【鎌倉藩】泥濘に響く誘いの琵琶

■シリーズシナリオ


担当:言の羽

対応レベル:11〜lv

難易度:難しい

成功報酬:9 G 4 C

参加人数:8人

サポート参加人数:3人

冒険期間:01月15日〜01月20日

リプレイ公開日:2010年02月14日

●オープニング

「鎌倉が元の藩主の統治下に戻るってさ」
 台所からくすねてきたのだろう。温かい味噌汁をすすりながら壱歳は語りかけた。
「あら、そう」
 対して吉祥天は、そんな壱歳を面白そうに眺める。自分と契約して悪魔の性質を持ったはずなのに温かい食事を求めるという行動が、彼女の興味をそそるのだろう。
「つまんない反応するんだねぇ。またあのヌルくて弱っちい鎌倉に戻るんだっていうのにさ」
「慌てる必要がないからよ。ここしばらく何のために、鎌倉中を渡り歩いたと思っているのかしら」
 妖艶な微笑を浮かべると、吉祥天は左腕を持ち上げ、右手で左の袂をまさぐった。
「ねえ、壱歳。鎌倉の支柱は二本あるわ。そのうちの一本はもうすぐ持ち直してしまうけれど‥‥弱りきって久しいから、すぐに新しいものに変わるでしょう」
 取り出したのは白い玉。愛しげに頬擦りする彼女は畳の間に座しているのだが、周囲には他にも白い玉がいくつも転がっている。
 いや、白い玉だけではない。丸めた布団に近い大きさの――
「新しい支柱がなじむまでには時を必要とするもの。それまで鎌倉、新しい支柱の双方を支えるのは、もう一本の支柱でしょうね」
 ――大人の男性の体。ゆっくりと冷たくなっていくだけの、既に魂を奪われた物体。服装からして八百万の神に仕える者。廊下の奥に視線をやれば、巫女服姿の女性が事切れているのがわかる。
「では、そのもう一本の支柱を手折ったとしたら、鎌倉はどうなるかしら? 新しい支柱一本で、這いつくばりながらも生きようとする鎌倉を支えられるかしら?」
 ふふっと声を漏らして、吉祥天はお気に入りの白い玉を袂に戻す。
「‥‥乗り込むのかい」
「正面から行ってあげましょうね、苦悩する表情が見たいわ。要所を護る結界があるとしたら‥‥そうね、汚してあげれば小悪魔ごときでも通れるようになるでしょう。五頭竜を目覚めさせた時のように」
 調達は頼むわね、と事も無げに言い放って立ち上がる。愛用する琵琶を抱き、細い指先をその弦に走らせれば、透明感のある音が生じた。
 まるで子守唄のような旋律。だが壱歳には酷く自分を高揚させる曲であるように感じられた。

 ◆

 鶴岡八幡宮には、戦闘の可能な『蓮花』という組織がある。現状、大半は民の救済のために鎌倉各地へ散っているが、もともとが神主である大伴守国の下で神に仕える者達であるから、残って鶴岡を護る任に就いている者もいる。敷地内の見回りだけでなく、本宮をはじめとする重要施設の守護も彼らの任務だ。有事には先頭を切って戦うだけでなく、鶴岡に保管されている道具を用いて結界を張ることもある。
 地下へ降りた守国が、その場に結界を張り続けている蓮花へ労いの言葉をかける。集中を途切れさせないように短い言葉ではあったが、結界の中央に囚われた存在は守国の訪問に気づき、目を見開いて罵詈雑言を浴びせる。
「‥‥無駄な言葉は要らないよ。私の質問に答えてくれるかな」
 守国は狼狽する様子もなく、淡々と、無意味に抗う小悪魔へ言い放つ。
「寺社を任されていた者達が、外傷のない状態で死体となって発見されている。その規模も一人や二人ではない。吉祥天の仕業と私は見込んでいるけれど、君はどう思う?」
「アホか。他に誰がいんねん」
 かりそめの姿を保つこともできずにいる小悪魔が憎憎しげに答えると、守国はわざとらしく肩を落として見せた。
「まあ、そうだね。――でまあ、最終的には恐らくこの鶴岡が目標なのだろうけど、どうしたい?」
「‥‥は‥‥?」
 餌を待つ鯉のように口を開ける小悪魔。しかし守国は別に冗談を言ったつもりは無い。
「君をこの場に留めてくれている者を、吉祥天への対処に回したい。私の言っている意味がわかるかい」
「‥‥この結界を解いてくれんか。この状態が続くぐらいなら、さっさと地獄に戻るわ。自分でな」
 この回答を受け、地下の結界は程なく解かれる。守国と蓮花の見守る中、小悪魔は自害した。一般的な生物ではない悪魔ゆえに死体が残ることはなかったが、すぐさま浄化の措置がとられた。

