえ。
「――江戸時代にね、男が女へ贈るものにはこんな意味があったそうだよ」
 潜めた楓の声音が、耳元へ忍び込んでくる。
「着物は、おまえに着せたそれを脱がせたい。簪は、おまえの綺麗な髪を乱したい。そして紅は、それを乗せた唇を吸ってみたい」
 ちなみに簪はすでに贈り、贈られた過去がある。もちろんこんな謂れがあることは知らぬままに、だが。
 仙火が思い至ったことを、彼が詰めた息から察し、楓は自分も目を閉ざして言い添えた。
「あのときには知らなかった意味を、今の僕は知っている。口紅をくれたときのきみが知らなかった意味を、今のきみが知ったように」
 浮かされた仙火の息が、楓の唇をあたためる。差された紅がさらに桃を彩づかせているだろうことを思いながら、楓は言葉を切った。
「これ以上語るは野暮だね」
 仙火は楓の術数にはめられたことを思い知り、肚を据える。
 こいつが粋かはわからねえし、正直息抑えんので必死だけどよ。ここで大事にしなくちゃならねえのが俺のプライドとかメンツじゃねえ、楓の心だってのはわかってる。
 ……そんなんじゃねえ。
 俺は欲しかったんだ。いろんなことがあって、そいつを全部いっしょに踏み越えてきて、やっとわかったほんとに大事な楓を全部。
 大事にしてきたのは正しかったよな。でも、正しくもなかったってことだ。って、難しいな。俺がまだうまくかみ砕けるレベルじゃねえってことなんだろうけど。
 これから勉強してくさ。ひとつひとつ、楓といっしょに。
「止まんねえぞ」
 最後に確かめれば、楓はただひと言、
「うん」
 だって、ずっと待っていたんだよ。きみが僕を大事にしてくれるだけのものじゃない、乱したいものだって想い定めてくれるのを。
 僕にはきみしかいないから。きみを僕だけでいっぱいにしたい。心も体も全部全部全部。欲が深くて嫌になるけど、それがなにひとつ装わない僕だ。
 だから。
 止まらないで。
 僕ももう、止まらない――
 仙火は仄かな花香に導かれるまま、楓の唇へ唇を重ね。
 強く抱きすくめた彼女へと落ち込んでいった。


 冬はさらに暮れゆき、世界を透白の内へ閉じ込める。
 しかし、今こそ結び合い、互いの熱を灯した仙火と楓を凍えさせることはかなわないのだ。


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2021年02月09日

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