【鬼哭伝・乱心】紅き糸
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■シリーズシナリオ
担当:御言雪乃
対応レベル:5〜9lv
難易度:難しい
成功報酬:2 G 74 C
参加人数:10人
サポート参加人数:5人
冒険期間:06月14日〜06月19日
リプレイ公開日:2006年06月20日
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●オープニング
座敷には行灯があるが、明滅するそれは暗く、部屋の四隅は墨にぬりつぶされたようであった。
梶原宅。
顔を揃えているのはふたつの影。一人はいうまでもなく梶原新右衛門であり、もう一人は柳生十兵衛のつかいで半助といった。
頃は梅雨。
雨こそ降ってはいなかったが、もう夏のようにむし暑く、風のない夜であった。
「新右衛門殿」
半助が口を開いた。
「事の次第は冒険者から聞きました」
「‥‥」
新右衛門は黙したまま、白蝋のような艶のない顔を俯かせている。
相手は源徳家剣術指南役である柳生嫡男のつかい。無下に追い返すこともできず、仕方なく面談したものの、胸襟を開いて語り合うつもりはない。
そうと見てとり、半助は唇を噛んだ。
冒険者から必ず問いただしてくれと頼まれたことがある。それを果たせずに、このまま捨て置けわけにはいかぬのだ。
新右衛門につきまとう黒猫。それの正体は彼を死に誘う縊鬼と知れ、冒険者の活躍によって捕らえられている。が、その縊鬼といえば――脅し、あるいは賺してみたところ口をわる様子はなく。
どころか捕らえておくのだけでも一苦労の按配で。
また真田の忍びと知れた襲撃者の目論みも、推測はつくものの確たる証しはなく――残る手掛かりの糸は新右衛門只一人であったのだ。
意を決し、半助が膝をすすめた。
「新右衛門殿、貴方が黙っていても彼奴らは放ってはおきませぬ。のみか、忍びに攫われたであろう赤子の命も危うく、このままでは大岡家に祟りすらもたらすでありましょう。良いのですか、それで」
「!」
はっと新右衛門が顔をあげた。
ここぞとばかり、半助は手をのばし、膝を掴んで震えている新右衛門のそれをがっしと握った。そして冒険者から受け継いだ言葉を発した。
「もう良いでありましょうう。新右衛門殿、いったい何があったのですか。彼奴らの狙いは何なのです?」
「それは――」
新右衛門が、戦慄く唇をゆっくりと開いた。
ねっとりとからみつく夜気の中、屋根瓦に平蜘蛛のように這った影がひとつあった。
それはまる一日、ある家屋をじっと凝視していたのであるが――夜半、ぎらと刃の光を眼にゆらめかせた。
「冒険者であったかよ」
にぃ、と影が嗤った。
「面白い。風魔の鳶沢甚内の恐ろしさ、その身に刻むこんでくれる」
呟くと、風魔の甚内は冒険者ぎるどから眼をはずした。
「家康公暗殺と」
そう柳生十兵衛に告げたのは、新右衛門から事の真相を聞き出した半助である。
予想はついたものの、やはりその戦慄すべき内容に慄然とし、疾風と化して十兵衛の元に駆けつけたのものだが――当の十兵衛はごろりと横になったまま、家康暗殺の報せを耳にしても動じたふうはない。普段からむちゃくちゃな主であると認めてはいるものの、これほどの大事を耳にしていながら春風台糖たる様はとても常人の神経ではなかろう。
呆れるのを越して畏怖すら覚え、半助は続けた。
「大岡隼人の子息を攫った者――真田の忍びは、赤子の命と引き換えに源徳家康を暗殺せよと大岡隼人に命じたようです」
「なるほど」
ようやく十兵衛が身を起こした。腕を組み、顎に手をあてる。
「それで新右衛門の口封じに縊鬼か」
「自害するように誘い――」
半助が吐き捨てた。すると十兵衛は苦笑し、
「面倒なことだな」
云って刀を引っ掴み、立ちあがった。
「十兵衛様、どこへ?」
「登城する」
十兵衛がこたえた。
「大岡が事に及ぶかどうかわからんが、いざという時、俺が家康公の側についていなければなるまいからな」
「しかし――」
半助が首を捻った。
「事に及ぶとして、大岡はいつ、暗殺の刃をふるうのでありましょうか」
「いくら側衆とて、城中でそう容易く家康公の命は狙えまい。ならば――」
