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『なにもないなら全部あげますわ』
狭間 久志la0848)& 音切 奏la2594

「俺は、どこに行けばいい?」
 すべてを失った狭間 久志(la0848)が、どうしようもなく漏らしてしまった疑問。当然、応える者などあろうはずがない。そのはずだったのだ。
「そんなことっ! 知りませんわよ……っ!!」
 込めすぎた力のせいで濁った声音。
 その、くもぐって響く「んぐぎぎぎ」は、細い隙間をぎちぎちこじ開けるにつれ明瞭化していき、
「ぎぎゃっ!?」
 ついには悲鳴と共にひとりの少女を顕現させたのだ。
「……なにしてんだよ」
 思わず声をかけてしまった久志。
 と、べちゃりとアスファルトへ突っ伏していた悲鳴の主がくわっと顔を上げて。
「それはこちらのセリフですけどいかが!?」
 音切 奏(la2594)。
“姫”を自称してきた末、実はそこまでの姫ではないことを激白。それをしてなお姫であることを自らに赦し、あるいは課した少女であり、久志の婚約者である。
 とまれ、颯爽と立ち上がった彼女は異世界――SALFとナイトメアとが死闘を繰り広げた世界へ続く門を元通りに閉ざし、指さし確認を終えた。
「間違って誰かが落ちてしまったら困りますので」
 うん、それは正しい気づかいだ。そう思うのだが。
「おまえはどこから帰る気だ?」
「え?」
 絶句した奏に、久志もまた「え?」。
 沈黙。
 沈黙。
 沈黙。
 そして。
「そんなささいなことはどうとでもなりますわ! それよりなにより! 久志様の返答次第では私を殺して私も死ぬことになりますわよ!?」
 ごまかすように叫んだ奏へ、久志はまたもやツッコんだ。
「ちょっと待った。それだとおまえしか死んでねぇぞ」
「最愛の人をこの手にかけることなどできようはずがありませんわー!」
 話としてはおかしいのだが、心情としては正しいのかもしれない。なんとなく納得しながら、とりあえず久志は言葉を返すのだ。
「そういうとこだぞ、奏」


 住宅街の隙間にある小さな公園。久志と奏はベンチに腰を下ろし、遊具ひとつ置かれていない、質の悪い土を見下ろす。
「私、そこそこ以上に高貴な身の上ですのでくわしくないのですけれど、公園には子らが遊ぶ道具が置かれているものではありませんか?」
「子どもがケガするかもしれねぇってんで取っ払われちまったんだな」
 久志が幼い頃には、どんなに小さな公園にもブランコと鉄棒くらいはあったものだ。それが事故予防の題目で失われ、果てには大きな声を出すことまでが禁止されて……いや、俺にガキの頃なんてねぇんだよな。この公園みてぇに、なんにもねぇ。
「うん、なんにもねぇんだ。なんにもなかったよ、俺には」
 乾いた笑いが唇をきしませる。
 あの世界は俺にとって夢。俺はあの世界にとって夢。ナイトメアが消えて夜が明けたんだから、お互い忘れっちまうのが真っ当な流れだろ。そう思い切って故郷へ帰ってきた。
 しかしその結果、自分が本体からコピーされた虚――まさに夢の産物であったことを突きつけられたのだ。
 久志は、目尻へ涙をいっぱいに溜め、体を震わせている奏を見て、思う。
 あっちでもこっちでもおまえにとっても、俺はナイトメアなんだよ。朝日に溶けて消えちまうべき悪夢だ。でも。言えねぇだろ、こんなこと。
 ため息をつきかけた久志の胸に、どん。衝撃は弾けて「ふぅっ」、彼は体内の息を吹きだした。
「追いついたらっ! 真っ先にっ! 尋問しようとっ! 思っていましたっ! どうして思い出も未来も友だちも私もっ! 全部全部全部置いて帰っちゃったんですかって!」
 久志の胸を叩く奏の両拳。型としては女子がぽかぽかと男子の胸を叩くあれなのだが……戦場で鍛え抜かれた彼女の手は、たとえ力を込めておらずとも芯を打ち抜けるだけの技量を有していた。結果、久志は一打ごとにかなり深刻なダメージを蓄積させることに。
「待て待て! 今俺、尋問どころか拷問されてんだけど!?」
 息も絶え絶えに訴えられて、ようやく奏は手を止めた。途端、こらえていた涙がどうどうとあふれ出る。
「最愛の人を手にかけるなんて、できませんもの――」
 たった今奏に手を上げられた上、逝かされかけた久志はとにかく息を吸い込み、吐き出した。
 なんだろうな、俺。消えちまうべきだって思ってんのに窒息死はやだってか。
 いやはやまったく。確固たる実体を備えた悪夢とは、想像以上に厄介なものだ。そして、実体あればこそ、内に収めた心もまた厄介で。
 久志は泣きじゃくる奏へハンカチを渡してやろうとして持ち合わせていなかったことに気づき、しかたなく服の袖を示した。
「正直な話、俺は怖かったんだよ」

