志道に心指す 最終話/拾九「大志蛮誓」

■シリーズシナリオ


担当:小沢田コミアキ

対応レベル:フリーlv

難易度:普通

成功報酬:4

参加人数:11人

サポート参加人数:1人

冒険期間:01月21日〜01月26日

リプレイ公開日:2010年11月01日

●オープニング

 祝賀の祝いは三日三晩続き、民は常世の国の再生を喜んだ。
 あれから意識を取り戻した忠勝は回復目覚しく、最後の晩には歌姫の竪琴で剣舞を疲労してくれた。常陸の野を覆っていた瘴気はいつしか晴れ、野辺では草花が緑を覗かせている。道志郎と冒険者一行が水戸を去る頃には、常陸国は徐々にかつてのありようを取り戻しつつあった。
「しかし道志郎、本当に良かったのか」
 論功行賞では道志郎一党に此度の戦の第一功が与えられた。道志郎に与えられた恩賞は、石岡復興奉行の職だ。当面の仕事は石岡への入植の管理と復興計画の運用。そして荒廃した石岡城の再建。これらの全権を負う職だ。名目は奉行職の一つだが、これは常陸府中藩主の待遇を与えられたのも同じである。
 戦の前は死罪人であった彼の身にすれば破格の取り立てであるが、光圀自身の強い意向に加えて忠勝からの後押しがあっては、異を唱える藩士らは一人も居なかった。彼を慕う水戸の町人達も石岡への移住と復興の手助けを次々と志願し、遂に道志郎は一国一城の主の座を手に入れることとなった。
「まさか、この仕官を蹴るとは思いもしませんでした」
 出立の日、道志郎ら一行を訪ねてきた光圀は心底残念そうな顔で彼を見送った。
「せっかくの御厚意を無碍にしてしまい申し訳ない。馬鹿なことをしているかも知れないとは、今も少しは自覚があるが。だが今はこうするのが一番いいのだと思う」
 確かに大名となる道を夢見たことがなかった訳ではない。しかし、この長きに渡る旅路の中で彼が目指したものは、いつしかもっと別の何かへと変わっていった。道志郎自身、それが何であるかをまだ知らない。だが目指す光の先に、まだ見ぬそれはきっと待っているのだ。
 後悔しますよ、と光圀。
「御身を慕う民を捨てて行くというのならば。貴殿の下でこそ生きたいと願う人々がいつでも貴殿を見失わぬでいられるよう、貴殿は天下に己の居場所を示す必要があるでしょうね」
 道志郎という名では不足だ。
 黒字に星夜の旗印。そしてもう一つは彼の名に冠する苗字だ。
「家名を捨てて四年、無宿人の道志郎で通っているからな。考えたこともなかったよ」
 一頻り考えを巡らすと、道志郎は深々と頭を下げた。
「光圀公、これまでの無礼の段、深くここに陳謝致します。願わくば、今回の恩賞の代わりに貴公からぜひ姓を賜りたい」
「いいでしょう。私もまた貴殿からその役目を承ったことを誇りに思いますよ」
 双眸を閉じて逡巡し、やがて言葉を継いだ。
「では、道志郎殿へ贈る姓は――」



