崇徳院/下 〜新撰組五番隊【ひとくい】〜
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■シリーズシナリオ
担当:紺一詠
対応レベル:7〜13lv
難易度:難しい
成功報酬:4
参加人数:10人
サポート参加人数:4人
冒険期間:12月20日〜12月25日
リプレイ公開日:2005年12月28日
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●オープニング
愛しい人を、殺されて。
冒険者ギルドができるまえ、くらいだったかな。
伝承と化すにはまともにちかすぎて、しかし、まともに向き合っては癒えぬ傷口がひりついてしかたがない、それくらいの半端に過去の話。忘れてしまいたい昔語りですから、このあたりの人はたいてい隠そうとしますが――ちょっと調査が甘かったですね。
よくある話ですよ、新撰組ではね。不逞の隊士が脱退をはかり、この杜まで逃げてきたところで、斬り殺されました。刀をふるったのはそこの新撰組五番隊の組長、そして果てたのは五番隊の隊士で――私の好きな人でした。当時、私はすでに伍長の地位にありましたから。平隊士と伍長のつきあいじゃ、さすがに聞こえがわるいでしょ? だから脱けようとしてくれたんですが、あの人、口べただったから、ちょっとこじれちゃって。
‥‥でもねぇ、だからって、殺すことないじゃないですか。それじゃあ、終わっちゃうのに。
憾みましたね、すべてを。
自分も、自分が属するものも、それを組成したものも、世界中のありとあらゆる構成要素、なにもかもがイヤになっちゃいましたよ。
己の頸動かききってこぼれる血が地上をあまねく押し流してくれたなら、そうしたかもしれませんね。でも、けっきょくはなんにもできませんでした。それがただの犬死にだってこと、認められるていどには冷静だったんです。良きにつけ悪しきにつけ、それが私という個性ですから。
だから、夜叉に与太話を聞かせられたときだって、けっこう私は冷ややかでしたよ? 彼女から崇徳院復活のもくろみの主導権をうばえるくらいには、ね。
ええ。意外かもしれませんが、あらかたの手順は夜叉ではなく私が考案しました。そういうのは私のほうが上手だったんです。これでも、伍長ですからねー。知ってます? 夜叉の能力って、風聞を収集するのもその逆に拡散させるのも、じつに都合がいいものだったんです。夜叉は女性の負の感情に憑依する、けど、そんなのがまったくない女性なんていないでしょ? そして、この世に女性の存在しない場所はない。
卑弥呼をつかった攪乱、「ひとくい」の利用、ええと他にもなにかあったかしら? 私ってなかなかひたむきな性格だったんですね、こんなにもたくさんのこと、新撰組の従事をこなしながらやってたなんて、我ながらすごいかもしれない。
だって、もう根こそぎ、なくしてしまいたかったから。
――‥‥考えうるかぎり最低の、畜生にすらおとる手管で。
特に、私からあの人をうばった新撰組だけは許さない。離れるなんて、するもんですか。いちばんの傍で、そして、私自身が終わらせてやる。
そうそう、いつぞやはありがとうございます。もうけさせていただいて。こうして、あなたがたをおびきよせる資金にも化けてくれました。神木の弱体化、そっちはダメになっちゃったみたいだけど。まぁ、なにもかもが思い通りにいくなんて甘い夢はみたことありませんから。
報復しかあたまにのこらなくなった、あの日から、夢も幻も必要なくなったんです。
※
「‥‥おかしいな」
たがをはずし、滔々と語り続ける渡辺百合の口が、つと、ゆがむ。
たしかに崇徳院の復活はなったはずなのだ。しかし、雲霞のごとき狭霧のごとき暗鬱がつかのま蜘蛛手を広げたものの、それ以上の変動がたちあがろうとするきざしはみられない。痺れをきらし、刀剣にべっとりと張りついた血糊を一閃ではらうと、まるでそれが符号であったかのように、不帰のものとなった新撰組の隊士たちが、ふたたびこの世へ起動した。
ただし、以前のような生のともしびが、それらの眼窩にやどっていたわけではない。恣意のない身熟し。かた、かた、と、からくりをたたむように、死人は動く。動きたくてそうするのではなく、動かされて、動く。
「ふむ。無力化されているわけではない、と」
じゃあそれでいっか、と、渡辺はすげなく背を向ける。
終わるのも時間の問題でしょう。ここまで待ったんだから、焦ることはないですもんね。と、あの嘲笑、
