【名もなき楽団】ミル・プレズィール
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■シリーズシナリオ
担当:宮本圭
対応レベル:4〜8lv
難易度:やや易
成功報酬:2 G 64 C
参加人数:8人
サポート参加人数:4人
冒険期間:10月31日〜11月06日
リプレイ公開日:2005年11月09日
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●オープニング
その日の昼近く、街の外門に馬車がやってきたという報せを受けて、ジェラールも使用人たちも庭に総出で出迎える構えだった。客人であるアドルファ老人が間もなくプロヴァンに到着すると、その前の日に先触れの早馬がやってきていたからだ。
だがゆるやかな坂道の下から現れたのは、二頭立ての馬車たった二台と、従者や護衛らしき数人きりだった。
先触れをよこすぐらいだからさぞかし大勢で来るのだろうと身構えていた一同の前で、馬車は悠然と領主館の門をくぐり、木漏れ日降り注ぐ庭先で停車する。従者の手を借りて降りてきたその姿に、ジェラールが目を瞠った。
「テレーズ?」
使用人たちもやっと、その貴人が何者か気づいたようだ。
テレーズ・ギルエ夫人。プロヴァン領主ジェラールの奥方だ。下働きの少年は目をまるくしてその姿を眺めた。
女性にしては痩せていて背が高い。そのせいもあって妙に威圧的な印象があった。
しかし何より、帽子から足元に至るまで、黒一色で構成された衣装が目を引く。一体どんな染料を使えばこれほどの漆黒が出るのか、井戸の底に沈む深い深い闇をまとっているようだ。首元や髪を飾る銀の装飾品と、ほとんど日に当たらないのだろう白い肌が、闇の深さを一層引き立てていた。
「なんですの。そのようにみっともなく口など開けて」
夫の顔を一瞥し、テレーズは眉を顰めて言い放った。
「‥‥あー。来るとは思わなかったもので‥‥」
「暗に迷惑だと言いたいなら、はっきりとそうおっしゃったほうがお互いのためでしてよ。ご存知の通り、私は社交辞令に無駄な時間を費やすのが嫌いです。それに疎まれてまで居座るほど図々しいつもりもありません」
「いえ、まさか疎んじるなど。ただこの間パリの別宅で会ったときには、あまり乗り気でないように見えたので」
「ただの気まぐれです。医師に気分転換を勧められていた折に、あなたの楽団とやらから手紙が届いただけのこと。滞在する部屋は客間で結構ですからご心配なく」
貴婦人らしくない、率直かつ気難しい女性のようだ。冷たい目が周囲を見回すと、それまでぽかんと『奥方様』を眺めていた使用人たちが、魔法が解けたように一斉に動き始めた。馬車に積まれた長持や荷物を下ろし始める。高価そうな帽子を受け取って緊張する下働きの少年を、テレーズは黙って見下ろしてぼそりと言った。
「‥‥見ない顔ですね。新しく雇われたのですか」
「は、はい」
そう、と言ったきりテレーズは少年に興味をなくしたようで、黒衣の裾を優雅に捌きながら歩き去っていく。気がつくとジェラールが隣に立っていて、妻の去っていったほうをじっと見つめていた。
「あの方が奥方様なんですね。初めてお目にかかりました」
「驚いたかね」
「はあ、まあ。夏の晩餐会にいらした、大奥様のような方を想像していたので」
正反対ですね、という少年の物言いは、ジェラールも否定しようがなかったようだ。苦笑いして、あの人はいつもああなのだよ、と肩を竦める。
「そういえば、おまえは午後から用があるとか言っていなかったかな?」
