【鬼哭伝・乱心】家康暗殺

■シリーズシナリオ


担当:御言雪乃

対応レベル:5〜9lv

難易度:難しい

成功報酬:2 G 74 C

参加人数:10人

サポート参加人数:13人

冒険期間:08月21日〜08月26日

リプレイ公開日:2006年09月02日

●オープニング


「いかなる所存じゃ」
 脇息にもたれた男が問うた。
 抑えても抑えきれぬ覇気がふきこぼれる、壮年の武士。
 源徳家康。東国一の弓取りだ。
「儂が請うても、宗矩が命じても、登城せずに逃げ回っておったくせに、どういう風の吹き回しじゃ」
 薄く笑う。その様子は気安いものだが、話している内容は身の毛のよだつものだ。
 なんとなれば――
 招いているのは、他ならぬ源徳家康である。その招きを平然と拒むことのできる者が、世にざらにあろうとは思えない。
 すると問われた若者は、
「いや――」
 と曖昧にこたえ、ぽかんと天井を見上げていた隻眼を家康にすえた。
 彼の名は柳生十兵衛。源徳家剣術指南役柳生宗矩の嫡男である。
 さてと――
 十兵衛は返答に苦慮した。まさか側衆の大岡隼人が命を狙っているとは云えない。もしこの大秘事がもれてしまえば、大岡のみならず、彼の一族郎党もただではすまないだろう。それは、あまりに憐れだ。
 とはいえ、このままでは大岡は必ず事に及ぶに違いない。しくじれば幼き命が代価として失われる。――圧倒的に不利な博打の場に、今、十兵衛は立たされているのだった。
 が、当の十兵衛はそれほどこたえてはいないようだ。それは彼の豪放無頼――いや、むちゃくちゃな性にもよるのだが、自身切り札をもっている安堵感に依るところも大きい。
 凶の目も吉に変えうる切り札――冒険者だ。
「十兵衛」
 再び家康が呼びかけた。
「近日、鷹狩りをするつもりじゃ。そちも付き合うてくれるのだろうな」
「御意」
 頭を垂れた十兵衛の眼が、その時凄絶な光をおびたことに、さすがの家康も気づくことはなかった。


 江戸城堀端。
 ふたつの影がある。ひとつはうっそりと佇み、ひとつは片膝つき――柳生十兵衛と裏柳生衆の半助である。
「十兵衛様、お疲れのようですね」
「ああ‥‥」
 ニンガリと笑うと、十兵衛は頭をかいた。
 さすがに天下の家康の護衛ともなれば気苦労も一入だろう――そう半助は気遣ったのだが、事実は違う。黒霧をまといつかせたように十兵衛が疲労の色を濃くしているのは、城中での窮屈さのためだ。
 しかつめらしい城詰め。ご大層な立ち居振舞い。
 早くこの一件を片付け、そのようなものなど振り払い、屍山血河に身を投じたいと夢想している十兵衛なのであった。
「‥‥で、赤子の行方は?」
 十兵衛が問うた。
「はッ。冒険者の調べを受け探索したところ、江戸湊に停泊中の船に怪しきものが」
「船か‥‥」
 腕を組み、十兵衛は隻眼を閉じた。
「誰の船だ?」
「丹後屋と申す商人でございます。こちらも調べましたところ、真田と縁あるものと」
「真田!」
 かっと瞠目し、十兵衛がニヤリとした。
「真田、かよ」
 半助に眼を遣ると、さらに十兵衛は笑みを深くした。
「どうやら当たりのようだな。すぐに冒険者に知らせてくれ。もはや日がない」
「その冒険者ですが‥‥一人、落命したもよう」
「なにっ!?」
 十兵衛が愕然としてうめいた。
 あの冒険者が簡単に弊れるはずがない。さらには、もようとはどういうことか。
「仔細は?」
「未だ。もしやすると、息をふきかえしたやもしれませぬ」
「そうか」
 十兵衛がぎりっと歯を噛んだ。
 あの冒険者を屠ることのできる者。今更ながら敵の容易ならざることを痛感したのだ。
 刹那――
 うっと息をひき、半助は突風に吹かれたように身を仰け反らせた。凝然と立つ十兵衛の身から、面も向けられぬほどの凄愴の殺気が吹きつけてくる。
「ただではおかぬ」
 ぽつり。十兵衛が呟いた。


「篝念鬼、お召しにより参上致しましてござります」
「鬼道羅漢衆か。よくぞ参った」
 揺らぐ蝋燭の朱の光に濡れた総髪の若者が、平伏した雲水に眼をむけた。
「霧隠の忍びどもだけではあてにならぬ。厄介な奴儕も動きだしている故、お前には封じる仕掛けを施してもらうぞ」
「封じる?」
 巨槍を抱くようにして壁にもたれていた巨漢が身動ぎした。
「花舟よ、冒険者どもを封じる手筈などがあるのか」
「蔵人」
 花舟と呼ばれた若者がニタリと嗤った。
「彼奴らは女子供に弱い。そこをおさえれば、首筋に刃を凝せられた如く、必ずや彼奴らの動きも弱まるはず」
 云って、花舟は再び念鬼に眼を戻した。
「念鬼よ。この企てが露見するとは思えぬが、なんせ敵は冒険者ども。どこから嗅ぎつけてくるとも限らぬ。ゆめゆめ油断すな」
「承知仕りました」
 平蜘蛛のように地に這った念鬼の身から、この時ゆらと妖気のようなものが立ち上った。

