【信康切腹】十兵衛、乱心
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■シリーズシナリオ
担当:御言雪乃
対応レベル:11〜lv
難易度:難しい
成功報酬:15 G 20 C
参加人数:8人
サポート参加人数:3人
冒険期間:11月20日〜11月29日
リプレイ公開日:2007年11月29日
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●オープニング
●
「殿」
楚々とした婦人が泣き崩れた。
源徳信康の妻、徳姫。先ほど、あらためて信康切腹の沙汰が届いたのを知ったばかりである。
「十兵衛が大丈夫と申しておりましたのに」
「恨むでない」
この場合、信康は笑った。そして徳姫の肩をやさしく抱き、
「どころか感謝せねばなるまい。こんな俺の為に、冒険者は命を賭けて戦ってくれたのだ。俺ほど果報者はおるまいよ」
「け、けれど殿‥‥」
「良いのだ」
信康は徳姫の肩においた手に力を込めた。
「俺はもうすぐ、じゃぱん一の剣豪の剣を受けることができるのだ。それを誉れと思って見送ってくれい」
●
三河の源徳家屋敷。その縁にごろりと一人の漢が寝転んでいた。
破れ衣でどうにか非常たる気風を押し隠したような若者だ。その右眼は糸のように閉じられている。
源徳家剣術指南役柳生家嫡男、柳生十兵衛であった。
「‥‥半助」
十兵衛が呼んだ。すると、中庭にすっと気配がわいた。十兵衛の従者として三河に同行していた裏柳生衆の一人、半助である。
「十兵衛様」
半助がひそめた声をかけた。
「源徳様お屋敷で、そのような真似をされては――」
「うるさいな」
欠伸をしつつ、十兵衛は身を起こした。
「お前に話がある」
「そんなことより」
半助がさらに声をひそめた。
「お聞きになりましたか。信康様にあらためて切腹の沙汰がくだしおかれたこと」
「知っている。だから、お前に話があるんだ」
云うと、十兵衛は半助を手招いた。そして、今度は十兵衛が声をひそめて、
「お前に頼みたい事がある」
「私に? そりゃあ十兵衛のお頼みなら何なりとお申し付けくださってけっこうですが」
ふと不安にかられ、半助は問うた。
「で、どのようなお頼みで?」
「江戸の冒険者ぎるどに走ってくれ」
「冒険者ぎるど?」
半助は小首を傾げた。
信康切腹を阻止する試みは失敗に終わっている。今更、冒険者に何の用があるというのだろう。
「依頼を出すのでございますか?」
「ああ。信康殿を助け出す、その手伝いをしてくれと、な」
「な――」
愕然とし、半助は息をひいた。
今、十兵衛は何と云った? 信康を助ける? とても正気の沙汰とは思えない。
「――ま、まさか十兵衛様、助けるというのは」
「ここに至っては仕方がない。力づくで信康殿を三河より落ちのびさせる」
「ば、馬鹿な‥‥」
今度こそ半助は恐怖のあまり絶句した。
十兵衛のやろうとしている事はれっきとした源徳に対する謀反である。いいや、源徳のみならず柳生家に対しても。
竜車に歯向かう蟷螂の斧。とても只ですむとは思えない。下手をすれば十兵衛のみならず、柳生家すらおとりつぶしとなるは必定‥‥。
顔面を蒼白にし、震える声を半助は押し出した。
「お、おやめください。そのような事をすれば十兵衛様だけでなく、大殿にまでどのような難儀がふりかかりまするぞ」
「それは拙いか」
「では――」
おやめくださるのですね、と云おうとして半助は我が目を疑った。十兵衛の隻眼に、この時半助は曙光にも似た薄蒼い光を見とめたのである。このような光を眼に宿す時、十兵衛はきっととてつもない事を企んでいる‥‥。
