【昏き祝福】曙光の追想曲

■シリーズシナリオ


担当:宮本圭

対応レベル:2〜6lv

難易度:やや易

成功報酬:1 G 36 C

参加人数:8人

サポート参加人数:-人

冒険期間:12月15日〜12月20日

リプレイ公開日:2004年12月23日

●オープニング

 眠る支度をしていたら、唐突に扉がノックされた。どうぞと声をかけると、まだ旅装束も解いていない商人がぬうとドアをくぐって姿を現した。
 ぎしりと床を軋ませて屈みこみ、ベッドに座ったアルマンの顔を覗き込む。薄暗い室内でも涙の余韻で腫れた瞼には気づいただろうが、商人はそれについては何も言わなかった。宿につくなり商談があるからと部屋に放り込まれ、そのまま夕方まで誰も入ってこなかったのは、多分、この男なりの気遣いの仕方なのだろう。
「これからどうするか、考えてんのか?」
「‥‥家は出ますよ」
 その科白に見せた商人の表情で彼が誤解しているのがわかったので、アルマンは足りなかった言葉を継ぐ。
「逃げ出すんじゃなくて‥‥伯父さんたちは多分僕のことを許さないだろうから、あの家にはいないほうがいいんです」
「そんなこたあ‥‥」
「本当のことです。いろんな人を傷つけたから、当然の報いで」
 あの黒猫に弱さを付け入られたのだと、認めるにはまだ少し勇気が要る。幾夜もの長い孤独をともに過ごしたから。
 ‥‥それでも、かつての自分の身勝手な願いがさまざまな出来事を引き起こした。自分で直接手を下したわけではないにしろ、いやだからこそ、その事実は重い。
 もう災いを呼ぶ子供などではないのだと話したところで伯父たちは容易には信じないだろう。長い時間をかけてわかりあうことはできるかもしれないが、どのみち一緒に住んでいれば両者とも居心地の悪い思いを味わうことになる。
 それはアルマンが望むことではない。だから家を出るのだ。
「罵られてもいいから、ちゃんと話して‥‥どこか違う場所でやり直します。最初から」
 傍目にはそれも逃げだと映るかもしれない。だがどこに逃げたところで、心にのしかかる罪の重みを今は知っている。
 今度こそ本当にひとりで生きることになるけれど、多分それが、一度何もかも投げ出そうとした報いなのだ。どれだけ辛くても、受け入れて背負う以外に償いはないのだろう。
「心配していただいて、ありがとうございました。明日にでもお礼を‥‥」
 言いかけたアルマンの身体がぐいと引き寄せられた。痩せた体が、軽々と持ち上げられる。旅装束の埃っぽい匂いが鼻先に近く、小さな子供のように抱き上げられたのだと彼がわかるのに一瞬かかった。
「え? ちょ、何を」
「別に冒険者の姉ちゃんらに言われたからこうしてるわけじゃねえぞ。抱きしめたいからそうするんだ」
 がっちり子供の身体をホールドしたまま、一体何の言い訳なのか商人はそんなことを言う。
「大体だな、子供ひとりでどうやってくつもりなんだよ? 素性もわからない、紹介状もない子供をいきなり雇うような働き口はねえ。世の中は甘くないぞ。物乞いでもする気か?」
 半分ぐらいはそれを覚悟していたアルマンが黙り込むのを、商人は呆れたように見た。
「報いだのなんだの、ガキのくせに色々小難しく考えすぎなんだお前は。どうして人を頼らない」
 ああくそ、と上品とは言いがたい呟きとともに、長旅で伸び放題の髪をかき混ぜる。
「冒険者連中に言われて、俺も考えたんだ。もしお前がまた間違えそうになったら、いったい誰がそれを正す? ひとりきりのお前を誰が助ける? お前はまだ子供だから、なんでも自分ひとりでできるような気がするかもしれない。けどな、ひとりでできることなんざ、そう多くはないんだ」
 ようやく身を離して子供の身体を下ろし、商人は少年の顔をまっすぐ見返した。
「だから、なんだ。お前さえよければだな、俺のところで‥‥」
「旦那さま」
「おわ!?」
 急に声をかけられ商人は飛び上がった。扉を開いた格好のまま、背の高い男が、いまいち内心の窺い知れぬ表情で立っている。鼓動の速いまま動揺を押し隠して、商人は自分の従者を睨みつけた。
「立ち聞きする気はございませんでしたが、声が漏れておりましたので」
「反対しても無駄だからな。俺は決めた。もう決めた。どうしても駄目だというなら」
「いうなら?」
「クビだ」
 いかにも安直な提案に従者は軽くため息をついた。
「明日の生活をふいにしてまでご意向に歯向かうつもりは最初からございません。ですがひとつ問題があることを、旦那さまはどうやらお忘れでいらっしゃるご様子」
「問題だと?」
「実はこちらに伺ったのは、その件で旦那さまをお呼びするためで」
 回りくどい物言いに商人もアルマンもなんのことか分からず眉を寄せ、従者は構わず事実のみを告げた。
「今、階下に奥さまがいらっしゃっています」
「な‥‥!?」
「勝手なこととは思いましたが、私が手紙でお呼びいたしました」
 お話するなら早いほうがいいと思いまして、と何食わぬ顔で従者は言う。
「そそそそそれであいつは」
「大体の経緯をお話した上で、旦那さまはどうやら彼を引き取るかどうかするおつもりのようだとお教えいたしましたところ、奥様はたいへんお怒りです。『半年も家を空けておいた挙句小さい子を連れ帰るなんてどうかしているわ、その子はきっとあの人の隠し子なのよっ、商売でふらふら渡り歩いた先で浮気してよそに子供まで作るなんて、男って汚らわしい!』‥‥そうおっしゃって、先ほどから階下で、冬眠前の熊のようにうろうろと床板を踏み荒らしておられます」
「おられますってお前、あれとか、あれのことがあるだろう、それを話しゃあ」
「お話しいたしましたが、『悪魔なんてそうそう現れるわけないでしょう! でたらめに決まってるわ』と」
 度を失った奥さまのご様子は、私よりも旦那さまがよくご存知かと思いますが‥‥顔を真っ青にした商人がすっくと立ち上がり、まろび出るようにして部屋を飛び出す。ばたばたと廊下を走る音のあと、階段を転げ落ちたらしい騒音と震動が伝わってきた。
「‥‥あの人ってもしかして」
 唖然とそれを見送って、アルマンは従者の顔をちらと見上げる。
「恐妻家?」
「立場上その質問にはお答えしかねますが、奥さまは非常にその」
 めずらしく言いよどんで従者は咳払いし、情の激しい方です、と当たりさわりのない表現を選んだ。