十兵衛の隻眼が、その時薄青い光を放った。
「そういえば近々鷹狩があると聞いた。おそらく狙うのはその時――」
十兵衛が腰に大刀をおとした。そして半助を見返す。
「源徳家康がどうなろうが、源徳家が潰れようがどうということはないが、江戸が荒れると泣くのは民百姓だ。それだけは阻止せねばならん。それになにより――」
十兵衛がニヤリとした。
「赤子の命を天秤にかけるやり口が気にくわん」
●リプレイ本文
●
「‥嫌な直感大当たりかよ」
さすがの木賊崔軌(ea0592)にもいつもの洒脱のふうはなく、陰鬱な眼で呟いた。
寂として頷いたのは南天陣(eb2719)だ。腕を組んだまま巌のような顔を巡らせる。
そこは小さな小屋。戸、壁といわず、部屋一面に護符の類いが貼りつけられている。
対縊鬼用に用意された小屋。
部屋内中央には薄蒼く光る氷柱がひとつ。アイスコフィンによって閉じ込められた黒猫――縊鬼である。
「しかし、大変なことになりましたね」
佐竹政実(eb0575)が、凛と美しい面を黒ずませて溜息を零した。
当然だ。彼らが大岡家の赤子を取り戻すことにしくじれば、大岡隼人は源徳家康に対して刃傷に及ぶかも知れず。そうなれば江戸の混乱は必至である。
「大変なのはキミの方じゃないのかい」
云って、苦笑をうかべたのは所所楽柳(eb2918)である。えっ、と戸惑う政実の眼前、雷秦公迦陵(eb3273)が皮肉に笑って、一本の手裏剣をつまんで振った。
「政実の働きはたいしたものだが――をつけた方がいい」
「はい」
頬に朱を散らし、政実がこたえた。
彼女とて、己がとった行動が無謀なものであることは承知している。が、いつも彼女は決死である。
「天は試練を与えますからね」
突然、霞を吹いたかのように玲瓏たる娘が口を開いた。柳の姉、所所楽林檎である。
「ところで――」
と、政実が悲壮な面をあげた。
「赤ちゃん、今も生きているのかな?」
問う。誰にともなく。
一瞬、その場の誰もが息をひき、ややあってようやく気風をとりもどした崔軌がニヤリとした。
「赤子は真田にとっては切り札だ。そう簡単に死なせるわけがねえ」
それよりも――崔軌は重い吐息をついた。
「真田と縊鬼が元からの仲間とは思えねえ。コイツを操ってる奴が背後にいると見るのが妥当だが‥。赤子がどちらの手にあるか。事と次第じゃ、ちと面倒なことになる」
「そうですね」
少女のような娘がさらなる重い息を吐いた。
北天満(eb2004)。陰陽螺旋の中に立つ彼女は、この一件の危険性を予見していた。
敵は悪魔を操り、あるいは名だたる真田の忍者。すでに仲間の一人が九死に一生を得る状態だ。下手をすれば、今度こそ誰かが命を落としかねない――
●
小野麻鳥(eb1833)は赤子の所在を捜索していた。ヨシュア・グリッペンベルグのバーニングマップの結果を元に。
江戸外れ。ヨシュアの示した地点は数箇所あった。
と――
麻鳥の足がぴたりととまった。
ブレスセンサー。吐息を読む呪法に、何者かがひっかかっている。
「真田か」
問うた。が、背後に浮かびあがった気配に応えはない。代わりに陰惨な含み笑いが響いた。
「気づいておったかよ。さすがは――」
「というところをみると、真田ではないな。大岡の手の者か」
さらに麻鳥が問うた。懐に飛び込んだうえは、必ずや大岡が動くであろう事は予期している。
「左様。風魔の鳶沢陣内よ」
「風魔!?」
麻鳥の仮面めいた表情がわずかに動いた。
「側衆ほどの者が放つ刺客。並の者ではないと踏んでいたが――」
恐れ気もなく。むしろ呆れた風に麻鳥は嘆息した。
「風魔か。‥俺も見くびられたものだ。事の全容を見ての訪問であったが、事の理非もわからぬほど怯えるとは」
「怯える、とな?」
「そうであろう」
麻鳥はすっと唇を歪めた。
「今、風魔を俺にまわす刻が惜しいとは思わぬか。帰って伝えよ。口封じなどしている暇があるなら、その忍びの機動力で探すが良策、と。俺は逃げも隠れもせん」
「よう云うた」
陣内が呵呵と笑った。それは嘲弄というより、むしろ賞賛の響きがこもっている。
「大岡が恐れるわけじゃ。だがのう、うぬはひとつ間違っておる。俺は別に大岡を大事とは思っておらぬし、彼奴の餓鬼がどうなろうと知ったことではない」