「じ、十兵衛様、まさか‥‥」
「ああ。俺はやる。親父には悪いが、な」
「十兵衛様!」
半助が悲鳴に近い声をあげた。そんな半助を、十兵衛は片手をあげて制した。
「まあ、待て。俺の仕業とばれなければ良い。それに、いざとなれば俺は乱心する」
「ら、乱心!?」
「乱心したとなれば、責は俺一人。上手くいけば柳生家に咎めはかかるまい」
無論、上手くいかない時は源徳の柳生家は消滅する。その可能性は一番高いはずだ。
「何を愚かなことを。貴方様は柳生家の御嫡男でございますぞ。それが、柳生家が潰れる事をお望みになられるのか」
「そこだ、半助」
十兵衛はニヤリとした。
「すぐに信康殿を助けに行けば良いものを、今まで出来なんだは柳生家への遠慮があったからさ。日頃親父と喧嘩ばかりの俺が、御家大事で友を見殺しにする所であった。ならば俺は柳生を捨てる。これよりは一介の十兵衛、柳生が潰れようと委細構わぬ。それに――」
十兵衛の笑みが悪戯っ子のように深くなった。
「俺は柳生家なんぞ、いっそ潰れてしまえと思っているのさ。一介の剣客となった方がどれほど面白いか」
「――」
半助は口をあんぐり開け、呆けたように突っ立っていた。肝をつぶしてしまったのである。
ムチャクチャな人物であるとは常日頃思っていたが、まさかこれほどまでとは‥‥。
が、この場合、半助はきゅっと笑った。
「‥‥十兵衛様は、ほんに馬鹿でございますな。柳生でない一介の武芸者と申されるなら、私がお仕えする理が立ちませぬ」
頷くと、半助はごくりと唾を飲み込んだ。
「承知しました。江戸の冒険者ぎるどまで参りましょう。しかし」
と、ふと半助は不安の色を面に滲ませた。
「冒険者に頼んで、大丈夫でございましょうか」
「奴らなら、やる。報告を聞いたが、此度もあと少し時があれば謙信寝返りも成っていたやも知れん。まあトマスという冒険者は呪力が尽きて、奴の薬の世話にはなったらしいがな。それはともかく、それほどの奴らが揃っているのだ。必ず信康殿を助けてくれるだろう」
「しかし問題はもう一つあります」
「信康殿が事か」
十兵衛が苦く笑った。
一番大きな問題が一つ残っている。それは他でもない、信康自身の事であった。
剛直な信康の事だ。助け出そうとしても拒むに決まっている。当然説得など不可能だ。
「信康様の御意思を無視し、本当に良いのでございましょうか」
「わからん」
十兵衛はかぶりを振った。が、すぐにふっと眼を上げると、
「しかし、一つだけわかっている事がある」
と云った。
「わかっている事? 何でございますか?」
「死んでしまっては元も子もないという事だ。生きてあれば花咲く日が来るかも知れん」
十兵衛は云った。その隻眼に浮かぶ光は、この時日輪の如く強く煌き――
かくして、柳生十兵衛と冒険者の一世一代の大博打が始まった。
●リプレイ本文
●冬の空
――本人の意を介さず拘束し死地から落とす‥‥あの日と同じだな。
鈍色の冬空を見上げる大蔵南洋(ec0244)の眼にはある感慨の光が浮かんでいる。
後に華の乱と呼ばれる事になる江戸の戦。その際、南洋を含めた冒険者は信康の意志を無視して、彼を江戸城から落ちのびさせた事がある。
「違いは囲んでおるものが伊達か源徳か、だけか」
南洋が呟いた。すると南天輝(ea2557)がくすりと微笑い、
「何だ、後悔しているのか?」
「後悔などしてはいないが」
「だろうな」
輝はニヤリとした。
「俺は此度の事も巻き込まれたんじゃなく、俺の意志でやっている」
「俺も同じだ」
頷いたのは戦闘馬に跨った巨漢、三菱扶桑(ea3874)である。彼はふてぶてしく唇の端を吊り上げ、
