【鎌倉藩】我が君よ

■シリーズシナリオ


担当:言の羽

対応レベル:11〜lv

難易度:難しい

成功報酬:9 G 95 C

参加人数:8人

サポート参加人数:2人

冒険期間:06月08日〜06月14日

リプレイ公開日:2008年06月20日

●オープニング

 初夏の折、照る日の強さも長さも、日々増していくばかり。
 閉ざしていてはこもる熱気を外へ逃がす為開け放たれた、数々のふすまと障子の奥で。
 鶴岡八幡宮の主である大伴守国は、鎌倉藩藩主嫡男、細谷一康と、顔をつき合わせて話をしていた。
 そもそも、目下行方不明中であるはずの一康が何故、鶴岡にいるのか。これについては、一康による説明を含めてまとめると、以下のようになる。

 ◆

 久しく病の床に伏せっていた藩主‥‥つまり父親は、起き上がる事さえ苦しがるほどだった。それがある日突然、筆頭家老の向野靖春を伴って一康の前に現れた。
 だが、回復したのかと一康が喜んだのも束の間。
 今までまったく回復の兆しを見せていなかったのにも関わらず、このように歩き回れるようにまでなったのは、一康がいなかったからだと向野が宣言した。
 一康が盗賊討伐の為に五日間屋敷を離れたその間に、病が嘘であったかのように初めて藩主の病状がよくなった――つまり、藩主がいつまでも快方に向かわなかったのは一康のせいである、と。
 仮に毒でも盛っていたとすれば反逆である。そのような事は万が一にも無いと信じるが、一応取調べを受けて頂かねばならないとして、向野は連れてきた部下達に、一康の身柄拘束を指示した。
 暫し呆然自失とした一康であったが、かねてから疑念を抱いていた向野に縄をかけられるのは我慢ならず、一歩退いた。おのれを縛ろうとするのが藩主の言葉でないことが不満であり――藩主は向野のすぐ隣にいるのに一言も発しなかった。
 突然の事で奪われていた思考能力を、より早く取り戻したのは一康ではなく、一康についていた教育係の雉谷長重だった。
 何かがおかしい。
 このまま大人しくしていれば、一康も雉谷も捕らえられる。そうなってしまっては、向野に命を握られたも同然だ。ではどうするか。雉谷に迷いは生まれなかった。
 自分を盾にする事で、一康を逃がしたのだ。

 一康は走った。人の気配を感じては隠れ、また逃げた。
 向野を信じられないのであれば、役人に見つかるわけにはいかない。頼れそうな人物は一人しか思い浮かばなかった。鶴岡の神主。
 しかし、迂回に迂回を重ねてたどり着いた鶴岡にさえ、役人の姿があった。
 一体どこに行けばいいのか‥‥向野が余り近づかず、役人の目から逃れる事ができて、いずれは鶴岡に気づいてもらえそうな所‥‥。江の島にある小さな社、弁財天を祭ってあるという鶴岡管轄のそこを、目指した。

 江戸の冒険者ギルドに守国からの依頼書が張り出されたのも、この頃である。
 集った冒険者達は各々の手段で情報を集め、一康が江の島の社にいる事を突き止めた後、急いで迎えに行った。説明する余裕もないままに三人の男に襲われたものの、何とか脱出に成功し、無事に一康を鶴岡へと送り届けた。
 守国が微笑みながら一康をねぎらうと、一康はむせび泣いてその場に崩れ落ちた。