 同じ刻。
 夜風に吹かれ、船の舳に一人立つ影があった。
 細く形の良い眉。切れ長の涼しい眼。高く通った鼻梁。紅をさしたかのような朱唇。
 月明かりにぼうと浮かびあがったその姿は、まるで西洋の神像のように美しい。――霧隠才蔵である。
「雷電」
「はッ」
 いつの間に現れたか、才蔵の足下にひとつの影が片膝ついている。
「赤子はどうした?」
「眠りましてございます」
「そうか。‥‥もうすぐ事が終わる。その時には攫ってきた女ともども、無傷で解き放て」
 命じると、才蔵は蒼い月を見上げた。と――
 何故か哀しげに見えるその姿が、見る間に銀灰色の霧に覆われていく。やがて――
 霧が晴れた時、そこにはすでに才蔵の姿はなかった。

●今回の参加者

 ea0592 木賊 崔軌(35歳・♂・武道家・人間・華仙教大国)
 ea9916 結城 夕貴(27歳・♂・浪人・人間・ジャパン)
 eb0575 佐竹 政実(35歳・♀・侍・人間・ジャパン)
 eb1833 小野 麻鳥(37歳・♂・陰陽師・人間・ジャパン)
 eb2004 北天 満(35歳・♀・陰陽師・パラ・ジャパン)
 eb2719 南天 陣(63歳・♂・志士・人間・ジャパン)
 eb2918 所所楽 柳(29歳・♀・志士・人間・ジャパン)
 eb3273 雷秦公 迦陵(42歳・♂・忍者・人間・ジャパン)
 eb3317 リュック・デュナン(25歳・♂・ファイター・人間・ノルマン王国)
 eb3525 シルフィリア・ユピオーク(30歳・♀・レンジャー・人間・フランク王国)

●サポート参加者

御影 涼(ea0352)/ シーヴァス・ラーン(ea0453)/ グラス・ライン(ea2480)/ 大神 森之介(ea6194)/ 片桐 惣助(ea6649)/ ヨシュア・グリッペンベルグ(ea6977)/ 桂照院 花笛(ea7049)/ 渡部 夕凪(ea9450)/ 所所楽 石榴(eb1098)/ 平山 弥一郎(eb3534)/ 天堂 朔耶(eb5534)/ キララ・マーガッヅ(eb5708)/ ペゥレレラ(eb5989

●リプレイ本文

●御影一族、たつ。
「報告を」
 御影涼が重い口を開いた。同時に座敷中央に視線をむける。
 眼前に座しているのは五人の冒険者である。シーヴァス・ラーン、大神森之介、片桐惣助、ヨシュア・グリッペンベルグ、平山弥一郎。全員御影一族にかかわりある者だ。
「聞こう」
 と、冷淡ともいえる語調で涼が促したのは小野麻鳥(eb1833)のことだ。
「ヨシュアの地図をもとに調べてみたんだが」
 最初に口を開いたのはシーヴァスであった。
「麻鳥は大岡という源徳家康側衆の屋敷にねじこんだらしい。そして、その後行方知れずとなった。わかっているのは、最後に見かけられた道筋に血痕が残されていたということだけだ」
 云って、シーヴァスは弥一郎に眼を転じた。
 その弥一郎は麻鳥の自宅にて手掛かりを探し求めたものだが、その結果、以前にヨシュアが作成した灰地図を発見している。それらをたどるうち、弥一郎もまた残された血痕にいきついたのだ。
「弥一郎様」
 婚約者である桂照院花笛がちらりと弥一郎を見遣り、すぐに彼女は睫を伏せた。
 暗澹たる結果を予想し、医者や寺をあてってみたのだが、今のところ当たりはない。それはある意味良い結果であるのかも知れぬが‥‥
 その時、
「ひとつ」
 と、声をあげた者があった。分家筋の能役者、森之介である。
「聞き込んだことがある」
「なに?」
 涼が身を乗り出した。
「何だ、それは?」
「大岡の手飼いの者のことだ。噂では風魔であるらしい」
「風魔!」
 涼が絶句した。
 と、柔らかな身ごなしの、壮年の男が立ちあがった。
「わかった。その結果を踏まえて、バーニングマップを試みてみよう」
 男――魔導師ヨシュアは懐から一枚の紙片を取り出した。

