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『春に酔う』
日暮 さくらla2809)&不知火 仙火la2785

 冬の乾いた空気は、思いのほか体から水分を奪っていく。
 日暮 さくら(la2809)は固く締めていた道着の襟をわずかに緩め、水筒の湯冷ましを呷った。
 彼女が今いる剣術道場を含む不知火家、その生活を支える水源は地下水だ。井戸を用いて汲み上げられた水を安全化するには煮沸するのが手っ取り早いし、ぬるま湯にすることで修練で疲労した体に負担をかけずにも済む。
「人肌燗ってとこだな」
 ひょいと水筒を取り上げて呷り、またもやひょいと返しておいて、不知火 仙火(la2785)が口の端を吊り上げる。
「人のものを奪う前に、自分の水を飲めばいいでしょうに」
 返された水筒を抱えたさくらは眉根を顰め、自分も口をつけ――ようとしてしばしためらい、朱の浮き出た頬を強く引き締めてから、あらためて呷った。
 私がこうだから、皆にあれこれ言われてしまうのですね。口をつけられた程度でうろたえるような仲でもないでしょうに。
 頬の朱が色味を深くする。
 実際、間になにを置くこともない、深い関係になっているさくらと仙火である。なのに、いつまでも慣れないところがあって。
 最初はからかってきていた周囲の友人たちも、最近はさくらにプレッシャーをかけぬよう、生あたたかい目で見守るようになっていた。
 ご心配いただかなくとも、ちゃんとその、恋人、と、しての務め……は、果たしていますので!
 さすがに音で言い返せるはずはないから、心の内で唱えるばかり――本人に自覚はなかったが、思念ですら言い淀むあたりに周囲の気づかいの原因はあるし、その気づかいはまさに妥当と言うよりないのだ――である。
 などと考え込んでいたさくらの肩を、洗い上げたタオルがふわりと包み込んだ。
「風邪引かねえようにな。男よか女のほうがそういうとこ弱えんだから」
 口調こそぞんざいながら、仙火の声音はやさしく、甘い。
 道場に残されたさくらはタオルで顔を包む。が、浮いた汗は綺麗に失せても、彼女の表情を曇らせる靄は面に貼りついたまま消えることがなくて。
 ――付き合うことになった後も、仙火の態度や姿勢に大きな変化はなかった。むしろ今まで以上に今まで通りという感じで、さくらは本当に自分たちはそのような間柄になったのだろうかと首を傾げたことが幾度もある。本当に変わらないのだ。こうした端々で見せるさくらへの気づかいは。
 もう少しわかりやすく変わってくれればいいでしょうに。
 いや、わかっているのだ。仙火が変わらない理由がさくらにあることは。
 さくらは初心でお堅いサムライガールという蕾。頑ななさくらがほころび、咲く日まで、仙火はそっと見守るつもりなのだろう。
 私が子どもだから、仙火を待たせている。
 出遭った頃には腑抜けた子どもだと思っていたはずが、ほんの少しの時間で追い抜かれてしまったのですね。
 湯冷ましを飲んで物寂しさと焦燥とを自分の奥へと沈め、ふと思い出して、ぽつり。
「人肌燗、ですか」
 燗と言えば熱を入れた酒のことを指す。
 飲むことが許されるのは、法律の上で大人に区分されるようになる20歳の誕生日から。
 先に成人した仙火や彼の幼なじみが楽しげに酒を飲む様をながめ、うらやましいと思ってきた。やがては自分も、同じように楽しさの輪に加わりたいと。
 しかし。
 今こうなってみれば、さくらにとっての酒は、大人である仙火のとなりへ並び立つための手形であるように思えてならなくて。もちろん、ポジティブな好奇心は消えていないにせよだ。
 春が来たら、私も――

「私の20歳の誕生日、お祝いにお酒を飲んでみたいのです」
 さくらにおずおずと切り出された仙火は、驚くこともなくうなずいた。
「実はそのつもりで用意は進めてた。……いや、ほんとは当日まで隠しとくべきだったかもしれねえんだけど、そういうの、うまくできる自信ねえから」
 ああ、仙火は嘘が下手ですものね。忍としては失格ですけれど、でも。
 さくらは微笑み、かぶりを振る。
「仙火が誠実で実直だから、私も素直に切り出せます」
 これだけでは、仙火へ思いを伝えるには足りないかもしれない。だとしたら、そうだ。
 ぎくしゃく仙火の胸に体を預け、さくらは告げた。
「楽しみにしていますから」
「……その割に声が怖えぞ」
「他意はありません! ちょっとその、いっぱいいっぱいなだけです!」


