【鎌倉藩】塞がらない穴

■シリーズシナリオ


担当:言の羽

対応レベル:6〜10lv

難易度:普通

成功報酬:3 G 9 C

参加人数:4人

サポート参加人数:-人

冒険期間:05月31日〜06月05日

リプレイ公開日:2009年06月25日

●オープニング

 戦乱の続くこの国にあって、完全なる自衛や冒険者ぎるどによる依頼などの特別な理由がある場合を除き、武具が通ることを拒み続ける希少な藩――鎌倉。
 鎖国とも言うべきこの対応は弱く貧しい民を守るためではあったが、ゆえに内側によどみを作っていた。筆頭家老の謀反、その心につけこんで動いた悪魔・吉祥天による古の龍の復活、そして街道筋の町が壊滅した。現在では冒険者たちの働きにより筆頭家老とそれに加担した者は投獄され、古の龍は目覚めた神・弁財天になだめられておとなしく海で暮らし、街の復興もだいぶ進んでいる。ただ肝心の吉祥天だけは逃亡に成功しており、今後はやがて舞い戻るであろう彼女への対策を行っていく必要がある。

 と、言うは易し。行うは難し。
 筆頭家老の周囲にいた者達には優秀な者が多く、それだけの働き手を一挙に投獄した分の仕事は激減した役人達でまかなわなければならない。自分達がしっかりしなければという責任感や使命感に駆られて張り切るも、それで疲労をごまかせるわけでもなく、目の下のくまも段々と濃くなっていく一方だ。
 治安の維持。復興の先導。貧困層への支援。
 そして、関所の通行を求めてくる藩外の勢力。
「‥‥丁重にお断りしてください」
 今や鎌倉藩の事実上の頂点となっている藩主嫡男、細谷一康は、通行を求める武装勢力からの文を丸めながら肩を落とした。代筆役が一礼の後に部屋から立ち去る。日が落ちてすでに久しいというのに仕事を追加してすまないとも思うが、急ぎなのでそこは勘弁してもらう必要がある。
 江戸に程近い交通の要所ともなれば、この国を騒がせるどの勢力も協力を求めてくるのは理解できる。だがただでさえ政情が不安定なところへ更に懸念事項を増やすのは、それこそ自殺行為と言えるだろう。状況が変わらない限り、この姿勢を変えるわけにはいかないのだ。
 息抜きになればと用意させた、茶にも茶菓子にも手をつけない主に、教育係である雉谷長重の気持ちも落ち着かない。
 繰り返し重い息を吐き出す一康。彼の気を休められる物事などまるで存在しないかのようだった。前述の事ばかりではない。伏せり続ける藩主と牢にいる筆頭家老の娘・幸。ふたりが諸悪の根源に魂を奪われたままなのだ。
 魂は生きる力そのものとも言えるもの。ふたりの体力は見るからに衰えており、幸にいたっては呪いをかけられているようで視覚まで奪われている。
 自分の誕生と入れ替わるようにして母が亡くなった後も次の妻を娶らなかった父。幼い頃より一途に自分を慕ってくれていた幸。心優しい一康には、どちらも無碍にすることなど出来はしない。
「吉祥天の行方はまだつかめませんか?」
「以前ねぐらにしていた寺にも、今は全く寄り付いていないとのこと。他の寺も見張らせてはいますが‥‥」
 一康は雉谷に問いかけるも、芳しくない回答だった。
 若く美しい尼僧の姿で現れる悪魔が、今度は何を狙ってくるのか。より多くの、より純粋な、魂を求めているのだというならば、次はどんな手を打ってくるというのか――
「若、若!」
 どたばたと男が廊下を駆けてきた。その騒々しさに雉谷は眉をしかめたが、切迫した様子に、心中がざわめきだした。
「申し上げますっ。独房が破られ、野盗を率いていた女が逃亡したもようです!」
 筆頭家老は謀反に必要な金を得るため、悪徳商人と組んでいた。その悪徳商人の下で、主に野盗として「商品」の調達役となっていたのが、名づけられることもないまま売られたという女だった。善や悪という認識が乏しく、牢の中にあっても口の減らなかった彼女は、しかし、重要な情報を抱えているはずだ。
 例えば、役人に気づかれることなく関を抜けられる抜け道――