●湊の美女
 さて、ここで少し刻は遡る。
 まだ昼前のことだ。江戸湊には珍しい、三人の町娘の姿を見かけ、人足の一人が声をかけた。
「こんなところで、何をしている?」
「お店のお使いで立ち寄ったのですが、あまりに賑やかで珍しいもので」
 三人のうち、もっとも可憐な娘がこたえた。
「ここは初めてか」
「はい」
 こくんと頷き、すぐに年若い娘が廻船のひとつを指差して問うた。
「皆忙しく立ち働いていらっしゃるのに、あのお船だけひっそりとしているのですね」
「ああ、丹後屋さんの船だな」
 人足が僅かに口を歪めた。
「何かあったのですか?」
 今度は小柄の娘が問うた。
「知らねえ。そんなことより、今晩俺とつきあわねえか」
 人足が、可憐な娘に手をのばした。すると娘は、もう、と恥じらいながらぴしゃりと人足の手をはたいた。
「そんなことより、あの船のことを――」
 可憐な娘が問い重ねようとした。と、突然人足の目つきが変わった。
「どうして、そんなことに興味をもつんだ」
「それは‥‥」
 可憐な娘が口ごもった。
 その時だ。
「仕事のネタになるかも知れないからに決まってるだろ」
 声がした。
 驚いて振り向いた人足の眼に飛び込んできたのは、あまりにも艶やかな光景で。
 異国の女だ。甘い蜜を滴らせたような、肉感的な美女が立っている。
「お、お前は」
 人足が息を喘がせた。すると美女は蠱惑的な微笑みを返し、
「あたいはシルフィリア・ユピオーク(eb3525)。行商人さ」
「行商人?」
「ああ。で、その娘らはあたいのところの奉公人ってわけ」
「この娘達が?」
「そ。――さあ朔耶、ペゥレレラ、その辺で仕事のネタでも拾っておいでな」
「はい」
 ぺこりとお辞宜をすると、天堂朔耶とペゥレレラは連れだって丹後屋の廻船にむかって歩き出していった。残ったのは可憐な娘だ。
「ところでさ」
 濡れたような朱唇をシルフィリアが開いた。
「あの船――丹後屋さんの廻船だったねえ。どうしてあんなにひっそりしてるんだい?」
「どうしてそんなことを知りたがるんだ?」
「さっきも云っただろう。商売のためさ。もし商う荷がないってんならさ、あたいの商品を売り込もうと思ってさ」
 云って、シルフィリアは傍らの馬に視線を転じた。
 その時になって、ようやく人足は馬の背に荷が積まれていることに気がついた。見たところ、どうやら異国の品々であるらしい。
「で、どうなんだい。丹後屋さんっていやぁ、結構な大店。儲け話にありつけるかも知れないんだからさ〜、お兄さん、もっと詳しい話を教えておくれよ」
 媚びるように身を摺り寄せるシルフィリアに、人足はごくりと生唾を飲み込むと、
「商売のことは詳しくは知らねえが、あいにくだが荷を探してるんじゃねえと思うぜ。ずつと放ったらかしたままだからな」
「放ったらかしたまま?」
「ああ。ただ夫婦モンの船番だけはおいてるようだが」
「夫婦もの?」
 シルフィリアが柳眉をひそめた。
「どうして夫婦ものとわかるんだい?」
「時々赤ん坊の泣声がするからな。そうとなりゃあ夫婦モンに決まってるだろ」
「なるほど」
 一人残った娘に、この時、その可憐な相貌には似つかわしくないふてぶてしい笑みが浮いた。
 結城夕貴(ea9916)。その正体が恐るべき剣の手錬れである男武者であることを、脳天気な人足は気づかない。

「どうしたんだい?」
 人足が去った後、夕貴の面に浮かぶ憂愁の翳りを見て取り、シルフィリアが問うた。
「いや、何でも」
 ありません、とこたえかけて、夕貴はぎゅっと唇を噛み締めた。
 小野麻鳥(eb1833)の行方知れず、そして南天陣(eb2719)の重傷。もしどちらかの場に自分がいれば‥‥
 そう思わずにはいられない。此度こそは――。
 夕貴の美麗な相貌が細くつりあがった。  

 湊の荷のひとつに腰掛けていた侍が一人、ふっと立ちあがった。どうやらシルフィリアと人足のやりとりを聞いていたものらしい。
「‥‥どうやら人足に紛れるのは無理のようですね」
 囁く声音で侍が独語した。
 と、
「そうだな」
 声がわいた。慌てて娘――佐竹政実(eb0575)が眼を遣ると、その先――別の荷に腰掛けた男が一人、特徴的な真紅の瞳を光らせている。
「いつからいたんですか?」
「さっきからだ」
「だったら声をかけてくれればいいじゃないですか」
「そう思ったが、やめた。美しい女は眺めているだけで気分が良いんでな」
「‥‥」
 政実は肩を竦めてみせた。
 どこまで本気なのかわからない。男――雷秦公迦陵(eb3273)という男、端倪すべからざる忍びなのである。
「迦陵さんも船を調べに?」
「ああ。どのみち赤子を取り戻すには忍びこまねばならんからな。それに」
 迦陵がにっと唇の端をあげた。
「お前は俺のお守りみたいなもんだからな」
「えっ」
 政実は狼狽したように頬を染めた。が、すぐに眼に怒りの色を浮かべる。からかわれたと思ったのだ。
 が、政実の思惑とは相違して迦陵は本気でそう思っている。
 二度の真田の忍びの襲撃。その何れも、政実の出現により窮地を脱しているからだ。
「迦陵さんはこれからどうするんですか? またどこかに忍びこむんですか?」
「おい」
 迦陵が顔を顰めた。
「俺を何だと思っている? 俺は――そう、影というより、その影を斬る風の方だ」
「風?」
 どっちかというと火傷する炎じゃないかな――政実はそう思った。