 ◆

 それから幾日か経ったわけだが、たまに何も知らないのであろう下っ端役人がお決まりの台詞と共に様子伺いに来るだけで、特に大きな出来事もなかった。
「逆に、それが怖いのだよね」
 閉じた扇の先を唇に添えて、守国は言った。
「あちらとて、私や鶴岡が関わっている事に考えが及ばぬほど愚ではないだろう。となると、静観を続けるだけの理由があるはずなのだが‥‥一康殿はどう考えます?」
「そう、ですね‥‥」
 発見時にはいくらかやつれていた一康も、栄養をとってすっかり調子を取り戻していた。とはいえ、それは体だけみた時の事。心は、産まれた時から傍にいた雉谷の安否を気遣ってやまない。
「元気な姿で現れた父は、今思い返してみると、やはりどこか不自然でした。何らかの手で向野が父の偽者を仕立て上げたのだとしたら、目的は、父の持つ『藩主』という力ではないかと。大きな声では言えませんが、以前より、私にはその思いがありました」
 かといって、表にさらけ出しても詮無い事。ぐるぐると惑う心を押しとどめ、毅然とした態度で守国の質問に臨む。
「ふむ‥‥向野殿は関所の検査を厳しくするのに最も強く反対された方だとか。成る程、確かにそのあたりが関係しているのかもしれませんね」
「民の心が離れないように画策している可能性もあります。‥‥父と向野との間で、私と向野の娘との縁談の話が進められていたようなのです。父や私の代で終わらせるつもりはなさそうで――」
「となると、こちらが動くのを待っているのでしょう。あちらには雉谷殿と藩主殿、二人の人質がいるという事ですから」
 雲が太陽を隠していたのが、ちょうど切れ目に入ったのか。眩しい陽光が差し込んでくるのを、守国は扇を開いてかざす事で、両目への直撃を避ける。
「まずは人質を減らしましょう」
 そしてやや沈黙を保ってから、こう切り出した。
「減らす‥‥?」
「あちらがおおっぴらに手を出して来られないというのであれば、それを大いに利用してあげましょう。貴方と同じように行方不明とされている雉谷殿を救い出し、二人揃って、何食わぬ顔をしてお屋敷に戻られればいいのです」
 微笑む守国に、一康は驚きの表情を隠せない。
 雉谷は彼の屋敷にはいないという事だった。となると、向野の屋敷に捕らわれている確率が最も高い。敵の本陣に最初から赴けというのか。
「こちらが賊扱いをされかねませんよ!?」
「でしょうね。‥‥しかし、雉谷殿さえ連れ戻せれば、一康殿とお二人で向野殿の所業を世間に確信させる事も可能でしょう。私も手伝いますし」
「‥‥‥‥もう一人の人質は‥‥? 父に、危害は及ばないのでしょうか?」
「今の状態で藩主殿に何かあれば、民は貴方を望むでしょう。決して向野殿ではない。それはあちらにとって、現時点では必ず避けなければならない事態のはずです」
 思考する。危険である事実は変わらない。情報が足りないのだ。出入りしているという尼僧についても、守国が調べはしたがよくわからなかった。
 迅速に、かつ、確実に。失敗すれば、即ち、更なる窮地。
「雉谷を、どうぞよろしくお願いします‥‥」
 だが動かなければ、徐々に追い詰められていくだけだ。一康は深々と頭を下げた。

●今回の参加者

 ea0443 瀬戸 喪(26歳・♂・浪人・人間・ジャパン)
 ea3597 日向 大輝(24歳・♂・志士・人間・ジャパン)
 ea7246 マリス・エストレリータ(19歳・♀・バード・シフール・フランク王国)
 eb5401 天堂 蒼紫(30歳・♂・忍者・人間・ジャパン)
 eb5402 加賀美 祐基(30歳・♂・志士・人間・ジャパン)
 eb6993 サイーラ・イズ・ラハル(29歳・♀・バード・ハーフエルフ・イスパニア王国)
 eb9508 小鳥遊 郭之丞(29歳・♀・浪人・人間・ジャパン)
 ec0205 アン・シュヴァリエ(28歳・♀・神聖騎士・ハーフエルフ・イスパニア王国)