「ぬっ」
うめいて、麻鳥が手の呪符を広げようとし――きらと日光が煌き、麻鳥の手からぽろりと呪符が落ちた。
「術などつかわせるものかよ」
「お、おのれ」
手に突き刺さった手裏剣を引きぬき、麻鳥が苦鳴をもらした。その眼前、まるで魔法のような手並みで陣内の手の内に手裏剣が現れた。とても麻鳥が術を発動する余裕はない。
「俺の手裏剣は見切れぬ。うぬが助かる道はただひとつじゃ。此度の一件、知る者は他に誰がいる?」
「馬鹿め。俺が喋ると思うか」
麻鳥が血笑で報いた。すると陣内は憫笑を投げ、
「憐れ。それほどの才知、路傍の露と消えるか」
その陣内の言葉が終わらぬうち、再び白光が閃いた。暗天をつく流星のように流れたそれは、狙い過たず麻鳥の首に吸い込まれ――
ぶちり、と。何か――麻鳥の存在を成す根幹が切れる感覚。
声もあげ得ず、麻鳥は崩折れている。さらに――
陣内が手裏剣を手にした。
「死ね」
「待て」
声に――
陣内ほどの忍びが凍結した。はじかれたように振り向く陣内の眼前――道端の大樹の枝に、うっそりと立つ少年の姿があった。
「九郎か」
「陣内よ。風魔を抜けただけではあきたらず、その名を汚す真似、只じゃおかねえ」
「ちっ」
舌打ちの音の響きが消えぬ間に――爆裂が起こった。もうもうたる粉塵を鬱陶しそうに手で払いながら、九郎がごちる。
「鼬の最後っ屁みたいな真似しやがって。おっ――」
樹上から音もなく地に降り立ち、九郎は麻鳥に駆け寄った。首に手を当て――すぐに無念そうに首を振る。
「もはや息はねえか――しかし奴の台詞じゃねえが、死なすに惜しい奴」
麻鳥を背負うと、九郎は疾風と化して地を駆け出した。
●
幽鬼蔵人――仲間の名。
居所は――神田。
ザン・ウィルズロードと林檎によって縊鬼の心中から読み取られた内容だ。
が――
二人とも二度目の試みはかなわず、またその事を承知しているのか縊鬼の態度には余裕すら感じられた。
「おかしいですね」
政実は首を傾げた。
縊鬼の余裕。やはり真田の忍びが襲って来るのではあるまいか。
余人は知らず、一人政実のみはいざという時に備えるため、大刀を手に立ちあがった。
その様子をちらりと一瞥し、
「こやつ!」
かっとしたかのように陣が抜刀した。そして氷片のように切っ先を縊鬼の喉首に突きつける。
「新右衛門の自害、さらには仲間も瀕死になり果て、もはやうぬを生かしておく必要もないし、そのつもりもない。あの世へゆけ」
はったりだ。それに満はのる。
「待ってください。このまま殺すのは可哀想ですよ」
云うと、満は能面の表情で縊鬼の首に鎖を巻き始めた。そして、ぞっととするほど優しい声で、
「私はあなた達の習性は受けつけませんよ。口を割らないのであれば用はありませんから」
「ぎゃん!」
縊鬼が吼え、肉の焦げる嫌な匂いが立ち込めた。
見よ、縊鬼の身に蛇のように紫電がからみついているではないか。それは――鎖を掴む満の身体から発せられている。
「命が尽きる前に判断してください」
「ぎぎぃ」
またもや縊鬼が哭いた。しかし、此度のそれは苦悶のものではなく、先ほどと同じく嘲弄の響きが込められている。またもや縊鬼は呪法を無効と化さしめたのだ。
その時――
はじかれたように陣が振り向いた。戸に向かって。
外に、何者かいる。とてつもない凄愴の殺気を放つ何者か、が。
刹那――
爆発が起こったかのように戸が吹き飛んだ。後に立ち込める木屑と土埃――その向こうに朧に立つ影がひとつある。
大兵の侍だ。手に巨大な槍を握っている。
「うぬらが探しておる幽鬼蔵人じゃ」
ニヤリとすると、大兵の侍――幽鬼蔵人は血の坩堝のような眼を爛と光らせた。
「縊鬼を返してもらうぞ」
「させぬ!」
陣が刃を疾らせた。眼にもとまらぬ迅雷の一閃は――しかし、蔵人の巨槍にがっきとばかりに受けとめられている。
「良い腕じゃ」
嗤い、蔵人は巨槍で陣の刃をはねのけた。返す槍の穂先はびゅうと風を切り――かばと縊鬼の前に政実が立ちはだかった。
闘気で強化を施した身体でもって縊鬼を護ろうとしたのだが――いかんせん、蔵人の槍量は遥かに政実を上回っている。あまり迅い槍の一突きは政実の脇を掠めて過ぎて――
ぎぃ!