●極星の二人
 久方ぶり見る新右衛門は血色も良く、こけていた頬もふっくらとしてきたようである。
「元気そうでなによりだ」
 岩のようにごとりと笑ったのは南天陣(eb2719)だ。
「此度訪ねたのは、ぬしに報せたいことがあってな。のう」
 眼をむけた先、傍らの女童のような陰陽師――北天満(eb2004)が小さく頷いた。
「はい。攫われた赤子のことで」
「鶴松様の!?」
 雷にうたれたように新右衛門が膝をすすめた。
「どのようなことでござるか。鶴松様の身に、もしや――」
「いえ、そのようなことでは。赤子の居所がわかったのです」
「な、なんと!」
 新右衛門が絶句した。そしてすぐに突っ伏すると、背中を震わせる。
 無理もない。鶴松奪還は新右衛門の悲願であったのだから。
 ややあって新右衛門は涙に濡れる眼をあげた。
「お教えくださりませ。い、何処に鶴松様は御座しましょうや」
「慌てるな」
 新右衛門の決死の相を見てとり、片膝たてて陣が身を近づけた。
「今は何があっても動いてはならぬ。下手をうつと俺達どころか、大岡様にも‥‥わかるな」
 陣が新右衛門の肩をぐっと掴んだ。
 ごつい、剣しか握ったことのないような無骨な手。が、これほど暖かい手の温もりを、新右衛門は知らない。
「陣殿‥‥」
「心配はいらぬ」
 またもや山がゆらいだように陣が微笑った。
「赤子は俺達が救い出す。伊達にあの者達との戦いに生残ってはおらぬよ。それよりも新右衛門殿は体調を良くすることを考えよ。貴殿には」
 陣が立ちあがった。そして新右衛門をちらりと見下ろし、
「助け出した赤子と遊ぶという仕事がある。――では、ゆこうか満」
「承知しました」
 満も立ちあがり、陣の後を追う。そして背にそっと囁いた。
「陣様、敵は真田の忍びに魔性の槍使い。まこと――」
「俺を誰だと思っている。同じ手がきかぬのは、俺とて同じ」
「そうでありました」
 何事もないかのように歩を進める。
 が、待っているのは背筋も凍る修羅の巷だ。それなのに――
 暗天を照らすが如く、今、北斗と南斗の人はゆくのである。


「どうかされたのですか」
 絵里は薄墨のように不安を面に滲ませて問うた。
「まさか新右衛門様のお身に何か――」
「いえ」
 リュック・デュナン(eb3317)が頭を振った。その優しげな面を縁取るのは、いつもながらの春風駘蕩たる微笑みだ。
「大丈夫ですよ」
 リュックがそっと絵里の手を、自身のそれで包んだ。
 愛する者が魔物の手にかかって果てる哀しみは、誰よりリュックが知っている。だからこそ誓うのだ。必ず守ってみせると。だからこそ戦うのだ。戦い忘れた人のために。
「もう少しの辛抱で、必ず逢えますよ」
「ほ、本当でございますか」
「本当です」
 リュックが大きく、そして力強く肯首した。
「逢えない時こそ想いが募るってな」
 苦笑したのは木賊崔軌(ea0592)だ。
「すぐに隣で笑えるさ、もう少し我慢しててくれな」
 云って、崔軌は一羽の鷹を差し出した。
「夜行ってんだが、しばらく預かっちゃもらえねえかな」
「この鷹を‥‥それ良うございますが、しかし」
 怪訝な表情で続けようとした絵里であるが、足下にじゃれついた2匹の犬に、あらと眼を輝かせた。
「七星と十字星といいます」
 声がした。主は、新右衛門宅からまわってきた満である。
「この子達もお預かり願えますでしょうか」
「それはかまいませぬが‥‥あの、何かあるのでしょうか」
 再び絵里の瞳に暗雲が過った。すると――
 驚天動地のことが起こった。満がにこりと微笑んだのである。
「いえ、何もありません。ただ私達の言のみ信用してほしいのです」
「貴方様方のお言葉のみを?」
「そうだ。けど、そんなにしゃちこばる必要はねえんだぜ」
 云いおいて――
 すぐに崔軌は満を外に連れ出した。
 あまり長居するのはまずい。絵里にいらぬ不安はあたえたくはない。
 と、木陰から、ふたつの影がすいと現れた。
 女浪人の渡部夕凪とエルフの僧侶であるグラス・ラインである。
「どうだった?」
「ああ」
 と、崔軌浮かぬ顔を夕凪にむけた。
「感づかれちゃいねえとは思うが‥‥」
 事は山場をむかえている。ここに至っては、敵も様々な手をうってくるだろう。その際最も狙われ、かつ冒険者に打撃をあたえうるものといえば――絵里だ。
「肉盾使うのは常套だからな」
「わかってるさ。だから私達がここにいるんだ」
 ねえ、と夕凪に水をむけられ、はい、とこたえたものの、グラスの眼は戦いている。
「ところでよ、俺は珍しいもんを見たぜ」
 崔軌がニンマリした。
「珍しいもの?」
「ああ。満の笑うとこさ」
 ここ最近、崔軌は満と同じ依頼を受けている。その間、どこかに置き忘れてきたかのように満は笑ったことがない。
「どういう風のふきまわしだ」
「これですか」
 淡々と――いやむしろ冷然たる態度で、満は顔に笑みを刻んだ。
「こうすると人は安堵するのでしょう。ですから、つくってみました」
 云って、満はリュックに眼をむけた。
 刃の一振りより、リュックの真心に絵里が安堵を覚えているのを何度も見かけている。もしかすると、世にあって最も強い者はリュックのような人間であるのかも知れぬ。
 そういえば御菓子を食べた時、人は優しい顔になるな。
 脈絡もなく、満はそう思った。 