「吉祥天の犯行とみて間違いないでしょうな」
 琵琶の音が聞こえてきたと思ったら眠っていた、とは牢屋番の証言。吉祥天が琵琶の名手であり、魔法発動の折にも奏でていたことは、筆頭家老から既に聞いている。とすれば、吉祥天があの女を連れ出した理由は何なのか。
「‥‥ともかく、やはり関所とその付近の警備を強化するしかないでしょうね。仕方ありません、この屋敷からまわしてください」
 元々さほど大きい屋敷でもない、まわせる人数は微々たるものだろう。しかし関所の状況を慮れば、例えひとりやふたりであっても送るべきなのだ。
「お父上と幸殿の守りはいかがいたしますか」
「騒がしくなって申し訳ないですが、父上の同室かもしくは隣室で政をさせてもらいましょう。‥‥幸殿は‥‥」
 幸は今、藩主の屋敷で生活している。一度は狙われた魂であり、再び狙われないとも言い切れないゆえに、家族や直轄の武士のほとんどが牢の中にいる彼女を自宅に置いておくわけにもいかないからだ。
 鶴岡に頼むしかあるまい、というのが一康と雉谷の共通の見解だった。謀反を起こした向野の娘に対する世間の風は冷たすぎる。他に預けられる相手は思いつかなかった。
「移動は人目に付かない夜間に。万一のことを考え、冒険者に付き添いを頼みましょう」

 鶴岡八幡宮は鎌倉の誇る社だ。訪れる民からして貧しいので金銭的には恵まれないものの、神主である大伴守国をはじめとしてその能力は決して低くない。小物ではあるが一体の悪魔を捕らえ続けられるほどには。

●今回の参加者

 ea2011 浦部 椿(34歳・♀・侍・人間・ジャパン)
 ea3597 日向 大輝(24歳・♂・志士・人間・ジャパン)
 eb3532 アレーナ・オレアリス(35歳・♀・神聖騎士・人間・神聖ローマ帝国)
 eb9508 小鳥遊 郭之丞(29歳・♀・浪人・人間・ジャパン)

●リプレイ本文

●下調べと心積もり
 馬や魔法の草履を使用することで、冒険者達は予定していたよりも短時間で鎌倉にある藩主邸に到着することができた。今回の依頼人である藩主嫡男・細谷一康に挨拶し、辿る予定の道筋の確認を受けた後は、護衛対象である娘との対面が待っていた。
 対面といっても、彼女――幸の目は視力を失っており、目隠しとして巻かれている細長い白布が痛々しい。冒険者達を外見により判別するころは至難の業だ。
「お嬢様。鶴岡まで連れて行ってくださる方々ですよ」
「まあ‥‥この度はお世話をおかけします」
 侍女の言葉に幸は頭を下げる。だがその方向も、微妙に定まらずずれているような印象を受ける。気配だけではうまく相手の位置を察せられないようだ。
 顔が見えないのであれば、声を覚えてもらうしかない。冒険者達は順に名乗ってはどんな字を書くのかと尋ねられ、時にはその手のひらに指先で記した。なかでもアレーナ・オレアリス(eb3532)の名は、異国の者ゆえ、手のひらのなぞり方が幸にはとても興味深かったようだ。
「口頭で異国の方のお名前を伺ったことはありますが、どのように記すのかは初めて知りましたわ。この国の文字とは全く異なるのですね」
「おかげで、この国の言葉を学ぶのは少々骨が折れるよ」
 アレーナが同性ということもあってか、幸に警戒心は見受けられない。護衛も兼ねた話相手の役目をアレーナに任せて、他の者は道筋を実際に辿ることにした。

