【鬼哭伝・乱心】新右衛門の憂鬱

■シリーズシナリオ


担当:御言雪乃

対応レベル:4〜8lv

難易度:やや難

成功報酬:2 G 40 C

参加人数:10人

サポート参加人数:9人

冒険期間:03月23日〜03月28日

リプレイ公開日:2006年04月02日

●オープニング

 呼ぶ声は風よりも密やかに。
 おそらくは常人には聞き取れぬほどの。
 が、呼ばれた主――若い美丈夫はすっと切れ長の眼をあげた。
「何用だ?」
 紅をひいたかのような朱い唇はほとんど動いたとも見えぬのに――応えもまた耳にできぬほどのもので。
「幸村様の命を伝えに参った」
「幸村様の?」
 氷の彫像を思わせる美丈夫の面に、この時微かな翳りが見られた。
 対する闇の中の声音には変化なく。ただ淡々と、
「そうだ。急ぎ上州に戻るように、と」
「上州? 馬鹿な」
 美丈夫が嗤った。
「知らせたはずだ。雪がとけた頃、源徳が動きだすと――今上州に戻ることはできぬ」
「ならぬ」
 闇の中から響く声音に剣呑な鋭さがこめられた。
「幸村様はお怒りだ。先の江戸大火のおり、無辜の民を巻き込んだこと」
「ふん、そのことか」
 美丈夫の嗤いがさらに深くなった。
「仕方あるまい。源徳の力を削ぐにはああするしかなかったのだ」
「なにを――。幸村様の御気性は知っていよう」
「知っている。が、誰かがやらねばならなぬのだ」
「貴様――」
 闇の中の声が途切れた。ややあって、
「貴様と口論してもはじまらぬ。ともかく上州に戻れ」
「嫌だといったら――」
 ちら、と。
 動いた美丈夫の眼の中に刃の光が揺蕩った。
「この霧隠才蔵を、力づくで連れ戻す、か?」
「‥‥」
 美丈夫――霧隠才蔵の剣気に呼応するかのように、闇の中で殺気がたわんだ。ぎりぎりと、死を送り出すべく引き絞られる弓弦にも似て――
 ふっと殺気がほどけた。
「ふん、勝手にするがよい。俺は知らぬぞ」
 云い捨てると、闇の中の気配は溶けるように消え去った。あとには寂とした霧隠才蔵の孤影のみが残され――。

 ザンッ!
 葉鳴らし、樹間を渡る影があった。それは猿のように巧みに迅く。黒い颶風と化して。
 と――
 その眼前、蝙蝠のように空に踊りあがった巨影がある。
 大兵の侍。血の坩堝のように双眼を爛と煌かせ。
 刹那、二影が交差した。二条の光芒もまた閃いて――
 一瞬後、影は再び樹上を翔け去り、大兵の侍は地に降りたっている。
「逃したか」
 含み笑いが流れ――闇の奥に白影が浮かんだ。
「花舟か――」
 大兵の侍の口がゆがんだ。するとその胸に突き刺さっていた手裏剣が肉圧におされ、ぽとりと地に落ちる。
「手応えはあったが――さすがに致命の一点ははずしおった」
「幽鬼蔵人とあろう者が」
「ふん。それよりおぬしの方は?」
「心配はいらぬ。ひそんでおつた真田の下忍どもは始末した」
「ならば」
「うむ。あとは幸村めがどうでるか、よ」
 云って、白影――九鬼花舟は酷薄そうな薄い唇をきゅうと吊りあげた。

 数日後――。
 
 江戸。暗夜。
 隅田川にかかる橋の中ほどに娘が一人立っている。その眼は地を包む夜の色よりも昏く。
 娘はすっと欄干に手をのばした。そして次の瞬間には身を空に投げ出し――
 水音が高くあがった。