●サポート参加者

黒崎 流(eb0833)/ 天堂 朔耶(eb5534

●リプレイ本文


 赤々と燃える焚火から数枚の似顔絵へと炎は燃え移り、瞬く間にそれらを消し炭へと変えていく。
 今回の救出対象である雉谷や、先日弁財天の社で遭遇した男達、これから向かう朝比奈の関所付近を騒がせていた盗賊の女頭領‥‥関連する、もしくは関連するかもしれない者達の人相を、彼らは頭に叩き込んだ。
 次は、天堂蒼紫(eb5401)と加賀美祐基(eb5402)が協力して書き上げた、向野邸の見取り図を覚える。これはしかし、完全なものではない。母屋や蔵などの配置と限られた通路及び部屋のみ。雉谷がいるであろう牢の位置さえ、周囲の部屋との関係から予想するしかない。ダウジングペンデュラムを吊るしても所詮は占い道具であり、曖昧な円を描くだけで、確実性に欠ける。
 誰かがため息をついた。焚火に放り込まれた地図を横目に、装備品の調整を行う。明日の演技の為に幾度目かの打ち合わせをしてから、順に眠りについた。

 朝比奈の関は、更に警備が厳しくなっているようだ。相変わらず行方不明とされている藩主の嫡男を探す為でもあるのだろう。
「万が一にでも誘拐などされていたらたまらないからでしょうね」
 微笑む瀬戸喪(ea0443)の声色は、女性のそれに変えてある。見た目にも気を配り、どこからどう見ても華である。
 そんな彼女の話しかける相手は、化粧を施し人相を変えてある蒼紫だ。色男風の身支度は向野邸への潜入用にと江戸で揃えてきたものだが、旅芸人を装う喪と連れ立っていれば説得力は増す。笛を吹いて一見すると遊んでいるようなマリス・エストレリータ(ea7246)が加われば尚更だ。
 祐基は例によって絵描きとなり、すいすい通り抜けていく。かと思えば、凝った事をしている面々もいる。
「八幡宮、楽しみだね。お姉ちゃん」
「そうねぇ♪」
 服装で異国からの旅人とわかる姉妹らしき娘二人が手を繋ぐ姿は、役人達の目に微笑ましく映った。自分の娘の姿でも重ねているのか。
 だがそこに二枚の証書が突きつけられ、役人は現実に連れ戻される。姉妹の護衛依頼を引き受けている事を示す証書だ。
「盗賊に関しては落ち着いたのか?」
「まだ何か起きてるなら教えてほしい。あの二人を護らなきゃならないから」
 小鳥遊郭之丞(eb9508)と日向大輝(ea3597)とが口々に言うので、役人は渋々ながらも答えてくれた。既知の情報がほとんどであり、新しいものは気が立ってる役人が多いから逆らうなという程度。
 仲睦まじい姉妹がサイーラ・イズ・ラハル(eb6993)とミミクリーで偽装したアン・シュヴァリエ(ec0205)である事にも気づかれる事なく、全員が無事に関を通過した。


「最近変わった事はなかった?」
 変装をといた喪は、向野邸の女中達に変わらない人気を誇った。しかし肝心の問いにこれといった答を出せる者はなかなかいなかった。関所の役人のように既知のものばかり。
 しばらくして、近づくなと改めて釘をさされたという話になり、喪は先を促した。
 北の棟に牢があるのだと女中は言った。好んで覗きたがる者もいないだろうが、繋がれている者がそれに乗じて逃げ出してはならないからと、向野直属の配下や息子達によって管理されているそうだ。
(「‥‥間違いなさそうだな」)
 口では無難な受け答えをしつつも、喪の内心では情報の整理に勤しんでいた。

 馬の背を撫でれば温かく滑らかで。鼻を鳴らしたごん助に大輝は大人しくしてろよと声をかけ、後を宿の者に託す。
「もしかしたら取りに来るのは他の人かもしれない」
 大輝がそう言うと宿の者は怪訝な顔をした。同じ依頼を受けた仲間が来る可能性があるからと告げると、事情はわからないなりに理解してくれたようだった。手形代わりの合言葉を告げてから、もう一度ごん助を見ると、また鼻を鳴らしていた。
 その後は、小太刀を隠すように持って、町を練り歩く。役人達の動きや流れを確認し、頭に叩き込んでいく。詰め所を避けた逃走経路を練り上げる為に。