●黄泉返った男
 とろりとした漆黒の沼から浮かびあがるように、ふいに意識がもどった。
 薄く眼を開ける。そして狩衣姿の男はゆっくりと身を起こした。
 その時、男は気配を感じた。
 振り向いた先、蝋燭のか細い炎をはさんで何者かの姿が薄闇に滲んでいる。
 何者か――まだ若い男だ。野生の精気に満ちた、若い狼のような少年であった。
「何者だ」
 男が問うた。すると少年はにやりと笑い、
「とても死に損いとは思えねえ。さすがだ」
「‥‥」
 男は沈黙を抱いて少年を見つめている。
 今更じたばたしたとてしようがない。もし命を奪うつもりなら、すでに手を下しているはず。
 そうと読んだ上の沈着。目覚めたばかりでありながら、男の頭脳は明晰そのものだ。
「何者だ」
 男がもう一度問うた。
「風魔の九郎」
「風魔?」
 わからない。
 風魔といえば彼の命を奪った鳶沢陣内と同族である。それなのに、何故九郎と名乗る風魔忍びがしれっとしてこの場にいるのか。
 その疑問を、男は直接口にした。すると九郎はふんと口をゆがめ、
「奴は抜け忍だ。もはや風魔じゃねえ」
「抜け忍?」
 そうか、と男は合点した。陣内が抜け忍ならば、九郎が敵対行動をとる意味もわかる。
「ところでひとつ訊きたいことがある。風魔といえば北条早雲がつかいし乱破。それが何故、江戸にいる?」
「忍びにそれを訊くのは野暮ってもんだぜ。なあ――」
 九郎の手から、突如手裏剣が疾った。何の予備動作も見せぬ一投。それは光の尾をひきつつ闇に消え――。
 その闇の奥から、ひとつの影が現出した。
「おめえも忍びだな」
 九郎が問うた。すると、影は九郎が放った手裏剣を床板におき、
「片桐惣助。そこにいる麻鳥と同族の者です」
「ふーん、お迎えが来たってわけか」
 よし、とばかりに九郎が立ちあがった。
「じゃあ俺はいくぜ」
「待て」
 男――麻鳥がとめた。
「ぬしはどうする。陣内を始末する気なら手伝ってやっても良いぞ」
「手伝う?」
 一瞬の間の後、九郎はげらげらと笑い出した。
「おめえ、面白い奴だなあ。できることならお頭に会わせてみたいぜ」
「お頭?」
「知らねえか。風魔の頭領、風魔小太郎を」
「風魔小太郎!」
 惣助が息をのんだ。
 忍びである彼が知らぬはずがない。半ば畏怖をもって語り伝えられる最強の忍びの名を。
「生憎だが手伝ってもらうには及ばねえ。それより、おめえはどうするんだ。まだ満足に身体も動かせねえだろ」
「そうでもない」
 ゆらり、と麻鳥もまた立ちあがった。
「陣内を屠るには十分だ」

●陣内、襲撃
 射し込む月光に蒼く濡れた部屋で、所所楽柳(eb2918)も濡れていた。
 大岡隼人の小者の一人である小島伸二郎と何度かの逢瀬を重ね、ついにというか長屋にひき入れられ、もはや観念しかけていたその時のことである。
「鷹狩り?」
 柳は、彼女の胸をまさぐり唇を吸う伸二郎を押し放した。
「そうだ。家康様の下命がくだった」
「そう‥‥」
 しばらく思案の後、再びのびた伸二郎の手をやんわりと押さえ、柳が立ちあがった。そして乱れた衣服をととのえる。
「急用を思い出した。失礼するよ」
 鉄笛を胸元に指し込み、呆気にとられる伸二郎を振り返る。
「云わねばならないと思っていたんだが‥‥しばらくは来れそうにないんだ」
「そ、そんな――」
 伸二郎の手がすがりつくようにのばされた。その指先からするすると風の精のように逃れつつ、
「長くなるかもしれない。その間に、キミが僕のものじゃなくなっても恨まないよ」
「そんな‥‥儂はいつまでも待っておる」
 呼びとめる伸二郎の声は、まるで悲鳴のように響いた。

