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『地獄の底、あるいは泡沫、舞台裏:2』
雨月 氷夜la3833


 ――それはあるかもしれないし、ないかもしれない、どこかの世界。

 雨月 氷夜(la3833)は黄金の霧の中を進んでいる。
 どれだけ時間が経ったのか分からない。ここは時間の概念も曖昧だ。
 どこに向かっているのかも分からない。ここは方角の概念も曖昧だ。
 ふと氷夜が顔を上げれば、少し先をバルぺオル(lz0128)がふよふよと漂うように歩いている……歩いている? 飛んでいる? 浮いている? さておき、その存在に氷夜は安心した。さっき再会したばかりなのに、もうずっと一緒にいるような気がする。
 そうだ――バルペオルはいつも、氷夜と遊んでくれる。本人に「遊んでいる」気はないかもしれないが、少なくとも氷夜はそう感じていた。
 それに話も聞いてくれる。いつも「ふーん」「へー」「人間ってよく分からん」な塩対応だけど、無視だけは決してしない。氷夜にとって、バルペオルは「自分という人間を理解してくれている」と感じる相手だった。

(……アレ? 俺様、バルぺオルに要求してばかりじゃネ?)

 ずっと「楽しい、楽しい」ばかりが心を占めていたので霞んでいたが――ふっと気付いてしまったことに、氷夜は足を止めた。
 そうすると、急に足を止めた彼を怪訝に思ったのか、バルペオルが少しだけ振り返る。なので氷夜は彼の隣に駆け寄り、こう言った。

「なァ、バルぺオルに何かしてやりたい、俺様にデキるコトってナニ?」
「あ?」

 バルペオルは「何言ってんだコイツ」という顔をした。人間という下等種に遠慮も躊躇もない怪物は、その表情を隠しもしない。
 一方で氷夜は考える――バルペオルは『仲間に付き合わされている』という感覚が多かったのだろうか。疲れている? ならば、労いたい。

「オマエは何でも受容するけど、疲れないのかよ?」
「否定が面倒だから拒絶してなかっただけだ」
「俺様はワガママをいろいろ聞いてもらったからさ、今度はオマエの話を聞いてみたいぜ」
「……なんか企んでんのか?」
「まさか! 俺様がゴホウシしてやるぜ! 何が欲しい? 何をして欲しい? 疲れてないか? オマエは俺様が欲しいモノをたくさんくれたから、俺様がデキるコトなら何でもしてやるぜ!」
「要らん。別に疲れてもないし」
「エエー」

 即答すぎて心がすっぽぬけた。深々と怪物の溜息が聞こえた。

「俺に何かしてやりたいんじゃなくって、お前が俺に何かしたくてたまらんだけだろ」
「エヘヘ……まあネ……」
「して欲しいことっつっても『ベタベタ触るのはやめろ』ぐらいしか思いつかん」
「……なんで触られるのはイヤなんだ?」
「なんか嫌だろ……ウワ何すんだテメエしか感想が湧かん……」
「ナイトメアなら平気?」
「いや……抜本的に何らかの意図が絡む接触が純粋に嫌……」
「アレ? でも白亜の玉座には普通に触ってるっていうか、座ってるっていうか」
「あれはただの椅子だし。ちょっと便利な。意思もないし」
「ははあ。じゃあ噛みつくのはどういう?」
「口に運ばなきゃ食えねえだろ」
「ナルホドー」

 そう考えると……今まで触ったり触られたりしたのは、バルペオル的には相当能動的で「は〜メンドクサしゃーねーな」な行為のようだ。ちょっと特別感を感じる氷夜である。そうして更にはたと気付く。

「……バルペオルが霧だからかな? ホラ、霧ってフツーは触れないジャン。もともと触れない存在だからこそ、なんか触られるのがイヤ〜ってなンのかな」
「あー」

 そうなのかも、と取れる相槌だった。氷夜はまた一つバルペオルのことを知れた気がした。自分で自分を共感性がない存在と思っているだけに、少々嬉しくなる。

「よし、ンじゃゴホウシそのイチ! ってことで温泉はどう?」

 氷夜はニパッと笑った。

「温泉なら触ることはないし、あったかくってボーッとできて、よくね?」
「ンなもんどこにあるんだよ」
「そこに」
「あるのかよ」

 ●

 前略、温泉。
 なんでこんなところに……というナンヤカヤも割愛。水質、問題なし。温度、良好。

「なんで湯に浸かることが娯楽? 人間ってそんなに娯楽手段ザコなの?」
「ハハ……まあまあ。意外とイイかもよ?」
「ふーん」
「人間は服を脱いで入るンだ」
「……」
「エエ〜『ウソだったらぶっ殺すぞ』って顔……」
「いや、これは『ウワお前まさか俺の人間態の裸が見たいだけじゃ』って顔」
「ナ、ナルホドー」