 石岡城からは黄泉人の様々な資料が見つかった。
 黄泉人らはこの常陸に点在する寺社のこと如くを汚し尽し、瘴気で満たされた常陸をやがて黄泉の国へと変えるために動いていたようだ。しかし一つ疑問が残る。黄泉人らはどうやって奥州と手を結んだのだろうか。
「一つ気になることがあってな」
 石岡天守、黄泉人と対峙した冒険者らは語る。
 黄泉らの悪謀の影にちらつくある男の姿を。
『全テハ四年前アノ御方カラ授カッタノダ』
 小雨のちらつく晴天の日。供の者を連れて突然その男は現れた。
 常陸に伝わる香々背男の伝説。寺社を汚し瘴気で土地を満たす呪法。そして江戸を窺い南への進軍経路を求めていた奥州軍との伝と、水戸藩中に叛意を秘めた愚かな忍びのこと。此度の悪謀に纏わる全てを黄泉人はその男から教わったのだ。
「セン――俺達はまた奴の影と戦っていたんだな」
 黄泉人らが男と最後に会ったとき、彼は京へと向かう言い残したという。ちょうど江戸では神剣争奪が起ころうとしていた頃の話だ。
「して道志郎。これからお前はどうするのだ?」
 それに応えて道志郎は首を巡らせた。
 水戸城の天守には月がかかり、その上にはどこまでも続く天が広がっている。
「そうだな――」
 日ノ本を、この国に住まう民を救いたい。今でこそそう願って止まぬ道志郎だが、旅へ出たのはそんな大層な夢の為ではなかった。所詮は武家の三男坊。冷や飯ぐらいの一生が待つだけならば、何かに命を賭けてみたい。不遇の己をどこか高みへと浚ってくれる風のような、そんな出来事を期待して少年は動乱へと身を投じた。
 ひとたび兵を興さば、瞬く間にこの国の版図を平らげられよう等と夢想したこともあった。
 あそこに広がる天守からの眺望は、兵を興していたならば手にし得ていたかもしれない眺めだ。
「うん、そうだ。俺はあの高みで皆と夜明けまで語り明かしたい」
 手に入らぬから捨てたのではない。手にし得もしたが、違えた道だったのだ。そう心に区切りをつけたい。そうして己の是から進む道へ胸を張ろう。果もない道かも知れないが、そう思って歩めるなら本望だ。
「今からか」
「そう。是からだ」
 無鉄砲は今に始まったことではない。
 これは新たな門出の前の運試し。
「あそこなら俺の星にも手が届きそうだ。さあやろう。この仲間ならきっと成せるさ」

●今回の参加者

 ea0233 榊原 信也(30歳・♂・忍者・人間・ジャパン)
 ea0541 風守 嵐(38歳・♂・忍者・人間・ジャパン)
 ea3869 シェアト・レフロージュ(24歳・♀・バード・エルフ・ノルマン王国)
 ea3988 木賊 真崎(37歳・♂・志士・人間・ジャパン)
 ea4889 イリス・ファングオール(28歳・♀・神聖騎士・人間・神聖ローマ帝国)
 ea7246 マリス・エストレリータ(19歳・♀・バード・シフール・フランク王国)
 eb0833 黒崎 流(38歳・♂・侍・人間・ジャパン)
 eb1540 天山 万齢(43歳・♂・浪人・人間・ジャパン)
 eb1568 不破 斬(38歳・♂・浪人・人間・ジャパン)
 eb2658 アルディナル・カーレス(38歳・♂・神聖騎士・人間・イギリス王国)
 eb4994 空間 明衣(47歳・♀・浪人・人間・ジャパン)