縊鬼の絶叫が響いた。
愕然とする冒険者の眼前、蔵人の槍に貫かれた縊鬼が身体がのたうちまわらせている。のみならず――おお、その身が空に溶け崩れていくではないか。
「ふん。役立たずめが」
「おい」
ゆらり。立ったのは迦陵だ。
「来いよ。俺が相手してやる」
「ぬかしたな」
その言葉が終わらぬうちに、巨槍が唸った。刹那、発呪。 一瞬後、微塵隠れの起こした爆煙を空しく巨槍がうっている。
いや――空しくではない。蔵人の槍のあまりの鋭さに、正確に云えば迦陵は一息遅れた。巨槍は迦陵の胸元を裂き――
かちゃり。
地を叩く金属音が鳴った。その正体は――真田の手裏剣だ。
「これも貰っておこう」
蔵人が手裏剣を拾いあげた。何でその隙を陣が見逃そう。
「ぬっ!」
裂帛の気合を刃に込めて――抜胴。陣の舞わせた刃は蔵人の胴を薙いでいる。
やった。魔人を斬った。
その快哉の余波のように、さらに陣は刃を翻し――
がっしと蔵人の手が陣の刃を受けとめた。
「なっ――」
驚愕する陣に、蔵人が鮫のように笑いかけた。
「俺に、同じ業は二度効かぬ」
「満、やれ!」
「もうやっています!」
とは、満の叫びだ。そう、彼は今まさに影縛の呪を紡いでいる。が、蔵人はさらに嗤みを深くし、
「縊鬼であれば効いたかも知れぬが、俺には無駄じゃ」
ぐい、と。蔵人が巨槍を突き出した。間合いの詰まった陣にはかわしもならず――それは一気に陣の腹に突き刺さり、背まで貫き通った。
「ぐはっ」
陣の口から黒血が噴いた。
「くたばれい!」
叫びつつ槍をこねようとし――
飛燕のように蔵人が飛び退った。一瞬遅れて、彼のいた空間を光流が薙いで過ぎる。崔軌のオーラソードの一撃だ。
「いつまでも調子にのってんじゃねえぞ」
「くっ」
さらに蔵人が飛び退った。政実の身が薄紅色の焔のような闘気を立ちのぼらせたことに気づいたためだ。
すでに一太刀受けている。これ以上は面倒だ――そう判断した蔵人は三度跳躍した。壁板をぶち破り、外に逃れ出た。
●
もし佐々木流の達人、結城夕貴(ea9916)がどちらかの場にいれば――麻鳥は死なず、または縊鬼も始末されずに済んだかも知れぬ。が、それは届かぬ妄想だ。
その夕貴は今、仲間たちの危難を知らず、艶やかな巫女装束姿で一人の男と酒場で相対していた。
俗にいう情報屋という代物。糸を張り巡らせ、その振動で獲物を読みとる。
その蜘蛛に――
そっと夕貴がしなだれかかる。頬を摺り寄せ、蕾のような唇を近づけ――ほっと彼の口が甘酒のように匂った。
「ねえ、どうなの?」
「最近赤子を世話するようになった奴か‥‥」
情報屋の男が呟いた。
「赤子といやあ、乳の出る女が攫われたって聞いたなあ。もしかしたら、その女が育ててたりしてよ」
「えっ」
瞠目すると、夕貴は胸元に差し入れようとする男の手を掴んだ。そっと握っているように見え、その実、男は苦悶している。
「その攫われた場所はどこ?」
●
「そりゃあ大変だったねえ」
シルフィリア・ユピオーク(eb3525)は嘆息した。
今、一人は危ないと駆けつけた迦陵の口から幽鬼蔵人なる敵の襲撃の一部始終を聞いたばかりだ。
「で、あたいを心配して?」
「縊鬼を始末されるわ、真田の手裏剣は奪われるわ‥‥。やることがなくなっちまったんでな」
「相変わらず愛想無しね。まあ、これ以上珠のお肌に傷をつけられるのは遠慮したいから助かるけど」