「柳」
 大岡屋敷の木戸をくぐってしばらく――土塀にもたれていた崔軌の声に、柳が冷めた眼をむけた。
「いたのか」
「ああ。今は一人での夜歩きはまずいからな。で、大岡の動きはわかったのか」
「ああ。明後日、鷹狩りの供をつとめるようだ」
「そうか‥‥」
 崔軌が太い吐息をつく。
 もはや赤子奪還に残された日はない。柳生十兵衛に報せるにかかる刻を考えると、遅くとも明後日早朝までに事をおさめねばならないだろう。
 と――
 突如崔軌が身を仰け反らせ、次いでばたりと地に倒れ伏した。
「な――」
 何が起こったのかわからない。うろたえつつ柳が崔軌を抱き起こしてみると――
 崔軌のの胸に突き立った手裏剣が眼に飛び込んで来た。
「これは――」
「うぬも仲間よな」
 掠れた声とともに、闇の地に黒影がわいた。
「誰だ、キミは?」
「風魔の鳶沢陣内」
「風魔!」
 胸元から鉄笛をひきぬきつつ、柳は一気に数間の距離を飛び退った。
「風魔の陣内が、何故僕達の命を狙う?」
「訊くのは俺の方だ」
 陣内がくつくつと嗤った。その手には、魔法のような手並みで取り出された手裏剣が冷たく光っている。
「逆らえば殺す。余計なことを喋っても殺す。訊いたことにこたえねば殺す。よいな」
「そうはいかない。邪魔だてはごめんこうむるよ」
「ぬかせ。その木賊崔軌という間抜けな若造のように死にたいか」
「誰が間抜けだ」
 むくりと崔軌が身を起こし、驚愕に陣内が息をひいた。
「うぬは――死んだはず‥‥」
「生憎、俺はしつけえんだよ」
「おのれ!」
 叫ぶ陣内の手が消失したように見え――いや、それより僅かに早く疾風が唸り、今度は陣内が身を仰け反らせた。左眼をおさえ、土塀に背をたたきつける。
「な、なに――」
 うめく陣内の右眼が闇を透かし見、そして恐怖にかっとむき出された。
 闇の奥にひとつの人影が見える。狩衣姿のその男こそ、まさに――
「小野麻鳥!」
 陣内が絶叫した。
「うぬは、確かに始末したはず――」
「俺は寂しがりやでな。黄泉路の道連れが欲しくて舞い戻ってきたのよ」
「ぬ、ぬかせ」
 歯軋りしたものの、陣内の左には鉄笛かまえた柳が、正面には崔軌が、そして右方からは麻鳥が迫っている。俄に左眼に傷を負った陣内に抗する術があろうとは思えない。
「僕達の結界から逃れることはできないよ」
「そうかな」
 柳を睨みつける陣内の口の端が、この時微かにつりあがった。そうと気づき、麻鳥の手から光が飛んだ。
 瞬間、陣内の身が爆煙に包まれ――後には血塗れた新藤五国光が残されているのみであった。


 江戸城堀端。
 月光にゆれる影がひとつ。その左眼は糸のように閉じられて――柳生十兵衛である。
 その前には二つの影があった。
 そのひとつ――弥一郎が口を開く。
「十兵衛殿、此度は主筋の御影涼を伴い、口上申し述べたき儀があり、参上致しました」
「口上? ‥‥、よかろう、聞かせてもらおうか」
「では」
 代わって口を開いたのは涼だ。
「麻鳥殺害を命じたのは大岡隼人と判明した。故に、これから先は大岡は敵と見なす」
「ほお」
 十兵衛の隻眼に小さく光がともった。どうやら御影なる一族は、天狼の如き一族であるらしい。
「それはかまわん。嫌なことをすると肩が凝るからな。それより――」
 十兵衛の気にかかっているのは麻鳥のことである。その行方はどうなったのか。
「麻鳥は存命していた」
「そうか‥‥」
 十兵衛が子供のようにニッとした。
「相変わらず、わかりやすくてよい」
「おっ」
 現れた三番目の影を見とめ、十兵衛が複雑な表情を浮かべた。
 三番目の影――夕凪は、どこか苦手だ。
「今宵は崔から預かった書状をもってきたよ」
「書状?」
 夕凪の差し出す紙片を受け取り、十兵衛がさらさらと視線を走らせた。
「何が書いてあるんだい?」
 夕凪が問うた。十兵衛の面に浮かんだ、玩具を見つけた子供のような笑みは只事ではない。
「見せてもらうよ」
 夕凪が書状をひっさらい、次いでその手が書状をぎゅうと握りつぶす。
「崔の奴――」
 夕凪の身から、めらと炎の如き殺気が立ち上った。
 ――奪回報告が狩り開始に間に合わなきゃ成功合図は鷹の旋回で。大岡は頼んだ、礼は小判積んでも見れねえ夕凪の酌婦でどうよ?
 書状には、そう書かれてあった。

「十兵衛さん」
 去りかけた十兵衛を呼びとめる者があった。夜よりもなお深い黒髪の女――シルフィリアである。
「ひとつ頼みたいことがあるんだ」
 と前置きして、シルフィリアは告げた。真田の忍びとは別に、乱を呼ぶべく暗躍する魔性があると。
「だから以前に助けたことがある朱美や絵里のことを護ってほしいんだよ」
「よかろう。絵里は崔軌が手をうつはずだから、朱美の方は半助を向かわせよう」
「よろしく」
 小さくシルフィリアは口付けを投げた。