「あ、そうでした。楽団員の方から言い付かってた細工物が完成したんだそうです。すみませんけど、彫金屋までちょっと取りに行ってきますね」
昼を過ぎたころ、今度は本当にアドルファが到着した。
予想通り、護衛の傭兵や従者たちを山ほど連れており、領主館は一気にあわただしくなった。アドルファを迎えるはずだった客間をテレーズが占拠してしまったため、女中たちは急いで別の客間の支度を整えている。たくさんいる従者らを全員領主館に泊めるのはさすがに無理なので、彼らに別の宿を手配するために使用人何人かが街へ走っていった。
「ようこそお越しいただきました、アドルファ殿。私、国王陛下よりこの地を拝謁しているジェラールと」
「挨拶はいい。それよりも」
枯れ木のような容貌の下で、アドルファはぎろりと鋭い目つきでジェラールを睨んだ。
「ここに来る途中、街の広場で野外舞台を見たが、祭りでもやるのかね」
「ああ! よくぞお聞きくださった。実はですね、アドルファ殿を歓迎する意をこめて、こちらで芸人を雇いまして」
「芸人?」
おや? とジェラールは首を傾げた。彼の予想では、ここでアドルファが嬉しげに飛び上がり、ジェラールの手のひとつも握って礼を言うかと思ったのだが、目の前の老人はちっとも嬉しくなさそうだ。
何かがおかしい。
「まさか音楽でもやろうというのではなかろうね」
「は。いや、ええと、実はその、楽団を」
「あ、アドルファ様っ。お部屋の支度ができたそうですよっ」
鋭い目で睨まれしどろもどろになったジェラールが『楽団』という言葉を出した瞬間、それまでじっと黙って控えていたアドルファの従者が話を遮った。
「な、長旅でお疲れでしょう。他の者たちも休ませねばなりませんし、どうでしょう、お話は改めてということで」
「そうか。そうだな」
むっつりとした顔のまま老人が出て行くと、従者は切羽詰った顔でジェラールに詰め寄った。
「ジェラール様。まさかとは思いますが‥‥歓迎のために、楽士をお雇いになったのですか?」
「は? はあ。世の風聞で、アドルファ殿が音楽がお好きだと伺ったもので‥‥なんでもお若い頃は、ご自身も楽士を志したこともあったほどだとか。あの、何か問題が?」
「問題も何も、すべてが大問題です!」
従者は顔を真っ赤にしている。ジェラールはまだ事の次第が飲み込めていない。
「アドルファ様がお若い頃、楽士を目指していらしたというのは本当です。ですが家業を継ぐために、途中でそれをお諦めになったのですよ。以来その反動からか、アドルファ様は音楽という音楽が大嫌いなのです」
目の前を楽士が横切っただけでも不機嫌になるし、酒場などで吟遊詩人が現れるととたんに席を立つ。以前アドルファの後ろで口笛を吹いていた下男が、その日のうちにクビになったという逸話さえあった。街中に楽の音が絶えない祭りの時期などは、わざわざ船を出して外国で過ごすというのだから筋金入りだ。
「楽団なんてもってのほかです! どんな雷が落ちるかわかったもんじゃありませんよ」
「や、しかしですね。この日のために準備をしたのですし、楽団員たちはもうパリからこちらに向かっていますし。そもそもわがプロヴァンの領民たちも、演奏が見られるのを楽しみに‥‥」
「どうしてもそうなさりたいなら、どうぞアドルファ殿に直接おっしゃってください! 忠告はしましたから」
そのかわり、どうなるか責任は持てませんからね!
興奮して去っていく従者の背を、ジェラールは呆然と見送った。
今さら‥‥今さらやめますなどと言えるはずがない。準備を手伝ってくれた大工や、お針子や、使用人たちにも、それに演奏会を楽しみにしている楽団員たちにも、領民たちにも。一体どうすればいいというのだ?