 その後連日繰り広げられる夫婦喧嘩の騒音に耐えかねて、宿の主人は冒険者ギルドに依頼を出したという。

●今回の参加者

 ea1695 マリトゥエル・オーベルジーヌ(26歳・♀・バード・エルフ・フランク王国)
 ea2562 クロウ・ブラックフェザー(28歳・♂・レンジャー・人間・イギリス王国)
 ea3228 ショー・ルーベル(32歳・♀・神聖騎士・人間・イギリス王国)
 ea3869 シェアト・レフロージュ(24歳・♀・バード・エルフ・ノルマン王国)
 ea4159 リーニャ・アトルシャン(27歳・♀・ファイター・人間・ロシア王国)
 ea4174 シェーラ・ニューフィールド(28歳・♀・ウィザード・人間・ノルマン王国)
 ea4955 森島 晴(32歳・♀・侍・人間・ジャパン)
 ea6405 シーナ・ローランズ(16歳・♀・クレリック・シフール・イギリス王国)

●リプレイ本文

「不潔よっ寄らないでっ。ひどいじゃないっ私は他の男になんて目もくれずに亭主の帰りを待ってたっていうのにぃっ」
「そんなの当然だろうがあ!」
「んまあああっ、自分の事は棚に上げてなんて言い草なのっ!?」
「だから誤解だ!!」
 ギルドで言われた宿の戸を開けるなり、聞き覚えのある声が力の限りがなっているのが聞こえてきた。クロウ・ブラックフェザー(ea2562)は扉を開けた格好のまま、首をねじって他の面々の顔を見回し深く深く肩を落とした。
「‥‥この依頼最大の難関は編成にある」
 クロウを除いた七人の冒険者はいずれも妙齢の女性ばかり。話を聞いて商人の奥方の説得に訪れたはいいが、耳に届く女性の取り乱しようでは、『このメンバーで商人さんを護衛しましたー』などと言えば、却って火に油のような気がする。
 がっしゃーんと何かをひっくり返す音が新たに響いてきた。
「あ、飛び道具が」
 たぶん水差しかコップでも投げたのねと、シェーラ・ニューフィールド(ea4174)がひとごとのように呟いた。あのオッサンは女に手を上げるタイプじゃないし、きっと奥さんのほうだわね‥‥頷きあう冒険者たちに、宿の主人が遠慮がちに呼びかけた。
「あんたら、ギルドから来た人でしょ? なんとかしてくださいよー、ずっとあの調子で」
「その前に、男の子がいただろ? その子はどこに‥‥」
「こちらに」
 後ろから呼びかけられてぎょっと振り向くと、商人の従者がアルマンと並んで立っていた。いつの間に‥‥と驚いているクロウらをよそに、先ごろはありがとうございましたと従者は頭を下げた。
「教育上の配慮をいたしまして、口論の間は外にお連れするようにしております」
「もしかして、ずっとああなわけ?」
「アルマン様が視界においでの間は休戦と協定が結ばれたようでございますが、お二人とも地声が大きくていらっしゃるので」
 呆れたような森島晴(ea4955)の言葉に、眉ひとつ動かさず従者が答える。たぶん慣れっこなのだろうが、あいにく冒険者たちは皆未婚で夫婦喧嘩の経験などない。しばしの沈黙ののち、シェーラがぽんとクロウの肩を叩いた。
「じゃっ、クロウ。頑張って奥さんのハートを射止めてきてねー」
「おいっ」
 すたすたとアルマンを連れて外へ向かったシェーラに続いて、マリトゥエル・オーベルジーヌ(ea1695)までもが咳払いした。
「私も‥‥えーと、もうちょっと冷静になってもらってから話がしたいわ」
「‥‥がんばって」
 踵を返したリーニャ・アトルシャン(ea4159)にさらに追い打ちされ、クロウはやけになって頭をかきむしった。
「だいたい、夫婦喧嘩で冒険者なんて呼ぶなよなあっ」
 まったくである。

「‥‥信じろというのか」