「俺も、己から渦中に飛び込んだと思っている」
「ふっ」
再び輝はくすりと微笑った。
「ともかく、あの柳生十兵衛って奴は面白いぜ。友を死なせない為に乱心か。気に入った」
「そうかねえ」
とは渡部夕凪(ea9450)だ。
夕凪は信康と一対一で相対した事があった。その折、彼女は信康の心に触れている。信康の武将としての真実に。
夕凪は信康の生き様を貫かせてやりたかった。人は己の生き様を掴み取る権利がある。
とはいえ、夕凪に迷いはない。彼女はいつも不動である。ただ、十兵衛には云うべき事があった。不遜ではあるが、それが己の役割と夕凪は自負している。
その時、二つの騎影が進み出た。片桐惣助(ea6649)と空間明衣(eb4994)の二人である。
「俺達は先にゆきます」
惣助が云った。すると驢馬の鈍器丸の綱を引いていたトマス・ウェスト(ea8714)が眼を上げ、問うた。
「どこへ行くのだね〜」
「酒井忠次殿のところに」
「酒井?」
聞きとがめ、カーラ・オレアリス(eb4802)は美しい眉をひそめた。
「酒井忠次といえば源徳の家臣よね。助力を願っても無駄よ」
「いいえ」
惣助はかぶりを振った。
「助力を願うのではありません。信康殿の切腹を回避できなかった事を詫びようと思うのです」
惣助は云った。若の事を宜しく頼むと請うた忠次の涙を浮かべた眼を思い出す度、優しき惣助の胸は痛んでいたのだ。
「そう」
カーラは頷いた。
此度の依頼に関しては、彼女もまた思うところはある。特に越後の色部勝長だ。
冒険者は利のみで動くと彼に誤解されたままであるのは、カーラにとっては心苦しい事であった。袖すりあったのも多少の縁。できうれば誤解を解いておきたいと――カーラの懐には文が忍ばせてあった。色部勝長への書状である。
「私は駿河だな」
告げると、明衣は鬼面頬を顔につけた。
「白隠禅師には私が話をつけておく」
明衣が馬の腹を蹴った。同時に惣助も。
遠くなる騎影を眺め遣りつつ、しかし残る六人の冒険者には声もない。
おそらく此度の冒険行の結果、彼らは源徳の敵と見なされる事になるであろう。
が、賽は投げられた。ついに運命の冒険行の幕は上がったのである。
●不審
江戸を発って三日。切腹当日の前夜、冒険者達は三河に辿り着いた。すでに源徳屋敷は薄闇の中に沈んでいる。
「良く来てくれた」
玄関まで出迎えに来た隻眼の若者が破顔した。ものぐさな彼にしては珍しい事で。――柳生十兵衛である。
するとカーラが真摯な眼差しを返し、
「力不足とはいえ悔しいもの。このまま前途ある若者を死なせたりはしません」
云った。迷いの中にある衆生を救う為なら、彼女は命をかけても惜しくはないと思っていた。
と――
夕凪がするすると進み出た。何をする気かと思いきや――
夕凪の手が閃き、十兵衛の頬が鳴った。
「信康殿にとって其の生き様、焦がれてやまぬものらしい。己が為に其を曇らせたと最も悔やむが誰かは‥承知だね」
夕凪が問うた。すると十兵衛はああと頷き、
「わかっている」
と答えた。
その十兵衛の隻眼を見つめ、夕凪は、彼が十分己のしようしている事の意味を承知していると悟った。そうでもなければ、いくら突然の事とはいえ、夕凪の平手を十兵衛ほどの男がかわせぬはずはないからだ。十兵衛は自ら夕凪の平手を受けたのである。
「では」
と、声をあげたのは南洋だ。夕凪の気持ちはわからぬでもないが、ともかくは事をすすめるべしと知る彼である。もはや残された刻はない。
「十兵衛殿にお頼みしたい事がある」
「何だ」
「信康様を静かな場所に連れ出して頂きたい。そして、その場に潜む我らが気をひくゆえ、その隙に当て身で信康様を眠らせていただきたい」
