【信康切腹】駿河へ
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■シリーズシナリオ
担当:御言雪乃
対応レベル:フリーlv
難易度:普通
成功報酬:0 G 78 C
参加人数:8人
サポート参加人数:4人
冒険期間:12月11日〜12月18日
リプレイ公開日:2007年12月20日
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●オープニング
●
疾風のように地を駆ける影がある。
男。身形は行商人だ。
が、その脚力は常人のそれではない。獣なみの素早さで地を蹴っている。
ふいに――
ぴたと男は足をとめた。そして身を伏せると、地に耳をつけた。
――大丈夫だ。気配はない。
滴る満面の汗を拭いつつ、男は太い息をついた。そして、あらためて怖気に身を震わせた。
この地に潜入しようとした忍びのうち、四忍が瞬く間に始末してのけられた。文字通り、瞬く間に、だ。
ともかくも生き残った自分だけでも立ち返り、この事を報せねば――
そう男が思った時だ。
「伊賀者」
声がした。
「ぬっ」
男――伊賀者は呻いた。高度に研ぎ澄まされているはずの彼の知覚が何の気配もとらえなかったからだ。
咄嗟に伊賀者は戦闘態勢に滑り込んだ。流れるような動きで手裏剣を取り出す。が、同時に放たれた手裏剣が流星のように飛んで、男の手のそれをはじきとばした。
「ばーか。余計な事、すんじゃねーよ」
「う、うぬは――」
声の主の正体を見とめ、カッと伊賀者は眼をむいた。
声の主は少年であった。狼のように野生の精気に満ち溢れた少年だ。
「何者だ」
伊賀者が問うた。すると少年はニッと笑い、答えた。
「風魔の九郎」
「ふ、風魔!」
息を飲み、その時になってようやく伊賀者は気づいた。
周囲に幾つもの殺気が渦巻いている。凍りつくような凄絶の殺気。もし迂闊に指一本でも動かせば、次の瞬間彼は微塵に切り裂かれているだろう。
「安心しろ。おめえは殺さねえよ」
九郎が告げた。そしてふふんと笑うと、
「帰って服部半蔵に伝えろ。駿河に手を出すなと。もしちょっかいなんぞ出しやがると、風魔が服部党を根絶やしにするぞってな」
●
「柳生十兵衛か」
北条早雲は美しい微笑を口辺に浮かべた。
「噂に違わぬメチャクチャな奴。それに冒険者ども。たった九人で尾張と三河の同盟をぶち壊しおった」
「しかし」
首を捻った者がいる。筋骨隆々たる壮年の男。駿河五色備の一色、黄備の将たる北条綱成である。
「まことに尾張と三河の同盟は瓦解したのでござりましょうか」
「した」
早雲は頷いた。
「平織虎光らが浜松城を訪れた後、信康の警護が増したと風魔の者から報せがあった。それを十兵衛らが破り、信康が消えた。いかな家康もこの醜聞は隠せぬ。十兵衛の乱心と信康出奔の噂が東海道を疾く走る様、目に浮かぶようじゃ。同盟が成る訳がない」
早雲が眼を転じた。その先、精悍無比な若者が柱に背をもたせかけて座っている。
「小太郎」
「おう」
小太郎――風魔の頭領たる風魔小太郎が声をあげた。
「何だ?」
「源徳が事だ。信康の事はまだ知られていないのだろうな」
「服部半蔵の手の者は始末した。駿河に潜んでいるかもと怪しんでいるかも知れねえが、確信はもってねえはずだ」
「そうか」
頷くと、すぐに早雲は顔を顰めた。そして、ごちた。
「しかし白隠の爺さん、面倒な事をやってくれる」
「まさか十兵衛と信康を匿うとはな。――で、どうする?」
「どうする、とは?」
早雲が小太郎に問い返した。
「決まっている」
と小太郎は答えた。そして、
「家康に十兵衛と信康を差し出すか、どうかということだよ」
と問うた。
「差し出すのは簡単だ」
云って、早雲が脇息に身をもたれかけさせた。そして拳の上に顎を預ける。
「今の彼奴らは籠の中の雛鳥も同然、捕えるは容易い」
「では、やるか?」
「やりたいのか?」
「あまり面白くはないな」
「では、やりたくないのか」
「俺はな。で、お前はどうなんだ?」
「ふふん」
早雲は嘲笑った。
「家康に義理はない。とはいえ――」
早雲の眼がきらりと光った。
「貸しをつくることはできる」
●