●サポート参加者

オデット・コルヌアイユ(ec4124

●リプレイ本文

 とおりゃんせとおりゃんせ。水戸のお城の堀の内。行きはよいよい、帰りは怖い。聞こえる間抜けた童歌。
 行きはよいよい、良いからとおりゃんせ。ちっと通して下しゃんせ。こわくないから。
「むしろ通してくださいお願いします」
 マリス・エストレリータ(ea7246)の口ずさむ出鱈目な歌が、月の魔力を帯びて夜空に昇っていく。厚い黒雲が切れ切れに流れ、今宵は黒夜。闇に紛れた侵入者達の気配に気づく者はごく僅かだ。
「誰だ、そこを通るのは」
 藩兵は一人。男の誰何に天山万齢(eb1540)が諸手を広げて歩み寄っていく。
「いやあ、結構けっこう。ご苦労さん。な? ほら」
「何だ?」
 張り付いた笑みを浮かべた天山の視線が脇に流れる。
 それを追った瞬間に。
「うぐ‥‥!」
 横合いから空間明衣(eb4994)の手刀が咽喉を突いた。すかさず天山が男を抱えあげて物陰へと引きずっていく。
「見回り役は交代の時間だぜ兄さん」
「すまぬな。声を出されると都合が悪いのでな」
 素早く喉を触診し、壁へもたれかけさせる。
「人の治し方を知ってる分人の壊し方も知ってるのだ。声が出んのは一晩程だ。朝になれば戻る。痛みは残るがね」
「しかし空間殿、何というか‥‥」
 その横ではアルディナル・カーレス(eb2658)が青い顔でおろおろしている。
「流石に無断で侵入と言うのは、聖なる母に仕える者としてはその‥‥」
「道志郎の門出だ、今宵くらいは細かい事は気にするな」
 敬虔な神聖騎士である彼は気が咎めるようだったが、仲間達はどこ吹く風だ。生真面目な彼の様子がおかしくてイリス・ファングオール(ea4889)が悪戯めいた笑みを覗かす。
(「大丈夫です。これまでたくさん頑張ったですから、今日くらいきっと神様は許してくれますよ♪」)
 その彼女の肩へ、マリスがくたびれたようにぱたぱたと腰を下ろした。 
「とはいえ正面突破は勇ましすぎですからな。行ける場所までは忍者の方に頼って楽したい‥‥ですかな」
「‥はぁ‥‥やるしかない‥か‥仕方ない‥‥」
 忍び働きとなれば頼みは榊原信也(ea0233)だ。幾多の困難を共にしてきた彼の力があれば、この馬鹿げた潜入行も本当に成せてしまいそうな気がしてしまう。
(「‥‥普段なら面倒臭そうなことなんだが‥あいつが絡むと面白くなりそうだな‥‥」)
 そう思わせるのも、一行の真ん中に道志郎の姿があればこそだ。 
「信也、手引きは頼んだぞ。天守からの眺めはさぞかし絶景だろうな。腕が鳴る」
 すっかりよくなった右腕を確かめるように振るいながら、道志郎は遥か頂の天守閣を仰ぐ。伸ばしたその腕はあの高みまで届くことができるだろうか。
「‥任せておけ道志郎。あの天辺にお前の旗を掲げてやるとするか‥‥」
「まったくウチの大将には恐れ入ったぜ。たったの十人でまさか水戸攻めをやっちまおうってんだからナァ」
 天守を見上げる仲間達の横顔に、それぞれの決意。
「ついたらみんなで乾杯といこうぜ」
 今宵来る暫しの別れの予感を今は呑み込み、道志郎の旗を高々と掲げよう。それがどんなに馬鹿げていて、困難な事であってもだ。不破斬(eb1568)は愉快そうに苦笑を噛み殺した。
「まったく俺はとんだ群れの中にいるようだ。こんなに破天荒で無茶苦茶で‥‥とても温かくて居心地の良い場所は他に知らぬ」
 すっと腕を伸ばすと、肩に止まっていた鷹が大きく羽根を広げた。
「不折、お前は萌黄の下へ頼む。あの娘は巫女の大役を果たしてまだ間もない。俺の代わりに付いていてやってくれ」
 飛び立った後姿を見送り、斬もまた頼もしい仲間達の下へと。
(「さあ、此度も己が役割を果たすとしようか」)
 堀の内から本丸まではまだ距離がある。先導を務める木賊真崎(ea3988)の慎重な足取りは、是までの苦難の道のりを踏みしめるかのようだ。
(「‥何だろうか、この既視感は‥? あれか、道志郎の実家に忍び込む羽目になった夜の‥」)
 那須での冒険の終わり。道志郎が出奔した晩の事がふと思い起こされる。だからか、今宵の月がどこか懐かしかったのは。
(「同じ失態を繰り返す訳にはいくまい、やるからには」)
 その身を薄く覆った地の霊力は、衣擦れ一つ聞き漏らすまいと辺りの気配を窺っている。ここ迄は巧くやり過ごして来れたが、本丸を窺うこの辺りまで来ると藩兵の動きが多くなってきた。いざとなれば城門でやったように、力にものを言わせて押し通るのはさして難しい話ではないが。