「すっかり見届けたいところですが‥‥ちょっと他にも用件がありまして、私はいったん去らせていただきますよ。あとのことはよろしくおねがいします」
※
渡辺は夜叉すら道具として、見た。逃亡の障害として夜叉と死者を利用し、冒険者たちを棄てた。
だからといって、このまま放置するには夜叉なる悪鬼は危険すぎる。七枷伏姫の木刀が夜叉の右を打ち据え、左のオーラソードは一拍遅れて、脾腹を薙いだ。
「今は‥‥これだけでも‥‥」
「僕もいきますですよ。天劔絶刀!」
装束の下の、霊験の日本刀、露を断つかにすりあげる。月詠葵、彼の懇願と全力と重心は剣心一如――武神のみちびきをもたらした。その光陰には、虚ろのみ。末恐ろしいほどの孤独を模す――‥‥。だけど、流動の時はいつまでも凍ってはおられない。やがて、破裂するように亀裂するように、夜叉は冬早手をかたどる雪塵に等しくなった。
同様に死人をいなしながら、冒険者たちは後退を開始する。無力の女性をひとり保護している以上、もはやゆきづまりの奈落には長くとどまることもできず。
「あ‥‥」
「え?」
だが、歩みを止めたのは、高槻笙。思うところあった彼は、仲間に道行きをうながすと、ひとりその場で印を組む。ブレスセンサー。
「しばらくおいとまをいただけますでしょうか」
あまねく大気、あばけ、そして伝えよ。
――‥‥この杜に命脈はのこされているのか?
「生きています。いえ、正確には人間大の生物が、あの方角に一体あるというだけですが」
と、笙が指でしめしたのは、冒険者たちが向かうのとは正反対の見当。彼らがそれまでに存在したところだ。「ひとくい」たちの生き残りは怯えて散ったし、新撰組の隊士たちは渡辺が始末した。冒険者らも全員そろっている。では、いったい、なにが、誰が、のこっているというのだ?
「‥‥あの黄泉がえりどもののなかに、野口殿はいたであろうか?」
いっけん場違いにおもえる御影涼の自問が、しかし、核心へ触れかかる。
たしかに、野口は死人憑きとして彼らに襲いかかってきはしなかった。そして、復活したはずがたいして動きのない「崇徳院」。
「抑制――‥‥?」
●リプレイ本文
あれから十日近くが、経過している。彼女、弟を亡くした彼女、は、さすがに、この場へ連れてくることはできない。いや、それなら冒険者たちこそは、どうしてここへ来てしまったのだろう。報酬はなし、すでに依頼という形式からは離れている、義務でもなければ命令でもなく、糸の切れた妄執か、無限角の逍遥か――‥‥。
「シャラ殿がそばにいらっしゃるから、だいじょうぶでしょう」
シャラ・ルーシャラ(ea0062)が彼女のそばに付き添っている。みずからに幸運と退魔の陀羅尼をほどこしながら説く伊能惣右衛門(eb1865)は、どこか、安堵したようにそう云う。すくなくとも、シャラにこれからはじまるものは見せなくてすむのだから。
人数をひとり、いやふたり欠くは、たいそう不安があった。蘇芳正孝(eb1963)はこの場にいるものの、渡辺百合が戻っていないか見に来ただけだから、やはり戦力外。さしひきで残る八名、これだけでなんとかなるのか、いや、なんとかせねばならぬ、と決心、約定、ひきさかれはせまいと、
「ぜったいに!」
ミラ・ダイモス(eb2064)は青白い焔のような怒気に、長身をたぎらせる。許せない。利用した渡辺も――やすやすと手管におどらされた自分も、だ。
だから、彼女はここにいて、愛用の鎚をにぎり、金属のかたくなな冷たさを内面のいきれにとかしこむ。ぬくもり。生きていることは、とても、質素で単純で、だから、うつくしい。
「さぁ行きましょう!」
「‥‥急ごうか」
回転のずれたからくりを修正するために。
宇宙の極まるところはこうであろうと思われる、六道の辻からの分かれ道、黒き先を、先へ。御影涼(ea0352)の声音、根なくただよい星へ散る。
杜は、森。皿に盛った塩のごとく、しめった土とまだらな緑の凝った木立。ティーゲル・スロウ(ea3108)はひとつ、舌打ちする。彼の得意とする突撃の戦法は、直線と水平の地でこそ威を発揮するので、かように、樹木のまばらにはえるところでは通じにくい。
故国のイギリスという地もなかなか森林を愛する気風はあったが、ジャパン人のそれはくわえて、畏怖と崇拝の念までまじり、なにやら得体の知れぬ化生じみたところがあり‥‥。
いいや、はじめから欠損にとらわれるのは不吉がすぎる。ティーゲルは卜部こよみからあずけられた、魔剣「トデス・スクリー」の鞘、女性のくびれにそうするよう優しくなぞった。交換にこよみへたくした一葉はそろそろ新撰組の屯所に届けられた頃合いか?