「信じていただくしかありません」
 ショー・ルーベル(ea3228)はそう言って、伏せていた目をわずかに上げた。
 包帯が巻かれているのは頭だけではない。相手の襟から除く胸元にも白い布がのぞいていた。魔法と薬で確かに癒したはずだが、普通に暮らすぶんには治癒魔法を受ける機会などあまりない。まだ包帯を完全に外すには心許ないのだろう。
 アルマンとともに彼の伯父の屋敷を訪れると、一度は門前払いされた。お願いしますとショーが頭を下げ、アルマンも一緒に頭を垂れた様子を、使用人の誰かが注進したのかもしれない。数時間待たされたあと、家の中へ通された。
 まず同席の許しを請い、それからショーは話をはじめた。そもそも自分たちがこの事件に関わることになった盗賊退治、アルマンの連れていた黒猫の正体、そしてあの獣が、アルマンに、そして周囲の者にしたことを。
 疲れたような息が座に落ちて、低い声が呼びかけた。
「たとえ悪魔がしたことでも、望んだのはお前だろう、アルマン」
「はい」
 悪魔の仕業だというのは言い訳にならない。なにもかも消え去ればいいと願ったのはアルマン自身で、だからこそ悪魔はそれを実行したのだ。どれだけ否定しても、その事実は消えない。
 悪魔の凶爪にさらされた伯父に対して、責任回避のための弁明は無意味なのだ。直接手を下していないという言い訳が、伯父の傷ついた身体を、その一瞬に感じた恐怖と痛みを、どれほど癒すことができるというのか。
「謝罪してどうなるものでもないのはわかっています」
「待ってください」
 たまらずに、ショーは立ち上がった。
「悪魔は‥‥確かに、アルマンさんの心の間隙に忍び入りました。でもそれは、このお屋敷の皆さんも同じことではないでしょうか? 不安と疑心と憎しみを植えつけられたのは‥‥皆同じではないでしょうか」
「だが、その悪魔を連れてきたのはアルマンだ」
「でも、悪魔はもういないのです」
「ショーさん」
 なおも言い募ろうとしたショーの手に、小さな手が重なる。
「いいんです。一度話したぐらいでなんとかなるものじゃないのは、最初からわかってた」
「でも」
「ありがとう」
 彼自身の口から礼を聞いたのは、きっとはじめてだ。不意をうたれ思わず黙ったショーの隣で、アルマンは席を立った。また来ますとそれだけ言って彼が背を向けると、それまで黙っていた晴が立ちあがりざま口を開いた。
「ねえオッサン」
 不躾きわまりない呼びかけに男は眉を上げる。
「あたしたちは仕事であんたを助けたわけだから、恩に着せるつもりはないけど。でもね、状況がそうさせたとはいえ、物事を一方からしか見てなかったのは、あんたもアルマンも一緒だとあたしは思うわけ」
 愚かだったのは、弱かったのは、なにもアルマンだけではないのだと晴は言う。
「そのまま目を背け続けるなら、以前と何も変わらない安穏とした生活が送れるでしょう。でもね、それは、これから見るはずのものから目をふさぐことにもなるのよ」
 目を開いて見えるのは、己の弱さや愚かさだけではない。
「あたしが言いたいのはそれだけ。‥‥あたし達の仕事、無駄にしないでよね」
 さっさと上着をとって席を立った晴を追って、ショーもあわてて立ち上がる。扉を開けようとして、静かな声が耳を打った。
「‥‥住むあてはあるのか」
 振り返らぬまま、少年は答えた。
「親切な方がいて‥‥ご厚意に甘えて、ご厄介になろうと思っています」
「そうか」
 ――扉が開いて、閉まる。
「‥‥よかったですね」
 玄関へと歩き出しながら声をかけると、少年はそっと頷いた。たったあれだけのやりとりだったけれど、それはきっと赦しが生まれるための小さな萌芽なのだと‥‥信じようと、ショーはそう決めた。

