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『帰る先』
狭間 久志la0848

 最終決戦から時は過ぎ、平穏の中で発展しゆく世界はついに、放浪者たちを故郷、あるいは新たなる世界へ送り出す“門”の構築に成功する。
 かくて旅立つ放浪者たち。そのひとりである狭間 久志(la0848)は振り返ることなく、視線を前だけに据えて踏み出していった。
 振り返らなかったのは、見送る者がいなかったからだ。
 見送る者がいなかったのは、誰にも告げなかったからだ。
 告げなかったのは……怖かったのだろう。笑みで送られることが、あるいは涙ですがられることが。この世界で縁を結んでしまった誰かに、よすがを残してしまうことが。
 俺は異分子で、言っちまえば夢の登場人物でしかねぇ。悪夢が消えた後にまで居座っちまうなんて、野暮が過ぎるってもんだろうよ。
 独りだからこそ、進む足は軽い。
 早足が駆け足になってしまわぬよう意識しながら、久志は故郷へと辿り着いたのだ。


 不思議なほど、故郷の様は変わっていなかった。
 自分が後にしてからどれほどの時が経ったものか知れないのに、なにひとつ。穏やかでありながら、どこかに硝煙と機械油のにおいが鼻の奥をかすめる感じ。
 こんなものは気のせいなのだろう。久々に日本へ帰ってきた者が空港で醤油のにおいを感じるという、あれだ。
 まあ、実際空気に染みついたにおいであれ、幻臭であれ、胸に沸くものがセピアに色づく感慨であることに違いはない。久志は大きく息を吸い込み、再び歩き出した。
 迷うことなく、目ざす先へ。
 今度こそこらえることなく駆け足で。

 感慨が、一歩ごとにあいまいなセピアを削ぎ落として鮮やかな記憶へ変わりゆく。
 かつて自分が暮らしていた居住区に踏み込んだ久志は、迷うことなく丁字路を曲がり、十字路を通り過ぎて角をなぞり――そして。なにひとつ様変わりしていない、我が家を発見した。
 ナイトメアに侵された世界へ投げ出されるまで暮らしていた、家。
 最愛の妻と肩を寄せ、ささやかな幸せを分かち合ってきた、家。
 おそるおそる近づいてみれば確かに人が住んでいる気配があって、ちょっとした買い物に使う用として備えたタウンサイクルがあって。
 ああ。
 いるんだな。
 このタウンサイクルを選んだのは久志だ。サドルの高さをセッティングしたのも。いちいち確かめるまでもない。あれは久志が妻のために整えた1台だ。
 疾く呼び鈴へと伸べた指が中空で勢いを損ね、止まる。
 いきなり姿を消したくせに、同じくいきなり帰ってきた。そんな夫はいったいどんな顔をするのが正解だ?
 いや、そもそも妻が待ってくれているとも限らない。互いに戦場へ立つ戦士。ふたりを分かつ死というものは「いつかの先」などという遠いものではなく、いつなりと訪れる隣人のようなものなのだから。
 妻はもう、次のステージへ踏み出していってしまったかもしれない。
 もしそうだとしたら、俺は俺、おれ、ぼ、く、僕は俺は。
 唐突にはしるざらついたノイズが思考をけばだたせ、濁らせる。
 そうだ。俺は、いつから“俺”になった? 昔はずっと、“僕”だったはずなのに。
 奮える指で、顔を撫でる。綺麗に髭を剃り落とした頬の感触が返ってきて、だからこそ、とまどった。
 ここに存在してる“俺”は、誰だ?
“俺”が思い出した“僕”は、いったいどこに――

 家の内からドアへ向かい来る気配がして、開いた。
 果たして、久志がずっとその姿を思い描いてきた妻が、そのままの顔を出す。
 しかし。ドアの外には誰もいなくて。
 首を傾げた彼女は、奥にいる誰かへなにごとかを告げた。
 するとその誰かが出てきて周囲を見渡し、眼鏡のレンズを拭いてもう一度見渡してから、苦笑して。
 ふたりは家の中へと戻っていった。
 そう。十数メートルを駆け抜け身を潜め、すべてを見届けた久志に気づくことなく。

