●リプレイ本文
帰れ‥‥
塒へ‥‥
薄桃色の春霞がかかったような眠りから、浪人者ははっと眼を覚ました。
びくり。
横たわった血まみれの人影が身を震わせたのを見て、眺めていた町人ふうの男が眉をひそめた。
「この野郎、今、動きやがったぜ」
「ふん」
もう一人。こちらは浪人者の風情の男が嘲るように口をゆがめる。
「身をひきつらせてやがるのさ」
云うと、浪人者は一升徳利に口をつけた。
●
「お暇することに致しました」
突然多羅尾半蔵道場を訪れた玲瓏たる雪色の髪の娘。何事かと問う伊吹丞太郎にこたえたのが娘の先の言辞だ。
「こちらの居場所が知られてしまいましたから。‥それでご挨拶に伺いました」
「そうですか‥‥」
心底残念そうに肩を落とし、丞太郎は雪色の髪の娘――所所楽林檎(eb1555)を見返した。
実は丞太郎はこの物静かで優しげな娘のことを好いている。もし姉がいたなら、このような方であったであろうかと‥‥。
「ところで北斗さんは?」
「玄間は彼の者達の元で潜伏しております」
林檎がこたえた。まさか夜烏党にとらえられたなどとは云えない。
それにしても――と林檎は思う。手を引くと見せかけるといっても、それはそれで大変だ。なまじ念入りに仕掛けを施してきたことが、今となっては仇となっている。
「では、これで」
「あっ、お待ちを。私がお送りしましょう」
慌てて身支度を整えようとする丞太郎であるが。しかし、待てと呼びとめた者がいる。
庭を見渡す縁側でごろりと横になった隻眼の若侍――柳生十兵衛だ。
「お前にはやってもらいたいことがある」
云って、十兵衛は顎をしゃくって見せた。その先――縁側に座しているのは丞太郎にとっては馴染みであり、ある意味最もこの世で恐ろしいシオン・アークライト(eb0882)。ちらと見かけたことのある彼岸ころり(ea5388)。そしてもう一人は――。
「この者の世話をしてもらいたい」
「その方の?」
戸惑う丞太郎の眼前、紹介された若者はすらりと立ちあがると会釈した。
「大神森之介(ea6194)。能役者をしている」
「能‥役者?」
丞太郎はまじまじと森之介を見つめた。
能役者という者に対面したのは初めてであるが、そういえば立ち居振舞いが美しい。それにしても世話とは――?
「舞と剣は相通じるものがある。是非とも剣の稽古をつけていただきたい」
「はあ」
確かに剣の達人の動きは舞にも似た優雅さを秘めている――と納得する丞太郎であるが、彼は森之介が忍びの片桐惣助(ea6649)の主筋の分家であり、此度は丞太郎を護る為に推参したことを知らぬ。
と、森之介の傍らのシオンが口を開いた。
「やったげなさいな、丞太郎。それとも――」
すっとシオンの口辺に笑みがはかれた。美しく艶やかな笑み。
「私をかまってくれる?」
「‥‥」
慌てて丞太郎は首を振った。その様は、まさしく蛇に睨まれた蛙‥‥。
立ち去り際、シオンが十兵衛の耳元に口を寄せた。
「丞太郎を道場につなぎとめておいてほしいの」
「面の割れていない俺が護るつもりでいるがな」
と森之介も口添えをすれば、十兵衛はうむとばかりに頷いた。
「わかった。それより――」
すうと十兵衛の隻眼が薄く光をおび、北斗はどうなったと問うた。すると、それまで黙していたころりがニンマリとし、
「このまま死なれちゃ寝覚め悪いし。助けてあげるつもりだよ」
