【鬼哭伝・江戸の騒擾】前編 〜辻斬り〜
|
■シリーズシナリオ
担当:御言雪乃
対応レベル:1〜5lv
難易度:普通
成功報酬:5
参加人数:10人
サポート参加人数:8人
冒険期間:01月17日〜01月20日
リプレイ公開日:2006年01月25日
|
●オープニング
「おじいちゃん!」
事切れた祖父に抱きすがり、朱美は泣き崩れた。哀しく響く声を、びゅうと木枯らしが切り刻む。
慌てて駆けつけてはみたものの、青井新吾は成す術もなく立ち尽くした。その肩に雪が降り積もっていく。
「朱美‥‥」
背に手をのばし、しかし灼鉄に触れたように新吾は腕を引いた。
朱美も、その祖父も、新吾にとっては身内同然の長屋の住人であった。それなのに浪人の身の新吾には医者を呼ぶことはおろか、食べ物すら与えてやることはできなかった。今さら慰めの言葉など吐けるわけもない。
握り締めた掌に爪を食い込ませ、新吾は背を返した。地に厚みを増し始めた雪を踏みしめ歩く。胸に熱泥のような憤怒をたぎらせて。
見るがいい、この惨状を。
新吾の眼前で、大火によって焼き出された者達が震えながら身を寄せ合っている。住む所も布団も食べ物もなく、野良犬のように路上に放り出されているのだ。
いったい何人が飢えと寒さで息絶えたことだろう。救い小屋や炊き出しが行われているものの、とてものこと追いつくものではない。
やがて――
新吾は雪原に出た。どこをどう歩いて来たのかわからない。ただ、一面白くけぶる世界に一人立っている。
と――
雪が舞い立ち、影が浮かびあがった。
総髪の端正な顔立ちの若者。雪よりもなお白い着物を纏っている。
「青井新吾殿か」
「何者だ」
若者に呼びかけられ、その幻想的な雰囲気に半ば恍然となりながら、しかし一方で毒蛇にまとわりつかれるような怖気に触発されて、新吾は無意識的に刀の柄に手をかけた。が、対する若者はさして気にした様子もなく薄く嗤ったのみだ。
「九鬼花舟と申す。‥‥ご安心めされい。拙者は貴殿の敵ではござらん。むしろ味方でござる」
「み、かた‥‥?」
「左様。貴殿がこれから何を成すべきか、ご教授する為に推参仕った」
「俺が成すべきことだと!? どういうことだ?」
我知らず、新吾は叫んでいた。
しかし若者――九鬼花舟はさらに笑みを深くして、
「貴殿もすでに承知しているはず。このまま源徳に縋っておっても埒があかぬことを」
「うっ」
新吾は息をひいた。
確かに九鬼と名乗る若者の云う通りだ。源徳の助けを待ち、手をこまねいている間に次々と人が死んでいく。
「とはいえ、俺にどうしろと云うのだ。源徳にできぬものを、俺などに――」
「できる」
九鬼の眼が、その時薄蒼い光を放った。鬼火のごとく眼中に光を揺らめかせつつ、彼は続ける。できる、と。
「不公平とは思われぬか。ぬくぬくと惰眠を貪り飽食の限りを尽くす者がおる一方で、飢えと寒さに震えつつ死の床で呻吟する者がいることに」
「ふっ、何を」
新吾は嘲りの形に口をゆがめた。
「それは当たり前のことだ。今、それを憂いたとて何にもならぬ」
「左様。憂いたとて何ほどのこともござらぬなぁ、当たり前のことである故に。‥‥弱肉強食。強き者がいつも弱き者を喰らう。それはこの世の理でござる。ならば――」
九鬼の口がきゅうと吊りあがった。
「新吾殿が己より弱き者を喰らったとて、何の差し障りもないわけで」
「なにっ!?」
新吾が呻いた。それきり息もつげない。
気がつけば、九鬼は何時の間にか新吾の背後に回りこみ、耳元にそっと口を近づけていた。
「殺し、奪うのでござる。一匹の豚を殺すだけで、どれほどの弱き者が救われるか。貴殿の腰のものは、その為にこそ活用すべきではござらぬか」
囁く。それは甘酒のように暖かく甘く、新吾の胸の裡にとろりと流れ込んだ。
数日後。
夕闇迫る冒険者ぎるどの入り口に、一人の娘が立っていた。
途方にくれたようなその様子に、思わずぎるどの手代が声をかけると、娘はおずおずと戸をくぐり、ぎるどの中に足を踏み入れた。
「依頼でございますか?」
手代が問うと、娘は戸惑ったように表情をゆらし、
「はい。‥‥い、いえ、あの、こちらでお頼みするのに、いかほどの金子がいりましょうか?」