 氷夜は苦笑した。

「まァ……俺様も裸を晒すのは苦手なンだよ。自分のカラダに自信ねーの」
「ライセンサーは身体能力が他の人間よか優れてんじゃねえか」
「能力面じゃなくて……見た目がね」

 背骨が浮いた痩せぎすの体。火傷だらけの血色の悪い肌。形成外科で傷痕を消すことはできたかもしれないが、彼はあえてそれをしなかった。どれだけ外を整えたって、中身が綺麗になるワケでなし。「人間はしょせん見た目だ」という残酷さを噛み締めると虚しいだけだ。

「ほとんど誰にも見せたコトねェケド。……鳥ガラみてェで喰うトコ少ねェし。ワリィな」

 それでも、と氷夜は自分の胸にそっと掌をあてがった。

「えへへ。でもな、オマエがつけたこの胸の傷痕は気に入ってるぜ。すごく愉しかった思い出だから。……まァ、ナイトメアにはそんなの関係ねーか」
「ふーん」

 いつもそうだ。人間ならば「重い」だの顔をしかめかねない話題を、この怪物は「ふーん」の一言で済ませてしまう。拒絶しない、否定しない。
 と――バルペオルの体が黄金色に解けた。擬態を解いた真体、下半身は蛇のように足はなく霧に溶け、大きな長い手をした、貌のない双角の異形。その輪郭は霧に揺らめき曖昧だ。かつて人と戦った時より曖昧でボヤボヤしているのは省エネだからか、非戦闘モードだからか。それは湯に浸かるというより湯煙の中で解けている。漂っているともいう。

「俺様、蛇は好きだぜ」

 氷夜は目を細める。触りたい――だが、バルペオルが「触んな」とさっき言っていたところなので、ぐっと我慢する。同時に思い出すのは、生前に飼ってた蛇のことだ。少し寂しくなる。つられるように知り合いのことも思い出していた。こんな自分に良くしてくれた奴もいた――その好意に自分は背を向けて耳を塞いでいたのではないか。今となっては、後悔先に立たず。「今頃、彼らは何をしているのだろうか」と思えば思うほど、その念は強くなった。

「後悔か」
「ワカル? ……まあ、ゼロじゃないって言えばウソになる」

 どうすれば最良だったのか、何が大団円だったのか、氷夜には分からない。だけど今は今、揺るぎない今だ。氷夜はこの『今』を否定したいとは思わなかった。深呼吸をすれば、温かく湿った空気が肺腑を満たした。

「オマエといると、色々な感情を知るンだ。知らなかったキモチや、気付きがあったりもする……なァ、バルぺオル。俺様はどんな味がするのかな」
「血と肉と骨の味だろ」

 もやつく霧がいつもの物言いで答える。氷夜はほんの少し口元を緩ませた。

「そうだけど……そうじゃなくてさ」
「知らん。ナイトメアに感情論を求めんな」
「あ〜〜〜あ、いっそナイトメアに生まれてたらなァ〜〜〜」
「そしたら今度は『種のオーダー』が付きまとうけどな。……ま、ここにはそんなものはないが」

 ナイトメアという種族の命題――人とナイトメアの戦いは、それが原因で始まったと言っていい。氷夜はかつての戦いに想いを馳せた。

「俺は当初、バルぺオルを殺したくて堪らなかった。大キライだったンだ」
「そらそーだろーよ。戦争してた相手なんだし」
「……今となっては、なんであんなこと思ったんだろうって昔の自分を殴りたくなる」
「俺からしちゃあその方が不思議だがね。ほとほとはぐれものよな、お前」
「はぐれもの、か。そうだよ、その通り。バルぺオルは俺を受け止めて理解してくれていた……羊と狼の話もそうだ。ずっと感じていたコトを、言い当てられちまった。なんでかな、どうしてオマエは俺の欲しい言葉を突いてくるんだろう」
「それは、俺がお前らの弱味に付け込むのが上手だからだよ。『酒池肉林』を見りゃ分かるだろ?」
「ハハ……そーかも。確かに。バルペオルは優しいな、弱味が分かればそれを抉ることだってできるのに」
「必要以上に敵意を煽っても面倒なだけだ。拒絶しないだけで向こうが勝手に従属するから管理が楽だった」
「……バルペオルにとって、きっと俺は、そんな多くの連中の中の一なんだろうな」
「そーだよ」
「それでも」