風に、吹かれている。隻眼の若者が。
その若者の背後には一人の男が控えている。
「十兵衛様」
男が呼んだ。若者――柳生十兵衛が振り返る。
「何だ 半助?」
「何だ、とは‥‥聞いていらっしゃるのでございますか」
「聞いている。三河と尾張の同盟がつぶれたというのだろう」
「はい。驚かれぬのですか」
「驚いた」
欠伸を噛み殺し、十兵衛が答えた。
驚いたが、元には戻らない。家を捨て、信康を逃がすと決めた以上は覚悟して然るべき事だった。
助かる筈の信康を浚い、まとまる筈の同盟を潰した。この噂が広まれば十兵衛は世間の笑い者であり、源徳や柳生の朋輩の事を思えば心も痛む。
十兵衛はこれでも途方にくれているのだ。
「本来なら腹を切らねばなるまいが、俺は柳生を捨てた身ゆえそれも出来ぬ。さて困った」
全く困っていないように言う十兵衛に、若者は無性に腹が立った。
「それだけではありませぬ」
男――裏柳生衆の一人である半助は蒼白な顔を強張らせた。
「柳生と服部に十兵衛様抹殺の命がくだされました」
「ふむ」
十兵衛の顔に楽しげな微笑が浮かぶ。半助はしまったと口を閉じた。剣客としての十兵衛を刺激してしまった事に気づいたのだ。いかに十兵衛が強かろうと大大名相手では勝負にならない。最終的には、討たれるのは目に見えた話だというのに、この仁ときたら。
「十兵衛様、これからどうなさるおつもりですか?」
「さて」
十兵衛は顔をあげた。その視線の先、雲が迅く――
●リプレイ本文
●天使
「さて」
酒の入った徳利を口からはなすと、鬼にも似た巨漢がぬっと立ち上がった。三菱扶桑(ea3874)である。
「駿河迄、信康に会いに行くとするか」
「しかし」
首を捻り、大蔵南洋(ec0244)はぎょろりとした眼をあげた。
「源徳の手がまわっているかもしれんぞ」
「そうかね〜」
トマス・ウェスト(ea8714)がけひゃひゃひゃ、と嗤った。
「信康君の事を隠しておきたい家康君が、我が輩達の事をどのような罪で手配しようというのかね〜」
「私らの罪状なんぞは幾らでも付けられるモンさね」
渡部夕凪(ea9450)が苦く笑った。
「とはいえ、追っ手がかかるとしても、せいぜいが十人程度だろう」
扶桑が云った。
が、南天輝(ea2557)はいいやとかぶりを振った。そして、そのふてぶてしい面の中で炯と眼光を光らせ、
「覚えているか」
と問うた。
「越後で忍びに襲われた事を。一人相手にあれだ。侮らぬ方がいい」
「そうね」
カーラ・オレアリス(eb4802)が沈鬱な表情を浮かべた。
先日、冒険者達は上杉謙信に相見える為に越後に向かった事があった。その際一人の忍びに襲われ、全滅寸前まで追い込まれたのだ。
「でも、私は行きます。信康さんをこのままにはしておけません。過ぎた時間は戻らないけれど、生きている限り人は何かをしていかなければならないと思うから」
「そうだな」
南洋が頷いた。
「いくら過酷でも、やはり現実と向き合って生き抜くしかあるまい。信康様の懊悩は如何許りとは思うが」
「駿河の事だけれど」
ふっとカーラが眼をあげた。
「先日、白隠様にお会いしたのです」
「禅師に? 何故?」
「魔物に命を狙われておいででした」
答え、カーラは長い睫を伏せた。
「駿河に暗雲が立ち込めているようです」
「しかし、まあ」
冒険者ギルドの外壁に背をもたせかけていた男が、戸口から出てきた夕凪をちらりと見遣り、苦笑した。
「また見事な喧嘩やってくれるわねーえ」
「心配かけるねぇ」
夕凪は男――渡部不知火に謝した。が、不知火はふふんと笑ったのみだ。
「別に心配はしちゃあいないわよ」
と云った。
「まあ、お前が良しと判じた事だ。俺ぁ、一向に構わねえ」
「そうかい」
頷き、夕凪は眼をあげた。その眼は今、不羈奔放なる隻眼の若者の面影を追っている。
――ムチャクチャな男故、いつかはこうなるかもと憂いてはいたが。
「夕凪、何を微笑っている?」
「いやさ」
不知火の問いかけに、夕凪は肩を竦めてみせた。
「この先も難儀な腕白小僧に振り回されそうだと思ってね」
ふん、と。
他の冒険者から離れたところで、独りクリス・ウェルロッド(ea5708)は美しい顔に嗤笑をへばりつけていた。
――今頃になって信康の心配?