云って、くるりと背をむけた。が、数歩いきかけてころりは足をとめた。
「ってかさ、十兵衛様。ボクは別に死ぬのは恐くないよ。どーせ人間最後には死ぬんだからさ。ただ、いつ死んでもいいように日々を目一杯面白可笑しく生きるだけだよ、ボクはね♪ ‥‥あ、でもワケもなく人斬りはしないから、その辺りはご安心を♪」
きゃはははは♪
強くなり始めた日差しの中、ころりの笑声が遠ざかっていく。見送る十兵衛はただ苦く笑って――
何故なら、十兵衛にはあまりころりを責める事のできぬわけがある。他ならぬ彼自身が退屈を嫌うが為に源徳家剣術指南役を棒に振ったほどの男であるが故に。
が、それでも十兵衛は思うのだ。惜しい、と。
古来、死を畏れぬ剣豪がいただろうか。――いない。あの剣聖宮本武蔵ですら死を畏れ、どれほど勝ちにこだわったか。剣聖と呼ばれる者達は皆、死の恐怖の底の底まで沈んで、それを潜り抜けて新たな地平に踏み出した者達なのだ。
一瞬を生きようとするころりは、もしやするとある種の天才であるのかも知れぬ。それ故になおさら十兵衛はころりを惜しむのである。
と――
では、とばかりに林檎もまた辞宜を送った。つられたように視線を転じた十兵衛は物陰に身をひそめた痩躯の女侍に気がつき、
「おっ」
と僅かに隻眼を見開かせた。
「妹の柳をご存知で?」
「ああ」
苦笑しつつ、十兵衛は林檎に頷いて見せた。
「お前も忙しい奴だな」
「友を探す手伝いくらいしたいじゃないか」
「友か‥‥」
呟き、十兵衛は童子のような笑みを所所楽柳に返した。
●
誰もおらぬ‥‥
ほくそ笑むと、井上播磨は小屋を後にした。
やや遠くなりつつあるその後姿を――今度は別の影が冷笑をもって見送っている。
――見捨てられているとも知らず‥薄いものだな、悪党の繋がりは。自ら口を割らなかった義理立てさえ無意味とは‥。
影――木賊真崎(ea3988)がちらりと走らせた視線の先、片桐惣助(ea6649)が頷いて疾りだしている。
春花の術で眠らせた後の無影での暗示。戒めを緩めて逃亡を促したのだが――上手く塒へ辿り着いたとしても、井上を待っているのは破滅への一本道だ。が――
――塒への道案内さえ果たしてくれれば、それで良し。
冷然たる計算を胸に、惣助は播磨の後を追い始めた。
「まだ尾行けてくるか?」
「うん」
懐手のまま飄然とゆく羽紗司(ea5301)の問いに、傍らを歩く若侍がこたえた。若侍――それは気を読むに長けた久遠院雪夜(ea0563)の変形した姿であるのだが、確かに彼女の云う通り、長屋を出た辺りからずっと後を尾行けて来る者が一人ある。
「やっぱ司さんに目をつけてたみたいだね」
「しつこい奴らだ。そろそろまくぞ」
肉食獣のようにふてぶてしく嗤うと、司は一軒の切見世に足を踏み入れた。慌てて後を追おうとして、雪夜がきょろきょろと――。
「僕、こんなところに来たのは初めてです」
頬に桜色を散らせ、それでも物珍しげに格子越しに遊女を眺め遣る。
一方の司はいやに慣れた様子で。大仰に出迎える見世の亭主に平然と金子五枚ほどを握らせると、
「亭主、すまぬが裏口をつかうぞ」
一言声をかけただけですたすたと見世中を突っ切る。
「ふーん、顔って感じだね」
「これも武者修業だ」
揶揄する雪夜を振り返りもせず、司がこたえる。――ほんとか、それは!?
