山城国の溢れ者 【三】

■シリーズシナリオ


担当:紺一詠

対応レベル:8〜14lv

難易度:難しい

成功報酬:4 G 15 C

参加人数:8人

サポート参加人数:10人

冒険期間:05月18日〜05月23日

リプレイ公開日:2006年05月27日

●オープニング

●是界坊、火鬼
「どちらへ行かれるのですか」
 ――火鬼の問いに、白狼天狗が是界坊、くちばしからひらかれるわりにはひたひたと沈む声で答えることには、
「愛宕山」
 京都盆地の西北にそびえ、その周囲の山岳としては最大の標高をほこる。古都の背山。山頂にまつられる愛宕神社は火伏せ・防火の神と名高く、三歳までに参詣すれば火難をのがれると言い伝えられることもある。ちなみに、愛宕山を住処とさだめる天狗・栄術太郎をよく知らぬもののなかには、愛宕神社の祭神と彼をごっちゃにするものも大勢だが、いちおう両者は別物だ。まぁ、ろくでもない豆知識。
 そして、なによりも――是界坊の生地。
「どうして」
「‥‥彼が、云っていた」
『あんたが留まれば、あんたの山の天狗達全てが、人と黄泉人との戦いに巻き込まれる事になる。それでもいいのかよ? せめてさ、山城に戻って太郎坊にそう告げるべきだ』
「そう思うから」
 そのとき、火鬼の、愛し姫の、終焉の姫君の果てた心は、たじろいだ。
 愛宕山は、まずい。修験者に天狗どもがうようよするあの地は霊場であり、法力――具体的にいえば、オーラに神聖魔法――に満たされている。不死者にとってはあべこべに命沙汰ともいえよう。
 火鬼を名告る彼女だが、べつに火焔に対して特定の能力をもつわけではない。ただのもじりなのだ、「人の心をあおるのだから、火鬼でよかろう」とあの人の云った。彼女の得意は、黄泉人とちがいそのままでも人と違和のない肢体でもって人にまじわり、とろけるようにいざない、光ささぬ地下に連れてゆくこと。じかの兵戈は不得手でもないが、愛宕山の多勢をいちどきに相手できるほど、達するわけでもない。
 是界坊がそれをけどれぬとも思えないから、連れて行くといったのは、彼等から守りきるとの意でもあったのだろう。
 ――それも、困る。
 是界坊に傷が付くではないか。不死者の仲間にしてもよいが、そうなればあちらも今以上の本気になりかねない。考えてないこともないけれど、できれば最後の手段にとどめておきたい。
「ですけれども、急がなくともよろしいのではありませんか?」
 時間さえ、かせげれば。そうすれば、いくらかの手勢はしたくできる。いいや、愛宕山ともなればあの人が自らのりだしてくるかもしれぬ。彼の人ならばなにか他に妙案をうちだせるかもしれぬ。彼の人の名は、千方将軍。
 火鬼は猫があるじに甘えるように、火鬼の胸元へしきりに頬をすりよせる。
 是界坊は、白狼の面相の天狗は、なにごとか返そうとしたが、ついに止めた。はばたいたときとおなじ、綿の舞うよう、すべらかに着陸する。
 そして青い空には、まっしろい鳩が一羽、飛んでゆく。
 まっすぐに――研いだばかりの刃のように。