「‥‥つまり?」
「つ、つまり」
 少々とうの立った美貌がこちらに乗り出してきて、クロウは思わず身を引いた。
「護衛したのは俺と、ここにいるシェアトとシーナと、ここにはいないけどシェーラとリーニャと、って奥さん何故そんなものっ、冷静に話し合いましょうっ、ねっ」
 これまでの事件の説明で次々と出てくるのは、どう聞いても女名前ばかり。奥方が手近の食事用の刃物を握り締めたのを見てクロウが悲鳴を上げ、シーナ・ローランズ(ea6405)が卓上でくすんくすんと泣きはじめる。
「このおば‥‥お姉さん、怖いよう」
 芝居の心得があるわけでもないシーナの泣きまねは大根もいいところだが、奥方はさすがにばつが悪そうに手を下ろした。
『‥‥だから言ったろ。うちのマルトはそりゃおっかねえんだって』
『ここまで過激なら先に言っといてくれよ』
 奥方のマルトにわからないイギリス語でこそこそと話し合うクロウと商人を横目に、シェアト・レフロージュ(ea3869)がそっと卓に香草茶の小さな器を置く。
「奥様のお気持ちはわかります。見てもいない悪魔を信じるのは難しいですよね」
「当たり前でしょう。悪魔なんて下手な言い訳」
 茶を受け取ってすすり、マルトは目を眇めた。さすがにエルフやシフール女性は嫉妬の範疇外らしい。
「正直におっしゃい。浮気したのね? したんでしょう。あの子はせいぜい十かそこらでしょ。まあっ、そうすると十年もあたしを謀ってたってことっ!? 許せないっ」
「あの奥さん、ちょっと落ち着いて」
「落ち着いてなんていられますかっ」
 クロウの制止はマルトの鼻息だけで吹き飛ばされそうだ。シーナの泣き真似でまた事なきを得たが、この手もあまり繰り返しているとそのうち効果が薄れそうで怖い。
「とにかく」
 咳払いをしたのはマリである。
「冷静になりましょう。悪魔の話が本当なのは私たちが保証するわ。冒険者ギルドの書類は外への持ち出しは基本的に禁止だけど、ギルドに足を運んでもらえれば報告書もお見せできるかもしれないし」
「ご主人があの子を連れてこられたのは、めぐり合わせと‥‥ご主人の優しさだと思います」
 シェアトの青い瞳が、マルトの目を覗き込んだ。
「ご主人の愛情や思いやりは信じられませんか? 長い間お家を空けていられるのは、奥様への信頼の証拠だと思いません? 奥様がお怒りになるのだって、ご主人を愛していればこそですよね」
「そりゃまあ‥‥ね」
 しぶしぶとマルトが認める。
「あたしはね、浮気を怒ってるんじゃないのよ」
「はい」
「そりゃまあ浮気されたのは業腹だけど、だからって時間を巻き戻して全部なかったことにするわけにゃいかないもの」
 だからそれは誤解だと言いかけた商人を、話をややこしくするなと皆が目で制止する。
「あたしが一番腹を立ててるのはねえ」
 止める暇もなかった。貴婦人とみまごうほっそりとした腕が商人の胸倉をつかんだかと思うと、精悍な男の頬を左右にぐいぐいと引っ張った。不意打ちでされるがままの商人の顔は、横に伸びてちょっと愉快な顔になっている。
「引き取るつもりがあるんだったら、どうして事前に手紙か何かであたしに相談しないのかってことなのよーっ」
「あてっいててててて離せっ」
 土壇場で打ち明けるから信用されないのだ。しかも今回の一件をマルトの耳に入れたのは、本人ではなく彼の従者である。そりゃ留守を預かる妻としては面白くあるまい。つまり、そういうことなのだった。
 ぐいぐいと横方向に引き伸ばされる商人の顔を見て、シーナだけがころころと笑っている。