 ふと、真崎が行く手を制した。
「巡回だ」
 物陰に身を滑らせ、皆息を殺す。暫くおいて微かに足音が近づいてきた。鏡で様子を窺った天山が肩を竦める。
「こっちに来るぜ。どうする? こいつでも投げて気を逸らせるかい?」
 天山が手のひらで弄んでみせた文銭を、横合いから黒崎流(eb0833)が掠め取った。
「いや、自分に考えがある。痛い思いをさせるのも気の毒だしね。うまくやり過ごして見せるよ」
 言い終わらぬ内に、番兵の提灯が一行を照らし出した。
「そこを行くのは誰だ」
「光圀様のご友人であらせられる道志郎殿です。公のお呼びに預かり、こうして参った次第」
 流に合わせつつ道志郎が鷹揚に頷いてみせる。衛兵は道志郎の顔を確認したが、それでもまだ怪訝な顔だ。
「しかし、このような夜更けにか」
「門衛にもそうお伝えしましたが、何分、お忍びでのお招きですからね」
「聞いておらぬな。登城の許可を確認して参る故、暫しお待ち頂きたい」
「忝い」
 番兵の背を見送る流れだったが、ふと。
「いや、少し待って頂けないだろうか」
 思案げに俯いて見せた流が肩越しにマリスを探す。送られた目配せにマリスが恨みがましく横睨みを返した。
(「‥‥詐欺師」)
「そういえば‥‥私たちはまだあまり良く思われてなかったりもする‥‥らしいですな」
「馬鹿な。確かにかつては行き違いがあったが、今は貴殿らを疎む者など城中におるものか」
「いや、申し送りが上手くいかなかっただけでしょう。宴会疲れもあるでしょうし。久々に美味い酒でしたよ。料理も素晴らしかった」
 ちらりとイリスへ目をやり。
「こちらも予定より遅れてしまいましたしね。申し訳ない」
 人の心の隙を絡め取るのが実に巧い。番兵はこれ以上の追及の機を奪われてしまった。イリスが申し訳なさそうに何度も頭を下げる。やりにくそうに番兵が苦笑した所へ、流がそっと書状を差し出した。光圀からの文だが、流の詐術に掛かればたちまち登城の許可状へと化ける。男が花押に目をやったのを確認すると、すぐさま書状を懐へ仕舞い。
「互いに恥をかかせ罰が下ったり、公に無用な心配をさせたくない。どうです? 穏便に事が運ぶよう、ご配慮頂けませんか」
「む。一理あるな。瑣末なことで殿のお心を煩わせることもあるまいか」
 内々に処理する故口外はせぬように、と念押しされ一行は通された。巡回へ戻る番兵を見送ったマリスが小さく肩を竦めて見せる。
「‥‥段々悪に染まってきた気がしますじゃ」
 そこから先は早かった。幸いにもそれ以上の巡回と出くわす事はなく、火の番をやり過ごせばいよいよ本丸の内へと入る。屋外と違って身を隠せる場所は少なかったが、先回りした信也の手引きが頼りになった。
「‥‥こっちだ、床下を潜ることになるが辛抱してくれ」
 時に屋根裏なども通りながら警戒の薄い経路を巧く突いて一行は歩みを進めた。道志郎に手を引かれて、イリスがたどたどしい足取りで続く。時には番兵の目を掻い潜りきれぬ場面もあったが。
「誰だ!?」
 誰何を上げた番兵の眼前を淡い光が掠め飛んだ。
 と同時に男が崩れ落ちる。空間の月人の眠りの術だ。
「桂花よ。ありがとな。傷つけずに済んだ」
 もう一人も斬の手刀が眠らせた。信也達には及ばぬが、気配を消して背後へ回ることくらいなら造作ない。
「すまぬが辛抱してくれ」
 加減はしておいたが暫くは目を覚ますまい。壁にもたれさせておけば、巡回に見つかったとしても転寝したとでも思ってくれることだろう。信也が先を促す。
「‥‥気をつけろ、思ったよりここは音が響く」
 静まり返った城内は床板一枚の軋みですら立てられない。先導する真崎が、足元へ注意をやりながら小さく唇だけを動かした。
『前方に藩兵の気配だ。信也、偵察を頼む』
 身を潜ませた梁の上から唇の動きだけを伺うと、信也は闇に飛ぶ。ここまで大事無くやり過ごしてこれたのは、卓越した信也の忍びの術もそうだが、知略走る真崎の才あってのことだ。彼程の男が歩みを共にしてくれたのもまた、道志郎の天運であろう。
(「しかし宴の後とはいえ、御庭番に悟られず進めるのも不可解だが‥、恐らくあいつの仕業か」)
 道志郎達の行く手、天守閣へと通じる通路には風守嵐(ea0541)の姿がある。
(「春風は吹いたな。後はその跡に新芽が芽吹くだけか」)
 その傍らには、忍びの雲野。
「――話は分かった」
 彼ほどの忍びが阻みとなればやり過ごすのは不可能だ。水戸に害を成そうという訳ではない。今宵ひとときだけ、何とか見逃してほしい。