●リプレイ本文
その日の夕方、表が騒がしいのに気づいたアドルファは客間の鎧戸を開け、何事かと外を見回した。
アドルファは老齢ではあるが、まだまだ目も耳も達者だ。二階の高さから見下ろした館の外門のほうに、何人かの見慣れない者がいるのを認めることができた。門番とは顔見知りらしく、二言三言軽く言葉を交わしたあと、彼らは会釈とともに門を潜る。
遠目だが、ほとんどが若い女性のように見えた。いずれも外套や旅装束に身を包んでおり、領主館に似つかわしい格好とは言いがたい。そのうちのひとりが背負う荷から、何かが首を突き出しているのに気づき、アドルファの眉間の皺が険しくなった。
あの形は楽器だと彼にはわかる。彼女たちは楽士なのだ。
その頃、ギルエ男爵夫人テレーズもまた、別の客間の窓から街を見ていた。
やはり来るべきではなかった。今年の実りを喜び神に感謝する場に、黒衣をまとった自分はまるで似つかわしくない。それでも黒以外の衣装を着ける気になれないのは、完全な闇が欲しいからだ。過去も現在も一緒くたに黒く塗りつぶせるほどの。
庭にいる誰かが下から自分を見つけたら、きっと幽鬼か何かだと思うにちがいない。
いっそ本当にそうなれたなら、両肩にのしかかるこの思いから自由になれるのだろうか。
●勇気
深刻な顔をしたジェラールに執務室で事態を知らされ、楽団員たちは一瞬戸惑った顔を見合わせた。無理もない。
これまで最高の音楽を聞いてもらうために練習と準備を重ねてきたというのに、肝心の客人が実は音楽嫌いだったというのだから。その場に落とされたわずかな沈黙を破って、シュヴァーン・ツァーン(ea5506)が溜息をつく。
「‥‥これはまた随分な行き違いが」
「申し訳ない! 噂などを鵜呑みにした私が間違っていたのです」
いつになく真摯に頭を下げたジェラールを眺め、首を振りながら姚天羅(ea7210)は軽く息をついた。
「今さら誰が悪い悪くないと言い出したところで何も始まらんだろう。問題はこれからどうするかだ」
「です。せっかくお針子さんたちや大工さんや、ご領主様が協力してくださったですもの。素敵な舞台にしたいのは、皆さん同じ気持ちです、よね?」
確かめるようにラテリカ・ラートベル(ea1641)が他の楽団員たちを見回すと、皆が頷く。
「それに〜、私たち『ミル・プレズィール』ですもの」
椅子の肘掛けの部分に腰かけたミルフィーナ・ショコラータ(ea4111)が、にこにこと笑いながらそう口にした。
『千のよろこび(ミル・プレズィール)』。
それは皆で決めた自分たちのための名前であり、楽団員たち皆がこうありたいという願いでもある。
ね? とわずかに首を傾げたミルにふと皆の口元が和み、リューヌ・プランタン(ea1849)が祈るように両手を組み合わせた。
「そうですよね。この演奏会で、一人でも多くの方が幸せを感じてくれたら‥‥」
「だいたいどう考えたってそれ、好きすぎる裏返しじゃない?」
同じく椅子にもたれていた背を起こしながら、ガブリエル・プリメーラ(ea1671)が口を尖らせた。同意見だというように、シェアト・レフロージュ(ea3869)もひとつ頷いた。
「私もそう思います。一度は楽士を目指したほどの方が、その道を諦めなくてはならなかったのですもの」
「うんうん。でもあたし達『歓びの楽団』としてはー、どうせ弾くんだったらアドルファさんにも喜んでもらいたいし‥‥」
中途で言葉を切って、リル・リル(ea1585)はちょっと悪戯めいた笑みを浮かべた。
「‥‥また音楽を好きになって欲しいよね?」
リルの笑みが伝染したように、その場にいる者たちの顔に次々と同じ表情が広がっていく。
かたん、とかすかな音をさせて立ち上がったシェアトに呼応したように、ラテリカも続いて席を立った。おっとりとした仕草で膝の塵を払いながらシュヴァーンが立ち、やれやれというように苦笑しつつ天羅も腰を上げる。続こうと気が逸ったリューヌはうっかり椅子を蹴り、ミルとリルのシフールの二人組が音もなく舞い上がった。
最後に立ったガブリエルが、会心の笑みを浮かべて明るい声を上げる。
「よし、みんな。本番前の一仕事、頑張りましょ!」