心中、クリスは苦笑した。彼は、妹から尾張三河同盟の推移を聞いていた。
此度の件は、信康を脱走人と成さしめ、本来まとまっていたはずの二国同盟を瓦解させた。東海道の二大国に走った亀裂、けして軽く考えられるものではない。
「最悪だよ。それも何故私が‥はぁ」
ふっと、クリスは天使の顔に悪魔の笑みを浮かべた。
●隠密
寒風吹き荒ぶ中、冒険者達は江戸を後にした。個に別れ、人目を忍び、身をやつし、ひたすらに駿河を目指す。
その中、東海道を上るトマスは仏頂面をしていた。その端正ともいえなくない面にかかる髪は黒く――いや、トマスの髪は雪色の白ではなかったか。
そう、それは――仲間の冒険者の仕業であった。
当初、トマスは道化師の顔を模した面――クラウンマスクをつけて正体を隠そうと目論んでいた。が、それではかえって目立つと仲間に面を外され、炭を髪に塗り込められたのであったのだ。
「まったく‥‥どうせ我が輩が来るまで、異人の格好をどうするかまでは考えていなかったのだろう〜?」
トマスは顔を顰めた。そして、すたすたと東海道をゆく。
と――
非毛氈を敷いた茶店の縁台から、一人の男が立ち上がった。身形からして行商人のようである。
男はトマスを追うように東海道を上り始めた。
そして幾許か。やがてトマスと男は峠道にさしかかった。辺りには人の姿はない。
そうと見てとり、男は懐から手裏剣を取り出した。そして男の手から手裏剣が放たれた。いや――
ぽとり、と手裏剣が地に落ちた。続けて男ががくりと崩折れて――その背後、一人の男がいた。地に片膝つき、血濡れた忍者刀を片手に引っさげている。
「平山弥一郎さんから、東海道に不穏の気配ありと聞いていましたが‥‥。同門の伊賀忍を手にかけたくはありませんでしたが、俺は伊賀忍である前に御影の者ですから」
呟き、男は刃の血糊を払った。
彼の名は片桐惣助(ea6649)。八人目の冒険者であった。
●扶桑、血風
他方――
「待て」
呼びとめられ、扶桑とカーラは足をとめた。そして振り返り、二人は拙いとばかりに唇を噛んだ。
扶桑とカーラの眼前、立っているのは侍だ。身形からして、おそらくは宿場役人であろう。
「貴様、三菱扶桑だな」
役人は云った。そして人相書きを取り出すと、続いてカーラに眼を向けた。
「お前はカーラ・オレアリスだな。大人しく同道せい」
役人がカーラに手をのばした。刹那――
扶桑が抜刀した。返した峰で役人をうつ。
「貴様、逆らうか!」
腹を押さえつつ、役人が叫んだ。同時に岡引らしき男が呼子を吹く。
「ええい!」
刀をひっ担ぎ、扶桑はカーラの前に立ちはだかった。そして背を向けたまま、
「ゆけ、カーラ! ここは俺が引き受ける!」
叫んだ。
夜半から降り出した雨が川の水面を叩いている。その水音の染みる橋の下の闇――
ごとり。
身動ぎする者がいた。扶桑だ。筵を頭から被っている。
その時、慌しい幾つかの足音が橋の上を走りすぎた。叫び交わす声から察するに宿場役人達であろう。
――この分じゃあ、駿河には間にあわぬなぁ。
扶桑の口から重い吐息が零れ落ちた。
●信康
鯉ヶ滝。
白隠に教えられ、惣助とカーラが向かったのは富士樹海内の滝であった。その滝にある洞窟内に信康は潜んでいるという。
そして――再び。惣助とカーラ、信康と対面す。
「先ずはお詫びを」
カーラが頭を下げ、此度の件が結果として信康を追い詰めた事を詫びた。
「いや」
信康はかぶりを振った。
「俺を心配するあまりの仕儀であったのだろう。お前達を責める事はできぬ。それに」
信康は苦笑を浮かべた。
「このような無茶な真似、どうせ十兵衛に唆されたのであろう」
「はい‥‥いえ」
カーラが曖昧に答えた。同時に、彼女はほっと胸を撫で下ろしている。
今見た信康の様子では、どうやら思い余って自決するなどという行動をとる事はなさそうである。もしそのように素振りが見えたら、カーラは身を挺してでも信康を思いとどまらせるつもりであったのだ。