「承知した。が――」
十兵衛が怪訝そうに眉をひそめた。
「何かおかしい。急に警護の者の数が増えた。それに皆殺気立っている」
「企てがもれたのではないかね〜?」
トマスが問うと、いや、と十兵衛はかぶりを振った。
「この事あるを知るのは俺と半助、それとお前達だけだ。企みがもれるとは思えぬ」
「では、何が‥‥」
扶桑が腕を組んで考えに沈んだ。この時、彼の脳裏には明衣の言葉は過ぎっていない。
ここに運命の皮肉がある。
もし、この場に明衣がいれば。そして尾張と三河の同盟の件を十兵衛に直に告げて説得していれば――あるいは十兵衛は企ての決行を中止していたかも知れぬ。
が、果たせるかな、この場に明衣はいない。そして十兵衛が尾張と三河の同盟工作について知る事もない。
「十兵衛殿、どうする?」
南洋が問うた。
すると十兵衛はううむと唸った。迷っているのである。
何かが源徳に起こっている。と、いうことは十兵衛も察している。
が、それは何か。わからぬ。そして時ここに至っては確かめる術もない。
されど信康の切腹は明日に迫っている。決断を下すなら今しかないのだ。
「やる」
十兵衛は云った。
わずか後の事だ。請われて、信康は夕凪と対面していた。
夕凪は頭を下げ――
信康は微笑を返し――
信康が言葉を発する事はなかった。
●闇の中の二人
宵の口とはいえ、すでに風は身を切るほどに冷たい。源徳屋敷外に身を潜める惣助は防寒衣の襟をたてた。
暗躍の術を身に刻み込んだ惣助にとって、寒さをしのぐのはさほど苦ではない。が、寒さは彼自身意識せぬ行動力の低下を招いているはずだ。
その惣助の耳には、先ほどから三味の音が届いている。夕凪の爪弾くものだ。源徳屋敷では、今頃信康と冒険者のみにての最後の酒宴がひらかれているはずである。
闇に染みるその音を聞きつつ、しかし惣助は暗澹たる思いにかられていた。
彼としては事前に逃走経路を割り出しておくつもりであった。が、吉田城に立ち寄っていた為、その時間はなく――頼りはヨシュア・グリッペンベルグがバーニングマップによって割り出してくれた結果だけだ。
――さて。
惣助は気配を探った。必ずやどこかに服部半蔵の手の者が潜んでいるはずである。
探るのも伊賀忍。潜むのも伊賀忍。同門同血の暗闘は闇の中、すでに始まっていたのである。
もう一人。闇に潜み、身を震わせているのは明衣であった。彼女の目立つ紅髪は布によって隠されている。
明衣はちらと胸元に視線をおとした。そこにはうっすらと傷跡が残っている。越後に赴いた際、忍びによってつけられたものだ。
――信康殿。
明衣は屋敷にいるはずの信康に思いを馳せた。
――私以外にも、貴殿の為に多くの冒険者が傷を負った。すべては信康殿に生きて欲しいが為だ。
わかってくれるだろうか。
明衣は願わずにはいられなかった。
●決行
十兵衛がゆるりと杯を傾けていた。その隣では信康も同様に酒に口をつけている。
その信康といえば――朗らかだ。天真爛漫といってよい。
あれが死をひかえた侍の顔か。――扶桑は思う。まるで童子のようだ、と。そして同時に思い返す。先ほど会った徳姫の悲しげな顔を。
――今暫く自分達を信じて欲しい。
彼の事を覚えていた徳姫に、扶桑はそう告げた。が、徳姫は返事もせずに眼を伏せたのみだ。
――信じられなくとも無理はないか。
そう扶桑が思った時だ。十兵衛が立ち上がった。
「十兵衛、どうした?」
「信康殿、少し話がある」
十兵衛が促すと、信康もまた立ち上がった。
月は真円であった。銀色に煌き、天空にて黙している。
「十兵衛、話とは何だ?」
「それは」
廊下の隅。答えかけて、十兵衛は月を見上げた。