領主館の使用人たちは、突然歓声の聞こえたジェラールの執務室を、不思議な顔をして見上げていたという。
●菩提樹
「皆さん、お疲れ様です。いよいよ本番ですね」
割り当てられた楽団員たちの部屋に戻り、膝を突き合わせて相談を重ねていた冒険者たちは、いきなり声をかけられて一斉にそちらを見た。突然注目を浴びた下働きの少年は、どうしてそんなにびっくりするのだろうと怪訝そうに首をかしげていた。
「一応戸を叩いたんですけど、お返事がなかったので」
「あ、すみません〜。皆でお話していたもので‥‥あっ」
ミルが嬉しげな声を上げた。少年は丁寧に折りたたまれた、色とりどりの布の束を抱えていたのだ。
「私たちの衣装! 出来上がったんですね〜」
「本当!? やったあ、見せて見せて!」
「この間届いたばかりなんです。本番前に寸法が合うか確かめていただこうと思って」
目ざとく本番用の舞台衣装に気づいたミルに続いて、リルも練習していた胡琴を置いて衣装に飛びついた。シフール二人にせがまれながら、少年は腕の中の衣装をひとつひとつ卓に広げる。夏パートの衣装を取り上げて、シェアトは嬉しそうに微笑んだ。
「こちらが私の分ですね。綺麗な色‥‥」
「東洋の染め方だそうですよ。染色ギルドが実験的に試してみたら、その色が出たんだとか‥‥お針子さんたちも、ずいぶん張り切って縫ってくれたみたいです」
くるぶしまで届きそうな丈の長いドレスは薄めの布を何枚か重ね、さらに細かく丁寧に襞をとっていて、全体的に優美な形へと仕上がっている。よくもまああれだけの説明でこれだけのものを、と、その仕立て上がりに皆で感心した。シェアトとガブリエルのためのドレスは、深い色の青と緑が目にあでやかだ。
「ラテリカのも可愛いです。リルさんとミルさんと、お揃いですね!」
葡萄の蔓や葉を象った飾りつきの衣装を胸に当て、ラテリカは同じものを抱えたミルやリルと一緒に楽しげにくるくる回る。こちらはシェアトたちのものに比べると裾が短く、舞台の下から見上げられても大丈夫なよう丈の短い下穿きもついている。これもドレスに合わせて、可愛らしい仕立てのものだ。
それを横目にしながら、シュヴァーンや天羅たち冬パートの面々も、自分たちの衣装を満足そうに眺めた。
「わたくしたちの冬の衣装も、とても素晴らしい出来です。よい職人がおいでですね」
「ここから下の布地、絹ですよね。本当に、領主様のご厚意に感謝しなくては」
本気でそう思っているらしいリューヌの発言に、シェアトとシュヴァーンが視線をかわして目だけで笑いあう。
「一度着てみて、寸法が合わなかったら早めに言ってくださいね。急いで直すって言ってますから‥‥あ、そうだ。ガブリエルさん、ちょっと」
部屋を出ようとした少年に手招きされて、呼ばわれたエルフの女性が席を立つ。部屋の外で小さな木箱を手渡され、その中身を確認すると、ガブリエルはにっこり笑った。
「間に合ってよかったわ。歓びはお客さんだけでなく、皆で分け合いたいものね」
少年の手間賃も含めて代金をしっかり支払ったことも、念のため言い添えておく。
●凍った涙
扉を軽く叩いてその向こう側にむけて名乗ると、ほどなくして入室を許す声が返ってきた。通された客間は、ひとりで使っているというのが信じられないほど広々としている。どっしりとした重みと風格を見せる調度品のあいだを抜けると、その奥の窓際に、目指す人物が腰かけている姿が認められた。
「アドルファ様、はじめまして。私たちは‥‥」
「楽士だろう。見ればわかる」
名乗ろうとしたシェアトの声を遮り、重く鋭い言葉が向けられる。どう好意的に解釈しても、歓迎とは程遠い声音だった。楽団員たちは素早く視線を見交わし、互いに同じ考えを抱いていることを確かめ合う。どうやらこれは、思った以上の難物だ。
考えうる限りの礼儀正しさで、ガブリエルが軽く会釈する。
「ええ、そうなのです。アドルファ様を歓待するためにと、ご領主が招いてくださったのですが」
「私は音楽は好かん」
「先ほどそう伺いましたわ。ご領主もご存知なかったようです。私共は客人をもてなすために雇われたのですから、演奏をすることでアドルファ様がご不快になるというのでしたら、演奏会は取りやめにせざるをえません。残念ではありますけど」