「安堵致しました。思ったより信康様が元気であられて」
「俺の事はどうでもよい。それよりお前達の事だ」
「俺達は良いのです」
惣助が口を開いた。そして、いつもの柔らかな笑みを満面に浮かべ、
「俺達は何時如何なる時も覚悟を定めていますから。が」
惣助の顔から笑みが消えた。そして寒月の如き蒼い光を眼にやどらせ、信康を見つめた。
「信康殿は信康殿。これから先は信康殿らしく生き様を全うしていただきたく」
「俺の‥‥生き様?」
「そうです」
カーラが大きく頷いた。
「大切なのは信康様がどうしたいかなのです。信康様にやるべき事がおありなら、我々――少なくとも私はお力添えするつもりでおります」
「そうか‥‥」
信康の口辺に微笑が刻まれた。
「冒険者‥‥あの十兵衛ほどの男が頼みとするはずだ」
信康は眼をあげると、惣助とカーラを見た。
「人間とはおかしなものでな。追い詰められると、かえって肝がすわる。惣助が申した通り、これから俺は俺らしく生きようと思う」
云って、信康は三河と尾張の同盟が瓦解した事実を打ち明けた。
「此度の運命の皮肉、俺には天意としか思えぬ。故に俺は尾張にはゆかぬ。源徳の為、俺は俺の道を探すとしよう」
信康が宣言した。それを聞いて惣助とカーラは眼を見交わし、そっと立ち上がった。
●十兵衛
柳生十兵衛が噴出した。そしてげらげらと笑い出した。
「お笑いでない」
夕凪が怒った。
「すまん」
と云いながら、しかし十兵衛はニヤニヤしながら鳥追姿の夕凪を眺めて、
「しかし、なかなか似合うではないか」
「ひっぱたくよ、全く」
夕凪は顔を顰め、しかしすぐにやれやれとぱかりに胸を撫で下ろした。
「でもまあ、今笑えるのなら何よりさね」
「元気なようで、安心したぜ」
ニンマリし、輝はどっかと十兵衛の前に腰をおろした。そして周囲を見回す。
そこは山の中の無住の寺。白隠が用意したものだ。
「しかし参ったね〜」
突如声をあげた者がいる。トマスだ。
「これからエドで治療院をやっていけるかね〜」
深刻ぶって溜息をついて――悪戯っぽくトマスは片目を瞑ってみせた。
「けひゃひゃひゃ、洒落だよ洒落〜。安心したまえ。我が輩の心配は無用だよ。手配など、我が輩からすればようやくというべきか〜。今までよく目をつけられなかったものだと思っているくらいなのだからね〜」
「云うねえ、トマス」
輝は膝を叩いた。
「他の連中も此度の事は後悔なんぞしてねえ。安心してくれ」
「そうか」
十兵衛が童子のように微笑った。
十兵衛は死ぬ事を微塵も恐れてはいないし、また源徳から命を狙われる事は面白いとさえ思う。が、一つ気にかかっている事があった。冒険者達の事だ。
その十兵衛の思いを輝は見抜いた。故に不敵に笑い、ただ杯を差し出す。
「十兵衛、良くも悪くも時は動いた。頼りないかもしれんが、必要な時は俺達を頼れ。俺はお前達を友だと思っている」
「お忘れでないよ」
夕凪が十兵衛の肩に手をおいた。
「十兵衛殿の周りには、一国の主君さえも平気で敵に回す虚けが何時も在る事を」
「夕凪」
十兵衛が夕凪を見上げた。そしてギラリと隻眼を光らせ、
「俺も馬鹿だが、お前達も相当な馬鹿だな」
「そうじゃなきゃ、十兵衛殿には付き合えないさね」
ふっと笑い返し、夕凪はすぐに真顔になった。
「さて、問題は此れからどうするか‥だねえ。今二人が表向き自由の身で在る事は白隠禅師殿の尽力と北条公が存ぜぬ立場を貫いてくれている恩恵、か」
「だろうな」
十兵衛が頷いた。
「北条早雲と風魔。噂通りの奴らならば、俺達の事に感づいておらぬはずがない」
「駿河も安住の地ではないのかも知れませぬな。しかし、それにしても何故北条は見逃しているのだろう?」
南洋が問うた。
「わからん」
十兵衛はかぶりを振った。
「何を狙っているのか‥‥読めぬ奴だ、早雲という男」
「なら、いっそ」
何を思いついたか、夕凪が眼をわずかに見開いた。
「機会有らばいかさま、一度北条公と目通りするも開ける道があるやも知れないねえ」