 小悪魔の監視から任を解かれた面々は、暫しの休息の後、新たな任務を授けられた。周辺住民の避難誘導である。
「奴の狙いは私だ。だが、私を苦しめるために私以外の者を痛めつけることも厭わない輩であることは、既に経験している。民をなるべく遠くへ。一康殿にも、片付くまで帰ってくるなと伝えろ」
 もちろん、蓮花ではない、戦闘のできない者も鶴岡にはいる。そうした者達は避難誘導の任を受けた蓮花と共に行き、民を支える役目に回る。もしくは、来る敵の動きを少しでも鈍らせるために祈りを捧げる。
 鶴岡に残る戦闘可能な人員は、片手ほどの数の蓮花。そして守国の従者である日乃太。
「どんな手を出してくるかわからない――が、素直にやられてやるものか」
 守国からの依頼状を携えた飛脚、空飛ぶ葱を操る彼が、最高速度で江戸の冒険者ぎるどへと飛んだ。

●今回の参加者

 ea0443 瀬戸 喪(26歳・♂・浪人・人間・ジャパン)
 ea2011 浦部 椿(34歳・♀・侍・人間・ジャパン)
 ea3597 日向 大輝(24歳・♂・志士・人間・ジャパン)
 ea4295 アラン・ハリファックス(40歳・♂・侍・人間・神聖ローマ帝国)
 ea7482 ファング・ダイモス(36歳・♂・ナイト・ジャイアント・ビザンチン帝国)
 eb3532 アレーナ・オレアリス(35歳・♀・神聖騎士・人間・神聖ローマ帝国)
 eb9508 小鳥遊 郭之丞(29歳・♀・浪人・人間・ジャパン)
 ec0669 国乃木 めい(62歳・♀・僧侶・人間・華仙教大国)