「雲野よ、潜入するは先の功労者達だ。例えその中に不貞の輩が混じ入ったとしても、手を出すは愚か肝を震わせ縮込むであろう」
「確かに水戸の苦難は道志郎らの働きなくば払えなかったであろうな。だが話は別だ。俺は光圀様の命に生きる者。つまらぬ遊びとはいえ、侵入者とあれば容赦はせぬ」
 彼もまた己の義に生きる男。立場は違うが、通ずるものを感じて嵐は不意に緊張を緩ませた。
「貴様もまた、不器用な男だな」
「これ以外の生き方を知らぬ」
 二人は苦笑を深くする。
「貴様ほどの忍びがそう言うのであれば、後は道志郎の天運に賭けるしかあるまいな」
「行くのか」
 風はまたどこかの空へと。
「この地は、これ以上の助けはいるまい。縁があればまた見えることもあろう。しかし‥‥御庭番衆は黄泉騒動で大きく力を殺がれたのだったな。これからどうするつもりだ」
 叛意を持ったとはいえ慧雪は雲野に次ぐ実力者だった男だ。前君頼房に仕えた者達も皆動乱に散った。慧雪子飼いの忍びは追放され、残ったのは春日一人。御庭番が力を取り戻すには時間を要するだろう。
「道志郎か、羨ましいな。お前の腕ならば引く手数多であろうに」
 雲野の意図を察して嵐はふっと笑みをこぼした。
「貴様ほどの者なら、分かるだろう?」
「御守衆の風守、その名は生涯忘れずにいよう」
 それには答えず、嵐は闇へと消えた。
 後に残された雲野の前へと、やがて道志郎達が現れる。
「やはり現れたか。雲野殿だな。いつかは世話になった」
 本物の忍びを前にしては小細工は無意味だ。観念したのか、道志郎はまっすぐに歩み進めていく。
「頭を下げたからといって易々と通してくれるとは思っていないが、どうしても天守に用がある。押し通らせて貰う」
「雲野殿、神社の時を覚えているな。この男は何にしても真っ直ぐだ。一度決めたら頑固だぞ」
 暗い通路の奥で雲野の気配は頑として動かないが、道志郎の歩みはまっすぐだ。殿を守る斬にはそれが痛快だった。
(「どんな馬鹿げた無謀に思える事でも、道志郎が口にすると不思議と道が拓けてくるような気持ちになる。江戸の酒場で出会った晩もそうだったな」)
 これまでそうして来たように道志郎の双眸はただまっすぐに目指す先へと。歩を進めた道志郎が雲野の横を通り過ぎた。
「俺の目はとうに盲いて久しい。この闇夜、侵入者の姿は映らぬらしい」
 過ぎ様、斬が小さく頭を下げる。
「礼を言う」
 斬の背が暗闇の中で遠くなり、やがて辺りへ静けさが戻る。残された雲野の唇の端には小さく笑みが覗く。
(「俺としたことが、一度ならず二度までも水戸の落城を許そうとはな。道志郎。そして風守。借りは返したぞ」)
 別れの時は近づいている。
 城中を離れた本多邸でもまた、シェアト・レフロージュ(ea3869)が忠勝との別れを名残惜しんでいた。
「忠勝様、ご快癒何よりです。巴里へ戻るのに憂いは何一つなくなりました」
「世話になった。貴殿の歌声が聞こえぬとならば、寂しくなるな」
 郷里の空を遠く離れた異国の地。楽士としてこの地の物語に触れたシェアトにはある思いがあった。
 人は、強いと思う。
 短い生の中、生命力の輝きをその身に秘めて。
 耐え忍ぶ。そして今 再び‥‥。
 開け放たれた襖から月影が薄く座敷へ延びている。照らされたこの武人の横顔がシェアトには眩しく思う。遠き異郷で出会った強く気高き男。この横顔をシェアトは生涯忘れないだろう。
 何にも屈しないその強さを。
 文武に長けた懐の深さを。
(「そして‥‥異国の楽士を歌姫と愛で名を下さったことを」)
 遠く巴里を離れ、再びこの地を踏もうと思ったのは何故だろう。
 その問いは、異邦者たる彼女の身には過ぎた問いだ。
(「忠勝様、異国の月はあるべき地へ還ります」)
「月道を隔てた遥か遠くから、貴方様の道が明るく照らされる様、お祈り申し上げております。忠勝様。お会い出来て、私は――」
 ――幸せでございました。
 その慕情は終に声にはならなかった。シェアトの視線の先で、忠勝がただ小さく首を振った。そして遥か月夜を仰ぐ。
「歌姫よ。人の縁とはとかく数奇なものよな。冥府に繋がれた俺が確かに見たあの星は、いま事が過ぎて思わば、夢幻の内の出来事であったかのようにも思い起こされるのだ」
 物語はいつか終わる。明ければ月は消え、昼の日中(ひなか)を人は生きていく。だからこそ人は星を探すのだろう。いつか終わるこの愛しい物語を忘れぬように。
「別れに一曲、聞かせてくれぬか」


