●リプレイ本文
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――使い魔としての印象。さらには不吉の兆し。
シーヴァス・ラーンの言葉だ。
が、それは西洋においてのこと。もとよりジャパンにおいても魔性の印象は強いが、魔物の化身という定見はない。
それでも――
と、小野麻鳥(eb1833)は思う。
ジャパンに黒猫は珍しいものだし、それに何より、所所楽柳(eb2918)が得た情報がある。それは新右衛門が黒猫を拾ってきたというものであるが、気にかかるのはその日時だ。
十日前。
「絵里嬢の話じゃ、二人の新右衛門を見たのは十日ほど前。様子が変わったのはそっから遡って八日。‥新右衛門が猫拾ってきたのも‥十日ほど前。符合は」
する――と、木賊崔軌(ea0592)は云った。
確かにそうだと麻鳥の透徹した知性も告げている。
急な破談。
二人の新右衛門。
飼い始めた黒猫。
憔悴していく姿。
点と点は繋がり、その線上の鍵が黒猫であるのは明白だ。
黒猫が悪魔であると断定はできぬが――ならばこそ、その眼で確かめねばならぬ麻鳥である。
故に、来た。
再びの大岡屋敷。
ゆるゆると屋敷門に歩み寄った麻鳥は木戸を叩いた。そしてすぐに顔を出した門番に告げる。先日訪問した小野と申す陰陽師であると。
「その際、気になる事があり拭いきれず参った」
「気にかかること?」
怪訝な表情の門番に、麻鳥は神事を告げるが如く重く頷いた。
「左様。小さくて黒いものが非常な違和感として感じられ申した。そのようなものが屋敷内にあるかどうか――」
麻鳥の言葉の終わらぬうち、はっと門番が顔色を変えた。目ざとく麻鳥は見とめ、
「あるのですな」
「い、いや――」
うろたえつつ、しかし門番は頭を振った。
「其処許には関係のない話だ。お引取り願おう」
云って、門番は木戸を閉め――寸前、
「夕刻、もう一度来られよ」
門番の声が漏れ出て来た。
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金子入用の故あり、名家にて奉公したい。
大岡屋敷出入りの呉服商人の元を訪れ、斡旋を懇願した佐竹政実(eb0575)であるが、やはり一見の者を紹介することはできぬという。
「その大岡様ですが」
ふっと政実は顔をあげた。
「先日、隼人様にお仕えの‥‥そう新右衛門様をお見かけ致しました」
「新右衛門様をご存知で?」
「ええ、少しばかり。夜中にやつれたご様子で歩いておられましたが、何か病を患っておられるのでしょうか」
「あ、ああ‥‥」
番頭が苦く笑った。その反応は前回の小間物商の手代と同じである。
「病というわけではございますまい」
「しかし、あのやつれようは只事では――」
「そういえば――」
番頭が眼を細めた。政実が食い下がったおかげで、何かの砕片が記憶の漣の中に浮かびあがってきたようだ。
「何か不始末があったように聞き及びましたが」
「不始末?」
政実が身を乗り出した。その様子に番頭は慌てて表情をあらためると、
「いや、これはお喋りが過ぎましたようで」
政実から離れ、反物を仕舞うことに余念がない素振り。
ここまでか。
外套の裾翻し、政実は急ぎ呉服商をあとにした。まだ別にひとつ、彼女には気になることがあるからだ。
雷秦公迦陵(eb3273)を刺したという禿頭の巨漢。かつて上州路において相対した忍びである。
その者が何故江戸に、それも大岡屋敷の近辺に潜んでいるのか。
蠢く巨大な影を幻視し、政実の肌は彼女自身気づかぬうちにそそけ立っていた。
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「気になるのは新右衛門が子守していた赤子だが‥‥」
煌くような木漏れ日をうけて、崔軌の蒼い瞳が燃え立っている。その崔軌を、眩しそうに見上げているのはパラの陰陽師、北天満(eb2004)である。
「赤子?」
「ああ。奥方亡くした後も手放してないのを急に里に、ってのも妙な話だからな。預けなきゃならん理由があるのか、それとも預けた事にせにゃならんのか‥」
理由はどちらにせよ、大岡隼人の子息に異変事があったことは明白だ。