 路地にやってきたのは浦部椿(ea2011)と小鳥遊郭之丞(eb9508)だった。遠くに喧騒が聞こえるが、やはり人通りは少ない。背の高い雑草が道端の一角を陣取っていることや、小石がそこらじゅうに散らばっていることからして、この路地を誰かが気にかけているということもなさそうだ。
 路地自体はあまり込み入った作りではない。道を挟む家屋は、あばら家と呼んだほうが適切だろう。廃屋というわけではなさそうだがどうにも生活感が薄く、今も誰の姿も見受けられない。一家総出で日銭を稼ぎに行っていると考えれば説明がつく。
「‥‥日が落ちれば足元すら見えなくなるだろうな。この様子だと油の消費を極力抑えているはずだ」
 椿はとりわけ大きな石を蹴って脇に寄せている。道幅は彼女と郭之丞が並んで、あともう一人が通れるかどうかといったところ。仮に襲われたとして、大仰な斬り合いは難しそうだ。
「逃走は可能、か?」
「いや、大通りに出たところで待ち伏せされている可能性もある」
「ふむ‥‥そうだな。奴らはその気になれば数を揃えられる。道を塞いで誘導したり、挟み撃ちにしたりすることもできるはず」
 弁財天を起こした折や目覚めた竜の前へ彼女を連れて行った折のことを思い出しながら、郭之丞は上を見た。よく晴れた空。
「上空も注意しておこう。‥‥脱獄したという野盗の頭領、あやつは部下に弓を使わせていた」
 また戦うことになるのだろうか、そう考えると口元がゆがむ。できればもう戦いたくはなかった。
 身を隠せる場所がないか見てこよう、と椿が歩き出す。郭之丞を慮ったのかもしれない。離れ始めた背中に己の不甲斐なさを悔いながらも、また別のことを思い出して郭之丞ははっとした。
「浦部殿! 浦部殿は宮侍であったな!」
「それが何か?」
「その‥‥あ、いや、なっ何でもない! 呼び止めてすまなかった!」
 耳まで真っ赤になって手を振る郭之丞に首をかしげながらも、歩みを再開する椿だった。

 大通りは打って変わって、人通りが多く賑やかで活気もあった。江戸の街には遠く及ばないが、それでも藩の中心部だけのことはある。
「こっちの欠点は人通りだけかな」
 その人通りこそが厄介で、こちらの道を選択しなかったわけだが。
 大樹がなぜ、選ばなかった道をわざわざ歩いているのかといえば、少しでも欺瞞になればと考えたからだった。だが人通りが多いということは口の数も多いということ。聞こうとしなくとも、耳には様々な話が入ってきた。
 ――ご立派な方だと思っていたのに、謀反など。
 ――腹の黒い商人と繋がってたっていうじゃないか。あいつのせいで、ただでさえ厳しいうちの家計が火の車だよ。
 ――娘はのうのうと藩主様のお屋敷で暮らしてるって話だね。
 ――おおいやだ。少しは恥を知って、どこへなりとも行ってしまえばいいのに。
「予想していた以上かもしれないな」
 茶屋に腰を落ち着けていた大樹。背中側から囁かれ、ああ、と彼も小声で返した。
「もっとひどいことを言ってるのもいたよ」
 そして、用事を思いついた、と立ち上がる。
 話の途中ではあったが、背中合わせに座っていた椿も特に日向大輝(ea3597)を止めることはなかった。同時に去るのも人の目を引きそうであったし、何より用事とやらを邪魔立てしないようにと。

 情報収集には刻限が設けられていた。その刻限よりも早く大輝が部屋を訪れたので、一康はやや驚きながらも、筆を置いて向かい合った。
「何かあったのですか」
「単刀直入に言う。幸殿が鶴岡に行く前に、少しでいいから声かけてあげたらどうだ?」
 ついでにお守りになるような物のひとつでも贈ってやればいい。
 言われた一康が返事をするよりも、彼の傍に控えていた雉谷が文句を繰り出すほうが早かったが、それにも怯まずむしろ遮り、大輝は進言を続ける。
「気丈な人みたいだけど、本当はすごく心細いと思う。幸殿にとってはやっぱり知らない人ばかりの所へ行くわけだし」
 何でもいい。肌身離さず持ち歩けるならそれに越したことはないが、とにかく彼女の支えになってくれるものを――彼女が長年恋い慕う、一康の手から。
「‥‥彼女の想いを受け止めろと?」
「全部ひっくるめて、一康殿次第さ。俺はただ提案しただけだ」
「‥‥‥‥」
 大輝と一康、ふたりの視線が正面からぶつかった。互いに遠慮はない。
 雉谷も手出しのできない沈黙の後、唇を開いたのは一康だった。吐息が漏れ、次の瞬間には声と成りえた、まさにその直前の間に。ぎしぎしと板の廊下をこちらに向かう足音が耳に届いた。他の冒険者も戻ってきたのだろう。声の代わりに改めて息を吐き、照れ隠しのような笑みを浮かべる一康に、大輝もやれやれと肩を落とした。