「いかほど、と云われましても‥‥」
今度は手代が戸惑った。それは場合と冒険者にもよるので一概には云えないのだ。
そのことを告げると、娘は髪に刺していた簪をぬくと、手代に差し出した。
「このようなものでもかまいませんでしょうか」
「さあ、私には何とも」
困ったように笑いながら、しかし手代は帳面をひらくと筆を手にとった。
「では貴方様のお名前と、ご依頼の内容をお聞き致しましょうか」
「はい」
一度息をつめ、娘が眼を見開いた。
「私は朱美と申します。依頼の内容は‥‥青井新吾様をお助けいただきたいのでございます」
「青井新吾様をお助けする?」
「はい。新吾様は私が住んでおりました長屋に同じく住まわれていたご浪人様で――。その新吾様のご様子が最近変なのです。大火に焼け出された方々に食べ物や薬などをふるまっておられるのですが、ご浪人の身でそのような金子をお持ちであるはずもなく。‥‥何か良からぬことに巻き込まれておられるのではないかと」
すいとわいた人影に、備前屋は足をとめた。前を行く手代が慌てて提灯をあげる。
黄色い光に浮かびあがったのは浪人者らしき侍だ。頬っ被りをしているために人相はしかとは判別できぬが、まだ若者であるようだ。
「備前屋、だな」
「さ、左様で」
備前屋が頷いた。声が震えているのは最近横行している辻斬りの噂が脳裡を過ったためである。
その備前屋の思いを読み取ったか、若侍はニンマリと笑うと、
「うぬの懸念の通り、辻斬りだ。懐のもの、置いてゆけ」
「ひっ」
たじろぎ、慌てて備前屋は財布を取り出した。
「い、命ばかりはお助けを」
「ふん」
嘲笑うと、若侍は備前屋から財布を奪い取り懐中へ。が、依然として視線を備前屋の面にへばりつかせている。
「備前屋。噂に聞いたところ、うぬは高騰を狙い、材木を売り渋っておるようだな」
「い、いえ、私は決してそのような――」
「聞く耳もたぬ」
声が終わらぬうち、若侍の腰から白光が噴出した。それは刹那の間に夜気と肉を断ち――鍔鳴りが響いた時、血煙りの中にどうと備前屋が倒れ伏した。
と――
「ひっ」
腰をぬかした手代の悲鳴がか細くあがった。その半顔が地で燃える提灯の炎光に不気味彩られ――
若侍はするすると滑り寄ると、無造作に手代を斬りさげた。
●リプレイ本文
「危険な賭けだけどさ‥気をつけてね」
所所楽柳(eb2918)に晒しを巻きながら、姉の所所楽石榴が、ふと言葉をもらした。が当の柳は軽く笑って、
「虎穴に入らずんばってやつさ。志士として源徳勢力衰退は悪くないかもしれんが‥神皇様が治める安寧の世ではなく、昏く寂しい世になるかも知れぬのなら‥動かぬわけにはいかない」
「でも――」
石榴は口ごもる。
柳の追う敵。もし、その相手が噂通りであり、また此度もかかわっているのだとしたら、虎穴にいるのは虎どころではない。それは――
●少し刻は遡る
「お金がそんなにあるのは羨ましいではなくて、おかしいですね」
真面目とも本気ともつかぬ顔で小首を傾げたのは流道凛(ea8685)である。
無邪気であるといえば聞こえは良いが、御歳すでに二十半ば。まあ確かに見た目は可憐な十代なんだけれど。それに驚くべし、生業は用心棒。けっこう強いときている。
が。
綺麗だ。ともかく。と――その凛を眩しそうに見つめていたゲオルグ・マジマ(eb2330)がゆっくりと頷いた。
「確かに仕官に成功した訳でもなく、冒険者として成功している訳でもない浪人が多額の金を使って施しをしているというのは変ですね」
「ま、金の無い浪人が突然羽振りが良くなるってのは、大方博打か悪どいことに首を突っ込んでるって相場が決まってるんだがな‥‥」
ぼそりと呟いたのは雷秦公迦陵(eb3273)。仮面めいた面の中で、ただ右の瞳だけを紅く妖しく光らせて。
ある者は、それを呪いだと云った。あまりにも多くの血を映したが故の。まあ、真偽は定かではなく、迦陵自身もまた気にしてはいないが。
と――
一人の侍が茶店の縁台から立ち上がった。見上げる別の侍は、この寒風の中、春の日を受けたような穏やかな顔をしている。
「どこへ?」