●サポート参加者

比叡 一(eb1607)/ シルフィリア・ユピオーク(eb3525)/ レイア・アローネ(eb8106

●リプレイ本文


 それは、唐突に始まった。

 日没と時をほぼ同じくして、常よりも多くの篝火が焚かれた。祈りを捧げて結界の維持に注力する巫女達の祝詞が響く中、夜の闇はそうと気づかぬ間にも濃くなって。決戦の場にと定められた大石段の下で待ちの姿勢をとっていた者達は、ひと時も気を緩めることなく、得物から手を離すことなく、かの悪魔とその従者に堕ちた女の到来を待っていた。
 今か今かと待つことは精神を消耗する。もしやそれが目的ではないかと危惧してしまうほどの時を経て。
 悪魔の演奏会は唐突に始まった。まるで中断していたところから再開するかのように。
 琵琶の音色はとても重厚かつ優美で、月と星の煌く夜空の下、耳を傾けたなら安らぎと安眠が約束されたことだろう。
 国乃木めい(ec0669)を淡い光が包み込む。悪魔の使用する魔法に抵抗するための術だ。ファング・ダイモス(ea7482)とアレーナ・オレアリス(eb3532)は己の連れる天馬に指示を出し、彼女と同様の魔法を皆に施していく。異なる術ではあるが、浦部椿(ea2011)など抵抗力を上げる手段がある者はそれを使う。
 急いて闇雲に走り出す者はいない。それは自分だけでなく他を巻き込む愚策と知っているからだ。悪魔の狙いである鶴岡八幡宮の主、大伴守国を背に護る者。護る者の前に立ちて敵先鋒を迎え撃とうとする者。日向大輝(ea3597)は篝火の足元に転がしておいたたいまつに火を灯し、再び地面に転がした。できる限り影を減らし、魔法による奇襲を防ぐためだ。守国の隣では従者である日乃太が魔法の光球を作りだした。皆に抵抗の術をかけ終えためいも、今度は四方への光球配置を開始する。
 しかし気になるのは、敷地を囲むように張り巡らせた鳴子がまだ鳴らないこと。
 琵琶の音色はいまだに止まず、いずこから聞こえてくるのかと眠気を誘われないよう気を確かに持ちながら耳を澄ませる。琵琶の奏者の位置を特定するために。そして鳴子の響くのを聞き漏らすまいと。
 そんな彼らの目と鼻の先に降ってきたのは、人の体だった。長い黒髪と巫女服姿からして、襲ったいずこかの社から連れてきたのだろう。どさり、いや、ぐしゃりと。潰れて。鮮血を撒き散らした。
「真上です!」
 声を張り上げると同時に瀬戸喪(ea0443)が上空へ衝撃波を飛ばす。しゃがれた声の悲鳴と共に一体の小悪魔が落下してきた。刃を突き立てとどめをさすも、それで終わりとなるはずもなく。血によって汚された鶴岡の結界は乱れ、小悪魔どもの侵入を許してしまう。
「数が多いばかりでは仕方ないんだがなっ」
「諸神(もろがみ)よ照覧あれ‥‥!」
 次々と降り立つ小悪魔。前衛をはるアラン・ハリファックス(ea4295)は素早く動いては名刀で斬りつけ、小悪魔を地獄へ送り返していく。それでも数が多すぎて対処できない分は、椿の放つ爆発的な闘気が包み込む。一撃ではさすがに倒せずとも、ナイフが砕ける代わりに増した威力は確かに小悪魔どもの体力を削ぎ、足止めとなる。
 そして足止めは必要なことであった。めいの提供した聖水等によって守国と彼を護る蓮花の者達の周囲には新しい結界が張られているが、ささいなものだ。能力の低い小悪魔ならともかく、それを超えるものには気休めに近いだろう。ゆえにそういった者と刃を交えるためには小悪魔がいては都合が悪い。
 ガラガラガラガラ。
 ここへ来て鳴子が騒いだ。
「今だ、頼む!」
 小鳥遊郭之丞(eb9508)の声に従い、蓮花の術者が月の矢を放つ。打ち合わせどおり、人から悪魔へと堕ちた女の名を指定しながら。
 矢はぐんと曲がって背の高い茂みに突き刺さった。舌打ちしつつ、茂みから女が現れる。
「あいたたた‥‥何この面倒くさい術」
「壱歳」
 女の前へ、抜き身の刀を構えた郭之丞が進み出る。
「改めて名乗ろう、私の名は小鳥遊郭之丞。これからの戦で例えおまえの命を奪う事になろうとも、私が生きている限りはお前の名を背負って生きていく覚悟だ」
「‥‥はっ。相変わらずおめでたい奴だねあんたはっ!」
 壱歳は片眉を吊り上げた。それなのに向かう先は郭之丞ではなく、守国。横に一歩飛びのいて郭之丞の横を抜けようとする。
「させませんよ!」
 だがそこは既にファングの盾が道を塞いでいる。またも舌打ちして踏みとどまろうとする壱歳だったが、側面からは郭之丞の刀が振り下ろされる。それを、金属に包まれた左腕を差し出して阻む。小手と手袋が一体となった、拳を護りそれによる攻撃を補助する道具だ。
 仕返しと壱歳からは足払い。郭之丞は後方へ飛びのいて難なくかわす。ファングからは足元を立て直す前の壱歳を斬り伏せようと真紅の刃持つ刀剣が突き出される。直後、貫かれたのは壱歳によって肉の盾とさせられた小悪魔だった。前衛の壁を突破されたのではない、壱歳に連れられてきたものだ。
 仲間を仲間と思わぬ所業。いや、元々仲間ですらなかったのかもしれない。仲間という概念を持つための人の心などとうに捨てたのだろう。
 油断は不要。手加減など無用。今倒すべきは既に魔物と化したものなのだ。

「よくこの日この時間がわかったわね?」
「守国殿に『見て』もらった」
 前衛。倒せど増える小悪魔をかき分けて、ようやく吉祥天が姿を現した。尼の格好で、手には琵琶を抱えている。あの琵琶が曲者だと、問いに答えながら大輝は思った。
「そう‥‥やはり邪魔みたいねえ、ここの主殿は」
「鎌倉の進む道を邪魔しているのはお前だろう、吉祥天っ」
「僕は個人的にやり返さなければ気がすまないので!」
 椿と喪が各自の得物で勢いよく宙を薙ぐ。生じた衝撃波は間違いなく吉祥天に向かっていき――琵琶の胴体部分を破壊した。
「あら、いいわね、熱く燃える魂‥‥好きよ、純粋な魂の次くらいには」
 もはや意味を成さないそれを投げ捨てた吉祥天。彼女はやや小ぶりな刀を携えて悠然と立っている。
「暗器か!?」
「複数の用途をもつ道具って便利よねえ」
 どこまでの使い手なのか予想がつかない。見極めようとするアランへ、茶化すように微笑みかける吉祥天。ぷくりと彼女の腹が膨れたのは次の瞬間で、その意図するところを皆が察したのはさらに次の瞬間だった。
 そしてそのまた次の瞬間。吹き付けられる炎が前衛を包み込んだ。
 前衛に盾を所持する者はいなかった。大輝と椿からは肉の焼ける臭いが強く漂う。頑丈な防具に護られ事なきを得たアランはすかさず駆け出し、吉祥天に刃を突き立てんとする。
 けれど叶わなかった。彼女はアランの頭上に浮いていた。古いラテン語とわかる一小節を口ずさみ、アランの足元、彼の影を爆発させた。