●奪還 壱
 丹後屋の商いは京の物産が多く、なかなかのやり手である。
 ――というのが、柳――キララ・マーガッヅも同行したがったが、言葉が通じないのでは仕方ない――の調べた内容だ。五条の乱が終わった今、廻船をそのままにしておくのは、やはりおかしい。
「確か忍びは人遁の術とかを使うのでしたね。赤ん坊にすりかわっているということはないでしょうか」
 黒々とした漣に船体を洗わせている丹後屋の廻船を見上げ、政実が呟いた。
「極端に大きさを変えられない分、赤ん坊には変化は無理なはずだ」
 こたえたのは柳だ。忍びである所所楽石榴の言であるので間違いはないだろう。
「じゃあ、そろそろかかろうか」
 物陰にひそんだシルフィリアの眼が妖しく光った。一瞬後、その身が忽然と消えうせる。
「ゆくよ」
 シルフィリアの声は、ひそむ冒険者からやや離れた虚空からした。

 二刻ほど前のことだ。ひゅるりと鷹が鳴き――ぎゃんと小さく犬の声がした。
 ややあって――
 音もなく障子戸が開いて、一人の雲水が部屋の中に滑り込んだ。そのまま猫族の身ごなしで敷かれた夜具に忍び寄る。
 夜具の中には一人の娘。絵里だ。
「よう眠っておる」
 雲水――鬼道羅漢衆の一人、篝念鬼はほくそ笑むと絵里の傍らに屈み込んだ。
「娘、うぬの命、預からせてもらうぞ」
 すうと念鬼の手がのび、絵里の顔の上にかざされようとした、その刹那――
 天井板をぶち破り、崔軌が空に踊り出た。
「うぬは!?」
「冒険者よ!」
 叫ぶ崔軌の左手が――龍の爪に似た刃が、空に三筋の亀裂をはしらせた。

●奪還 弐
 豹のように襲った。
 真田の下忍らしき男が気配に気づいた時、シルフィリアの木剣の一撃は彼の首筋に叩き込まれている。
 くたりと崩折れる男を抱きとめ静かに横たえると、シルフィリアはさらに別の綱を舷沿いにたらりと落とした。

 障子戸を吹き飛ばすようにして、二影が庭に転がり出た。崔軌と念鬼である。
「邪魔だてするか、若造!」
 笠を三筋裂かれた念鬼が吼える。すると崔軌はニヤリとし、
「聞くまでもねえ」
「ならば、死ね」
「死ぬのはどっちだ!」
 崔軌が地を蹴った。颶風のように念鬼に迫る。
 その崔軌をさらに上回る迅さで念鬼の錫杖――の先端に仕込まれた刃が疾った。火ぶれのできそうなその一撃を、しかし崔軌はかわした。かわしてのけたのは十二形意拳寅の奥義を身につけた崔軌なればこそだ。
 が、そこまでだ。
 数撃の刃風が翻った後、薄闇の庭には満身創痍の崔軌の姿があった。

●奪還 参
 影のようにリュックが走った。その後を政実が追う。
「どうやら罠はないようですね」
 政実が船内を見まわした。一見したところ、鳴子や鴬張りなどの仕掛けはないようだ。
「彼らは強い。だから油断が生まれるんです」
 リュックがこたえた。その時――
「待て」
 柳がとめた。
「赤子の声がする」

「むだじゃ。うぬの腕ではかなわぬ」
 嘲弄するかのように念鬼が嗤った。
 そうと知り、しかし崔軌には声もない。念鬼が云う通り、技量においては崔軌に勝ち目はななかった。おまけに陣内との戦いにおいて、すでに身代わり人形は失われている。
 が、それこそが――その彼我の優位差こそが、蟻の一穴であることを崔軌は承知している。
「遊びはここまでだ。そろそろ息の根とめてやろう」
 嘲笑より、むしろ憫笑を投げ、念鬼が錫杖を舞わせた。その轟風を、がっきとばかりに崔軌が受けとめる。
「息の根とまるのは、お前の方だ!」
 崔軌の絶叫が迸り――刹那、噴出した薄紅の光が念鬼の胴を薙ぎ、その邪悪な魂を虚無に消し飛ばした。