 眼を開いた時、娘は筵のようなものをかけられてはいるが己が裸身であることに気づいた。
 はっと身を起こし――
 そこは小屋の中。中央には焚火が焚かれ、背を向けた裸の男が火にあたっている。
「おっ」
 娘に気がついた男は半顔を向け――
 男の正体が知れた。
 まだ若い。月代がのび浪人者のようであるが、どこか貴人のように面立ちは端正でもある。
「あ、貴方様は――」
「川泳ぎにはまだ早いぞ。おかげでつられて泳いだ俺までずぶ濡れだ」
 苦笑を零し、若者は火の側に干してあった娘の着物に手をのばした。
「まだ濡れているな。乾くには今しばらく時がかかるだろう。それまで――」
 炎よりももっと暖かい眼を、若者は娘に向けた。
「この寒い中川泳ぎしたくなるほどの理由、よければ俺に話してみないか」
「それは――」
 若者の無頼の気風ただよう漢臭さか、それとも飄とした笑顔に安堵したか――娘はゆっくりと口を開いた。

 娘――絵里といった――の話した内容は簡単だ。
 絵里には結納まで交した梶原新右衛門という若者がいたが、最近になってその新右衛門から突然婚儀の件を取りやめにすると云い渡された。もちろん絵里は理由を問うたが、新右衛門は一言も釈明することなく、ただ辛そうに首を振るばかり。
「なるほど」
 おかしな話だなと呟き、若者は腕を組んだ。
「ところで、その新右衛門というのは、何者だ?」
「はい。大岡隼人様の小者でございます」
「大岡? 確か家康公の御側衆であったな」
 若者がふともらす。
 なぜご浪人様であるのに名を聞いただけで、大岡様が御側衆であることがわかるのか――やや怪訝な面持ちで若者を見遣りつつ、絵里ははいと肯首した。
 すると若者はふふっと笑い、
「しかし、その新右衛門という男、羨ましいな。水も滴るような美人にそこまで想われて」
「えっ」
 思いもよらぬ若者の言葉に絵里は一瞬呆気にとられ、すぐにぷっと吹き出した。
「――ほんとに面白いお方。でも」
 滲む涙をぬぐい、しかし絵里の笑みは揺れ惑う。
「私が身を投げたのはそのことばかりではなく‥‥。最近は気鬱のあまりか、おかしなものを見るようになったからでございます」
「おかしなもの? 何だ、それは?」
「はい、それは――」
 眉をひそめる若者の前で絵里が説明したところによると――十日ほど前の夜。屋敷の近くで絵里は新右衛門を見かけた。思わず駆け寄ろうとしたところ、絵里は、見た。
 それ――新右衛門の側に佇むもう一人の新右衛門。見たところ違いはなく――いや、ひとつだけ大きな違いがある。
「――首に縄がかかっていたのでございます」
「首に縄が!?」
 やや驚いたものか、今度こそ若者は正面から絵里と向き合い――その時になって、ようやく絵里は若者の右眼が糸のように閉じられていることに気づいた。さらに――
 若者の隻眼がこの時、薄蒼い光を放ち出している。
「面白い。その新右衛門とやらのこと、俺に任せてはくれぬか。――いや、俺は今拘っていることがあって手が離せぬのだが、そのような奇怪な件に片をつけるのにうってつけの奴らを知っているんだ」
「それは――」
 迷いは一瞬。絵里はすぐさま縋るような眼をあげた。
「貴方様なら‥‥。あの、お名前をお聞かせ願えますでしょうか」
「俺か?」
 若者はにっと笑うと、
「十兵衛。俺の名は柳生十兵衛だ」

●今回の参加者

 ea0592 木賊 崔軌(35歳・♂・武道家・人間・華仙教大国)
 ea9916 結城 夕貴(27歳・♂・浪人・人間・ジャパン)
 eb0575 佐竹 政実(35歳・♀・侍・人間・ジャパン)
 eb1513 鷲落 大光(39歳・♂・侍・人間・ジャパン)
 eb1833 小野 麻鳥(37歳・♂・陰陽師・人間・ジャパン)
 eb2004 北天 満(35歳・♀・陰陽師・パラ・ジャパン)
 eb2719 南天 陣(63歳・♂・志士・人間・ジャパン)
 eb2918 所所楽 柳(29歳・♀・志士・人間・ジャパン)
 eb3273 雷秦公 迦陵(42歳・♂・忍者・人間・ジャパン)
 eb3317 リュック・デュナン(25歳・♂・ファイター・人間・ノルマン王国)