 大輝と別れた偽姉妹は、郭之丞の案内で八幡宮の参拝に訪れていた。勿論それは建前で、本当の目的は守国と一康に話をする事だ。
 サイーラが作戦内容と決行時刻を伝えると、守国はぴくりと頬の肉を動かしただけだったが、一康は身を乗り出した。
「向野の娘を使うおつもりですか!?」
「使うだなんて人聞きが悪いわね。少しだけ手を貸してもらうのよ」
 窮状にあるのだから、選べる手段はもともと少ない。冒険者は依頼遂行の為により良い手段を選択しただけだ。
「一康さんにも手伝ってほしいんだ。説明のお手紙、頼めないかな?」
 元の姿に戻っているアンが一康に向き直った。
「私が?」
「何も知らないまま巻き込まれる女の子がいて、どうも思わないの?」
 幼さの強く残る顔つき、その双眸に透明な涙が湧く。女性の涙に耐性のない一康は面食らったが、巻き込んでいるのはあなた方でしょう、と反撃も忘れなかった。
「‥‥しかし、私にも他に良い案は浮かびません。あなた方が私の為に雉谷を探しているとの保証書を記しましょう」
 アンが望むような恋文になる事はない。それでも、その一筆が雉谷救出の足がかりになると信じて。
 一康が筆を動かしている間に、サイーラは郭之丞と連れ立って、向野邸周辺やそこから鶴岡までの経路を把握しに出かけた。最短経路はすなわち街中となってしまい、馬で駆けられる事を前提にすると、人通りが少ないという条件も満たすには大きく迂回するしかない。時間がかかるのはいただけないが、今後の事も考えるとやはり人目にはあまり触れないほうがいいのだろう。

 その頃祐基は呉服屋の前に佇んでいた。覚えのある女中がやってきたので声をかけ、ちょいちょいと手招きする。
「あら、あなた様は。また鎌倉へ?」
「何度来ても描ききれなくてね。景色だけでなく、そちらのお嬢様のお姿も。お会いするたびに綺麗になっておいでだし?」
 向野の娘、幸はまだ年若く、会うたびに少女から女性へと成長しているのは本当の事だ。その姿を描いていて飽きないのも本当。自分の描いた絵で喜んでもらえるのもまんざらではない。しかし真の目的は別にあるのだ。
「今回はお嬢様の話し相手も連れて、お邪魔してもいいかな?」
 これもお渡ししたいんだ、と花柄下駄を出してみせる。鼻緒と足裏にあしらわれた舞い散る桜の華やかさに、女中はほう、と息をついた。