ちくりと一言付け加えて落ち窪んだ眼窩の奥の鋭い目に睨まれたが、ガブリエルの笑みは崩れなかった。たとえ内心で、さあどうするのこの偏屈じじい、などと呟いていたとしても、そんなことは表情にはかけらも出しはしない。
「大方弾かせてほしいとでも頼みに来たのだと思っていたが、そうでないのなら何をしに来た?」
「私たちは先ほど申し上げた通り、アドルファ様のもてなしのために雇われている身ですので」
この発言はリューヌのものだ。
「演奏ができないならばせめて別の形でおもてなししたいと考え、街を案内させていただくことになりました」
「‥‥‥‥」
沈黙はおそらく、反論の糸口を見つけられないのだろう。論理には今のところ破綻はないし、リューヌの礼儀作法は申し分ない。彼女たちの雇い主がジェラールである以上、この申し出を無下に断るのは、領主に対して礼を失することになるはずだ。もう一押しぐらい必要だろうと判断して、シュヴァーンは穏やかな笑みを浮かべたまま駄目押しをした。
「まだプロヴァンの街を、きちんとご覧になっていないと伺っております」
断る理由はないことを確認させる意味で、そう告げる。
「案内役の大任、精一杯務めさせてもらいますゆえ」
同じ頃ラテリカとリルは、領主館の庭から、頭上に見える人影を見上げていた。
黒い衣装をまとった影は下からの視線にも気づかず、高いところにある窓から遠くを眺めているようだ。視線の先はどうやら街の方向で、演奏会の準備も佳境を迎えているのか、時折遠くこの領主館にまで喧騒が届いてくる。
「あの方がテレーズ様みたいです。ご領主様の奥様ですね」
「下働きの男の子は、あの奥さんと領主さんが仲がよくないって言ってたよねえ。本当のところはどうなのかな?」
リルの疑問にラテリカもちょっと首をかしげて考え込んだが、
「どんな気まぐれの風が吹いても、普通はあんまり、仲のお悪い方のおうちまで来る方はいらっしゃらないと思うです」
「うん、それはそうだね」
「それに、領主様のことがお嫌いでしたら‥‥」
もう一度テレーズの見える窓を見上げる。貴婦人は窓際に腰かけたまま、物思いに耽っているようだった。ラテリカの視力では細かい表情まではいまいち窺い知れないが、窓枠に切り取られた黒衣の貴婦人の姿は、どこか物悲しげに見えた。
「あんな風に、お寂しそうには見えないと思うですよ」
「じゃあさ、ラテリカちゃん」
テレーズの姿につられたようにしゅんとなった仲間の顔を覗き込むと、リルはにんまりと笑った。
「ここはひとつ、お節介焼いてみる?」
●霜おく頭
すっかり歩きなれた、領主館から街へと続くゆるやかな坂道を降りていく。道に網目状の影を落としている立派な枝振りの下をくぐり、鐘つきの尖塔が見える教会の前を通って、幾多のギルドや酒場の立ち並ぶ大通りまで。
アドルファは老齢のわりには健康だと聞いていたが、少なくとも健脚であるのは間違いないらしい。街の案内には馬の一頭も必要かと危惧していたのだが、老人扱いするなといわんばかりにどんどん二本の脚だけで歩いていき、下手をすると案内役である冒険者たちさえ置いていきかねない勢いである。話からすると七十近いはずだが、人間でありながらその歳で杖さえついていないのだからたいしたものだ。
大通りには宿屋や商人ギルド、職人ギルドの建物などに混じって、まばらに露店が立ち並んでいる。そのうちの店主のひとりが楽団員たちの姿を見つけ、声をかけてきた。楽しみにしてるよといわれて、リューヌやシェアトが曖昧に会釈を返す。
「前に組みかけの舞台で練習したときに、すっかり顔を覚えられてしまったみたいですね‥‥」
「ふふ。ちょっとくすぐったいですよね」
別の屋台の親父は、『今のうちに腹ごしらえしとけ』などと言って、全員の手にほとんど無理矢理、売り物の小ぶりなミートパイを押し付けてきた。気前がいいのは多分、楽団員たちのほとんどが女性であることと無関係ではないだろうが、好意はありがたく受け取っておくことにする。