   星は生まれ 星は消え

     集い流れを成し 何時か散る

   久遠の営みの一欠片

     されど 地上に生きる星々の

     綾なす物語の愛しさよ‥‥


   何れ時に埋もれようと

   忘れまい 駆け抜けた人の輝きを彩を

      巡り行く時の果てまで‥‥



「聡明なる光圀様の未来と水戸の繁栄を‥‥ジャパン全土に穏やかな日が訪れますように」
「水戸を救いし歌姫の前途に、更なる幸福と幸運とを」
 言葉にせずとも通じている。
 忠勝の心に触れ、シェアトはもう一度深々と頭を垂れた。
「暫しのお別れですが‥‥慶事‥‥光圀様の祝言の折に、慶びを歌や曲でお届け出来ましたら楽士冥利に尽きます」
 おもてをあげたシェアトの相貌は、その時には既に一人の冒険者の顔へと戻っていた。忠勝が微笑を湛えて頷く。
「我が君もさぞやお喜びになろう。そのような日が来る事を楽しみにしているぞ、シェアト殿」
「本多様もそれまで、その先も、どうか光圀様をお支えになり。ご壮健で‥‥揺るがぬ水戸の要であられます様‥‥」
 ふと、思い出したようにシェアトがくすりと笑みを零す。
「新しい星々はまだ血気盛んなご様子ですから」