●愛宕山太郎坊
「‥‥んやねん、こら」
 さて、愛宕山の太郎坊。
 羽黒坊、彼の近習ともいえる烏天狗を、ふりかえる。
「どうしたらええやろ?」
「‥‥」
「云うとおりにする、って、そうちゃうやろ。わいはもっと生産的な、なぁ」
 ――むなしいので、やめにする。
 自分は天狗で、それも嗣子の「太郎」の名をあずけられた、愛宕山太郎坊だ。彼等を頼るのではなく、ひっぱってやるのが自分だ。それがああだ、こうだ、と、ばたばたやるのはみっともない。彼が今とまどっているのは手元にとどけられた書状の故だ。
『行く』
 と。それだけ、素っ気なく。いや、日付けぐらいはしたためてあったのだけれども。
 ――愛宕山の配下は口不調法なものが、多い。
 まず、まちがいない。と、太郎坊は判じた。筆跡のことだ。筆の持ち方からして教えたのは太郎坊、飽きるぐらいに霞の命でいままで眺めた成文ども、見分けられぬはずがない。
 冒険者に、正確には羽黒坊をなかだちにしてだけれども、成り行きのことは聞いている。金房のことだが、まだ奪還はなってはおらぬ。しかし、是界坊についているのが愛し姫と断じられなかったのは彼の落ち度でもあったのだし(と、彼はかんがえた)、冒険者たちを咎めようとは思わない。
 いやむしろ、優しいものたちだ、とも思っている。
 ――力尽くで戻そうとしなかっただけ。
「‥‥いちお、冒険者に連絡してみたほうがええな。頼むわ」
 ギルドへ羽黒坊をむかわせると、愛宕山太郎坊、彼の山をかんがえる。
 いったい何をしでかす気か、さっぱり見えてこない。不死者に焚きつけられて、愛宕山でも攻める気か。天狗のこの山へ(しかし、実際には天狗の眷属の総数はそれほど多くはない。併せて十超えるか、超えないか)。しかし、大和でもないこの地でそんな大がかりな悪巧みをしかけてくるとは思えぬし――‥‥。
「あかん。戦うこと前提にしとるわ」
 しかし、それを否定できぬこともたしか。愛宕山には一般の参拝者も多い。彼等に危難のおよばぬようにしたいが、天狗はもともと人と積極的なまじわりをのぞまぬ種族だ、積極的な交渉はさけたい。それに、追い払ったとてすなおにそうしてくれるか、どうか。では、有事がおこったなら、地理に長ける天狗たちはもしもの避難や誘導の役のときにまわそう。もしものときは冒険者を軸に――ということまで決めて、太郎坊は「‥‥あぁ、ほんと。しんど」ばたばたと羽団扇を揺らつかせ、初夏めく陽気を追いやる。

 風、

●今回の参加者

 ea0858 滋藤 柾鷹(39歳・♂・侍・人間・ジャパン)
 ea2562 クロウ・ブラックフェザー(28歳・♂・レンジャー・人間・イギリス王国)
 ea3167 鋼 蒼牙(30歳・♂・侍・人間・ジャパン)
 ea3900 リラ・サファト(27歳・♀・ジプシー・人間・ビザンチン帝国)
 ea5796 キサラ・ブレンファード(32歳・♀・ナイト・人間・エジプト)
 eb0524 鷹神 紫由莉(38歳・♀・志士・人間・ジャパン)
 eb1865 伊能 惣右衛門(67歳・♂・僧侶・人間・ジャパン)
 eb3225 ジークリンデ・ケリン(23歳・♀・ウィザード・ハーフエルフ・フランク王国)

●サポート参加者

藤野 羽月(ea0348)/ 鷲尾 天斗(ea2445)/ 逢莉笛 舞(ea6780)/ シャフルナーズ・ザグルール(ea7864)/ ガイエル・サンドゥーラ(ea8088)/ 水鳥 八雲(ea8794)/ パウル・ウォグリウス(ea8802)/ リュヴィア・グラナート(ea9960)/ アンリ・フィルス(eb4667)/ レオーネ・オレアリス(eb4668

●リプレイ本文


 少し以前の寸話。
 キサラ・ブレンファード(ea5796)の矢の如しに降ろす、十二神将の加護きざまれる真剣を、それをパウル・ウォグリウスは薄皮一枚ではじいて、真っ赤にしぶくのは血潮でなく、彼等ふたりの襟髪、一抹。
「‥‥できる」
 と、キサラ。
 もう結構だ、と。
 自分は愛しいものを斬れる。確信したらば快刀はさっさと片付ける、活動は好きだが、刀の手入れはそれほどでも。
「おっつかれー」
 と、水鳥八雲のてわたす布切れで額をぬぐう、そうそう、その八雲の座右の銘は「下克上」だそうだけれども。
「下克上って、寝所で上下をひっくりかえすことだっけ?」
「知らん」