と、なにやら思想の横滑りは、渡部不知火(ea6130)のそぞろ一言に止められて。
「あーら、おいでなすったわ」
花見の席の迷い鳥をむかえるがごとし、鷹揚な口調。それは、万力でもしめられるかに、だんだんとこわばる。
百年ぶりの廃屋からさまよいでたか。かつては浅葱だったこともある羽織は、ないところのほうが大きくなっているくらいで、かつてのあでやかな流線は無惨なぎざぎざにちぎられている。
不知火、二刀流、太陽にちかくは三条宗近、遠くは短刀「月露」をかまえ、踵を強くにじる。この地、この一点。守る。守れ。
「ちょちょっと軽くかたづけるから、大船にのったつもりで、とっとと進んでけ」
「かたじけない」
「おまかせします」
「行ってきますのです」
七枷伏姫(eb0487)は短く言葉と行動をきり、高槻笙(ea2751)はまっくらな漆色の睫を伏せて伊庭馨からあずかった剣をみやり、月詠葵(ea0020)はいったん立ち止まり律儀に礼をして、彼らは行く末へ。いちど蹴り上げるたび、小枝がぱきぱきと乾いた音をたてて砕けてゆく、冬枯れにせめがれる。
ミラの垂直に堕とす鎚は、死者の脳天をまともに銜えて、右へ切る。生も死も、破壊の瞬刻は、すべて均一にはかない。
「殺してやるよ」
おめぇらの上司も、かつてそうだったものも、ちょっと長めの休日ぐらい許してくれるだろうよ。
不知火のつぶやきもまた、塵へ還ることがただしいかのように、はかない。
シャラはふと、口ごもる。
対話と対話のはざまには、ときおり、思ってもいないまっくらな底なしがある。唄も夢もおもいっきり仕度していたのに、目をふさがれたよう、だしぬけにぱっくりと見えなくなってしまうのだ。それはもしかして、狼の仕業かもしれない。喰われちゃった、とか。でも、あぁ、それも、夢。
ええと、ええと、と真っ白闇のあたまをかかえていると、カヤ・ツヴァイナァーツが指でとん、とん、と肩をたたいて律動をとってくれたから、あたらしい音楽をよみがえらせた。リュートでその曲、ぽーん、と、かなではじめると、しかし彼女はうれしさ半分、とうとういぶかりを声にする。
「こんなところにいらっしゃっていいんですか?」
「‥‥やしゃがくるかもしれないですし」
と言ってから疑念は、雨雲が湧くがごとく、すぐに嵩を増した。来るのだろうか?
――‥‥たいせつな人を思い出せなくなっている気がする。とても近しい、誰か。忘れ物が、あったはず。でも、それの、名前、輪郭、触れたときの痛みも、はっきりしなくなっている。
それでも、質問は残酷にもかさねられて、
「ほんとうに?」
でももう、シャラは――‥‥どこへも行けない。ここからは、一歩も、動けない。
そして、奇しくも同じころ、正孝もほとんどおなじ科白を、別の他人からかけられていた。
「こんなところにいて、いいんですか?」
渡辺百合。来須玄之丞の手引きもあり、ついに追いつめた、と信じた正孝、だが渡辺は憑き物のおちたようなさっぱりした顔付きで正孝へ問い直す。
「崇徳院がそれほどかよわい霊だとお思いですか? どうせ新撰組からも追っ手のかかって先行き短い私ひとりに、お仲間を投げるという危険を負ってまで、かまけている場合ですかね?」
――‥‥そんな無力な存在に、私が賭けると思ってましたか?