見上げた侍――平山弥一郎(eb3534)が問えば、立ちあがった侍――眞薙京一朗(eb2408)はちらと眼だけで見遣り、
「良からぬ事に巻き込まれた浪人が絡むとすれば、まず思い浮かぶのは賊かその用心棒辺りだ。辻斬りも然り。刀を振るう者が踊る理由に金子が絡むのは珍しくもないからな。――俺は被害にあった店を探す」
「ならば――」
続いて二つの影が立ち上がった。一人は忍びで城山瑚月といい、一人は浪人で渡部夕凪という。
「俺も辻斬りなどの犠牲になった店の所在を調べよう」
ぽんと。瑚月は京一朗の肩を叩いた。
「私は見知りの役人でも掴まえて、押込みや辻斬りのことでも聞き出してみようか」
「番所なら、共に」
夕凪の後を追って、ゲオルグもたてかけていた銀槍を手にとった。続こうとし、しかし鬼切七十郎(eb3773)は浮かしかけた腰を戻した。弥一郎がしきりと小首を傾げていることに気づいたからだ。
「どうした?」
「いや、ちょっと気になることがありまして‥‥」
腕を組みなおし、弥一郎が続ける。
「常に親しくしている人の思惑であれば、違和感は間違いなく存在するのでしょう。ただ、私は他にも突如凶行にはしった者を知っているのです」
「何者です、それは?」
興味をかられたのか、どこぞの若様かと思わせる風情の侍が手にしていた茶をおいて顔を振り向けた。
「片東沖苺雅(eb0983)と申します」
名乗り、そして、
「是非お聞かせいただきたい。それは何者です?」
「霧隠才蔵」
「!」
苺雅は息をひいた。
霧隠才蔵――町人百姓ならばいざ知らず、およそ冒険者でその名を知らぬ者はいない。真田十勇士の一人であり、稀代の忍びであり――。
と、火に炙られたように七十郎が腰をあげた。
「やはり気になる」
「何が――」
と問う苺雅をおいて、七十郎は駆け出して行った。方向からして、おそらくはゲオルグ達を追って行ったものだろう。
「では我々も」
「そうですね」
促す弥一郎に苺雅が頷いて見せる。
かくして――
冒険者達は動き始めたのである。が――
この時、まだ彼らは知らぬ。一人の若者の影を追うだけと思われたこの事件が、やがて江戸を震撼させる大乱につながるものであることに。
●
棒に板と筵を張った小屋ともいえぬ粗末な住まいの中、朱美は驚いたように眼を外に向けている。その視線の先――銀千邦が被災者の傷の治療を行っていた。
「あの‥‥あの方は――」
「お気になさらず。他人を治したくてうずうずしている人ですから」
「はあ」
山城美雪(eb1817)の託宣めいた声音に、わかったようなわからぬような応えを返し、しかし朱美の口辺には小さな微笑がはかれている。どうやら千邦の想いは届いたようだ。一つ咳き払いし、凛が口を開いた。
「では青井新吾さんのことをお教えいただけますか。例えば人となりや普段の収入など」
「そうですね‥‥」
朱美は胸の底を探るように眼を伏せ、
「良いお方です。優しくて強くて。それからご浪人様でいらっしゃいますので、これといった収入はおありにならなかったはずです」
「では――」
次に口を開いたのは迦陵だ。抑揚を欠いた声音でおもむろに切り出す。新吾という浪人者に異変を感じ取ったのは何時頃か、と。
「それは一月ほど前のことでございます」
朱美が応えた。
年の瀬の頃、良い仕事が見つかったとして、新吾は被災者の援助を始めたのだが――
「その時分より新吾様のお顔が恐くなられて――」
「恐く?」
「はい。何か熱に浮かされたように、いつも眼をぎらぎらとされて‥‥」
「なるほど」
肯首したものの、すぐに迦陵は切るような眼差しを朱美に戻し、
「だが一つ腑に落ちぬことがある。同じ長屋に住んでいるだけのそなたが、たかが浪人一人の事を何故そこまで気にかけるのか。推測するに既に移住、もしくは火事で焼け落ちたとは思うが、何か特別な長屋の住人同士の連帯関係があったのではないか?」
「それは――」
言葉につまり、朱美が顔を伏せた。しかし迦陵に容赦はない。
「だんまりは困るな。依頼をする以上、相当の覚悟があってきたんだろう。全て話していただく」
「――まあ、お待ちを」
氷風のごとき冷然たる語調で美雪が迦陵を制した。漆を流したような黒髪を鮮やかに白い指で梳く彼女の視線は、じっと朱美の薄紅色に染まる頬に注がれている。