「良い月でござるな」
「ああ」
信康が頷いた。
「幼馴染のお前と、このような形で月を見上げる事になろうとはな。しかし、俺は感謝しているぞ。お前と冒険者がなしてくれた事に。そして明日、剣の師匠ともいうべき十兵衛の剣で御仕舞いとなれる事をな」
「信康殿」
ふいにわいた声に、驚いて信康が振り返った。そして、そこに南洋の姿を見出した。
「おぬしは」
「まだ御仕舞いではござらん。お支度を」
南洋が云った。
刹那だ。くたりと信康は崩折れ、十兵衛の腕に抱きとめられている。
十兵衛が当身をくれた――とは、その瞬間に南洋が思った事だ。何時十兵衛が当身を放ったかは、ついに南洋にはわからない。恐るべき十兵衛の手練であった。
「やるぞ」
十兵衛が促すと、うむと頷き、扶桑が軽々と信康を担ぎ上げた。その間、輝が様子を窺っている。
「駄目だ。まだ動けねえ」
輝が呻いた。その彼の眼前、庭には明々と篝火がたかれ、十数名の侍が立っていた。物腰から、皆手練の者とわかる。警護の侍であった。
夕凪は一人座敷に残って三味を爪弾いていた。その彼女の眼前、裏柳生衆の一人である半助が座している。
「すまないねえ」
夕凪が謝した。すると半助は首を振り、
「十兵衛様に付き従わなくともかまわないのでしょうか」
「半助さんには、この場に居残ってもらわなきゃならないのさ」
夕凪が云った。
これから十兵衛と信康は源徳から追われる身となるであろう。その場合、源徳の内情を知る者がいる方が都合が良い。半助には伝役になってもらいたい。相手が十兵衛である以上、半助が昏倒していても怪しまれはしないだろう。
その時、庭から騒ぎの声があがった。
●トマス 翔ぶ
篝火の火にてらてらと濡れる警護の侍達は、皆一様に天を仰いでいる。
彼らは何を見ているのか――
見よ。天空を巨大な凧が舞っている。のみか、そこには人影が見える。白い髪を風に翻らせたトマスであった。
「けひゃひゃひゃ、信康君は頂いたね〜」
「何っ!?」
警護の侍達は眼をむいた。暗くて良くはわからないが、確かに凧には何かが吊るしてある。
慌てて数人の侍が座敷に向かい、そして息せき切って戻ってきた。
「座敷に信康様の姿はない」
「何だと!?」
では、やはり――と、警護の侍達ははじかれたように天空をもう一度振り仰いだ。そして、
「追え! 決して逃してはならぬ!」
絶叫した。
追ってくる侍達を見下ろしながら、トマスはニヤリとした。そこにいつもの嘲弄じみた笑いはない。
もし侍達に追い詰められたらトマスは万事休すである。しかし、トマスは死ぬつもりなどなかった。
越後行。そこにおいて、彼は己のみの治療にしか力をふるえなかった。その事はたえられぬほどの屈辱であった。
「アレだけは我が輩自身、許せないね〜。あの汚名を返上するまで我が輩は死ねないね〜」
トマスが呟いた。その声は風に吹き散らされ、消えた。
●斬り抜ける
銀灰色の霧が渦巻いた。二間四方にも満たぬ小さなものだ。
不審に思った屋敷に残った侍の一人が霧中に歩みいり――そこにカーラの姿を見出して愕然とした。そして、さらには旅装の信康を担いだ扶桑の姿を発見するに及んで、悲鳴に近い叫びをあげた。
「信康様だ!」
「拙い」
呻くと、慌てて扶桑はカーラの開けた塀の穴に信康を押し込んだ。
「逃さぬ!」
殺到する侍達であるが――一人が頭蓋から血煙あげて倒れた。血刀が宙に舞い――おお、南洋だ。
「手加減したかったが」
南洋は唇を噛んだ。心中斬りたくはなかったが、手加減できる余力はない。
――何とか隠密裏に箒に乗せて脱出したかったのだが‥‥
南洋が心中に呟いた時だ。刃が閃いた。それは南洋の背後を襲い――
戛然!