●サポート参加者

グラス・ライン(ea2480)/ 甲斐 さくや(ea2482)/ シーン・イスパル(ea5510)/ ジョシュア・フォクトゥー(ea8076)/ 渡部 夕凪(ea9450)/ 所所楽 石榴(eb1098)/ 玄間 北斗(eb2905)/ 平山 弥一郎(eb3534)/ 久志 迅之助(eb3941

●リプレイ本文

 風に翻れる依頼書をぴたと手でおさえ、狩衣姿の娘が書面に眼をはしらせた。
「そっくりな人物で片方の首には縄が掛かっていた‥‥?」
 呟くと、パラの陰陽師である北天満(eb2004)は長い睫を伏せた。


「‥‥センベイさん」
 口を開いたのは真っ直ぐな眼のノルマンの闘士、リュック・デュナン(eb3317)。
 その耳元に、
 ――二桁多い。十です。
 と小声で囁いたのは平山弥一郎である。
 するとあっと声をあげ、わずかに頬赤らめてリュックが慌てて云いなおす。
「ギュウベイさん」
 こけた。
 一人、当の柳生十兵衛のみは苦笑をもらし、
「センでもギュウでもどちらでも良いが、何だ?」
「はい――」
 と頷き、リュックが問うたのは御側衆についての事だ。
 おお、そうだ――そう声をあげた木賊崔軌(ea0592)もまた、
「俺も武家組織には詳しかねえんだよな。教えちゃあもらえねえか」
「やれやれ」
 溜息とともに、渡部夕凪が首筋をかく。
「知らんのは無理も無いが、少しは興味を持て、興味を」
 崔軌を叱りつけてから、夕凪は講釈する。御側衆とは家康候付きの小納戸や医師支配の重役であると。
「小者はその配下‥主に走り使いをこなす者さ」
「源徳候の身辺に関わる者の使いっ走りたぁ‥また地味に大層な役職じゃねえか」
 軽口をたたく崔軌の姿は眠れる虎のようであるが、その実、存念は違う。
 もし源徳に牙むく者がおり、なおかつその者が手を出しかねているとなればどうするか。御側衆こそかっこうの攻め所ではないか――。
「では」
 と、口を開いたのは深淵の底までもを見通すかのような眼差しの男。平山弥一郎から紹介された陰陽師で、名を小野麻鳥(eb1833)という。
「その御側衆‥‥大岡隼人なる人物についてお尋ねしたい」
 家柄、評判。問う麻鳥の前、柱に背をもたせかけた十兵衛は懐手のまま、
「大岡は家老支配の平側衆で、名家だ。隼人というのは父親の死後、若くして側衆を継いだ出来物であるらしい。確か去年妻を亡くし、赤子が一人いるはずだ」
「で、柳生との間柄は?」
「当然顔見知りさ。といっても親父の方だがな」
「噂の柳生十兵衛も甲斐性無しと見えるな」
 皮肉に笑ったのは雷秦公迦陵(eb3273)であるが。しかし、その眼のみは妖しく紅く。
 何故なら彼は風評として知っている。
 かつて柳生宗矩が倅である十兵衛を伴い、家康と信康の御前に推参した事がある。おそらくは剣の天才と謳われる柳生嫡男の腕前を披露し、次期剣術指南役を確たるものとしたいという思惑あってのことであったろう。
 しかし十兵衛は気絶するほど信康を打ち据えた。
 迦陵が見るに、十兵衛という若者は兵法修行の厳しさを教えるなどという殊勝な心がけの男ではない。剣術指南役という堅苦しい役につくのが嫌で嫌で、たった一撃で父親である柳生宗矩の夢をぶち壊してのけたというのが正解であろう。が、それを契機に家康親子が十兵衛をことのほか気に入ってしまったのは迦陵の知らぬ皮肉な結末であったのだが――。
 と、うーんと唸り声をあげた者がいる。浪人、結城夕貴(ea9916)である。
「どうした、キミ?」
 所所楽柳(eb2918)が問えば、夕貴は困惑の態で、
「着付け職人として大岡屋敷に入り込もうと思ってたんですけど、聞けば偉い役職のお侍さんみたいなので、それは難しいかな、と‥‥」
「そうだな」
 柳が頷く。
 仮にも家老支配の御側衆。一見の行商人など門の内にも入れまい。
 が――
 そうであるなら柳自身も厄介だ。
 彼女もまた旅の楽士として大岡屋敷に入り込むことを目論んでいたのだが、夕貴同様それは困難であるらしい。
 ならば、と。柳の思考は素早い。すぐさま頭をきりかえ、門番とでも親しくはなれぬかと考えはじめている。
「少し女らしい格好をしたいのだが‥‥十兵衛殿、見立ててはいただけないだろうか」
「それなら僕がやってあげようか」
「キミが?」
 やや驚いて柳が夕貴を見返す。
 ぴんと獣耳おったてた巫女装束の夕貴はただ玲瓏と。あまりに可憐な様子に同性の‥‥いや、異性の柳すら息をのむ。
「お、お願いする!」
「いいですよ」
 こっくり。次に夕貴は十兵衛に眼を転じ、
「じゃあ十兵衛さん、お着物用意してください」
「俺が、か?」
 驚く十兵衛に、至極当然と云わんばかりに夕貴ははいとこたえ、
「だって依頼人でしょ」
 こいつ、可愛い顔して抜け目ない。
 と――
 それまで黙然と十兵衛を眺めやっていた南天陣(eb2719)は、組んでいた腕をとき、やおら立ちあがった。十兵衛に歩み寄ると片膝つき、
「新右衛門殿が通われている剣術道場をご存知か。もしご存知であるなら、ご紹介いただきたいが」
「いいぞ」
 十兵衛があっさりと頷く。すると陣は眼に刃のような光を揺らめかせ、
「ついでといってはなんですが、同門の誼み、稽古をつけていただけないだろうか」
「いいぞ」
 再びあっさりと十兵衛は頷いた。