 ずっと違和感があった。
 あいまいな記憶と戦う力以外のなにも持ち合わせていなかった自分が、あの世界で友を得、かけがえない日々を得、茫漠とした過去ごと久志を受け容れて先へ行こうと言ってくれた奏までもを得ながら、ずっと。
 なあ、故郷も妻も放り出して流れ着いた場所に、俺はこんな居心地よさ、感じちまってていいのか?
 思い募ればこそ、確かめずにいられなかった。故郷にあるはずの真実を。
「真実を知るのが怖かった。真実を知らずにいるのも怖かった。で、知るほうを選んじまって、この有様だけどな」
 久志は無意識の内、自分が虚であることに気づいていたのだろう。それを自ら暴きに行ってしまったのは、“残してきた”妻への負い目からのこと。
 なんだかな。奏といっしょにいていい資格が俺にあんのか確かめたくて、昔の嫁さんの様子見に行きたかっただけなんじゃねぇか。
「まあ、どうしようもねぇ話だよ。あっちの世界にいりゃ、奏といっしょに過ごす毎日だけは確実にあったってのに。全部放って来たあげく、こっちになんにもなかったことがわかっちまったんだから」
 肩をすくめた久志に、奏は鋭い視線を向けて、
「言いたいことはそれだけですか?」
「言えることは、これだけだよ」
 話の最初から、久志が大事なことを隠していることは察していた。
『久志様はこの世界でなにを見て、ご自分になにもないことを思い知ったのですか?』
 置いていかれたんだってわかったとき、私、悲しかった。
 久志様にとって、私は邪魔なものだったんだって、すごく。
 でも。
 だからって聞き分けよく見送って、私を棄ててまで帰ったんですからとびっきり幸せになってくださいね。なんて笑ってあげる気なかったから、飛び出してきたの。
 思い知らせてやらなくちゃいけないでしょ?
 なにを? 決まってる!
「じゃあこれ以上訊きませんし、聞きません!」
 きっぱりと宣言して、奏は久志を引っぱり起こす。力の入らぬ彼の体を全力で押し上げて支え、そして。
「でも、この世界は久志様にとって帰る場所じゃなく、来るだけの場所だったことはわかりましたから、放っておきません!」
 棄てて帰ったと久志が言ったなら、奏はこの世界で久志が生きられるよう、全力を尽くすつもりでいた。帰る術を自分で潰してしまったことはさておきだ。
 しかし久志は、棄てて来たと言った。最初は帰ったつもりでいたのかもしれないが、彼はなにかの理由でここが帰る場所ではなかったことを知った。
 そんなところに久志を置いておけるものか。
 そんなところで、久志が幸せになれるはずがない!
 そもそもどの世界でだって、私といっしょじゃなきゃ、久志様は絶対っ! 幸せになんてなれないんだから!!