 愛し姫(はしひめ)とは、すなわち橋姫。鷲尾天斗のもちこんだ百鬼夜行絵図に描かれるのは、藁火をふりみだす醜悪な鬼女。
「似てねぇな」
 とは、クロウ・ブラックフェザー(ea2562)、みみざとい鋼蒼牙(ea3167)が横合いからぬっと、「これが京に来て初めての依頼だから」と記録に目を通していたときとおなじ真面目な口元で、
「そうなのか?」
「もっと艶っぽいってゆうのかな」
「そりゃぜひともお目にって、いや、」
 鷹神紫由莉(eb0524)が青い瞳を冷たくのせているのを悟った蒼牙、がほ、と、いがらっぽく喉をふるわせると、ふたたび記録に首っ引き、のそぶり。紫由莉、しばらくは蒼牙に目を留めていたけれど、やがて、あまりにそのまま真剣な彼に、ふぅっと頬ゆるませると、
「じきにお逢いできます」
 陰陽師や異国の踊り子ならば占術によってけどるものを、紫由莉は感応で語る。いや、それは空中楼閣よりはもうすこしたしかだ、土台は過去の巡り合わせ。クロウもおなじで、否、彼の場合――‥‥、
「ばぁ」
「うわぁっ!?」
 出た、なにが、シャフルナーズ・ザグルールが。どうして近寄ったものだか、クロウのうしろからずずいっと音もなく近寄れば、彼の胴へまきつくように腕を伸ばして、耳朶をかぷりとお菓子でもついばむように。
「魅了持ちが今日の相手なんだって? 特訓しに来たよー」
「いらねって。どこ触ってんだ、変なもんあてんな、おいしくいただくなーっ(クロウを)」
 おもむろに放置。
 リラ・サファト(ea3900)が頬に朱を散らすのを、藤野羽月が慰めたりなどしたりして、さて本日の謎へと返ろうか。
 同行者、愛宕山太郎坊。これだ。屈強であるのはまちがいないが、まぁ、めだつ。天狗のときなら、尚更だ。だからキサラは彼にまるごとおーがを着せて――なお悪目立ちしかねないんじゃ――影武者を立てようというのはうまくゆかなかった。太郎坊、面にでも彫りたくなるような高い鼻に赤ら顔、しかしそういう天狗は愛宕山には彼ひとりきり。残るは烏天狗、白狼天狗。人身ならば? それなら少ない天狗族から引くより、人間から選り出したほうがいい。
「わいは生まれも育ちも特別なんや」
 太郎坊の云うことは、事実だ。烏天狗にしろ白狼天狗にしろ他の生物とおなじように、同種交配から誕生する。しかし、純の天狗というのは――これはいつか語られることもあるであろう、遠い御伽噺。
「似てるんゆうたら、まだ伊能のじいさんちゃう?」
「わたくしですかな」
 いきなりの名指しにも、伊能惣右衛門(eb1865)は動じることなく、朗らかにくつくつと。
「わいもなぁ、ずいぶん長生きしてもうたし。じいさんみたいに、隠居と洒落込みたいわ」
「さて、どうですかな。この老体は草隠れできず、こうして京まで出てきてしまいましたが」
 ――あぁ、それからほんとうにいろいろあって、今日の日付は仲の夏、惣右衛門は硝子作りにも似た黒い目、ゆらぐ大時代の底を見据えるように細くさせた。
「崇徳院が呪詛を行わせたとの噂にて事が始まったも、この愛宕社でございましたなぁ‥‥」
「せや。よぅ知っとるな」
 ほんとうにいろいろあって、ここに天狗と人がいる。
 そこへ、愛宕山の中腹あたりの天狗族の隠れ里へ、戻ってきたのは、闇色の捩りを鎧のおもてからかぶせる偉丈夫。
「いる」
 滋藤柾鷹(ea0858)はいっぺん愛宕山をめぐってきたあとである。
 いる、とは、愛宕山の参拝客のことだ。愛宕神社は、津々浦々の愛宕権現の総本社。樒と護符をもとめる人々が毎日山道を――ひっきりなしの蟻の行列ほどでもないけれど。ほどよい閑散、というのは、指向性を欠く分、ひょっとすると満杯よりたちがわるいのかもしれない。
「わざわざ遠くから来て、この日をえらんできてくれたこと思うと、帰れゆうのもどうもなぁ」
 惣右衛門、愛宕神社の宮司に祈祷をひかえるようの交渉をすすめたのだが、太郎坊なぜか気乗りしない。
「どうしてだ?」
 キサラ、不穏を感じ語気を強めた問い。太郎坊、どこかを見晴るかしながら、
「‥‥ときどき浄罪、掠めてるさかい」
「あら。よろしくありませんわね」
 ジークリンデ・ケリン(eb3225)、ぱたりと閉じる。フォーノリッヂの経巻。高位の呪符はたったの一度ですら気疲れもはげしい、それを数度ももちいた彼女、坂道のようなゆるやかな眠気が這い上がるのを、まぶたをこすりあげて支える。すると、平生凛とするジークリンデにも、年相応の十八のいたいけさが焚きしめる香のよう、ほのかにけぶる。
「人の姿がみえました」
「どんな?」
「小さい‥‥パラのような‥‥」
 ――黄泉人はパラになってやってくる、ということでしょうか。
 それが黄泉人である明証はなかったけれど、せっかく見たのだから。ジークリンデは予見に浮き出た残像を思い返し、返し、伝える。触れるごとに剥がれる彫刻のような、一刹那は思案するたび、ほろほろとくずれていって。