「赤ちゃんを新右衛門さんが預かっている時に何らかの事件が起こったのではないでしょうか?」
満が云った。すると黙然と腕組みしていた壮年の志士――南天陣(eb2719)はもたせかけていた木から背を離し、
「それがそなたの推理か」
「ええ。その時期は以前の依頼の十八日前。多分その後から姿をみせなくなった赤ちゃんは迦陵さんを襲った忍びの陰謀に巻き込まれたものと」
「なるほど。では考え得るのは‥‥たとえば忍びが赤子を拉致というところか。新右衛門の腕前は並みである故、ひとたまりもあるまいよ」
「では赤ちゃんを攫われ、自責の念にかられた新右衛門さんの心の隙を魔物がついたということになりますね」
「ふうむ」
満の結論を耳に、崔軌が唸った。
満という娘、見たところ少女としか見えぬのに、なかなかどうして。おそらくは此度の真相、彼女の読み取ったところに近いのではあるまいか。
「ともかく赤子の行方掴むのが先決だな。懸念で済みゃあ、それに越したことはないからな」
「では道場にむかえば良かろう。あそこならば大岡殿の奥方の実家を知っていようからな」
足を踏み出しかけ、しかし陣は満に気遣わしげな眼をもどした。
「満、無理はするなよ。そなたは――」
彼らしくもなく、といおうか彼らしいというべきか――陣は顔を顰め、
「自分の子と同じく大切な存在なのだからな」
云った。
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襦袢一枚になると、所所楽柳(eb2918)はいやに女らしい。
慌てて玄間北斗は眼をそらした。
「も、もしかしたらこれが役に立つかもしれないのだ」
ぎこちない手つきで持ち上げたのは シルフィリア・ユピオーク(eb3525)の十字架の首飾りだ。
「じゃあ、せいぜい神様に媚び売るかねぇ」
艶然と笑うと、シルフィリアは十字架に軽く接吻した。
少し神様が羨ましい――。
北斗は思った。
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大岡屋敷近くの神田川支流。
さらさらと流れる小川を満は眺めていた。
この小川の辺で新右衛門はよく赤子をあやしていたという。この地で危難にあったとしたなら、彼はどのような想いでこの水の流れを見つめたことだろう。
――新右衛門のあやす赤子を抱かせて貰おうと思っていた。
そう云いいおいた上での聞き込み。結果――
新右衛門はどこかで転んだかのように泥まみれになっている姿を目撃されている。のみならず唇を切ってさえいたという。
やはり、その時新右衛門の身には異変事が降りかかっていたのだ。やはり――
泣く声はない。
聞いた者もいない。
赤子が周囲を憚るはずもなく。考え得るのは――
赤子は消えた。大岡隼人の妻女の実家に預けられたわけではなく。
「やはり忍びに拉致されたか」
陣が重い声をもらした。
道場での新右衛門の噂。赤子が攫われたと思しき時期、新右衛門のみならず主人の大岡隼人までが登城を病の為ととりやめたことがあるという。
また周辺を聞き込んだところ、妻女の実家に赤子が居る痕跡はなかった。となれば、やはり崔軌や満の推測が当たっていたと考えざるを得ない。
「‥なあ、武士ってな、親としての自分がどの位重いモンなんだろうな」
ぽつり。崔軌が呟いた。
「それは――」
陣は腕を組み、こたえを探す。
君、忠義――武士にとっては最大級に敬うべきものであろうが、やはり人それぞれだ。現に陣にとっては実子でもない満が至宝となっている。
そなた、とばかりに眼をむけた陣は、崔軌の青ざめた顔色から、彼がとてつもない真相の端緒を掴んでいていることを見てとった。
――もし想像があたっているなら、天下の命運が俺達の肩にかかっていることに‥‥
息をつめ、しかし崔軌の唇は不敵に笑んでいた。
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久しぶりだね――
声をかけられ、木戸から顔を覗かせた大岡屋敷門番はおっと眼を見張った。
「そなた――確か柳‥‥」
「そう」
柳が微笑んだ。