 遂に天守閣へ辿り着いた一行は、信也の手を借りながらその屋根へと這い登っていた。
「‥さあ、掴まれ。引き上げるぞ。イリス‥、手を離すなよ」
「天山、しっかり支えてやってくれよ。ほら、もう少しだぞ、頑張れ」
「っテテぃ、足が顔に当たってるぜ。勘弁してくれよう」
「っせーの!」
 ふわり、と風がイリスの頬を撫でた。
 不意によろけた彼女の腰へ、道志郎が優しく腕を回して抱きとめる。
「頑張ったな、イリス」
 優しく温かい手のひらが彼女の頭を撫ぜた。
 冒険者達の眼下には見渡すばかりに平野の続く常陸野。
「絶景だな」
 皆言葉を忘れ、息を呑んでいる。
 ここは常陸の天の頂。この風景を欲しいままにした者がどれ程いるだろう。信也にしても忍び冥利に尽きるというものだ。満足げに不敵な笑みを洩らすと、屋根瓦の上へと道志郎の旗を突き立てた。
「これがないと始まらないだろう」
 道志郎の旗印の黒星だ。
 黒地に輝くばかりの白い星々。石岡攻めの前夜、皆でそこに自らの星を描き記したことが思い起こされる。
 道志郎の横顔を見つめる空間が目を細めた。
「暫く見ないかと思えば。しかし大人びた顔をするようになって」
 見渡す平原へ臨み立つ冒険者達を常陸の陸風が撫ぜていった。
 天山が小さく身震いする。
「早いトコ乾杯と行きたいね。神酒に珍酒、魔酒に詩酒と選り取りみどりよ。最後だからパーっといこうぜ」
 長き苦難を共にした皆でこうして車座になって酒を酌み交わすことが出来るとは、とても思いも出来なかった。そこに、道志郎の成長を願ってやまなかった剣侠の姿がないことを、カーレスは残念に思う。
「この場に来れなかったことを団長は最後まで悔やんでいました」
 義経に臣従した陸堂は武功を認められ霽月城の城主となった。道は分かたれたが、己の星を見つけたあの男のことを、斬は自らのことのように嬉しく思う。
「あやつは、義経という新しい主を得たのだな。いずれはこの国を背負って立つ男になるだろう」
「機会があればぜひ立ち寄ってみて下さい、団長は道志郎さんを義経公に是非一度会わせて見たいと言ってました。それに、道志郎さんには将器がある。今後はそれを延ばせと」
「そうか、陸堂さんは下野にいるのか‥‥」
 懐かしそうに道志郎が遥か西のかたを見渡した。斬が視線を同じくする。
「水穂さんも、今はきっとそこにいる。彼らだけではない。出会った多くの者達が今も前へ進んでいる。お主も進め、振り向かずに、真っ直ぐにな」
 口に出して言ったが、斬は知っている。この若者は今までも、これからもずっとそうして突き進むだろうことを。斬や仲間達の言葉を背に受けながら、己を縛る何ものをも顧みることなく。そんな道志郎の生き方が斬には羨ましく、眩しい。
(「となれば、俺も負けてはおれぬな。いつか道志郎がまた助けを必要とした時、友として、胸を張って並び立てるように。俺も、己の道を」)
「しかしよう」
 と訝しげに天山。
「仕官の道を蹴飛ばしてまで進みたい道ってのはナンだろうね。せっかくだから教えちゃもらえねェかいな? いいツマミになりそうだ」
 その問いに、道志郎は少しだけはにかんで見せる。
「まだ、とても道と呼べるようなものではないんだ」
 この動乱の日々で道志郎が目にしてきたのは、諸侯の争いに翻弄される民草達の窮状であった。朝廷に力なく、各地で臥龍が首をもたげる大乱世。この戦乱はいつまで続くのだろう。
 この日ノ本から乱世を終わらせたい。そして人々が争いに怯えず暮らせるような、千年の楽土を築きたい。
「道志郎の夢は聞いてる私まで気持ちが若くなるそうだ。しかし、貴殿といい私が面倒見る奴は大空の下旅立つのが性なのかねぇ」
 道志郎が長く獄にあった間、空間は源徳の嫡男である信康と行動を共にしていた。彼といい道志郎といい、行く手の何をも阻みともせず突き進む若者達の姿の、何と痛快なことか。
「今度もまた当てのない旅になると思う。ひとまずは王城の地、京都を目指してみるつもりだ。俺自身、どうやったらそんなものが実現するかなんて見当もつかない。だがそれは選ばれし強者の武力によって打ち立てるものではないと俺は思う」