 ついに春の香が冬の名残を追い出し、空気をぬくもらせることを成した四月一日。
 20回めの誕生日を迎えたさくらは、仙火と共にとある料亭の一室にいた。

「しだれ桜、風情があっていいものですね」
 大きく開けられた窓から見えるは、運河沿いに並ぶしだれ桜。10メートルにまで達する巨木からふわりと拡がり垂れた淡紅の花弁は、荘厳でありながらしとやかに美しい。
「ああ。それにこっちは風下で、花のにおいが舞い込んでくるんだ。最高の肴だろ?」
 一端の酒飲みめいたセリフを吐き、仙火は店の者が運んできたちろりをもらい、中身をぐい飲みへ注いだ。
「さくら」
 促され、ふたつ並んだぐい飲みのひとつを手にすれば、つるりと白い陶はほのあたたかくて。
「20歳、おめでとう」
 仙火の顔は相変わらずやさしいが、さくらの胸はきりりと絞り上げられる。緊張しているのだ、酷く。
 このぐい飲み、いっぱいに満たせば半合ほどになるのだろうか。ひと口では飲みきれない、しかしグラスほどの時間を要さない程度の酒。
 それを飲んだだけでなにが変わるはずもないことは承知している。それでも――
 初めて小太刀を左に佩いた日を思い出す。
 年端もゆかぬ片手では振り回すに重すぎ、かといって両手で繰るにはいささか頼りない刃は、鯉口を切って抜くまでにの相当な時間を要したものだ。
 今にして思えば、抜き打つ覚悟ができていなかった。ただそれだけのことだ。目の前にした酒をなんとも言えぬ気分でながめやっている今と同様に。
 しかし、さくらは知っている。抜き打ってさえしまえば、刃は恐れを超えて自在にはしる。ならば酒も同じであろう。
 行きましょう。その先に、仙火が待っているのですから。
「ありがとうございます」
 力を込めて一礼。さくらはぐい飲みを唇へあてがって、傾けた。

 ほろり。

 燗酒である。
 温度は、修練の供としてさくらが携える湯冷ましほどであろうか。そういえば仙火はあのとき、人肌燗だと言っていた。そうか、これが、そうなのか。
 料理ではよく「舌の上で溶ける」と言うが、この得も言われぬほろほろとした感じ、言うなれば「解ける」となろう。甘みが解け、香りが解け、味わいが解け。限りないかろやかさに確かな強かさを閃かせる。
 麹に醸された米が水に溶けただけの代物が、これほどの深みを顕わすなんて!
 思わず閉ざした目蓋の裏に、固く蕾んだ花弁が解ける様拡がって――さくらは深く息をついた。
「さくらが初めて口にする酒は、たとえ世界線が違っても変わりようがねえ俺たちの故郷、日本の酒でってとこまでは決めてた。でも、なにがいいかってなったらやっぱ悩んじまってさ。いろいろ考えて、淡麗辛口にしたんだ」
 淡麗辛口はその名の通り、日本酒度(糖度)を雑味と共に抑えて軽い飲み口を追求した酒だ。
 繊細なだけに、熱を入れると味わいや香りもすぐに飛んでしまう儚い代物でもあるのだが、人肌ほどの低温にぬくめてやることで解ける――もちろん、銘柄によることは言うまでもない――のである。

 そして仙火がこの淡麗辛口を用意した理由は、過去に彼の酒席に同席したさくらが『私は父に似ているようですので、そうなればお酒にも弱いのでしょう。とても仙火の相手を務められそうにありませんね』とうそぶいたからだ。
 そのときからずっと、さくらが初めて味わうにふさわしい酒について考えてきた。始めは自分が好きな酒を共有したい欲に動かされていたのだが、情が友のそれから恋へと変わった後には欲が失せた。
 さくらがいい出逢いをできる酒を、俺の手で選んでやりたい。
 でも、四月の頭はまだ肌寒いし、生酒を冷やでってのも気が利かねえよな。
 そうだ。
 さくらが飲んでた湯冷まし――人肌燗にして贈るか。