「しばらく江戸の周辺を気の向くままに流れていたんだけれど、あの時キミが真剣に聞いてくれた事が忘れられなくてね。で、舞い戻ってきたという次第さ。真剣に聞いてくれる人のために奏でるのは、楽士としては最高の名誉だから――」
と、柳は門番が穴のあくほどシルフィリアを見つめていることに気づいた。
「あぁ、彼女は僕の友人でね。僕と違って魅力的だろ?」
「あ‥‥いや」
言葉もなく、門番が乾いた唇を舐めまわし――
とどめとばかりにシルフィリアが片目を瞑ってみせた。とたん、へなへなと門番がへたりこみかけ――いきなり門番が押しのけられた。
入り代わるように現れたのは――
一目見て、ものに動じぬはずの柳とシルフィリアが氷に触れたよう、身を強張らせた。
それは、件の――新右衛門、その人だ。
しかし何たる変わり様であろうか。以前見た新右衛門もやつれてはいたが、しかしまだ頬に肉はつき、優しげな面立ちはそのままであった。
それが今――
顔色は白茶け、眼は髑髏に似て落ち窪み、頬は刃で削ぎとったかのようにこけ――まるで生ける幽鬼。死んでも死にきれぬ、魂魄のみの存在だ。
ただ眼ばかりぎらぎらと。何も眼に入らぬように新右衛門が夜道を歩み去っていく。
慌てて後を追おうとして、再び柳とシルフィリアはぎくりとして身をひいた。
彼女達の足下、まるで新右衛門を見送る――いや見届けるかのようにのそりと姿を見せたのは、闇の異形。まさしく黒猫だ。
「やはり――」
闇の中、黒々と蝙蝠の如く佇む影から声が流れた。
白く細い指。影のそれにはめられた指輪の宝石の中、蝶がゆるりと羽ばたいている。
「さて、どう致しましょうか」
射抜く。銀流の鏃のように小さき魔性を見据え、満は麻鳥に問いかけた。
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「‥‥さん。新右衛門さん」
二度三度、呼ばれて、ようやく新右衛門は足をとめた。まるでからくり仕掛けででもあるかのようにゆっくりと振り返る。
その面相を見とめ、夜霧に立つ影――リュック・デュナン(eb3317)は痛ましげに眼を細めた。しかし唇を噛み、痛みを杖として彼は新右衛門に歩み寄る。
「この前は突然申し訳ありませんでした。でも、どうしても伝えておきたいことがあって」
「あんたには関係ない」
吐き捨て、新右衛門は背を返した。が――
その肩をぎゅうとリュックが掴んだ。指の強さより、その温もりにはたと眼を遣り、新右衛門は気づいた。リュックの茶の瞳――いや、その瞳にたゆたう憐憫の光に。
「関係なくはないのです」
リュックが云った。
「愛する者を失う哀しみは僕も知っています。だから‥‥いや」
脳裡を過る血の惨劇。その幻影を振り払い、リュックは告げる。絵里さんは身投げはしましたが、怪我は無く無事ですよ、と。
「そうか‥‥」
寂しそうに。しかししっかりと微笑むと、新右衛門は頭を垂れ、今度こそ背をむけた。
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その時、酒場のざわめきは一瞬やんだ。
この場に最もそぐわない者の姿を見とめて。
巫女装束の娘。おまけに獣耳、ぴんとおったてて。
羽化登仙。一息二息、我に返ったかのように喧騒をとりもどした酒場の中を巫女は楚々とした仕種で進んでいく。
誰ぞ知ろう。この可憐な天女の如き巫女の正体が結城夕貴(ea9916)なる野郎であろうとは。
「み、巫女さん」
間抜けが一人、すっと手をのばして夕貴の尻を触ろうとし――ついと夕貴の繊手に掴まれた。
「だめですよ、おいたをしちゃ」
夕貴がほんわりと。
周囲の客は羨望の眼差しであるが、しかし当の酔客は苦悶している。かるく掴まれているように見えて、巫女の手は酔客のそれを万力のように締めあげているのだ。
いかに幼顔であろうとも夕貴は佐々木流の達人。酔客が手もなくあしらわれたのもむべなるかな。
「おや」
酔客の手を離し、夕貴が一人の客――新右衛門の前に腰をおろした。
「気になる気配があったのですが、どうやらあなたのようですね」
云うと、夕貴は装束の袂から薬水やら魔除けのお札やらをわらわらと取り出した。
「どうぞ、どれでもおもちください。これはある方のご好意であるので、お気になさることはありませんから」
嘘つき! 十兵衛は泣いているぞ!