 鍛錬を積み、魔よけの施された道具を持つ蓮花なれば、小悪魔ごときに遅れはとらない。空に対しては矢を飛ばせばよい。しかしそれも対少数ならでは。数の多さという強敵にはめいの呪縛の魔法やファングの衝撃波で対処する。前衛が炎に包まれていたのが気になるものの、持ち場を離れるわけにもいかず、ならばできうる限り速やかにこちらを終わらせるだけ。
 己の血が流れることを恐れていないのか、壱歳は刃にひるむことなく攻撃を仕掛けてくる。もしくは吉祥天に何らかの術を施されているのかもしれない。だからといって手加減などもはや選択肢にないが。
「めい、ファング抜きでどれくらい耐えられる」
「え‥‥小悪魔の数が減りましたので数分はいけるかと‥‥でも何を――」
「よし。ファング、こちらはいい、壱歳を落とすんだ!」
 よりによって護衛対象本人からの「護らなくていい」との言に、めいもファングも蓮花でさえも目を丸くする。だがファングはすぐに体の向きを変えた。小悪魔へ対処しつつ壱歳とも対峙しようとするよりは、皆の消耗度合いも気がかりゆえに、郭之丞とふたりでいち早く壱歳を倒してしまったほうがいい。
「うおおおおおっ!」
 方向と共に繰り出される一太刀。死角からの攻撃にも対処可能な壱歳ではあったが、郭之丞との間に挟まれていては思うような動きができるわけもなく。肩口に深く刃のめり込む重圧によろめく一方で、この隙を逃さぬ郭之丞が放った鋭い居合いに腹部を裂かれた。
「陽の当たる道を、歩ませてやりたかった‥‥」
 己の敗北を信じられない様子で伏す壱歳に、郭之丞は声をかける。
「頼む、教えてくれ。幸殿の魂はどこに」
「知るか」
 勝者からの懇願。吐き捨てるように呟く壱歳。ファングの二の太刀が壱歳の敗北を完全なものとし、彼女の体は霧散する。

「今のうちに」
 喪が短く告げると、大輝も短く頷いて魔法薬の瓶をあおる。こうして誰かが補助しなければ薬を飲むこともままならない。
 焦げ、ところによっては燃えかすとなった着物を軽く押さえ、その下の肌に張りが戻ったことを確認する。周囲からは小悪魔の数もかなり減り、ついでにアレーナの姿もなくなっているが恐らく奇襲を狙って隠れたのだろう。
「アラン殿も狙うつもりのようだ。行けるか?」
「今しかないと思う」
「わかった、巻き込んでくれるなよ」
 椿が駆け出し、大輝が剣を構えれば、喪もまだ残る小悪魔の殲滅に乗り出す。椿と交代でアランが下がり、マントの力で透明になる。大輝の剣がバチリと放電を始めた。
 吉祥天が気づく。が、遅い。雷王の稲妻と称されるほどの雷撃が周囲の小悪魔ごと彼女を焼いた。
 彼女の体が黒く光る。瞬時に発動させた魔法は恐らく最も厄介とされるものであろう。椿の刀を受け止めきれず腕に傷を負った後、炎をまとって飛び込んできた大輝によってさらに焼かれるも、二度目の突撃ではそうはならなかった。三度目の突撃では吉祥天の獲物を破壊し、四度目で彼女の体勢を崩した。
 その間に椿は隠しておいたもう一本の太刀を手にする。
「くっ!」
 太刀筋から逃れようと無理に身を捻った吉祥天、その着物の袂から白い玉が顔を覗かせた。慌てて玉を手に取る吉祥天だったが、
「畜生にも劣る下劣な行為、見逃すほどの腑抜けではない!」
 アランによる渾身の峰打ちが、彼女の手から玉を落とさせる。それでも尚、玉を追うその手を、
「幸殿のために返してもらうよ」
 アレーナの一閃が切り落とした。
 本体を離れた腕は袂共々霧となる。玉は何のためらいもなく落下を続け、地面に触れるすんでのところでアレーナの手に収まった。その光景に吉祥天が怒りで眉を吊り上げるも、それに屈する者は誰一人として、いない。
「これで、終わりだ‥‥っ!」
 闇を絶つ雷王剣。断末魔の叫びは高らかな笑い声だった。