「おっ」
 十兵衛が稽古をつけると聞いて、崔軌が好奇の眼をあげた。
 ものぐさで有名な十兵衛が稽古をつけるなど椿事に等しいことだし、それに――他人を見る眼に厳しい姉のお気に入り。いったいどれほどの男かというのは気になるところだ。
 その眼前――
 柳生十兵衛と南天陣、今木剣をとって相対す。相撃つは同門同血の新陰流!
 が――
 たちあってみて、驚いた。陣が撃ちこめないのである。
 隙がないというのではない。むしろ、逆。隙だらけなのである。まるで童子のように。
 童子を撃つことできない。戸惑う陣の木剣を、そっと道場主である多羅尾半蔵がおさえた。
「本気になれぬのですよ、あのお方は」
「なっ――」
 さすがに陣の顔色が変わった。
「それは自分の剣を侮っているということか?」
「いや」
 半蔵が頭を振った。
「貴殿の剣に敬意を払っているからこそたちあわれた。が、木剣では――」
 半蔵が微笑をうかべた。が、その眼はいいしれぬ恐怖を滲ませている。
「されど一度真剣をとればどうなるか――」
 呟いた声音は、眼に浮かんだ光と同様に畏怖に震えていた。


「お顔立ちが凛としていらっしゃるので、花嫁衣裳をおめしの時には濃い紅をさされれた方がひきたつかと」
「花嫁衣裳ですか‥‥。そういえば――」
 ふと思いついたかの如く、佐竹政実(eb0575)は水をむける。
 そこは大岡家出入りの小間物商。大岡家から後を尾行け、結婚間近の客として入り込んだ政実である。
「確か大岡隼人様の御家来で梶原新右衛門という方が婚儀を結ばれると聞きましたが」
「ああ」
 手代が困惑したように微かに笑った。
「その話はおとりやめになったようで」
「とりやめ?」
 政実はさりげなく驚いた顔をしてのけた。
「おかしいですね‥‥。何かあったのでしょうか?」
「さて――」
 手代は肩を竦めてみせた。
「どのような理由がおありになったのか‥‥。大岡様も新右衛門様もふさいでおられたのは確かでございますが。何かお取り込みがあったのかも知れませぬなぁ。大岡様もお子様もを預けになられていたようでございます故」
「お子様?」
 政実は柳眉をひそめた。
 たいしたことではないはずなのに――。小さな刺のように、政実はその事実が胸の奥に気持ち悪く突き刺さるのを覚えた。