 体の内に押し詰まった息をもどかしく吐き出し、何度も吸い込んでは吐き出してようやく息を整えた久志は、今自分が見たものを思い起こす。
 妻は、いた。
 俺じゃない男と――いや、ちがう。

 俺じゃない俺とだ。

 妻といた男は、飽きるほど見飽きた久志その人だった。
 どういうことだ? どうして俺じゃない俺がここにいて、妻と暮らしてる?
 自分は確かに実在している。亡霊などではないことは、ここへ来るまでのことを思い出しても明らかで、だからこそわからない。
 いや、わからないわけでは、なかった。
 記憶や経験とは別の、自分という存在の奥の奥にあるなにかが告げていたから。

 世界は、自らの危機に際して救援を求める。放浪者とは、偶然あのナイトメアの脅威に晒された世界へ流れ着いたのではなく、呼び寄せられた存在なのだと。
 狭間 久志は、ナイトメアと戦う才を持ち合わせた者だった。しかし彼は、故郷を侵す侵略者との戦いに最適化された存在であり、故にそれを削ぎ落とす必要があったのだ。
“俺”は必要箇所をピックアップされ、ひとりの人間として成り立つよう加工された狭間 久志。
“僕”は、“俺”を抜き取った後に残された、いわば本体であるところの狭間 久志。
 すべての放浪者がそうであるはずはないが、久志はそうして構築され、あの世界へ顕現させられたわけだ。

 淡々と知らされた真実が、久志の疑問を補完する。
 記憶があいまいだったのは、コピーが不完全だったからだ。“僕”が“俺”に変わったのは、戦闘能力がピックアップされたこともあろうが、どこかで“僕”ではない自身を確立したかったからなのかもしれない。
 今になって教えてくれるかよ。ありがた迷惑にも程があるぜ。
 胸中で苦くうそぶきながらも、久志はたまらない安堵を覚えてもいた。
「俺は、妻を残していったわけじゃなかった」
 妻は夫と――久志と、幸せに暮らしてきたのだ。時に揉めることがあっただろう。離婚を考えるようなこともあったかもしれない。しかし、それは独り相撲などでなく、常に久志と向かい合ってのもので。孤独であったはずはなくて。
 これからも、久志と妻は同じ時間を過ごしていく。死がふたりを分かつまで、もしかしたならその先までも、共連れて。
 そうであってくれればいい。
 それ以上、望むことはなかった。


 久志は歩き出す。
“僕”と妻の家に背を向け、肩をそびやかして顔を隠して。駆け出せる力は残されていなかったが、できる限り足早に。
“俺”は“僕”と妻にとっては悪夢以外の何者でもない。見せるより先に消えなければ。そうしなければ……きっと久志は人としてのすべてを振り捨て、真の悪夢と成り果ててしまう。
 だから歩く。
 そして途方に暮れる。
 なあ。“俺”っていう悪夢は、どうしたら消え失せられるんだ?
 自分はあの世界が幻(み)た、悪夢を殺すための悪夢だ。ならば世界が醒めた後にまで残される意味はなかろう。なのに未だにこうして“俺”であり続けさせられている。帰り着く場所も行きたい先も、もうどこにも存在しないのに、消える術すら示されぬまま。
 それでも進まなければならなかった。愛する者をわずかにも侵さぬがため。狭間 久志としてなし得るただひとつの誠実に背かぬがため。
「俺は、どこに行けばいい?」
 それはすべてを弁えた久志は、本当にどうしようもなく声に漏らしてしまった本心。
 彼は気づかなかった。
 その細い音が糸となって伸びゆき、誘われるがまま何処の先かへ向かったことに。


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2021年02月12日

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