 山城国の北部というのは、人外のみに絞ってみても特異な地形だ。愛宕山からさして距離のない鞍馬山、平良山にもそれぞれ天狗が――ジャパンが小さな島国だといっても、天狗がこんなにも揃うのはここぐらいだ――そして、比叡山にはただごとでない鬼が棲む。
「要するに、黄泉人だろうが簡単に大攻勢かけられるってわけじゃねぇのか」
 ややっこしいぜ、と、クロウ、独り言。幻妖同士の陣取りはともかく――柾鷹はガイエル・サンドゥーラから知らされた黄泉人なる存在について、思いめぐらす。死人憑きの生成、人への擬態、軍勢を組む知恵――どこか異国の吸血鬼を思わせて、そのときの回想が、彼、柾鷹の脳裏、荒野のような辻風がさかまく。
「ごめんなさい。やはりよく分からないみたいです‥‥」
 金貨を揚げる指を下げて、肩までがくりと落とす、リラ。人に化けることもできる彼等だ。それに、愛宕山は山城国でいっとう標高が高いことからも分かるように、鬱蒼とした根深い森林もひろびろと張っている。白日のとどかぬところも、多い。
「しかたがないことだろ。それより、休め」
 羽月、命令形すら駆使せねばならぬほど。
 ――それにくわえて、リラ、愛宕神社にいたる参拝客を逐一かぞえあげていたのだから。黒虎部隊隊士である紫由莉、彼女を通じ、黒虎部隊隊長・鈴鹿紅葉の介添えでいくらかは少なくなってはいたが、焼け石に水のようなもので、大河をさらうようなむなしさ。
 ときたまリヴィールマジックも入れて、ジークリンデの示唆したパラを中心に、しかし、これもなかなか。焦躁からは太い線で切り離されたようなリラにも苦い汗がにじむ。
 が、それがふと、ひんやりする。風が冷ましたか? それと入れ替えて知るほどに、羽月の気配は静謐で、かさねられる手はあたたかいのに、冷たかった。
 その日。
 ためしに逢莉笛舞が愛宕山の山辺やらまわってみたかぎり、太郎坊の評判はさほど悪くない。よく知られていない分、畏怖のほうが高い。後日、彼に吟味してみたところ、そのへんの無名の妖怪の功業、隠れ里のものまで動員して自分のものにしてるらしい。ほぅ、と蒼牙、さも感心したというふうに、
「オーラ使いとしちゃあ、戦術までふくめて、見習ったほうがいいんかね?」
 そんなせこいの、しなくていい。
 ――山は、青い。
 空も、青い。
 ジークリンデ、目隠しにひそむ隻眼はそれらよりもいっそう青く。空にかける望遠が、しかし、水をさしたように僅かにゆがむ。
「‥‥いらっしゃいました」
 あのときを、さかしまにしたように。
 天伝う狼面一体、捻るようにだんだんと大きくなる。インフラビジョンを使うまでもなく分かる、微熱すらともっておらぬ腕の中の婦女とともに、すぃっと降り立った。
「火鬼と申します、太郎坊様ですね? すぐに分かりました」
「おぉ。で、なんや?」
「是界坊様と親しくさせていただいております。引いては、太郎坊もごいっしょいただけませんか?」
「断るに決もうとるがな」
 あきらかに控えた冒険者らのことなぞないよう、淡泊に、けれど散々な対話。
 紫由莉は、それを横から見入る。すでに、太郎坊に火鬼の仔細は伝えてある。――不死者に真の心があると到底思えず。だから太郎坊、こんなにも一散に火鬼よもや太郎坊、そうたやすく魅了には屈しないだろうが――あれは魔法とちがい発光がない、油断はならぬ。片方の横には、惣右衛門、合わせて四つの涙あるところから逃れられる不実はあるまい。
「では、」
 火鬼は息継ぎして、
「私が是界坊様を殺すと申し上げたら?」
 ――蒼牙が、動いた。
 腕首が宙の波線をなぞる。ひろげた五指より練力がどぅと放たれる、海鳴りのとどろくような。