「憔悴していらっしゃいました。しかし、そのもう一人の新右衛門様の存在をご自覚しておられたのかは」
 申し訳なさそうに崔軌にこたえ、絵里は面を伏せた。そして、ただ恐ろしくてその場を逃げ出したと言葉を継いだ。
「新右衛門さんが二人に見えたのは十日ほど前の夜。たった一度。婚約が反故にされたのは、目撃するさらに五日前。新右衛門さんの様子が変わってきたのはその三日前‥‥」
 満が抑揚を欠いた声音で絵里のこたえを確認した。そして、
「新右衛門さんは別段重要な仕事は任されていなかった、と‥‥」
 呟く能面のように秀麗な面に翳りなく。しかし脳裡において、満の思考はかけめぐっている。
 ――例のものの真の狙いは何か? 主家筋か、あるいは新右衛門そのものであるか。それは今のところ判断はつかないが、ともかく想像通り縊鬼の仕業であるなら新右衛門の命は危うい‥‥
「それではあなたが彼を見た場所に案内していただきましょうか。その時の状況を詳しく検分したいので」
「その前に」
 シーン・イスパルが皆を呼びとめた。
「何をするつもりだ?」
「占いよ」
 冷然たる語調で問う迦陵の前、シーンは手札を裏向けて並べはじめた。
 そして幾許か。
 シーンが一枚の手札をめくり――その図象を見とめた迦陵の眼が光った。
「これは、何を意味している?」
「悪魔です」
「グラスさん」
 シーンの返答を耳に、満はえるふの僧侶であるグラス・ラインの耳に血の気の失せた唇を寄せた。
「絵里さんをお守りいただけますか」
「任せて」
 雪色の髪をゆらし、グラスはこっくりと頷いた。


 茜の色に江戸は染まり。
 同様に大岡屋敷をめざす駕籠一行も朱に濡れている。
「鷲落殿」
 呼ばれ、駕籠を尾行けていた鷲落大光(eb1513)は足をとめた。
「おぬし、か」
 呼びとめた主――麻鳥を見とめ、すぐに大光は駕籠に眼を転じた。ちょうど駕籠は供についた新右衛門と一緒に大岡屋敷に吸い込まれていくところであった。
「そちらの動きは?」
「まったくだ」
 こたえる大光の傍ら、甲斐さくやもまた同意のしるしに頷いている。彼と大光は今日一日、新右衛門の後を尾行していたのであった。
「だからよ」
 大光は瓢箪を振ってみせる。
「あまり暇なもんで呑み干してしまった」
 苦く笑う大光であるが。彼の一日は、こうだ。
 最初彼は大岡家に雇い入れてもらうよう、出入りの商人に紹介を頼んだ。が、それは果たされることはなく――当然だ。どこの馬の骨とも知れぬ者を、僅かな金子を積まれたくらいで大店がお得意先の大家に紹介などするはずがなく。
 それでは、と。大光はさくやとともに大岡隼人の登城に従う新右衛門を尾行したのであるが。当の新右衛門は門内で控えているものらしく、如何な姿を見せようともせず――一日が過ぎ、暇を持て余した大光は酒浸りとなったのである。
「良い呑む口実となったのではないか」
 皮肉に口の端をゆがめた麻鳥であるが、彼の方もさしたる成果はない。
 御用仕事で江戸に下向したが、方違えの為暫し逗留させてもらえまいか。そう口上して大岡家滞在を願い出たのであるが、そもそも御用の正体がない。口上のみで天下の御側衆が屋敷内に泊まらせるはずもなく。それで仕方なく崔軌、夕貴とともに周辺の聞き込みを行っていたのである。
「ちっと興味深いことを聞いたぜ」
 そう云ってニヤリとしたのは崔軌である。
「最近大岡屋敷は静かなんだとよ」
「静か?」
「ええ。赤子の泣声がしないそうですよ」
 付け加える夕貴の眼にも落日。それは憂愁の光だ。
「亡くなられた奥方の親元に預けたということらしいですが――」
「その赤子のことだが」
 夕闇の中に、ふらりと現れたのは陣である。
「新右衛門がよく子守りをしていたようだ。剣術道場の者達が云っておった」
「子守り‥‥?」
 その場にいた五人めの冒険者――満が首を傾げた。が、すぐに、
「それで婚儀をとりやめにした理由はわかりましたか?」
「いや」
 陣が重い溜息を零した。
「道場の者はその事実すら知らなんだ。わかったのは新右衛門の剣の腕が並で、ある日を境にぷっつりと道場に姿を見せなくなったということだけだ」
「そうか――」
 さしもの麻鳥も疲労の色濃く。夜目にも白茶けた顔を大岡屋敷に向けた。
 と、その時――
 大岡屋敷の木戸をくぐり、姿を見せた者がいる。薄闇の中に浮かびあがったのは――新右衛門だ。
 慌てて身を隠した冒険者達であるが――一人飛び出した者がいる。
「あの、梶原新右衛門さんですよね?」
 問う声に、びくりとして新右衛門が立ち止まった。
「あ、あなたは――」
「冒険者をしているリュックといいます」
「冒険‥者?」
「はい。エリさんの友人として貴方に尋ねたいことがあってきました。何故、エリさんを捨てるような事をするんですか!?」
「なっ!?」
 さすがに新右衛門が気色ばんだ。
「どうしてそれを――。いや、お前には関係のないことだ」
「――エリさんは身投げまでしたんですよ!」
「!」
 背を返しかけた新右衛門の動きが凍りついた。が、すぐに振り切るように駆け出し、再び大岡屋敷木戸口に姿を没してしまった。