露店の多いあたりを抜けると広場が見えてきた。野外舞台はすっかり完成している。色とりどりの大きな布を運んでいる男性たちは、どうやら舞台の飾りつけの最中らしい。すれ違った男が聞き覚えのある鼻歌を歌いながら、何かを入れた箱を担いで歩き去っていった。アドルファが不快げに口元を曲げる。
「お嫌ですか?」
ガブリエルが問うと、アドルファはそっぽを向いた。せかせかと歩き始めた老人の背中を、リューヌが追いながら言葉を紡ぐ。
「心の浮き立つとき、心が弾むときは、人は自然と歌を口ずさんでしまうものではないですか?」
「ふん。そんなもの、何の役にも立ちはせん」
「本当にそうでしょうか?」
背中が問いかけをどこまで聞いているかはわからない。皆早足で、それを見失わないよう追いかけるだけだ。
だってこの老人の背は、まるで街に満ちてゆく音楽から逃げ出そうとしているようではないか。楽団員たちが紡ぎたいと願ってやまない、歓びの楽の音から。行き先さえわからずに。
そんなことが許せるだろうか? こんな人をどうして見過ごせるだろう。音楽を奏で、歌い、舞う者として。
「葡萄踏みや粉挽きの作業では、息を合わせ、労働の疲れをかこつために皆の声が重なります。ワインもパンもそうやって作られるものではないでしょうか。人の手が創るものはすべからく、そうした歌からできているとは考えられませんか?」
「‥‥‥‥」
「鼓動も、息遣いも、虫の声も、風の音も」
答えあぐねた老人の一瞬の隙をついて、ガブリエルも息を上げながら歩みを速める。
「海のさざなみも、川のせせらぎも、人の足音も、鳥のはばたきも‥‥みんな、律動と旋律でできている。生きている限り、それから逃れることなんてできません。あとはそれとどう付き合うか」
見ないように聞かないようにするには逃げ続けるしかない。
「出すぎたこととは思いますが、あなたは今も、音から離れられてなどいないと思う。瞼を閉じても世界が消えてしまうわけではないように、どんなに耳をふさいでも音楽はそこにあるのだから」
「だが私は音楽を捨てた」
「だから」
歩調は少しずつ緩みつつあった。シェアトはほっとしながら、アドルファの背に声をかける。
「音楽の道を捨てたご自分が赦せないのですか?」
ちがう、という弱い反駁を誰も信じない。
「もう赦してもいいのではないですか?」
足が止まった。振り返らぬままのアドルファの背中を眺めながら、リューヌも同じように足を止めた。喧騒は相変わらず賑やかに周囲を取り囲み、その中で彼らだけが奇妙なほど静かだった。
「あなたの中にはきっと、まだ音楽が残っている‥‥私にはそう思えます」
「アドルファさん。あなたの音楽はきっと」
彼に見えないのは知りながらも、シェアトは笑んだ。そうして続ける。彼にもっとも必要だと感じた、その言葉を。
「あなたを赦しますよ」
‥‥だから私たちと一緒に、歓びを奏でることはできませんか?
しばらくアドルファは微動だにしなかった。冒険者たちは辛抱強くその場にとどまって続きを待った。やがて重く深く長い溜息が、その両肩を音もなく震わせた。
「壮健なつもりではいるが、もう歳だ。私の指はもう満足に動きやせん」
「はい」
「商談だの競りだのは大きな声さえ出せればそれでいい。喉を労わる暇なぞありはしなかった」
「それもまた、貴方のたどってきた道の証」
シュヴァーンが見つめると、背中はもう一度溜息を吐き出した。
「‥‥それでもいいというなら、演奏会でもなんでも、好きにするといい」
●道しるべ
――子供というものは純粋であるがゆえに、いつだって投じる言葉はまっすぐ的を射ようとする。
「ご領主さまは、奥様を愛してらっしゃるですよね?」
執務室の机に乗り出して、その向こうのジェラールにずいと詰め寄っている、今のラテリカのように。
「あー、なんというかですね。それは難しい質問なので、とても一言では答えられず、そうとも言えるしそうでないとも‥‥」
「一言でお答えいただきたいです」
「‥‥はあ、まあ、‥‥おおむね、そのような感じですな」
きわめて真剣な顔のラテリカに押され、居心地悪そうな表情で他人事のような返事をするジェラール。執務机の上で仲良く並んでその答えを聞いていたリルとミルが、拍子抜けしたように目を瞠る。