「吹き飛べ!」
 寸秒、詠唱の隙すらはさまず、火鬼の張った薄壁を木っ端微塵に飛び散らせる。すかさず柾鷹が二重の剣技、相州正宗、霞刀、琴瑟は相和する。
「化けの皮が剥がれたか」
 誠意があれば逃がしてやってもいい、と、考えていた。
 けれど、火鬼は――愛し姫は――地下への還り路をうしなった哀れな迷霊とは、そもまったく異なるのだろう。不死者の旧怨だけを、見た目だけは愛らしく、中身はいっそう不穏を高めて。もしもの仮借をうちに入れていた分、柾鷹の腹立ちはとぎすまされて、炎を食らう刃がごとく、すさまじい。
 一方で、
「なんで、あんた逃げないんだよ!」
 棒のごとく突っ立つ是界坊に、クロウ、呼びかける。是界坊を質にとられて、太郎坊、思うように動けない。
「俺はあんたの目の前でくどかれたんだぜ。おまけに、今、あんたは殺されかけた!」
 クロウは事前に、火焔の庇護を受けていた。ジークリンデのフレイムエリベイションの解放で、しかし彼の意相はそれよりもっと灼熱をきわめる。ひたむきが、熱い。煽られるのは、紫由莉である。
「是界坊様、貴方を愛し心配する仲間もいると考えて戴けませんか」
 火鬼のつむぐ黒の術式を、剣戟の音。近く、遠い。
 惣右衛門が、
「是界坊様」
 と、短く呼びかけるが、
 しかし、それでも是界坊は縫われるように、そのままの。
 ――火鬼、ふと歩みを換えた。思い出したようにクロウの傍にすりよって、
「かわいい子、あなたはどうするの?」
「行くかよ!」
 クロウが撥ねる。柾鷹が追う。
「仮にも惚れた相手の前で他の男に粉掛けるはいただけぬな」
「私の愛は、死のように、公平無私なだけです」
 ねぇ、是界坊様、と火鬼の云うくらいに。
 是界坊がようやく、すべる。
 分厚い刃がもぐる――、
「‥‥ぜ」
 火鬼の胴に。
 木戸を閉じるような音がする。
 ジークリンデがほどいたばかりの呪符の紐を結ぶ。コンフュージョン――狂乱。
「‥‥謝りません」
 頑ななものは脆く折れ易い。私、残酷でしてよ、と内心うそぶいて、 けれど、ジークリンデは痛々しげに目を伏せる。
 いや、火鬼はとどまらぬ。是界坊の剣には気がなかったのだ、蒼牙、彼の代わりにとどめを。闘気の矢玉を打ち込めば、容赦なくえぐる。割れる不死者からは、血も夢の一滴も滴らぬ。
 ――気が、抜けた。
 けれど、
「おい! 終わっちゃいない!」
「そのとおり」
 キサラがそれまでいなかったのは、山の監視にあたっていたからだ。猟師の勘がそこには悪意が潜みやすいと云っていたから、リュヴィア・グラナートがグリーンワードで語りかけたときも、草木は屈託多くなびき、たしかに悪心はあった。
「見事だったぞ。おかげで私は大事な手駒を失った」
 パラの輪郭の。
 小柄な。けれど、内に包む黒々とした発意ははなはだしく、もとよりオーラをたずさえぬキサラには荷が勝ちすぎた。死人憑きだけならまだしも、ここまで逃げて、駆けるのが、せいぜいで。
 あ、と、惣右衛門の喉を渇いた旋風が荒らす。
 かつて愛宕山は――崇徳院を――。
 惣右衛門は、名を、いつか崇徳院の怨霊やどせしものの名を、
「残念だが、そなたの思う名ではない。私は、霧生千方だ」
 前、新撰組五番隊隊長の名を。
 千方が、走る。それは軽く太郎坊を通り過ぎ、彼の手から羽団扇を抜く。
「‥‥ま、手土産だ。交換に、山城国兼房は置いていこう。私が帰るまで、動くな。死人憑きが参拝客を襲うぞ?」
 千方はゆっくりと山を下りる。
 あとに、冒険者が残される。身動ぎすら、ゆるされなかった。