●転
「乗り心地はどうだ?」
「ええ‥‥少々ふわふわしますけれど、これはこれで面白いわ」
 あともう少しで出発という頃。屋敷の庭にはアレーナ、幸、幸の侍女の姿があった。庭には不釣合いな、豪華で長い絨毯を広げており、幸と侍女がその絨毯の上に乗っている。ほんのわずかに地面から浮かんでは頼りなさげに波打つ絨毯だが、乗員の重みにはしっかりと耐えているようだ。
「これなら石や凹凸に足をとられる心配もありませんね」
 侍女が嬉しそうに手を合わせる。その声の調子に、幸も口元を綻ばせた。
 しかし、便利と思われたその道具の使用を取りやめたのは、他でもない、アレーナだった。絨毯に乗ったままの幸と互いの手を繋ぎ、試しに庭を巡ってみたところ、徐々にアレーナと絨毯との間に距離が生じていったのだ。襲われた場合のことを考えるとアレーナが同乗して操作するというわけにもいくまい。
「せっかく楽をさせてやれるかと思ったんだが」
「お気になさらないでください、もとより外出を制限されていた身、この足で土を踏むことには喜びを覚えるのです。たとえ人目を忍ばなくてはならずとも、夜の散歩は昼間と異なる味わいと聞きました」
 綻んだ口元に変化はなかったが、幸の言葉が虚勢であることは明らかだった。けれど誰もそれを指摘できない。指摘してしまえば脆くも崩れ去ってしまうかもしれないからだ。
 二人が降りた絨毯をくるくると巻く。それなりに荷物になる物なので、アレーナはこのまま屋敷に預けておくことにした。鎌倉へ来るまでに乗ってきた馬と同様、報告ついでに立ち寄って受け取ればいい。
「では行こうか」
 出発の備えは済んでいる。考えておいた隊列を組みながら、一同は屋敷の裏口から外へ出ようとした。
「お待ちください」
 最初に振り向いたのは幸だった。見えないだろうに、わかったのだろう。声の主は一康だった。
 一康は裸足のまま、土がむき出しになっている戸口付近まで小走りで近づいてき、幸の手をとった。そしてその手に、白木の鞘の短刀を持たせ、しっかりと握らせた。
「亡き母のものです。鶴岡のお祓いを受けていると聞いています。きっと貴女を護ってくれるでしょう」
「そんなっ、いけませんそんな大事なものを!」
「ええ、大事です。ですから大切にしてくださいね。――よろしくお願いします、皆さん」
 幸が短刀を返すよりも早く、一康は後方へ下がっていた。口元を引き締めて深く頭を垂れる彼に、冒険者達も無言で頷いてから、背を向けた。