●奪還 参
 ぴくり、と。
 痩せぎすの男が身動ぎした。霧隠忍軍の一人、雷電である。するともう一人の禿頭の巨漢――同じく霧隠忍軍の一人である土鬼がぎろりと眼をあげた。
「どうした?」
「いや――」
 気配がした、という言葉を飲み込み、雷電が上層部につながる階段に近寄った。と――あっ、という土鬼の声に、はじかれたように雷電が振り返った。
「何だ?」
「赤子が――」
 土鬼が指差す先、先ほどまでぐずっていた赤子が光に包まれている。
 いや――
 光ではない。氷だ。赤子は、まるで柩のような氷に封じ込められているのであった。
「これは――!」
 愕然とし、しかしすぐに雷電は刃を抜き払い、攫ってきた女の首に刃を凝した。
「土鬼、気をつけろ。見えぬ敵がおるぞ」
「なに!?」
 うめき、それでも土鬼もまた抜き払った刃で周囲の空間を切り裂きはじめた。
「どこだ! どこにおる!」
「ここだ」
 ぎしりっ。
 階段を軋ませて――迦陵が船底に降り立った。
「ケリをつけにきたぜ」
「うぬは――。この女がどうなってもよいのか」
 雷電の刃が、薄の女の首筋を切り裂いた。が、迦陵の歩みはとまらぬ。
「やってみろよ」
 迦陵の眼が、爛と血色に光った。刹那――
 迦陵の身が爆ぜた。
「ぬっ――微塵隠れか!」
 雷電が歯を軋らせた。
 その雷電の足下――ぼうと浮かびあがる影は迦陵ではなかったか。
「受け取れ」
 女を空間移動させ、迦陵もまた空を跳んだ。何でそれを雷電が見逃そう。弧を描いた光流は、狙い過たず迦陵の背を割っている。
「とどめだ」
 さらに雷電が踏み込んだ。と、その眼を柔らかな光が射抜く。
 提灯の光――そう雷電が気づくより早く、びゅうとリュックの霞刀が空を裂いた。
「かっ」
 雷電がリュック刃をはねあげた。返す刃はリュックを袈裟に斬りさげ――空をうった。一瞬早く、リュックの身は横に滑っていたのだ。
「おのれ、ちょこまかと」
 じれたか――
 化鳥のように、雷電が空に舞いあがった。
「やらせません!」
 待ち構えていたように政実の繊手が破邪の色に煌いた。
 それは彼女の怒り。怒涛の光波は雷電を確かにうちのめした。
 飛鳥堕ちるように、どんと雷電が床板にはねた。慌てて身を起こした雷電の前、空を躍り越えて肉薄する刃は――
「討たせてもらう」
 一気に夕貴の刃――霊刀ホムラが雷電を斬り下げた。
「うがっ」
 獣のような苦鳴を発し、雷電が転がり逃れた。後には切断された雷電の右腕のみが血溜まりの中に残されている。
「雷電!」
 血相かえて駆け寄ろうとする土鬼であるが、その前に巌のように立ち塞がった影がある。陣だ。
「ゆかせぬ。この板敷きでは、得意の土遁もつかえまいが」
「く、くそ――」
 刃をかまえ、土鬼がじりじりと後退っていく。同じように血の筋をひきつつ雷電もまた奥に這いずり――
「これくらいで、いかがです」
 声とともに、土鬼の足下の板が砕け、木屑を飛び散らせた。すうと足を踏み出したのは、ウインドスラッシュを放つために右腕を突き出した姿勢のままの満だ。
「私達の目的は赤ん坊と女性。それさえ取り戻せば、あなたたちに用はありません」
「命あっての物種っていうだろ」
 すでにインビジブルの解かれたシルフィリアが艶然と笑う。対する土鬼は――
 口の端を鎌のようにつりあげ、血の坩堝のような眼を憎悪にぎらつかせた。
「覚えておれ。いずれ生まれたことを後悔させてやるほどに」
 その言葉の終わらぬうちに、土鬼と雷電の姿が奥板に消えた。からくり戸――と冒険者達が知った時には、すでに奥板は元の通りだ。
「‥‥どうやら終わったようですね」
 リュックがふうと肩をおとした。
 赤ん坊も、攫われてきた女性も無事だ。これで静かな江戸の夜明けを迎えることができるだろう。
 とまれ――
「十兵衛さんに、報せを」
 政実が快哉をあげた。

●暗殺
 騒ぎが起こった。
 霧中の襲撃。判然とせぬ報せは、かえって鷹狩りに出張った侍達をざわつかせ――
「十兵衛、いかがした?」
 問うたのは源徳家康だ。すると傍らの騎影――十兵衛は家康の側に馬を近寄せ、
「大事ござらぬ。十兵衛おる限り、何者も近くに寄せるものではありませぬ」
 こたえはしたものの、十兵衛の隻眼は焦慮の色を滲ませつつ、空を窺う。
 鷹は、報せの鷹はまだか――。
 当然、大岡は側衆であるために家康近くに従っている。何も知らぬ家康は大岡の間合いの内だ。
 その時、十兵衛は大岡が刀の鯉口を切ったのを見とめた。
 もはや詮無し――。
 十兵衛もまた鯉口を切った。と――
 空を舞う小さな影ひとつ!
「大岡殿」
 がっきと、十兵衛が大岡の肩を掴んだ。そして耳元に口を寄せ、
「すぐさま屋敷に戻られよ。ご子息が待っている」
「や、柳生様――」
 息をひく大岡に、ふわりと十兵衛は微笑みかけた。
「すべては夢でござる。悪夢は今、終わり申した」


「大丈夫でしょうか」
 リュックの問いに、ごつと笑ったのは陣だ。
「新右衛門の奴をどやしつけてやった。心配はあるまい」
「それなら良いですが」
 それでも不安げに物陰から覗くリュックの――いや十対の眼の前で、その時、おずおずと男の手がのばされた。そして娘の手もまた――

 その様を、じっと見遣る影がある。深編笠の侍だ。
「江戸の命運より、逢引の心配か」
 楽しくてたまらぬように、笠の内で十兵衛の隻眼が微笑った。