『それでも』。
 それはバルペオルが最期の時に散々聞いた言葉だった。

「それでも――俺にとっては、拒絶されないオマエの隣が、嬉しかったんだよ」
「ふーん」
「どうして殺し合わなくちゃいけなかったのかな。死んでほしくなかった。死ぬべき奴はもっと他にもたくさんいたのに。ナイトメアにも、人間にも」
「ンなこと言われてもな。戦争なんてそんなもんだ諦めろ。それに俺の命は俺だけのもんだ。どう生きてどう死のうが俺の勝手だ。憐れまれようが、憎まれようが、知ったこっちゃねえ」
「……オマエは強いなァ」
「人間が弱いだけだよ。とっても非効率的で非合理的で。まあその不完全性が感情だのEXISだのIMDだのを生んだんだが。ま、完璧はそれはそれで頭打ちでつまんねえってことか……」

 一間が空く。氷夜は温かな水の傍にしゃがんで、揺らめく水面を覗き込んだ。そこには雨月氷夜の顔が映っている。指先で突っつけば、揺れる水面に男の顔は掻き消えた。

「俺はたぶん、死ななきゃわからないバカだったんだと思う。……生きている内にいろんなことに気付けばよかったのかもしれねェが」
「しょせん、俺達ゃもうダストデータさ。ゴミ箱の底も、案外悪くないぜ。ここにいればもう何もないしな。面倒なこともない、争いもない。あとは凪いで、掻き消えていくだけだ」

 バルペオルの言葉に虚無はなかった。それでいい、と前を向いているような物言いだった。
 氷夜は黄金の霧を見上げる。この怪物は、納得をした上で死し、そして、ここにいる。手を伸ばした――指先をすり抜ける霧は、触れることはできない。ただ、甘ったるいにおいだけを残している。

「オマエは永い時を生きすぎて退屈していたのかもしれないケド……俺はオマエに出会えて良かったぜ」
「そう。『よかった』って思えたなら、お前はそれでよかったんじゃねーの」
「……うん」

 霧に触れた掌を見つめる。握り込み、胸にあてがい、氷夜は深呼吸をひとつした。

「俺様もオフロ入っていい? ……足湯だけど」
「好きにしたら」
「じゃあ……お言葉に甘えまして」

 氷夜は靴を脱いだ。素足になって裾も捲る。骨ばった、血色の悪い男の足だ。色気もなにもない。
 指先から、そっと。確かめるように水面につけた。少々熱く感じるが、まあ問題はない。ゆっくり――沈めた――温かい。じんわりと染みるような。ふーー、と息を吐いた。

「人の姿でオフロ入らねェの?」
「あ? 人間の服を脱げって言ったのお前だろ、だからこの姿になったのに」
「あ〜……それ、バルペオル的には脱いでる感じなンだ……」
「そもそも俺達ナイトメアに服って概念はないからな。捕食した連中の文化を再現してるだけで」
「あの服ってなんでああいう感じにしたの?」
「今まで捕食してきた連中の中からテキトーにサルベージしただけだが?」
「あ、そーなんだ。特に深い意味はないのな」

 そう言ってから、氷夜はくつくつと含み笑った。

「な〜んだかさ、一緒にいればいるほど、どんどんバルペオルのこと知れてさ! こういうの、幸せって言うのかも」
「ふーん」

 バルペオルは? とは、聴かなかった。それは質問ではなく「俺も幸福だよ」と答えて欲しいだけのワガママになる気がしたから。だから『現状』という安寧に全てを任せることにした。
 氷夜は黄金の霧の中で目を閉じる。

 これでいい。
 これでいいんだ。
 これで良かったんだ、自分は。



『了』

━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
ご発注ありがとうございました!
足湯、いいですね。
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2021年03月05日

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