 アルマンと川遊びに行っていたリーニャたちが戻ってくるころには、すでに薄暗くなっていた。
 冬のさなかの川遊びは実のところ結構寒く、焚き火で暖をとるのもそこそこに戻ってきたので、濡れた服も生乾きのままだった。従者が着替えと毛布を用意し、身体を内側から温めるために暖かくしたワインを飲む。
「ふー、生き返るう。リーニャー、やっぱこの季節に川遊びは厳しいよお」
「‥‥そう? リーニャ、楽しかった」
「あのねえ」
 そりゃ楽しいか楽しくないかで言ったら楽しかったけどお‥‥ぶつぶつと口の中で呟くシェーラは放って、リーニャは同じように毛布にくるまったアルマンの顔を見る。
「‥‥アルマンは?」
「魚、おいしかったです」
 ナイフ一本で川魚を獲る方法は都会育ちの子供には未知の遊びだった。さすがに水はかなり冷たかったが、今まで遊ぶこともあまりなかった子供にはそれさえも気にならなかったらしい。
「ねえ。あんた、これからどうすんの? やっぱ、あのおっちゃんの所に行くわけ?」
「‥‥そうですね。少なくともしばらくは、お世話になるつもりです」
「おっちゃんは養子にしてもいいって言ってるみたいだけど。あのきょーれつな奥さんも、反対ってわけじゃなさそうよ?」
 事の経緯はすでにシェアトたちから聞いていた。マルトは結局自分だけ蚊帳の外だったのが面白くなかっただけで、子供を引き取ること自体には特に反対ではないのだ。結婚して十年近くになるそうだが、夫婦の間には子供がいなかった。もちろんその結論に至るまでに商人が多少痛い思いをしたりクロウが詰め寄られたりということはあったのだが、そんなことは無論シェーラたちは知るよしもない。
「正直に言うと、これからどうすればいいのか‥‥わからない」
 たとえ利用されていただけだったとしても、あの黒猫は自分にとってはかけがえのない存在だった。
「どうやって生きていけばいいのか。何のために生きるのか‥‥この先僕が何をしたとしても、今までのことは消えない」
 誰が赦したとしても自分だけは、己の罪を知っている。どこに逃げても、自分のしたことの結果は心にのしかかるだろう。生まれたこと愛されたこと逃げ出したこと傷つけたこと救われたこと、すべての過去の結果として、今の自分がいるのだ。
「だから忘れない」
 心地いい過去も、辛い記憶も‥‥目を伏せた少年の頭に、シェーラは手を伸ばした。
「うわっ」
「一丁前の顔しちゃってえ。このこのっ」
「やめてくださいよ!」
 赤くなって手を払いのけたアルマンの顔を見て、シェーラはけらけらと笑った。仕上げとばかりにぐいと引き寄せて、頬に不意打ちのくちづけを見舞う。呆気にとられている子供の頭を、今度は軽く撫でた。
「ごめんね」
「はい」
 お夕飯ですよーとシーナが呼びに来るまで、シェーラもリーニャも、彼の傍から離れなかった。

 翌朝は底冷えのする天気だった。
「なんか面倒なことがあったら、ギルドにいらっしゃい。手紙でもいいから」
「おう。大陸の端からだって、飛んでくるからよ」
 マリとクロウが言い、そんなことにゃあならねえよと商人が笑う。
「アルマン。これ」
 リーニャが手渡したのは、ちいさな丸い木彫りの板だ。風変わりな模様が彫られている。
「‥‥お守り」
「あーっ、リーニャってば抜け駆け」
 文句を言いつつ、シェーラも銀のネックレスをアルマンの手に押し付ける。こんな高いものと言いかけたアルマンを黙らせ、いいから受け取れと目で語る。マルトの疑いの視線から逃れるべく、晴とショーはさりげなく商人から一番遠い位置に陣取っていた。
 街の門まで見送りに来た子供の目の前にふわりと舞い降りて、シーナは邪気のない笑顔でこう告げる。
「アルマン君、忘れないでね」
 いつでも、あなたを思ってる人はいるんだよ。



 帰り道は風が強かった。灰色の雲ばかりで、行く手には霞さえかかっている。
 この道の先に何が待っているのだろう。苦難の道だろうか。それとも険しい試練の旅だろうか。冷えた風に目を細め、それでも冒険者たちは前へと進む。仲間たちとパリへの道を歩きながら、シェアトは胸の裡で祈ることをやめない。

 あなたの両手にこれから、無数の出会いと絆が降りてきますように。