 幸の小さな口と喉に白い玉がするりと飲み込まれていく。この玉こそ彼女の魂、すなわち生命力。
 もう一度、世界をその目で見てもらいたい。そう思ったアレーナが急いで運んできたのだが――玉を完全に飲み込んだ後も、幸の視力は戻らない。血の気に乏しかった頬が、朱を差したように赤くなっているものの、それだけ。
 愕然とするアレーナだったが、共に来ていためいがもしやと術の詠唱を始める。解呪の魔法だ。白い光が一瞬だけ幸を包む。心臓を高鳴らせながら侍女が幸の両目を覆っていた布をはぐと、幸は瞬きをひとつした。アレーナと視線が合う。
「想像していた通りの、素敵な方ですね」
 嬉し涙を浮かべながら微笑む幸に、アレーナとめいも笑みを返した。

「本当にそれでいいのか?」
「ええ、いいんです」
 紆余曲折を経て我が家たる鎌倉藩主邸に帰還した細谷一康は、友たる大輝にそう言い切った。攻め込まれる前は謀反人として投獄されていた元筆頭家老とその家臣達へ、自分が藩主を継ぐ折に恩赦を与えるというのだ。
「彼とて騙されていました。全ての罪が消えるわけではありませんから、特別な役職に就くことは二度とないでしょうが‥‥」
「わかった。幸殿だな」
 気兼ねなく深いところへ探りを入れられるのも、信頼のなせる業。かといって民の気持ちもあるだろうから、元謀反人の娘との婚姻など、一筋縄ではいかないだろう。そこは一康の統治者としての腕の見せ所となるだろうか。

「すまない、一康殿。あの時、どんな話でもいいから少しでも両家で話し合いができていれば――」
 ――鎌倉の民は己の手で鎌倉を取り戻せたのではないか。皆まで言えずにうつむき拳を握り締めるアランに、だが一康は歩み寄り、爪が食い込んで今にも血の流れ出しそうな拳にそっと手を重ねた。そのまま頑なな指を一本一本ほどいていく。
 まるで女人のような仕草であったが、のどかで平和な地の主には、そういった者のほうがよいこともあるだろう。
「十分です、と言うつもりはありません。鎌倉はまだまだあなた方の助力を必要としているのですから‥‥どうぞ手伝ってください」
 鎌倉を学問の都とする構想。その実現のためには多くの力を借りなければならない。
「‥‥ああ。この地に幸多からんことを」
 アランは握手を求め、一康がそれに応じる。
 大輝も、雷王剣使用の結果報告で神皇の元を訪れる際には援助や助言を乞うのもありかもしれないと、広がる未来へ思いを馳せる。

 椿は見上げていた。破魔矢のぶら下がった鳥居を。ゲン担ぎにと決戦前のまだ日の高いうちに吊るしたのだが、果たして効果はあったのだろうか。それを確かめるすべは、勝利したとはいえ、ない。
 だがそうは言っても全く効果がなかったとも断言できないのだから、すぐには外さず、いま少しの間だけ吊るさせてもらおうと決めた。
 満足げに見上げ続ける椿。彼女の横を、旅支度を整えた喪が歩いていく。
「もう帰るのか?」
「ええ。すっきりしたので」
 鎌倉のためではなく、やり返すために戦ったのだから、依頼と自分のやりたいことは完了した。だから帰る。笑顔で説明してくれた喪に椿は苦笑したが、義のために戦ったというよりもよっぽど喪らしい。
「待ってください、俺も江戸へ戻ります」
 向こうから、喪と同じように荷物を抱えたファングが走ってくる。彼の生業は戦うこと。学問の都を目指す鎌倉において、彼のような者の役目はひとまず終わったのだ。

「頼む、ここにいてくれっ」
 郭之丞の懇願むなしく、日乃太はさっさと部屋を出て行った。残されたのは郭之丞、そして守国。つまりはふたりきりという状態にされたくなかったのだ。
 くっくっく、と堪え切れず笑いを漏らす守国。郭之丞は布団に包まって隠れたくなってしまう。
「そう身構えるな。とっておきの言葉を、他の者に聞かせるのは惜しいだろう?」
「とっ‥‥!?」
 逃げ腰になっているのを捕まり、とっておきとやらが気になって強張る体をひきずり戻される。また笑われる。
 ひとしきり笑ってから、守国は、一息ついた。
「――嫁にこい」
 郭之丞への感情をそのまま表に出した、短い言葉だった。