「誰だい、今の?」
 木戸に飛び込んだ新右衛門に驚いたふうを装い、門番にむかって柳が問うた。
 彼女のオカリナの音に、込められた絵里への憐憫に、蕩けた顔つきの門番は夢から覚めたように新右衛門殿とこたえ、そしてすぐに顔を顰めた。
 その異様な様子に視線をはしらせた柳は、見た。門番の足下をすりぬけていく闇が凝固したような小さな影を。
「あれは――」
「十日ほど前に新右衛門殿が拾ってきた黒猫さ。薄気味悪いったらありゃあしねえぜ」
「猫‥‥」
 吐き捨てる門番を見つめつつ――この時、柳の脳裡には所所楽石榴と玄間北斗の言葉が蘇っている。
 縊鬼。
 死への誘いを囁く悪魔――。

 廊下を駆けて来る跫に、新右衛門の部屋――絵里から聞き出してあった――を物色していた迦陵もさすがに慌てて天井裏に忍びもどった。
 天井板を素早く閉め――同時に飛び込んできたのは新右衛門だ。
 細く開いた天井板の隙間――覗きこむ迦陵の眼下――新右衛門は部屋の中央で突っ伏している。
「絵里‥‥す、すまぬ。さ、されど――鶴松様‥‥」
 新右衛門の口から血を吐くような嗚咽もれ――
 と、月の蒼い光が部屋に差し込むのを迦陵は見とめた。部屋の戸を開け放った者がいるのだ。
 何者か? 
 わからぬ。天井裏からでは視線は通らない。
 が――
 聞こえてくる。呪詛のような声が。
 それは陰として滅として。聞く者の耳を、脳を、いや魂すら黒く腐らせるような毒をもった声音。
 ――死を。
 ――安らぎを。
 死神ののばした指先から逃れるように、迦陵は天井裏を後にした。


 大岡屋敷の屋根に黒影がわいた。
 それは音もなく屋根瓦を伝い――化鳥の如く空にを舞い、地におりたった。そのまま獣の姿勢で地に這い気配を探る。
 幾許か――
 刹那。
 地にふせた影――迦陵の真下の地から刃がのびた。それは避けもならぬ迦陵の腹を確かに貫き――。
 血飛沫しぶかせ倒れ伏した迦陵は見た。地からぬうっと禿頭の巨漢が刃を引っさげて現出する様を。


 多分こっちですよ、ね。
 夜闇の中、政実は大岡屋敷めざして歩いていた。予定では数刻前に辿り着いているはずだったのだが――。
 と、不穏な気配を感得し、政実は反射的に物陰に身をひそめた。
 その眼前、彼女は信じられぬものを見た。いや、信じられぬことではない。地から浮かびあがる者――禿頭の巨漢の顔を、彼女は見知っている。それは――
「鼠め。微塵隠れで逃れおったか」
 呟き、巨漢――霧隠忍軍の一忍、土鬼はきりきりと歯を軋り鳴らせた。