「しかし」
輝は首を捻った。
「目通りがかなうか? 仮にも相手は一国の主だぞ」
輝の脳裏に上杉謙信の名が過ぎった。一国の主との会見の難しさは骨身に染みている。
が、夕凪は悠然と笑ってみせた。
「剣客たる十兵衛殿の名、下手な大名より金箔つきじゃあないかい?」
「なるほどね〜」
トマスがけひゃひゃひゃと笑った。
「夕凪君はお利口だね〜」
「ところで十兵衛殿」
南洋が身を乗り出した。
「私に一つ、案があるのですが」
「案?」
「左様」
頷き、南洋は声を低めた。
「つまるところ我等がしでかしたことは人攫い。ならば本物の人攫いにならって行動すべきではありますまいか?」
「人攫いにならって?」
ほほう、と十兵衛は悪戯を相談しあう子供の顔になって、
「どういう事か、聞こう」
「はい」
再び頷き、南洋が展開した理論はこうだ。
人攫いたる者、とるべき行動は三つある。一つは獲物の親族に無体な要求をするものだが、これは相手は家康となり、交渉するのは端から無理だ。別の一手は価値がなくなった獲物を解放するというものであるが、これは信康を放置する事であり、無責任に過ぎる。
「残るのは、獲物を人買いに売り飛ばす事です。即ち、一か八か平織に話しを持ちかけてみてはいかがか?」
「平織にか‥‥」
しばし思案し、しかし十兵衛は首を横に振った。
「平織に行く筈の信康殿を俺達が奪い、それをまた平織に売るのでは道理が通るまい。まして源徳家は信康殿にも抹殺の命を下したと聞いた。それほどの厄介事を、平織が諾なう利があるか?」
「そうだねえ」
夕凪が立ち上がった。それを眼で追った輝が問う。
「どこへ?」
「ちょっとね」
答え、夕凪が外へ歩みだした。
「‥お出でかい?」
無住の寺から離れ、夕凪が問うた。が、声はなく。ただ懐手した彼女の袖を寒風が翻らせているのみだ。
――されど、いる。風魔が必ず。
「‥此度の一件、北条公には多々と見逃して貰った義理が有る。我らの内々からよもや駿河に迷惑被らせる気配有らば遠慮は要らぬ‥そう伝えて貰えるかい?」
夕凪が告げた。
刹那――
びょう。
疾風が吹いた。思わず夕凪が眼前に手をかざし――吹きなびく夕凪の髪が背に流れ落ちた時、世界は再び沈黙に包まれていた。
●魔性
「‥‥以上が、私が知りえる情報の全て。同盟工作の見届け人の一人が我が妹でありましたから、この情報は確かかと」
クリスが云った。ふむ、と頷いたのは信康である。クリスは他の冒険者とは別れ、一人で信康との会見に臨んでいたのであった。
「私が一人で参りましたのは、信康公のお耳にだけ入れたい事があるからでございます」
「俺の耳だけに?」
信康が眉をひそめた。するとクリスは小さく頷き、美しい唇の端をわずかに吊りあげた。
「事が事だけに、もはや柳生十兵衛を救う手立てはありません。しかし望みはございます」
「望みが‥‥?」
「はい。今回の件は自分の意思とは無関係と公言し、源徳公の慈悲に縋るのです。此度の一件に加担した者の詳細を包み隠さずお話し、改めて同盟の場を設けられたなら、信康公の命助かるかも知れません」
「俺に、十兵衛と冒険者を売れと申すか」
「はい。非情な事ですが、三河と尾張の平和の為にはそれしか道が残されていないのです」
「馬鹿な」
信康は吐き捨てた。
「卑怯とは言うまい、それが兵法だ。俺の為に言ってくれたこと嬉しく思う。だがそれは難しい話。俺とて、全てを捨てた十兵衛達を売り、生きのびようとは思わぬ。地に堕ちたとて源徳信康、友は裏切れぬ」
「そうですか」
クリスは肩を竦めた。本当なら愚痴の一つも言いたい所だ。
愚かな男だと思う。大名の跡取りが大局と友情を天秤にかけるとは。悪人では国王になれないが、善人ではなお至難か。
再び美しい嗤笑を片頬に刻みつけ、クリスは鯉ヶ滝を後にした。
ここに、信康切腹をめぐる冒険行は終わりを告げる事になる。しかし、同時にそれは新たな――大きな物語の幕開けでもあった。