 人が出払っている頃合を見計らい、屋敷の裏、使用人用の出入り口が開かれた。体をかがめてそそくさと通り抜け、女中の導きに従って進んでいく。とある障子の前で立ち止まった女中は一言、呼びかけた。
「どうぞ。お待ちしていました」
 応えた声は軽やかで、言うとおり確かに嬉しいのだろうと、祐基に思わせた。
 ひざまずいた女中が引いた障子の向こうに、影がある。祐基は隣の蒼紫と子供姿のアンに目配せし、揃って中へ。その背中で、障子は再び静かに閉じた。
「おや、到着しましたかの?」
「まあ可愛い!」
 察したマリスがひょっこりと顔を出す――なんと、祐基の荷物の中から。
 そんな突拍子もないところから現れたシフールの少女、しかも外見に似合わぬ言葉遣い。寝ているうちに紛れ込んだ事にせずとも、幸は疑う事なくすんなりと受け入れてくれたようだ。もしかすると、高速詠唱によるチャームのおかげなのかもしれないが。
「今日はお嬢さんのお話相手にと思いまして」
 そうして話している姿を今回は描きたい、と告げると、普段は外にほとんど出る事のない彼女だから、二つ返事で了承してくれた。
 江戸の事。京都の事。蒼紫が面白おかしく話したり、アンと恋について語り合ったり、幸の母親に見つかるわけにはいかないので一番得意の笛を吹けないのが残念だとマリスが肩をすくめたり。どんな話にも幸は前のめりになって耳を傾けていた。
「‥‥お嬢様」
 楽しい会話をしていれば、時の流れも早いもの。あっという間に日は傾き、西の空が朱色に染まる。楽しそうな笑顔の絶えない幸を描き終えた祐基は、筆を置くと、その絵を彼女の前に押しやった。一康の記した保証書を乗せて。
「何かしら?」
 綺麗に折りたたまれた書状を開く、細い指。視線の動きと共に、幸の顔からは笑みが消えていった。
「一康様をお助けする為‥‥お力を貸して頂けませぬか?」
 笑みが消えた事に、四人はチャームの使用以上に気がとがめた。だが彼女を糸口に全員が動いている以上、ここでやめるわけにはいかないのだ。一康が何かの事件に巻き込まれた事、その為に雉谷殿が屋敷内に捕らわれている事、幸の父‥‥向野靖春が何者かに利用されている可能性があるかもしれない事を、腹を据えて伝えていく。
「だから‥‥一康殿だけではありません、お嬢様のお父上を助ける為にも、これからする事を見逃して欲しいのです」
 そして祐基は畳に額をこすりつけた。ほぼ同時に、蒼紫も同じく頭を下げる。
「貴女と一康殿の婚儀を何の憂いも無く行うためにも‥‥今は我らを信じて任せて貰いたい。願い叶うならば、我らは貴女の力になる事を約束する」
 暫しの沈黙。
 やがて、瞼をぎゅっと閉じていた幸が再び動き出し、書状を畳み始める。
「確かに、お困りの際の力添えをお約束していました。ですがあなた方は、わたしの父が悪事に加担しているとおっしゃる」
「ですからそれは何者かに――」
「利用されるほど父が愚かだと?」
 立ち上がり、文机に近づくと、その下に置かれていた文箱に畳んだ書状を入れた。
「わたしも武家の娘。身内を売るような真似はできません。お引取りください」
「お嬢様!」
 蒼紫が呼びかけるも、幸は奥の部屋に向かってしまう。マリスがスリープの使用に備えて身構える。
「今日、わたしはいつものように一人でおりました。誰とも会っていません。何も聞いていませんし、見てもいません」
 しかし幸はきっぱりと言い放った。
「‥‥ですからこれは独り言です。牢は北の棟。ただし中へ入るには一度、地面に降りなければなりません。北の極、塀の側に入口があります」
 背中を向けたまま。後はもう何も言わず、立ち止まらず、寝室へと消えた。

 向野邸近くの路地裏では、身元が割れないように工夫を凝らした者達が待機していた。もともと人通りの少ない道を選んだが、暗くなってきたせいか、それとも向野邸に近づきたがらないのか、とんと人が寄りつかない。
「始まったみたいよ」
 屋敷内部からの思念を受け取ったサイーラが囁いた。移動しよう、と大輝が寄りかかっていた壁から背を離す。もっと門に近いほうへ――いざ脱出という時に陽動を起こせるように。もしくは喪や郭之丞の提案のように突入も考慮して。