「いや、待った。俺、おまえのこと裏切ったんだぞ。なのになんで」
「姫の懐の深さ、見くびらないでくださいまし! 言えなかった理由があったんでしょう? だから! それは訊きませんし聞きません!」
 もう一度言い切って、奏は久志から一歩分離れて向き合った。よし、久志は自分で立っている。立つだけの力が、彼にはちゃんとある。ならば次は――
「その代わりにです。久志様、なくなったものもなかったものも、全部全部全部あきらめなさい!」
 びしりと右手の人差し指を突きつけ、宣言した。
 当然、目を丸くする久志へ、甲を上にしていた右手を半回転させ、人差し指だけでなく全部の指を開いて。
「久志様の居場所は私がちゃんとご用意いたします! 私の国の私の玉座のとなりの、つまり王配の座を!」
 差し出された手が久志を招く。虚ろなものなんて全部棄てて、私の手を取りなさい!
 ちなみに王配という単語は当て字のようなものなのであれだが……皇国の女皇の配偶者だから、この場合は皇配とでも記すべきかもしれない。
 しかし、そんなことよりもなによりも。
 やっぱ奏はすげぇな。
 久志は感嘆の念を覚えずにいられなかった。
 奏はここまで丸ごと、他人を受け容れられるのか。今、自分が見ているものは、懐の深さなんてレベルのものではないのかもしれない。これはきっと、玉なる器というものなのだろうから。
 あらためて奏の顔を見れば、その顔は涙でぐしゃぐしゃに汚れていて、お世辞にも綺麗ともかわいいとも言えない有様だったが――それでも。
 世界でいちばん、いい女の顔だ。
「私の国の私の玉座のとなりの王配の座って、“の”多過ぎだろ」
 苦笑して、久志は奏の手に手を重ね合わせた。するとすぐに指の間へ奏の指が潜り込んで、しっかりと繋ぎ合わされる。
 こんなときに、いや、こんなときだからこそ、思うのだ。
 悪夢の俺に、ちゃんとした実体があってよかった。
 奏に繋ぎ止めてもらえる手がちゃんとあってよかった。
 俺が俺であって、よかった。
 果たして久志は目を閉じる。ああ、“僕”じゃない俺が居ていい場所に、俺はやっと帰ってこれたんだ。
「ずいぶん回り道しちまったけど……ただいま」
「はい、おかえりなさい!」
 奏はとびきりの笑顔をうなずかせた。
 実のところ、久志が自分に言えなかったことは、おおよその見当がついているのだ。この世界にはオリジナルの久志がいて、だからこそ彼は帰る先をなくした――最初からなかったことに気づかされたのだろうと。
 異世界を渡った者にそうした現象が起こることは、他のライセンサーの例で知っている。その者が少なからぬ懊悩を抱えていることも。
 しかし。
 コピーだろうが同位体だろうがドッペルゲンガーだろうが、どうでもいい。
 斜に構えておじさんを気取りながら、結局は誰かのために力を尽くしてしまう狭間 久志に奏は救われて、恋をした。
 彼女にとって久志は久志以外にありえない。だから、彼が自分の有り様に悩むなら、何度だって叩きつけてやる。
 私のとなりを預ける人は、久志様ただおひとりですわ! そのこと、しかと思い知って、私に見つかってしまったことをあきらめてくださいまし!
 果たして彼女はしっかり繋いだ久志の手を引き、歩き出した。
「行きますわよ。この世界じゃないどこかの世界にある、私と久志様の皇国に!」
 果たして彼女は笑みを振り向け、
「姫たる私の名にかけて、久志様をかならず幸せにいたしますわ!」
 奏の力強いセリフを聞きながら、久志は確信していた。これ、ノリで闇雲に歩き出しただけだよな?
「って、門がどこに開いてるかわかんねぇぞ」
 一応言ってみれば、奏は自信満々の顔を振り向かせて、
「ですので門を探す旅に出るのですわ! 貴種流離譚は物語の王道じゃなくて皇道! ですので久志様は路銀を」
「いやいや。俺さ、こっちの世界のカネ、ほとんど持ってねぇんだわ」
 こちらへ来てから使った金は財布に残っていたもので、それはGで言えば2万ほどの額でしかなかったのだ。つまり、ふたり分を賄おうとすれば2日が限度。
「えっと、その……なんとかなりますわ?」
「そういうとこだぞ奏ー」
 まあ、奏とならどうとでもなりそうな気はするのだ。
 相当に頼りない確信ではあるのだが、自分をこの世界へと向かわせた違和感よりも強く、甘く、胸を突き上げる。
 そっか。俺、わくわくしてんだな。
 脚を速めて奏の手を引き、久志は踏み出していった。
「幸せにしてくれよ。いや、今もなかなか幸せだし、これ以上はバチが当たるかな」
「なにを言っていますの!? 私が差し上げる幸せ、こんなものではありませんのでどうぞお覚悟くださいまし!」
 自信を込めた声音を跳ねるように響かせる奏。
 その声音が標となり、久志を導く。なにが待つものかまるで知れぬ真っ白な未来へと。
 しかし恐れはなかった。なぜなら彼のとなりには、誰より残念で誰より強い最高の姫がいてくれるのだから。


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2021年02月25日

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