「ああ、もう」
 さくらはぐい飲みを一度置き、悔しそうに膝を打った。
「悔しくてたまりません。これほどいろいろ感じているのに、私はただおいしいとしか言えなくて」
 言葉通り、いろいろと感じているのだ。
 しかし、言葉通りに言い表すことができなくて、もどかしい。
 これほどの出逢いを贈ってくれた仙火に、私の気持ちを伝えたいのに――!
「それがいいんだよ」
 噛み締めるように人肌燗を喉へ滑らせる仙火。
 男だからと、不味い酒を無理矢理飲み込んだことがある。不味いのに旨いと言い張ったことも、飲みたくない酒を気力だけで飲み続けたことも。だからこそ、不味さについてはそれなり以上に語る言葉を持ち合わせているつもりだ。けれども思ってみれば、旨さを語る言葉はなかなか思いつけない。旨いからこそ旨い、その程度のもの。
 しかし今日の酒の旨さを言い表すなら、おいしいと言ったさくらの笑みがうれしくて、旨いとなろう。
 不思議なもんだよなあ。
 仙火はこの世界へ来たばかりの頃を思い出す。さくらと幼なじみの3人で花見をしたことを。
 あの頃のさくらは酷く尖っていて、やけに仙火へ突っかかってきたものだ。それは仙火の心が今以上に据わってなかったからなのだが、それにしてもだ。あのとき飲んだ酒は、不味かったわけではないがほろ苦かった。きっとさくらの甘酒も同じだったはず。
 それからいろいろなことがあった。時に張り合い、時に背を合わせて戦場を踏み越え、清と濁、それぞれの剣の道を見出して駆け、いつしかその歩を重ねて同じ道を進み、こうして同じ酒を分かち合っている。
 そうして傾けた酒がさらに旨みを増した。

 と。

「仙火、用意をしてください」
「なんのだよ?」
「私が仙火の脚の上に乗りますので、その準備をです」
 言い終わるより早く、さくらは宣言通りに胡座をかいた仙火の脚上へ腰かけ、そのまま背を肩へと預けた。
「いきなりどうした?」
 普段、このようなことを唐突にやらかすさくらではないだけにとまどい、それでも落ちないよう支えてやる仙火。
 それを当然の顔で見やったさくらは、細い声音で応えるのだ。
「酔いよりも仙火に身を任せたいと思っただけです」
 ああ、酔っちまったのか。やっぱ酒、弱えんだな。納得した次の瞬間、仙火は気づいた。それ、かなり真剣に殺し文句だからな!?
「ええ、私は酔ったはずみで仙火に甘えてしまおうと、そう企みました。なにか問題がありますか?」
 甘えるときまでなんか固えんだよなあ。唇を尖らせて言うさくらに苦笑して、仙火は彼女を後ろから抱きすくめた。
「問題ねえよ。でもまあ、そんな雰囲気になっちまう前に、もうひとつ贈らせてくれ」
 果たしてさくらの髪に通される、涼やかに硬いもの。
 後ろ手に引き抜き、ながめてみれば、それは簪だった。
 さくらの髪の紫によく映える、金の桜花を散らした美しい細工。思わず見惚れながら、さくらはため息へ乗せて問うた。
「仙火、これは?」
「さくらの髪と合うように俺がデザインした。拙いスケッチを形にしてくれた職人には感謝のしようもねえけどな。――和装するなら持ってて邪魔になるもんじゃねえし? 裏の意味はまあ、おまえのほうがよく知ってんだろ」
 それは言わぬが花、というものだろうか。
 冷静に思ってはみたが、こみ上げる喜びと恥じらいがその頬をどんどん熱して赤らめて……さくらは簪を刺し直す。
 そんな雰囲気になる前にと言っておきながら、きちんとそんな雰囲気になるよう仕向けるなんて。仙火は思ったよりも腹黒いのでしょうね。
 いえ、そうではありませんか。
 私も、そんな雰囲気になればいいと企んで、こんなことをしているのですから。
 ええ。仙火の誠実と実直。それに応えたくて、私は踏み込む覚悟を整えてきました。あとはただ、為すだけです。
 あのときのように。
 今このときのように。
「日本髪でないのは惜しいところですけど、でも」
 振り向かぬまま、簪をつけた自分の髪を示したまま、さくらは言葉を継いだ。
「贈られたものをつけてみせることの意味は心得ていますよ」
 そして、目を閉じる。
 大変恐縮ですが、私はこれにていっぱいいっぱいですので、この後のことはどうぞよしなに。


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2021年02月24日

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