地の息吹、たちのぼる。
聞いて、片膝ついた姿勢から真崎は立ちあがった。
「どうだった?」
渡部夕凪(ea9450)が問う。
これで幾度目だろう。深い木々の中、不惑であるはずの夕凪が、今ゆらいでいる。
「いや」
憂愁に面を翳らせ、真崎が頭を振った。
播磨の脳裡から林檎が読み取った夜烏党の巣のひとつ。もし人質と大烏、加え得体の知れぬ男数名が存在したのなら植物達が見過ごすはずはなく――知らぬということは、ここは外れということだ。
「したが姉上、少し落ちつかれよ」
「そうはいかないんだよ」
夕凪はぎりと唇を噛んだ。
本来なら囚われていたのは北斗でなく、私。夕凪にはその口惜しさがある。
彼女にとっては弟よりもなお年若い冒険者。もしその身に万が一のことでもあれば、夕凪は己自身を終生許すことはできないだろう。
「とはいえ、彼奴らも我らの動きを見張っているだろう。あまり目立つ動きもならぬ」
「私の顔は、奴らに売れ過ぎだからねえ」
ようやく洒脱に笑い、しかしすぐに彼女に似合わぬ恐い顔になると、
「けれど助け出すさ、意地でもね」
誰でもない、自身に宣言し、夕凪は別の根城を目指して踵を返した。
●
黄昏に群青。
夜の足音がひたひたと迫る頃合。
誰ぞの別宅らしき屋敷の中からくぐもった声がもれてきた。
それは常人ならば聞きとることもできぬほど微細なもので――しかし、惣助は常人ではない。
――今のは井上の声!?
愕然とし、しかしなおさら惣助は身を潜めた。敵には忍びの北斗をとらえた者――気配を読むに長けた者がいるはずだ。迂闊に動くことはできぬ。
それになにより――
井上を尾行し、ようやく辿り着いた先――根城に仲間がいないと知るに及び、井上がむかった場所。林檎にすら読み取らせなかったこの屋敷の正体を知るまでは――
と――
表戸が開き、一人の商人風の男が姿を現した。惣助のみが顔を知る、その浅黒い肌の男は――
遠州屋!
明り取りの格子から差し込む月の光だけが仄蒼く――むくりと、闇のわだかまりの中に人影が身を起こした。血と痣で斑になった面にはさすがにいつもの笑みはなく――玄間北斗(eb2905)である。
恐るべし。半死と見え、その実北斗はひたすら責めに耐え、のみならずその間痙攣の振りまでして縄目を緩めていたのであった。いずれ来る脱出の刻に備えて――そして今、戸近くで見張りの浪人者は酒に酔いつぶれている。
やっと北斗の眼が三日月の形に笑み――ぽたり、と彼の戒めが解けて落ちた。次いでよろめく足を踏みしめ忍び寄ると、北斗は浪人者の鳩尾に手刀を叩き込んだ。
「借りは返させてもらったのだ」
荒い息をつくと、北斗は男の腰にさされた彼のアゾットを抜き取った。
十兵衛が用意した屋敷。
その前に立ったのは異様な風体の者達で。――忍犬「疾風丸」をつれた雪夜、そして黒頭巾で面を隠した司である。
やや疲れた態の二人が屋敷中を覗いて見れば、すでに他の者達は戻っているらしく、ころりの隣には協力者の四方津六都が漆黒の獣のように黙然と座している。
「その様子では見つからなかったようだな」
「そっちは?」
司にむかってシオンが問うた。すると雪夜が肩を竦め、
「だめ」
「‥‥」
林檎は睫を伏せた。
疾風丸を使っても追えぬとはどういうことなのだろう。北斗は匂いが残らぬように駕籠か何かで運ばれたということか‥‥。
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ばたり。
北斗がよろめき倒れた。
そこは捕らわれていた屋敷の裏。ようやく抜け出すことには成功したものの、いかんせん血を失い過ぎた。肉を骨を傷つけられ過ぎた。もはや満足に動くこともできぬ。せめて薬水さえあれば――。
と、気配を感得し、反射的に北斗は短刀を抜きうたせた。が、その手はがっしとばかりに気配の主に掴みとられ――
「やっと見つけましたよ」
北斗の眼前、惣助が柔らかく微笑っている。
そして――
ぺろりと暖かな舌が北斗の顔を癒すかのように舐め――
「黒曜!」
愛犬がいることに驚く北斗の前に、今度は艶っぽい美女がにっと顔を覗き込ませる。
「玄ちゃんたらドジっ子だねぇ〜」
「シルフィリア・ユピオークさん! ‥‥どうして」
「先ほど行き合ったんです」
こたえ、惣助は北斗を抱え起こした。
「遠州屋の後を尾行してきたのですが‥‥どうやらここは井上も知らぬ隠れ家のようですね」
考えてみれば当然だ。口を割るかも知れぬ仲間の知る隠れ家に夜烏党の残党がいつまでも潜伏しているわけもなく。
「ともかく早く逃げましょう」
促しつつ、惣助はシルフィリアに焦燥にゆれる眼をむけた。
「犬をつれて先に戻り、仲間に知らせてください」
●
幾許か後。
自身より上背のある北斗に肩を貸す惣助の歩みは遅々として進まず――突如、その足がとまった。
凍りついたかのような惣助に不審を覚え――はっと北斗は背後を振り返った。
銀盆のような月の下。数名の人影がある。
「逃しはしねえぜ」
鮫のように嗤ったのは――遠州屋だ!