 歩き出してしばらくは平和だった。
 どうしても歩幅の小さくなる幸が、それでもなるべく急ごうと、せっせと足を動かす様子はいじらしい。一康から受け取った短刀は帯にさしてある。幸の気持ちが上向いていれば、護衛をするうえでも良い影響を与えてくれる。気の持ちようとはよく言ったものだ。年若いながらなかなかやるではないかと、依頼遂行への思いも一段と強くなる。
 曲がり角。別の路地と交差する時。塀の内側から木の枝が張り出して影を作っている場所。懸念していた地点をひとつ通り過ぎるたびに、何も起こらず済んだと胸を撫で下ろす。
 路地を挟む家々は暗闇に沈み、ひっそりと静まり返っている。自分達の足音がやけに大きく聞こえるが仕方ない。
 あと少し。そこの角を曲がればあちらの屋根のかげから鶴岡の鳥居が見える、そんな時に。
 アレーナのはめていた指輪、宝石の内部に刻まれた蝶が、はばたき始めた。この蝶は悪魔の存在に反応するもの。終わりに近くなってからの襲来に、一旦は和らぎかけていた雰囲気も即座に緊張を取り戻していく。
「近づいてきているようだね」
「‥‥足音が聞こえる。そこの角の向こうに、いるな」
 はばたきを注視しその速度を気にかけるアレーナの前で、椿が耳をすませる。ふたりの隣では怯えの色を帯びだした幸の肩を侍女が抱いていたが、侍女のほうも体が強張っているのが見てとれた。
「なるべく下がって。早く」
 何か考えがあるのだろう、皆を促してから、大輝は炎の色に包まれる。
 完全に背を向けて逃走態勢に入るのはためらわれた。相手が挟み撃ちを狙っているかもしれない。幸と侍女をいつでも庇えるようにしながら、板塀を背にじりじりと後退する。
「ああ、ほら、やっぱりこっちじゃない。なに簡単に騙されてんだか」
 曲がり角の向こうから現れたのは女だった。羽の生えた小悪魔を二匹、従えている。
 郭之丞は愕然とした。女の顔に覚えがあった。脱獄したと聞いていた、あの野盗の頭領だ。
「‥‥なぜだ」
 来るかもしれないとは思っていた、だが本当に来るとは。来れば戦わなければならなくなるというのに。
「なぜ? それをあんたが言うんだ、笑わせる。あたしの生きてきた道を叩き潰しといて、よくもまあ」
 けらけらと笑う女性に、違う、と首を左右に振る郭之丞。自分は別の道を示していたのだからと。
 そして身を乗り出そうとしていた郭之丞を、大輝の木刀が抑えた。後ろでもアレーナと椿が抜刀している。
「とりあえずさ、あの尼さんがほしがってるんだよね、そこの姫さんを。――渡してもらおうかっ!!」
 地を蹴り突撃してくる女。元々身のこなしの軽い女ではあったが、少し見ない間に一段と軽くなっているように感じられた。小悪魔たちも飛んでくる。
 正面からぶつかったなら渡り合えるだけの面子はいる。けれどここは貧民街の只中、そして護るべき対象が二名。どうやら弓手も伏兵もいない様子ではあるが、近所から物音で目覚めた者が出てきては対応しきれなくなる。早期決着が必要と誰もが理解していた。
 アレーナが踵を返すと、目と鼻の先に小悪魔が浮いていた。ためらうことなく首を狙う。一撃で落とすことはかなわなかったが、ふらふらとしてうまく飛べなくなったところに追撃を加える。彼女が動いたことでもう一匹の小悪魔と幸の間に壁がなくなり、小悪魔の腕が伸びる。その腕に斬りつけたのは椿だった。
 女の悲鳴が上がった。足元から噴き出した炎が彼女を包んでいた。大輝の仕掛けていた罠だ。
 罠にかかってしまったせいか、それとも服を焦がされたためか、女は憎々しげにもう一度走る。いや、跳んだと表現するほうが近いかもしれない。振り上げられた拳。郭之丞はまず、その拳が振るえなくなるように手首を狙うことに決めた。刀の腹で拳を受け止めてから、重心を切り替えた後に刀をかざす。
 しかし女とて己の攻撃手段を楽に奪わせることはしない。大輝が黒塗りの木刀をめり込ませるのを避けるついでに、刀の届かない位置へと下がった。
 大輝がもう一度赤い色に包まれる。あけられた距離はさほどではなかったが、罠を作るには十分だった。
「なるほどねえ。強くなったのはあたしだけじゃないってことか。‥‥ま、それもそっか」
 仕掛けられた罠は目には見えないもの。といっても一度喰らっているのだから予想はつく。女は肩をすくめると、虫を払いのけるような仕草で手首から先を動かした。
「いいよ、行きな。さすがのあたしもこれ以上はね。あの尼さんにはうまく言っといてやるよ」
 小悪魔二匹の姿は既に無い。アレーナと椿が倒したからだ。女が舌打ちをしたのは自分も考えが足りなかったことに気がついたからだろう。
「‥‥‥‥」
「行こう」
 大輝が声をかけ、裏があるのかと勘繰る郭之丞の意識を本来の目的へ引き戻す。
 冒険者達は順に女へ背を向け、来た道を駆け戻っていく。先程はまっすぐ抜けてきた交差点を曲がり、別の道を辿るために。
「そうそう、あたし、名前つけられたんだ。壱の歳って書いて、ひととせって読むんだよ!」
 女――壱歳の言葉を胸に刻みつける。名づけたのは十中八九、吉祥天。つまり吉祥天は壱歳に利用価値を見出したということだ。