「いろいろあってさ‥‥もっと強くなりたいんだ」
「いろいろって、女関係?」
「そ、それをどこで。ってゆうか、そうじゃなくって!」
 クロウ、ぜぃと息を継ぐ。ほんとうにたくさん取り取りのこと、苦心、悲嘆があって――いつかの志望、キサラも思い返す。
「そういや、私のは?」
「む‥‥」
 太郎坊はひとしきりあごをなでると、
「愛宕山八天狗社ゆうんがあってな。わいの親衛隊みたいな、ひとりもおらんのやけど。せやな、人界でえらい名をあげたら入れたってもいい。ま、もう、弟子みたいなもんやけど」
「でも、太郎坊さんってほんとうに強いのか?」
 ひたりと寂寥――蒼牙、悪気はない。
「けっきょく間近で見れなかったし。気になってよ‥‥いきなり羽団扇すられてるし」
「来てみ」
 ごにょっとつぶやく蒼牙に、太郎坊、人差し指でまねくものだから、蒼牙はすなおにしたがう。むろんただ行くのでない、彼の得意の散弾で、だが生粋のオーラ使いのまえにそれははかなく――レジストオーラ――、高速でそれだけをやってのけただけでなく、瞬発、蒼牙ののど仏にかぁんと杖を突き付ける。
「‥‥分かった」
「でも、あんちゃんもえらいで? わいは二刀流でけんし」
 千方はあっけなく去った。リラの必死の監視はあまりむくわれなかったようでもあるが、いいや、それは単に千方がすりぬけたということ。網の目をすりぬけたからといって、網の存在がムダなわけでもない。
 その、リラがまもった山を、是界坊は下りるという――物理の移動ではない。彼は放浪の修行に出ると云った。
「行かれるか」
 柾鷹の発問に、是界坊は、ひとつだけこっくりとうなずく。心を磨きたいという、彼の思い、沁みるほどに理解する。柾鷹も武人なれば。
「‥‥彼の人は強くなって帰ってこられるのでしょうか」
 紫由莉の独言が花びらのように舞い上がり、青空に溶けてゆくのを、ジークリンデは、仰いで、見る。