「なーんだ。じゃあ話は簡単じゃない?」
「ですよね〜? 要するに、両思いなわけですもの」
「‥‥あのねお嬢さん方。お若いからまだ分からないかもしれませんが、大人というのはそう単純では」
「さっき、愛してらっしゃるっておっしゃったです」
先ほどとった言質を振りかざすと、ジェラールは決まりわるげに目を逸らした。
「恥ずかしいので、頼みますからもう少し言葉を飾ってほしいのですが‥‥」
「そういうのももちろん素敵ですけど。でもどんな風に言葉を飾っても、大事なのは言葉の中身だと思うです。お渡ししたいものをそのまま、どうぞってお渡ししたら、奥様だってちゃんと受け取ってくださると思うですよ」
やはりラテリカは、どこまでもまっすぐだった。良くも悪くも。
「やっぱりさ、お互いの出会いとか気持ちとか、思い出とか、そういうのを歌詞にするのはどうかな」
「名案です〜。でもその前に、領主様は奥方様をお誘いになって、演奏会のときにちゃんと手を引いてさしあげなくては」
「だよねえ? せっかくの家族なんだし、仲良くしてほしいなー」
「仲良しさんで一緒に歩けるのを、奥方様も待ってらっしゃると思いますよ〜?」
そしてシフールの二人も、中年の揺れる微妙な男心になどちっとも頓着せず、まるきり言いたい放題だったりする。ある意味これ以上はない責め苦なので、ジェラールはしぶしぶ、テレーズの滞在する客室まで逃げるように向かったらしい。
●辻音楽師
赤々と燃える松明の灯火が、夜の舞台を明るく照らしている。両脇には楽団員たちの友人から届けられた溢れかえるほどの花。
観客たちの拍手に答えて、舞台に上がってきた楽団員たち。不規則に揺れる明かりの中に浮かび上がったのは、色違いの長いドレスをまとった女性が四人、東洋風の衣装に白い薄絹のヴェールをまとった人間がひとり、葡萄の葉と蔓のからんだ風変わりな衣装を、ひらひらふわふわと揺らしているエルフとシフールの娘たちが、全部で三人。全部で八人だ。
種族も背格好もばらばらな彼らは、しかしよく見ると揃いのちいさな銀細工を身につけている。人によって髪飾りにしていたり、あるいはブローチがわりにしていたり、紐を通して首にかけているだけの者もいるが、意匠は明らかに共通のもののようだ。
あらかじめしつらえられた椅子に楽団員たちが腰を下ろすと、笛を手にしたシュヴァーンが前に立って軽く会釈した。
「今宵は皆様、ようこそおいでくださいました。我ら『ミル・プレズィール』と申します、しがない小さな楽団でございます」
平素から吟遊楽師として慣らしているシュヴァーンの語りは、ことさら声を高めなくてもよく通る。早すぎも遅すぎもしないちょうどいい速さの語り口調に、観客のざわめきが静まっていく。
「秋は収穫の季節。恵みを噛みしめ、やがて来るつらい冬に備え蓄える季節でございます。ここにおいでになるご領主殿は、領民に麦と葡萄だけでなく、心の滋養をも蓄えさせよ、との命を我ら楽団にお申し付けになり、こうして参上した次第です」
ここで最前列の貴賓席に座る領主夫妻に向けて、冷やかすように野次が飛ぶ。ジェラールは苦笑いし、隣のテレーズは居心地が悪そうに席に座りなおした。アドルファはじっと身じろぎもせず、舞台を見ている。
「さて音楽を生業とする我々が、言葉ばかりで語るのも野暮というもの。どうぞ我らの振りまく千の歓喜を、皆様次の季節まで心にとどめおかれますよう、あらためてお願い申し上げます」
前置きの語りを終えたシュヴァーンが自分の椅子に戻る。誰もが無言の一瞬が、永遠に続くかに思われた。それを破るようにして、天羅の足が舞台の床を軽く踏み鳴らす。それが合図となって。
音が飛び出した。
最初は『夏』だ。
リルの二胡から奏でられるなめらかな音に誘われて、ガブリエルとシェアトのリュートが旋律を紡ぎ出す。遠く近く、高く低く、強く弱く、ふたつの音が絡み合いながら登っていく。最初はゆっくりと、それから鳥が高度を上げていくように徐々に速く。
最初に即興を加えたのはガブリエルだ。負けじとそれを追いかけて、シェアトも練習とは違う並びの音を加える。息もつかせぬ音の競争が繰り広げられ、それに追いつこうとラテリカが鈴を振り鳴らし、天羅が激しくステップを踏む。