「女子にそのようなことを尋ねられるとは――。無粋な」
娘が男子のために尽くす時、そこに開くのは小難しい理屈などはない。それは朱美の羞恥の様子を見るまでもないことであった。
言葉を返そうとした迦陵を、しかし凛がまあまあと宥め、すぐさま話をそらす。曰く、新吾さんの剣のお腕前の方はどうだったのか、と。
「それはもう」
朱美がかすかに表情をほころばせた。
「中条流という剣法をお使いで、かなりのお腕前と」
「中条流、ですか‥‥」
凛が記憶をまさぐった。が――手繰れるものはあまりない。
武士の習いとして中条流なる剣流の名くらいは聞いたことがあるが、彼女の知識程度ではその本質に迫ることは不可能だ。
「あの――」
「はい?」
朱美の声に、夢から覚めたように凛は眼を瞬かせた。
「何か?」
「いえ、あの‥‥。新吾様は本当に大丈夫なのでしょうか」
「そのご心配を晴らすために、私達はここにいるのです」
ずるい口上と知りつつ。応えた美雪はさらに問いを重ねるために息をついだ。
●
「‥‥ひどい」
まさか、これほどとは――
大火の傷痕。暴虐の爪は人も建物も、いや町そのものを引き裂いて、残るは骨ばかり。からからと雪混じりの寒風に吹かれる難を逃れた人の眼はただ虚ろで。
と、呟いた声の主を見とめ、飢えた腹に握り飯――青井新吾が配ったものだ――を押し込んでいた難民の幾人かが思わず手をとめ、見惚れた。
それほど声の主は魅惑的で――胸も尻もはちきれんばかりに衣服の布地をおし、何より雪色の髪と紅玉色の瞳の妖しさはどうだろう。
――セピア・オーレリィ(eb3797)である。
その時――
突如のびた手がセピアの腕を掴んだ。慌てて振り向いたセピアの眼は、下卑た人相の薄汚い男二人を見出している。
「えれえ別嬪じゃねえか。こんなところを物見遊山なんてのは物好きが過ぎるぜ」
「ジャパン語、ヨクワカリマセ〜ン」
ふざけているようだが。しかしセピアは必死だ。
このようなごろつき、彼女の腕をもってすればあしらうのは簡単だが、いかんせん新吾の目の前だ。今、手の内を見せるのは拙い。
そう躊躇しているうちに、セピアは男に引き寄せられた。そいつの手が彼女の豊満な胸を鷲掴みにする。
たまらずセピアの手が槍を握りなおし――突如、男が身を折った。そのままずるずると地に這う。
その背後、うっそりと立つのは――おお、青井新吾その人だ。
「ジャパンを訪れてくれた方に無礼をはたらくなど、許さん」
「何を!」
残る一人が懐から匕首を取りだし――しかし、そいつもまたどうと崩折れた。
やや驚いた眼を新吾が巡らせ――その眼前、鉄笛で肩をとんとんと叩く柳の姿があった。
●
「義侠塾!?」
繰り返し、やがて番所の役人は表情をゆるめて七十郎を見返した。
先の大火の折に焼けた伝馬町牢屋敷。その火消しに義侠塾生が尽力したことを、どうやら役人は聞き知っていたようだ。
「で――」
と、勝手に義侠塾生になりすましたゲオルグが質問を浴びせる。目撃者はいないのか、と。
が、役人は苦笑とともに首を振った。そんな結構なモンがいりゃあ、さっさと厄介事は片付いていると云って。
「ならば辻斬りの手口はどうだ?」
「手口ねえ」
役人は覚書をはらりとめくり、そして後、問いの主である夕凪に眼を向けた。
「ほとんどの者が胴を一薙ぎだ」
「胴薙ぎ――」
呟く七十郎の言葉は、何故か忌言葉のように冒険者達の耳に響いた。
同じ頃、迦陵は越後屋にいた。
相変わらず物騒なモン売ってんな〜、などとぼやきながら、ふと思いついたかのように、
「最近、どこかで金が動いたって話は聞かないかい? 不審な噂でもあればいいんだが」
「噂ねえ」
忙しそうに商品の片付けをしていた手代であるが、おっとばかりに手をとめた。
「そういえば、最近大量に刀や槍を買い込んだ人がいるって話ですよ」
「刀や槍?」
違う。新吾が武器など買うわけがない。
肩を落すと、迦陵はそそくさと店をあとにした。
●
難しい顔で備前屋の暖簾をくぐり表に出た京一朗を見とめ、苺雅が歩み寄ってきた。
「その様子ではさしたる成果は得られなかったようですね」
私もです、と付け加える苺雅から眼をそらすと、京一朗は深い吐息をついた。