「人質は二匹もいらねえ。死にかけの方を殺っちまいな」
彦右衛門が命じると町人ふうの男と浪人者――新吉と菅谷久三郎が抜刀した。
その刃風にうたれたかのように惣助から身を離し、北斗が短刀をかまえた。が、それしきの動きですら今の北斗にとっては渾身の業だ。とても太刀打ちできる状態ではない。
それを見透かしたか、闇が凝結したかのような巨烏が夜気をすべり北斗にむかって――
夜がひび割れた。
かのような哭き声をあげて巨烏が地に落ちている。その身に突き刺さっている矢を、次いでその矢の射手を見とめ、彦右衛門が歯を軋り鳴らせた。
「夕凪、てめえ‥‥」
駆け込んできた雪夜に気がつき、森之介は木剣を掴みかけていた手をとめた。
ちらりと走らせた視線の先――雪夜がしっかと頷いている。ああ、では――。
今度こそ木剣を握り締め、森之介は丞太郎に向き直った。
「今しばし、我が舞を御覧にいれる」
●
あっ、と。突如遠州屋が苦悶の声をあげた。
何が起こったのかわからない。知る者は黒き衝撃者である林檎と冒険者のみである。
刹那、虚をつかれた夜烏党の前にするすると司とシオンが滑り出た。我に返った新吉と菅谷が咄嗟に応撃のかまえをとるが――遅い。相手は誰あろう冒険者である。司の足が土煙を巻き上げ――慌てて薙いできた二条の光芒を難なく躱し、いや躱し様、司は影すら残さぬ迅さで手刀を菅谷の首筋に突き入れている。一方のシオンの疾らせた銀光は狼の牙の如く夜を斬り、闇を斬り、新吉をも斬り裂いて――
「さてさて、逃す積もりは更々無いのでな。確りと眠っていただこうか」
云って、春夜すら凍結させかねぬ殺気に蒼く光る眼を、司は彦右衛門にむけた。
さしもの彦右衛門もたじろぎ、
「な、何を――」
うめきつつ傍らに眼を転じた。突っ伏した遠州屋の首には司とシオンの背後を守っていた碧眼の侍――真崎が刃を凝している。もはや逃げるしか手はないだろう。
が――
彦右衛門は知らぬ。彼の血と怨嗟に満ちた生涯に終止符をうつべく、そろそろと死神が忍び寄っていることに。
背を返した刹那、きらと月光が撥ね――
全精根を込めて振り下ろされた刃が彦右衛門の頭蓋を小砂利に変えた。
「掻っ捌くのが一番好きだけど、叩き潰すってのも案外悪くないね♪」
きゃはははは♪
ころりのあげた哄笑が冒険者の凱歌の如く――
いつまでも夜のしじまを震わせていた。
●
後日。
暖かな昼下がり――
「シオンか」
側に腰を下ろしたシオンに眼を遣り――いつも通り十兵衛は縁側でごろりと横になっている。
「どうした?」
「丞太郎の仇討の日が決まったらしいわね」
「ああ。親父の時のように遠州屋の邪魔が入らねば丞太郎のことだ。必ずや本懐を遂げるだろう」
「なら、その前に気合を入れてあげなくちゃ」
「悪戯だろう?」
「かもね」
片目を瞑って見せたシオンが道場に上がり込んでからややあって――
丞太郎の悲鳴が響き渡り――
仰向いた十兵衛の口元には小さな微笑みが浮かんでいた。