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『『わたしは、あなたの――……』』
ヤロスラーヴァ・ベルスカヤla2922

 黒薔薇モチーフのロングドレスと、昏い色の宝石を纏い。
 闇色の化粧を装った艶やかな女。

 ――“黒真珠”。

 ナイトメアたる“主”に敗北した元ライセンサー。今はこの館の虜囚となり、精神力源を搾り取る為の“奴隷”とされている救い出すべき人々を人質にされ、“主”への忠誠と臣従を誓わされている。
 そして強要されているのは、救い出すべき相手の筈な“奴隷”達の監視役。
 今の彼女は“主”の使徒として遇される黒薔薇の貴婦人。

 いいえ。違います――違う、筈です。
 私は“黒真珠”なんて名前じゃありません。私はヤローチカ。私にはヤロスラーヴァ・ベルスカヤ(la2922)と言う、本当の名前があります。

 そう自分の中で、ずっと、ずっと否定し続けていても。
 今の私は、どうあっても黒真珠としか呼ばれない。
 いつか、自分の本当の名前すら、忘れてしまうかもしれない――そんな恐れすら杞憂とは思えない様な、境遇。

 ……もうどれ位経ったのだろう。
 思い返す事すら酷く億劫になる程の時間が、既にして経っている様に思える。
 全てがぼんやりと曖昧な悪夢の様で、ただ、“主”からの命が記された手紙だけが、毎朝届く。

 淡々と。
 感情の伴わない。
“黒真珠”が遂行すべき命令だけが書かれている。
 毎朝。
 途切れる事無く。

 以前には、“黒真珠”が“奴隷”に手心を加えた事に気付き、“主”が代わりに罰を与えたと書かれていた事もある。
 書かれていたのは、“主”の行為だけ。
 自らの使徒たる“黒真珠”の命令違反、不手際である筈なのに、手紙には叱責も何も無かった。
 ……その事自体を威圧だと、脅迫だと“私”は捉えた。

 けれど。

『本当に、何の含みも無く、ただ書かれている言葉通りなだけ』だったとしたら。
『ただ私が使徒として見出されただけ』だったとしたら。
 罰を怠った事への叱責が無く、自ら代わりを務めたのは『私個人への気遣い故』だったとしたら。

 猜疑の目、呵責の目、縋る目、絶望の目、罰を与えなければならない自分の手。“奴隷”とされてしまっている人々に相対する度、彼我に渦巻く、どす黒い感情の嵐。人々への罪悪感と苛立ちと、自分の情けなさと、この立場で居る事の居た堪れなさ――そんなどうしようもない数多の負の感情に、苛まれていく。

 そんな中にあって。
“何の感情も伴っていない”ただそれだけで。

 ……毎朝届くその手紙自体が、自分にとって“安らぎ”になってしまっている事に、ふと、気が付いた。

 途端、そんな事がある訳が無いと己の中で否定が渦巻いた。渦巻いたけれどそれは、建前や強がりの類だともすぐに気付いてしまった。私は、この手紙があるから、まだ保っているのだと。絶対に信じたくなかった、その事実に。

 自覚してしまえば、脆かった。



 毎朝届く“主”の命が記された手紙。

 昨夜私は、その手紙に返事を書いてしまっていた。……何をしているのかと自分でも思う。それでも、万年筆を走らせる手を止められなかった。

 それに、書いても届くとは限らない。
 こちらから手紙を送り付ける術は無く、毎朝届く手紙と共に、置いておくしかないのだから。
 ……私が書いた返事の存在に気付いたとしたって、開きもせずに捨てられる可能性の方が、きっと高い。

 そう、思っていたのに。
 次の朝。

 今日もまた、いつも通りに“主”の命が記された手紙が届けられている。
 私が書いた手紙の方は、今はもう置かれていない。
 となれば手紙は“主”に届いたのか、捨てられたのか。どう扱われたにしろ、そこに「“主”の物とは違った手紙があった」事だけは、伝わっている筈である。