甘かった。途中から辻斬りの被害者に絞って探索を続けたのだが、店の者の口は思いの外かたく
口止めでもされているのか丁稚もそそくさと逃げるよう。
「私も同じのようなものですよ」
同じように辻斬りの遺族を見舞っていた苺雅もまた苦く笑う。
が――
それもまた返答。透けて見える在り様。一様にはねつける面の皮の裡――いや、裏にはやはり後ろ暗い翳が仄見える。
「それはそうと」
苺雅が表情をあらためた。
「青井新吾という浪人者、かなりの人物らしいですね。彼の知り合いの方々に当たってみたのですが、少なくともその人たちの中で彼を悪く云う者はいません」
どころではない。被災者の中には、彼をのためなら命すらいらぬという者までいた。
「それも仕方ないでしょう」
声は水鏡の閃き。
「美雪君――」
応えを返そうとし、美雪の目配せに慌てて苺雅は口を噤んだ。彼女の背後――荷車を引く侍の姿が見える。それは――青井新吾だ。いや、それだけではない。荷車を押す柳の姿も見える。
ガタピシ、ガタピシ。
通り過ぎる荷車を見送って後、再び美雪が口を開いた。
「あの荷車の荷すべてが被災者のためのものです。難儀におうた者が感謝せぬわけがありません」
「荷のすべて‥‥」
「ええ。薬問屋で彼とゆきあったのですが、かなりの量の薬を買い込んでゆかれました」
「ほお」
遠くなりつつある新吾を背を眺めやり、京一朗はさらに深い吐息をついた。
世情を憂う有志の若者。なればこそ吹き込み煽り――かえって操るは容易いだろう。が、言霊の毒はその身ではなく魂を腐らせる。
もし何者かに踊らされているのなら、此度の依頼は辛い仕事となるかも知れぬ。そして――
もしそうなら、その何者かは許さぬ。
●
「ほら」
新吾が差し出したのは水筒と握り飯だ。いや、と断ったものの、無理やり押しつけられ、柳は石垣に腰を下ろした。
気がつけばすでに夕さり。被災者の世話で走り回り、昼食をとることも忘れていた。その事を思い出したように腹がぐうと鳴る。
「ふふ。腹は正直だな」
「なにを――」
顔を顰め、しかし、それでも柳は握り飯を口に運んだ。すでに冷たくなっているが、これほど美味い握り飯は食べたことがないと彼女は思った。
「――ところで新吾殿」
水筒の水を喉に流し込んでから、柳は新吾に顔を振り向けた。
「僕も皆の力になりたいと思っている。が、何を成すべきか、まだ良くはわからん。どうだろう。それが見つかるまで七日‥‥いや、三日でいい。共に行動させてくれないか?」
「柳さん」
応える新吾は夕陽を見つめたまま。その面が赤く染まっている。
「――もう共に働いているではないか」
「そうだな」
肯首し、柳もまた夕陽に眼を転じた。
――何故だろう?
――どうして、こんなに痛い?
柳はそっと胸を押さえた。
そして。
潜むセピアの手に届くよう、丸めた紙片をそっと地に転がした。
哀しそうだ。
柳と並んで座る新吾の横顔を見遣って、凛は思った。そして、この人達も――
新吾と同じ長屋の者達は、新吾を敬愛し、同時に辻斬りを憎んでいた。評判の良くない商人が被害者であることに小気味良さを覚えているのは片桐惣助が調べ出してくれた町人の反応と同じであるものの、やはり人殺しは人殺し。が――
その辻斬りの正体が新吾であると知ったら――
●
七十郎と視線を交すと、弥一郎は新吾の後を追った。
フィーネ・オレアリスから被害者は皆金に懐が膨らんだ商人であると連絡を受けている。となれば、次に新吾が狙うのもまた富裕で強欲な商人。
とめねばならぬ。血で汚れた金子で繋がる命――まさに火宅である。何故に新吾は生き地獄に足を踏みこませてしまったのか。
と――
その時、弥一郎は新吾の後をゆく荷を背負った行商人に気がついた。
「!」
行商人の顔を一目見、息をつめると、はじかれたように弥一郎は身を隠した。
その行商人の顔。彼は――弥一郎のみは見知っている。
かつて――
江戸の神剣騒動の折り、江戸城地下絵図面を巡って彼はある一党と攻防戦をくりひろげた。その一党の中に、弥一郎は眼前の行商人の顔を見とめている。名は確か狐坂陣内――
ぎりぎり。
と、
運命の歯車はゆっくりと回り始めた。