 庭に篝火が灯り始めている。灯して回っている者の目に触れないように動くのは手間だ。疾走の術を発動させた蒼紫が角の向こうの安全を確かめてから、他の者が後に続く。特に幸の姿を借りたアンは慣れない着物の裾を引きずっており、どうしてももたついてしまう。
「マリスさん、どう?」
「‥‥だいぶ弱っておられるようですの」
 牢に幾らか近づけば、テレパシーも雉谷に届いた。目隠しをされていて詳細は不明だが、彼の側には常に誰かがいるとの事。
「でも、少し不自然のような‥‥?」
 アンが首を傾げたが、急ぐ足を止めるわけにもいかない。
 渡り廊下から地面に降り、ぐるりと棟を迂回すると、一際明るく照らされる入口があった。見張りは二人。一人は声を上げる前にマリスのスリープで眠りにつき、もう一人は懐に潜り込んだ蒼紫の拳で気を失った。
 見張り達の倒れる音で気づいたのか、扉の内側からもう一人の見張りが顔を出す。だがその者の意識もあっという間に沈んだ。
 そのまま扉をくぐった蒼紫は牢の開錠を試みようとしたが、道具がなくては難易度も上がるし時間もかかる。隙間から雉谷へと回復薬を手渡した後、祐基が錠を牢の一部ごと叩き壊した。静かに壊すつもりだったがそうもいかず、耳障りな音が響いた。
 目隠しをはずした雉谷がアンの姿に目を丸くするも、説明している暇はない。外へ出ると、すでにぐるりと囲まれていた。
「そろそろ来る頃と思っておったよ」
 中央。年格好や放っている威圧感などから、その男が向野靖春その人なのだとすぐに知れた。横にいる頭巾をかぶった女性は例の尼僧であろう。
「幸、お前がなぜここにいる」
「邪魔しないでくれればお嬢さんは返す」
 言いながら、祐基はアンの両手首を背中側で掴む。
 向野が軽く手を上げると、取り囲んでいた者達が下がり、表門への道を作った。そのうちの何人かは、なかば突き飛ばされるようにして解放されたアンへと駆け寄る。祐基や蒼紫も雉谷を連れて走り出した。
「父上! それは偽者ですっ、幸は寝所で既に休んでいます!」
 母屋のほうから声が上がった。即座に道が狭まっていくが、その時、表門からも騒ぎが聞こえてきた。

 放火は重罪。それも藩の重臣の屋敷となれば死罪は免れまい。それが幻影であると気づかない表門の見張りは、仲間を呼んで捕縛に走る。路地裏から飛び出した郭之丞や大輝が彼らを打ち倒すと、戻ってこない見張りを追ってきた者達が現れて、今度は喪の峰打ちで倒れる。
 庭を縦断してくる救出班の追っ手も加わり始めたところで、再びサイーラが幻影を作り出す。今度は巨大な壁での足止め狙いだが、相手の数が多すぎて間に合わない。
「雉谷殿っ」
 郭之丞が呼ぶと、雉谷は彼女のほうへ進路を変える。追っ手も当然そちらに向かおうとするが、大輝に阻まれてたたらを踏んだ。
「奴らは西へ逃げたぞー!」
 喪が野太い声で偽の指示を飛ばせば、雉谷とは別方向へ逃げる祐基と蒼紫に追っ手の意識が行く。騙されない者も中にはいるが、雉谷は郭之丞と共に馬の所へ行った。馬に乗ってしまえば後は鶴岡へ無事に着けるだろう。大輝と喪も、撤退を開始する事にした。

「さて」
 顎を撫でる向野の後ろでは、アンが彼の息子に羽交い絞めにされていた。元の姿を見せない為にも、いまだ幸の姿のまま。
「わが娘に成りすますとは、騙し通せると思ったか。それとも逃げ出せるつもりでいたか」
 たった一人で愚考よな、と向野は蔑むような目でアンを見下ろした。
 手が封じられていては魔法は使えない。策の思いつかないアンの頬に指で触れたのは尼僧だった。
「靖春殿。これはわたくしにくださいませ」
「何?」
「姿を変える魔法は神に仕える者が使うもの。その心はきっと清らかにございましょう」
 薄い唇をゆがめ、向野の返答を待たずして印を紡ぐ――その直前。
「ぐっ‥‥」
 息子の肩に光る矢が突き刺さり、たまらず膝をついた。すかさずアンは走り出す。再び捕らえようとする者達の周囲を、完全な闇が取り囲んだ。
「まだ残っていたか!」
 それでも幾つかの切っ先がアンを傷つけたものの、彼女は止まらなかった。マリスの援護を受けて、ひたすらに門の向こうを目指した。