夜目にも鮮やかな火花が散り、夕凪が刃を受け止めた。
「時を稼ぐよ!」
叫びつつ、夕凪は刃をふりかざした。
塀の外。ひらりと十兵衛は馬に跨った。惣助の用意した馬である。
「十兵衛殿」
「うむ」
頷くと、扶桑から信康を受け取り、十兵衛は馬首を返した。
「世話になったな。この借りは何れ返す」
云うと、十兵衛が馬腹を蹴った。
刹那だ。樹枝からましらのような影が飛んだ。その数は三。
それと同時。地からも一つの影が躍りあがっている。
殺気に燃える二対の視線が交差した。二筋の光流も。
鋼のあいうつ澄んだ音が響き、一瞬後、地に二つの影が降り立った。一人は惣助、もう一人は黒装束の男だ。
「忍びだな。ここから先はいかせませんよ」
大蝦蟇を召喚しつつ、惣助が叫んだ。その間、鬼面頬つけた明衣はもう一人の黒装束の前に立ちはだかっている。
「通行止メ。他回レ」
「――」
黙したまま、黒装束が再び飛んだ。それを追い、明衣の相州行光がはねあがり――
ザッ、と。驟雨のように鮮血が地をうち、片足を断ち切られた黒装束が転がった。
●奇計
疾風のように馬が駆ける。信康を乗せた十兵衛の操るものだ。
その背後、ひたひたと追ってくる影があった。冒険者がとめた三人の忍びのうちの一人――服部党の忍びである。
と――
突然苦鳴があがった。咄嗟に馬をとめて振り返った十兵衛の眼前、網に包み込まれた追っ手の姿がある。
「南天か!」
「そうだ」
樹陰から輝が姿を見せた。彼は一足先に源徳屋敷から抜け出て、この場にて追っ手を待ち受けていたのであった。
「ゆけ。後の事はまかせろ」
「おう!」
十兵衛が再び馬腹を蹴った。
遠くなる騎影を眺め遣りつつ、輝はニヤリとした。それは楽しくてたまらぬ笑いに見えた。
●十兵衛抹殺指令
数日後。
ここに書状がある。内容は江戸奪還には信康が必要であり、さらには冒険者の協力を得るには信康を旗頭とすべきというものである。他、上杉謙信を愚か者と断じてさえあった。――扶桑の残したものである。
その書状を、ギュッと家康は握りつぶした。
「おのれ十兵衛! おのれ冒険者!」
家康は歯を軋り鳴らせると、
「信康と十兵衛は?」
「未だ行方は知れず」
家康第一の謀臣、本多正信が答えた。
「ならば冒険者どもはどうした?」
「屋敷の者、さらには伊賀者すべて信康様を追うあまり、取り逃がしてございまする」
「ううぬ」
家康は書状を叩きつけた。そして眼前で平伏する二人の男の名を呼んだ。
「宗矩、半蔵」
「はッ」
二人の男――柳生宗矩と服部半蔵が面をあげた。その面を家康は睨み据え、
「彼奴らたった九人の為に尾張との同盟は瓦解いたした。この上はうぬらの名にかけて、必ずや十兵衛と信康を殺せ」
命じた。