かぎられた総体のなかでの役割の細分化はそのまま、ひとつひとつの効率の低下をしめす。この場にいる彼は、もはや、あの場でなにがあっても支援することはできない。
正孝の背を、ねばりけの濃い汗がつたう。
反転する、うらぎられたような心持ちで、でもいったい、なにがなにを欺いたというのだろう。渡辺の捜索は、彼自身が選んだ道すじ。だのに、胸をくるわす焦燥は、己の眠りを殺した背信者のもの。
「あぁ、せっかく来てくれたんですから、おみやげありますよ。これでせいぜい、がんばってくださいな」
渡辺のよこした木剣を、意志なく自動的にうけとって、彼は杜の方角に駆け出す。それに霊的な作用があったことを知ったのはずいぶん、あと、で。
なにもかもがておくれだったとき、で。
そこへたどりついたときの心向きをたとえるなら、鏡の迷宮からの脱出。しかし、出口は入り口で、よじれた輪っかの堂々巡り、悪夢は終わらないから悪夢である。冒険者ら、神木にもたれる野口をみとめると、迷わずそこへたかった。
「‥‥崇徳院は? 憑かれていたりしないでござるか?」
「憑かれてますよ」
てきとうな腹芸もみあたらず、愚か者が懺悔するがごとく莫迦正直に状況をたずねた伏姫だが、野口からの返答がまたあんまりにも真っ当だったものだから、はっきりいって、気が抜けた。木刀へよせた指、するりと空回りしたくらい。
「私は、たかが霊ごときに繰られるほど、やわな精神の持ち主ではないつもりです。しかし、」
かっ、と、冷たいもの、雨をうけたがごとくぱらぱらと、近付いた笙の手にかかる。でもそれは、水滴ほどさらりとはしていないし、色も匂いもだいぶ濃い。
「‥‥こればかりは、どうにもなりません。内部から浸食されては、抵抗のしようもない」
血。喀血。
野口の制止もふりきって、惣右衛門が治療をおこなったが、いったんはたしかに完治したはずだのに、野口はふたたび血を吐いた。惣右衛門は二度めを、野口は三度めを。――きりがない。
「手持ちの煎じ薬でどうにかやりくりしてましたが、これが限界のようです。こんなことを正体のしれぬやからにおねがいするのは気が引けますが‥‥私の意識ももうとぎれる‥‥だから」
おねがいしますよ、と、糸よりかぼそく、そう聞こえた気がする。でも、たしかめられなかった。ざわりとぞろめく蠕動が、そこいらを、縦へも横へも奥行きへも、わけへだてなく霧となってひろがっていったから。
崇徳院。怨霊体。
伏姫がオーラソードを現出させるあわいを、涼、術遣いには、波状攻撃で――ティーゲルがそう云っていた。さらば、詠唱を断てるだろう、と。笙が、はざまに、野口を戦線の外へはこびだす。そんな作戦だった。
しかし。
ぬばたまは、彼らの思考を上回る速度で、冒険者たちのまえに立ちはだかる。笙の目は自身の色より暗くなり、自身の腕もとらえられず――もちろん、野口も見失う。
何故だ? 術のたちあがりがはやすぎる――虚をつかれるが、思いついてみれば、種明かしはまことに単純なもの。
「高速詠唱」
高位の呪術遣いには必須とされる、その技倆。たったひとつ、それだけで、集中は省略できる。――‥‥どうして、誰も考慮していなかったのか。
てのひらのすきまから、数式がくずれてゆく感覚がある。攻撃さえ連続できれば術は封じられると信じて、対策らしい対策をほとんど用意していなかった。ダークネスを融解できたことさえ、まにあったティーゲルがホーリーライトをつかえるという偶然がなければ、どうにもならなかった。
いらだち。黒の神聖魔法には、他になにがあった?