だが競っていたふたつの旋律は少しずつ近づき始め、やがて曲そのものの律動もゆるやかになり、やがてひとつに合わさっていく。失速していく。それは夏の終わり、『秋』の訪れにほかならない。
リルが張り切って二胡の弓をすべらせると、さらに高らかに澄んだ音が舞台から響き渡った。まるで楽器そのものが歓喜しているようだ。楽器を持ち替えたラテリカが旋律を奏ではじめ、それを追ってミルの竪琴も曲をつくりだす。目を見交わしあった三人は、すうと息をひとつ吸い込むと、歌い始めた。
それは実りの歌。喜びの歌だ。
「私たちに向けてだそうですよ。まったく、子供にはかなわない」
苦笑いして、ジェラールは隣の妻に呼びかけてみた。妻は相変わらず一言も発しない。
だが決して不愉快なわけではないのだろう。それならば決して我慢などせずさっさと席を立つ、ここにいるのはそういう女性だ。だからジェラールは万が一にもそのようなことが起こらぬよう、隣に手をすべらせテレーズのてのひらを探り当てる。軽く握ると、ちいさなおののきがそこから伝わった。夜の演奏会は、少し冷える。
「私たちの子供がもし生きていたら、今頃はあの子たちぐらいの大きさでしょうか」
「‥‥‥‥」
「やっぱり、やめにしませんか。無理に世継ぎを作ろうとこだわるのは。そりゃもちろん愛人を渡り歩く生活も男としては楽しいですがね、子供が生まれないのはどうも私にも問題がありそうだ。これだけ放蕩を尽くしても、ちっともできないのですから」
「‥‥家督は、どうなさるおつもりですの」
「どうとでも。血筋にこだわるのをやめさえすれば、養子をとるという手だってあります。だから、ねえ」
歌はまだ続いている。ああ、寒い。手だけが熱い。
「プロヴァンに戻って来る気はありませんか?」
『冬』。
純白の薄絹をなびかせ天羅が前に出る。
すらりと引き抜かれた刃は氷のごとき輝き。打ち合わせる澄んだ音はつめたく冷え、そこにリューヌの鳴らす小さな鐘の音が添う。シュヴァーンの竪琴はか細く小さく、冬の厳しい息吹に頼りなく揺れる命のようだ。それを容赦なく踏みしだこうとでもいうように、天羅の足拍子が強く高く響く。
剣舞によって打ち鳴らされる金属音、その下に絡み合う旋律と鳴動。
天羅のまとう衣装がひるがえり、絶え間なく打ち合わされていた剣戟の音が止む。同時に舞台にかけられていた布が一気に引き抜かれ、鮮やかで暖かい色が目の前に広がった。
これが『春』の色だ。
全員の楽器から響く音が、ひとつの音と鳴って高らかに。冬の終わりを喜ぶように元気よく。両の手だけでは足りぬというように、シェアトの喉から澄んだ声が飛び出した。春の訪れへの喜びと、憧れを。
そのとき、それが起こった。
それまでじっと聞き入っていた最前列のアドルファが、突然立ち上がったのだ。楽団員たちも一瞬ぎょっとしたが、手を止めはしない。彼が何をしようとしているか察したからだ。
ガブリエルが笑う。これでまた、喜びの花がひとつ咲くわ。
迎え入れようとするように、テンポをゆるめる。
アドルファの口から、よく通る低音の歌声が鳴り響いた。自分の喉から飛び出した朗々と張りのある歌声に、誰よりもアドルファ自身が驚いているようだった。高く細い女性たちの歌声を支えるようにして、アドルファの歌はしっかり低音部の旋律をなぞる。事情を知らない観客たちには、まるで最初から打ち合わせていたようにさえ聞こえただろう。
――芽吹く命、春の庭。
歌詞にあわせて、観客たちは皆立ち上がっていた。楽しげな歌を追いかけてでたらめに歌う者、手拍子で参加するもの、天羅を真似て足で拍子を打ち鳴らす者。誰もが自分なりの方法で、『歌って』いた。自分だけの音を。
――歩いていこう、あなたと共に。喜びの歌に足並みそろえ‥‥。
最前列のジェラールとテレーズだけは動かなかった。二人はじっとその場に寄り添って座ったまま、音楽が夜空を登っていくのをただ眺めていた。楽団員たちの誰もがほほえみ、踊り、歌い、雨のように喜びを降らせるそのさまを。
どこまでもどこまでも続くとさえ見えるその歌はきっと、生を謳歌し千の歓喜をもたらす、彼らの生命のあかし。