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夜更け。
すでに江戸の町のほとんどは闇に沈み、星明りのみが白々と降りつもっている。
その下――
新右衛門が横たわっている。
酔いつぶれているのではない。眠って――いや、眠らされているのだ。 春花の術なる忍法によって。
見下ろす頭巾のうちで紅瞳がニッと笑うと、影は新右衛門を抱き起こそうとし――飛鳥のように飛んで離れた。一瞬遅れて地から突き出された刃が空を貫く。
「同じ手はくわぬ」
ましらのように地を疾ると、一気に影――迦陵は商家の屋根に躍りあがった。そして沼から這い出てくるかのように地から現出した禿頭の巨漢を見据え、嗤う。
「この前は腹への痛〜い一発どうも〜。おかげで暫く飯も喉に通らなかったがな」
「鼠め、此度は逃さぬ」
禿頭の巨漢――土鬼の口の端がきゅっと吊りあがり。刹那、紫電が蛇のようにのたくりながら空を裂き、迦陵を撃った。
躱す術ない迦陵が何でたまろう。あっとうめいて、迦陵は屋根から転がり落ちた。
受身もならず――それでも必死に身を起こそうとした迦陵の胸をむんずと土鬼が踏みつけた。
「馬鹿め」
「おのれ」
印を結ぶべく、迦陵の手が翻り――白光が閃いて、彼の手は刃によって地に縫いとめられている。
「忍法は使わせぬ」
刃の主――雷電がちらりと土鬼に視線をはしらせた。うむと肯首し、土鬼が刃を振りかぶり――
「――そこの人」
声がした。そして駆けよって来る。
「あれ、迦陵さん!?」
よろよろと半身を起こした迦陵に気づき、政実が声をあげた。すでにその時、ふたつの魔影は跡形もなく消え去っている。
「道に迷ってしまって‥‥あれっ!」
迦陵の手の傷に気づき、はじかれたように政実がしゃがみ込んだ。
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揺り動かされ、新右衛門は眼を覚ました。
ややぼやけた視界の中、覗き込んでいるのは夜目にも美しい美女二人だ。
「大丈夫かい? ふらふらしてると思ったら急に倒れるからさぁ、びっくりしたよ」
艶っぽい女が新右衛門を抱き起こした。するともう一人が驚いたように、
「どこかで見たと思ったが‥前に大岡隼人様の屋敷の前で見た顔だね、キミ」
「いや、俺は――」
「顔色が悪いねぇ〜。まるで悪魔に魂でも抜かれた見たいじゃないさ」
艶っぽい女が心配そうに顔を近づけた。薔薇のような唇から甘酒のように甘い香が漂い――この場合、我知らず新右衛門は顔をそむけている。その様子に、
「なに怖い顔してるんだい? 何か思い当たる事でもあるような顔つきだねえ」
「余計なお世話だ」
艶っぽい女を振り払い、新右衛門が立ちあがった。が、女の手はまだ彼のそれにからみついたままだ。
「貸してあげるよ。これも何かの縁だろうから」
ふっと女の手が離れた。あと――迷い児のように宙に取り残された新右衛門の掌には冴え冴えとした十字の銀光がある。
「これは――」
「魔を払うお守りさ」
云って、艶っぽい女――シルフィリアは女神のように微笑った。