「でも!」
冒険者らにはしった動揺をくだいたのは、葵の叫喚、葵の剣術、葵の行動。
彼は子どもだ。己ではちょっとしか認めたくないけれど、まだまだ子どもだ。育ちすぎたがゆえのためらいにもかけひきにも縁はない。
「僕たち、決めたのですから!」
飛行する――霊体には足がないのだからしかたがない――崇徳院へ、葵は下からのびあがるように、切り上げる。斬り筋は晴れた空に似て、真っ青。得意の天劔絶刀は後を先へと、力場の転換をもちいた、相討ち技。
「葵殿のいうとおりでござる。もう、引けないでござるよ!」
伏姫はようやく闘気の魔剣、てのひらによびさました。光る剣を二分の一ほどまわすと、同じだけの弧が、刃の波へかたちを変える。花片に似て散るのもはやいが、それは確実に、崇徳院の霊体をざっくりと切った。よし、と充足。伏姫は神木のほうへ駆ける。これを守りつづければ、あるいは崇徳院は
行ける、と信じたときもある――けれど。
葵、いっしゅん崇徳院と接触したところへ、氷をねじこまれたような、魂のいっぺんにぬけてゆくような、生々しくもきみょうに冷やっこい感触がのこる。しかしそれは目を閉じるまもない刹那のことで、べつだん葵は怪我もおっていなかったし、それでなにか変わったことが起こるわけでもなかった。
惚けている間はない。次の斬撃にそなえ、刀を心にもどしたとき、頭をめったやたらに殴られたような深淵に突如、さらわれて。立ちくらみ。
夢を見た。
夕闇にまなこがついている、牙も、腕も、名状しがたい数の器官がことごとく葵をつけねらっている。葵は懸命に剣をふるって応戦したが、あんぐりとひらく暗闇へ、どこまでも転落の一途。
なにかつかめないかとのばした指先をなでたのは、葵の左の瞳、真紅の眼球がいつのまにか彼を離れて冷ややかに見下ろしている。
「‥‥あ」
シャラのつまびくリュートの弦が切れ、ぷちん、とはねあがる。しなった弦は剃刀のうすい刃そっくりで、シャラの白い指をはじくと、赤く細い傷跡をのこした。
疼痛。
傀儡回しが、終演する。
――ごとり。葵の軽い体は全体で地をはたいても、やはり震動は大したものでなく、まるで紙の束をばらまいたようだった。
惣右衛門はだらり、と、たよりなく、片方に数珠をにぎる手を下ろす。彼の癒しが、すでに、とどかないところへ葵は逝った。‥‥わずか十二歳の葵が、五十七歳の惣右衛門をさしおいて。もしもを信じて数珠をかかげるが、冬のくぐもった照り返しが、玉のぐるりをのろのろとめぐっただけ。
己の幸運も庇護も、分け与えられるものならば、腹を切っても、喉を裂いても、やりたかった。けれど命は――なにと引き替えにしても、命はもどってこない。惣右衛門の術力は、まだそこまで、達していない。
デス、それがつかわれたことは明瞭。しかし、葵はまったく魔法をつかえないのだ。デスの犠牲からはもっとも縁遠かったはず。
だが、思考せよ。黒の神聖魔法には、相手の精神を強制的に減衰させうる方術があるではないか。
メタボリズムが。
――‥‥崇徳院が「黒」の僧侶であったという事実に即せぬ采配でいどんだのが、最大の敗北の原因だ。祈り、望み、願い、夢、をむやみに集めただけでは、そも崇徳院はそれらを掃滅するための意識体、かなうわけがない。
「ひきあげる!」
ティーゲルが、灰は灰へ還れと説く彼が、
「葵を死なせてたまるか!」
死者の蘇生は一時間以内とかぎられているし、蘇生治療可能な僧侶はあまりに少なく、ここらの界隈には存在しない。一刻もはやく寺院へ連行せねば、幸い、ティーゲルはホーリーライトを行使できる。なりふりかまわずの撤収だけならば、さほど難しくはない。
「ならば、野口さんもいっしょに‥‥」
笙の案、しかし途中で切れたのは、涼が彼の肩をとどめたから。
冒険者らと野口、真ん中を割る存在が崇徳院で――‥‥、
「あきらめろ」
涼は、云う。涼が、云う。
抑圧された感情を殺すと、身をけずるのとおなじ、唇から血がおちる。舌を‥‥いつのまにか咬みきっていた。
「頼む、あきらめてくれ。俺もあきらめる、今は」
これ以上、誰も死なせたくない。それだけをよるべに、ここへ来た。‥‥しかし、葵は斃れた。ならば、涼の懇願をダメにすること、どうして笙にできようか?
笙がうなずくとき、小さな動物がおびえるよう、空気とともにふるえている。
――正孝が合流を果たしたのは、冒険者らが杜をでてすぐのことである。
波に洗われたごとくまっさらな顔色の葵の首が、生きているものにはありえない方向へねじれている。正孝の手から木刀がすべり、地上でまわる。二度の回転ののち、それはいつまでも停滞と静止の峡谷へとりのこされる。
後日。
葵が環魂をすませたその足でふたたび杜へむかうと、神木は倒潰し、人喰い地蔵は持ち去られ、野口の骸すらみあたらず、うつろな戦痕ばかり、くりぬかれた眼窩に生き写しに、すさまじい。
「私はまだなにも訊いていなかったのです‥‥」
笙は拾い上げる、誰がつかっていたのだか銹屑と化した誠の鉢金、それが答えるわけはなく、もちろん沈黙をあとへなびかせているだけ。