 やってしまったと言う気持ちと、安堵と、羞恥と、自己嫌悪。それだけの形容でも済みそうにない自分の中にある様々な感情が、心臓で早鐘を鳴らす。

 今朝の分の、主”からの命が記された手紙を、恐る恐る、開く。
 そこには。



 見た時点で、涙が零れた。
 私の書いた返事の手紙は、“主”に、届いていた。

 どうして。
 どうして、敵である筈の。今のこの苦悩の元凶である筈の、この“主”が。
 ……私の事を、私の心を、ここまで、わかるのでしょう。

 手紙の文面に書かれていたのは、黒真珠としてのこれまでの献身を讃える文言。
 板挟みになっての苦悩への共感――いや、私が何に苦悩しているかの、深い理解と、慰めまで。
 その上で、私の苦悩を理解しない奴隷達の愚かさや勝手さを誹る言葉。

 誰かに言って欲しかった言葉が、そこに全てあったのだ。
 ずっと一人で、全部抱えて、折れてしまいそうになっていた所で。
 それこそ自分勝手な事はわかっているけれど。
 一気に心が解れた様な気が、してしまった。

 ……この“ひと”と、もっと“話し”たい。

 そうすれば、私は。



 務めを終えて部屋へと戻り。

 今宵もまた“黒真珠”は“主”の手紙に返事を書く。
 そんな、新たな日課が出来ている。

 思い切って返事を書いてみたあの日から、もうどれ位経っただろう。
 今、朝に“主”から届く手紙には、命令だけなんて事務的な物だけでは無くて、もっと個人的な私への言葉も多く連ねられている。
 私の方で返事の手紙で伝えただけ、返してくれる。
 私の苦悩を酌んでくれる。
 丁寧に、真摯に。
 ナイトメアである筈なのに。

 ……寧ろ人間の方が、何もわかってくれない。



 手紙だけで何度も心を通わせ合う。
 直に会いもしないで。ただの錯覚。この事を誰かが知ったならそう言われてしまうだろうとわかっている。けれど、ただ目の前にある“主”からの文面がもう、“黒真珠”にとっては疑い様の無い真実。

 毎朝の手紙を読み返すだけで、心にほんのりと暖かいものが灯った気さえする。私だけの、夜闇のともしび。書き連ねる文言も、いつからか恋い慕う様な甘い言葉を散りばめ始め。“主”の側もそれに応えて甘やかな言葉が返される様になり。
 最早慕い合う男女の様な。

 遂には、返事の署名に口づけを添え、寝る前には“主からの手紙”にキスするのが日課にさえ、なっていた。

 こうなってしまえば、もう。
 自分から心を離しつつあった“奴隷”とされている人々の思いなど、どうでもよくなる。
 何とかここから救い出さなければならないなどと、要らぬ努力を続けていた私自身がどれだけ愚かだったのか。
 この愛情深い“主”の許に居られると言うのに、何故そこまで反逆しようとする?
 一思いに殺す事無く少しずつ精神力を搾り取っているのは、寧ろ“主”の温情だったのに。
 その多大なる温情を掛けられていながら、あの態度。
 どれだけ愚かで醜いのだろう。

 容赦の無い平手打ちの音が鳴る。

「いいかげんになさい。それだけ体力が残っているのなら黙って搾り取られていれば“主”様の為にもなるものを。懲罰が足りないのかしら?」

 張られる美声もまた、白から黒へと染まり行く。
 そして当たり前の様に、“奴隷”を張り倒したそこから引き摺り、備え付けの独房へと放り込む。より狭く、より劣悪な環境の。
 もう、ヤロスラーヴァは――否、“黒真珠”はその行為に悩む事は無い。
 愛する“主”様の為にと言う、新たな芯が出来たから。

 それはどれだけ晴れやかな心地になれた事だろう。
“奴隷”達の気持ちに心煩わせる必要も、ライセンサーとしての“正義”に囚われる事も無い。

 そう。“人間”である事にすら、拘る必要など、もう、無いのですから――……


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深海残月 クリエイターズルームへ
グロリアスドライヴ
2021年03月29日

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