ぞくりとする眼で迦陵を見遣ってから、
「それで、神田の方は?」
シルフィリアが問うた。すると迦陵は睫を伏せ、
「だめだ。満がさんわーどの呪法を試みたが、赤子の居所とは距離が違うらしい。新右衛門から赤子の所持している物を預かり、七星達に追わせては見たが――」
首を振った。
「そう‥‥」
こちらといえば、エヴァーグリーン・シーウィンドとイフェリア・アイランズ捜索の網をせばめてもらい、ようやくここに至ったという次第――
肩を落したものの、すぐにシルフィリアは口入れ屋の手代を見つけて近寄っていった。
「ちょっと尋ねたいことがあるんだけど。‥‥友達が初産で乳の出が悪くて困っててね。それで乳母がいないか探してくれって頼まれているんだよ」
「お、お乳でございますか」
手代は眼を白黒させた。するとシルフィリアは艶然と微笑い、
「あたいのが出れば苦労はしないんだけどねぇ」
「あっ」
手代の眼がシルフィリアの水密桃のような胸に吸いついた。この娘の胸なら、乳以外にも十分過ぎるくらい役に立つだろう。
こほんと咳払い、ひとつ。手代はにやけ顔を慌てて元に戻すと、
「ご紹介できるかもわかりませんが――しかし最近はお乳の出ない女性が多いのでございますかね」
「どういうことだい?」
「はい。一月半ばかり前でございましたか。同じようにお乳の良く出る女性を知らぬかと聞かれたことがございまして」
●
悄然と佇む柳に気がつき、大岡屋敷門番は気遣わしげに声をかけてきた。
「そなた‥‥どうしたのだ」
「あ、ああ‥‥」
項垂れたまま――しかし眼は涙に濡れたようにうるうると。
「先日は大所帯で来てしまって悪かったね。僕は一人で来たかったんだけど」
「そ、そうか。いつでも来てもかまわぬぞ」
「そうかい」
喜色の色は一息の間。再び柳は身をすぼめる。
「でも、いつも彼女に視線を向けているから‥僕じゃ駄目かい? 通ってきているのは僕なのに、名前も教えてくれないじゃないか」
「あ――」
門番はどぎまぎと柳を見つめ返し、ふっと溜息を零した。
「小島伸二郎。わ、儂で良ければ――」
門番は壊れた人形のようにがくがくと頷いた。柳ほどの美女――本人は意識してはいないが、実は彼女は驚くべき美女なのである――に云い寄られて、よろめかぬ男はいない。
しかし内心――柳を脳裡を過る面影がある。さらに――
隻眼の剣豪。何故か、その無精な背も――
●
「どうぞ」
勧められるままに、新右衛門は芋の煮物に箸をつけた。
「こ、これは――」
「はい。絵里さんの手料理です」
染み込む清水のように笑み。十人目の冒険者、リュック・デュナン(eb3317)である。
「ま、また、絵里の手料理を食べられるとは――」
はらはらと新右衛門が涙を零した。縊鬼の呪縛を逃れ、今は血色も増してきている。
「それは良かったです。ところで――」
リュックの面から、ふっと笑みが消えた。
「何か黒猫の行動で気になった事があったら教えて下さい。なんとしても赤ちゃんの居場所を見つけ出して助けたいんです」
「鶴松様を‥‥」
新右衛門が箸をおいた。そして幾許か後。新右衛門の眼に小さな光が灯り出した。
「そういえば、何度か黒猫の身に魚の鱗が‥‥」
「鱗!?」
リュックがはたと眼をあげた。
今――
江戸の命運をかけた戦いは大詰めをむかえようとしていた。