「何やら神剣騒動の頃を思い出すね」
 斬や仲間達を振り返った流が懐かしそうに笑みを漏らした。あの晩がそうだった。一握りの権力者達ではなく、民草から道志郎は出でた。江戸の民の中から発した声が、この国の歴史を動かしたのだ。カーレスや多くの仲間達はあの晩に縁を結ばれたのだ。
「思えば道志郎さんとは庶民連合に【誠刻の武】が協力する事になったのが縁でお会いしたのでしたね」
 振り返ると昨日の事のようにも思い起こされる。その後は金山に水戸‥‥。困難の連続ではあったが、こうして振り返れば満ち足りた日々として蘇る。苦難を乗り越える度に光は輝きを増した。
 イリスは自分が見たその光を確かめるように、並んで座る道志郎の胸に顔をうずめた。
 あたたかい。
 なんだろう。この温もりと、安らかなまどろみを、イリスは遠い昔日に知っていたような気がする。
(「‥‥たぶん、私は道志郎さんに父の影を重ねていたんだと思います」)
 全部失くしてた自分を拾い、育て、神の存在を教えてくれた英雄。
 怪物と戦い続けて、最後には人の愚かさと世界を憎み、怪物になった人。
(「神様は人間の愚かさを許容しています。きっと私のことも許してくれているから。これ以上を望むのは贅沢だと思っていますけど‥‥」)
 傷つき、苦しみ、その果てに歌声と五感を失っても。それでも、この愛しい光だけは見失いたくはない。さよなら。ありがとう。遠い記憶に今もある父の背中へ想いを寄せ、イリスは道志郎のぬくもりへと身を預けた。
 天守閣の入り口では、見張り番についた真崎が一人座して刀の下緒を弄んでいる。柱に背を預け、天井から漏れ聞こえる楽しげな笑声に耳を傾けている。
 見張りの巡回に合わせた何度目かの振動探査を終えると、真崎は部屋の隅の暗闇を振り返った、
「遅かったな」
「金山以来・・・心配かけてすまなかったな」
 慧雪は強敵だった。彼の意を汲んでくれた盟友の助けなくば、或いは再び敗れていただろう。
 髪紐を解いた真崎が、柱に背を預けて立つ嵐へ嘆息する。
「山と文句を言ってやりたい所だが、無事脱出を果たすまではお預けとしておいてやろう‥‥江戸までの岐路は覚悟しておけよ」
 言葉にせずともよい。真崎、そして信也も。那須行以前からの旅の仲間であり、得がたい友だ。
「‥‥それに、今くらいは姿を現し道志郎と共にあっても良かろう?」
 窓の外を振り返った嵐だったが、腕組みはそのままに視線を遠くする。
「会わずともよい。奴の風に乗せた言葉だけあれば本望だ」
 風は一つ処に立ち止まることはない。そして志を持った者も。
「故に交わるところで逢えれば、それで良い」
 それより、と嵐。察した真崎が気恥ずかしそうに小さく首を振る。
「道志郎には苦楽を共にした今の仲間が居る。語り合うべきなのは彼等との方だ。俺は其の刻に邪魔が入らぬ様手助けを‥‥無事な顔が見れただけで、充分だ」
 最後の言葉に浮かぶその気持ちを知り、嵐は頷いた。少年だった道志郎を共に影から支えた者同士だ。道志郎が声望を掴み、その名を天下に轟かせようとも。あの頃の仲間達にとっては、変わらず道志郎はあの日江戸を飛び出した少年のままだ。
 やがて一人で歩み始めた彼が友を得て、自分達冒険者と並び立つ日が来るとはあの頃にはまだ想像もできなかったが。その仲間達の輪にある道志郎をこうして眺めているのは、存外悪い気分ではない。もし己が子を成していたならば、今日のような思いで見守りもしただろうか。そんな想像を巡らせた自分が可笑しくて、真崎は苦笑を深くする。
「なるほど真崎、お前らしいな。もっとも奴の方はそうは思っておらんようだぞ?」
 唇の端に浮かんだ笑みだけを残して、嵐の気配が闇へと消える。入れ替わりに、縄橋子を伝って道志郎が顔を覗かせた。
「真崎」
 降り立った少年は、言葉を探すように幾度か小さく唇を振るわせた。
「俺、頑張ったぞ」
 やっとのことで搾り出した言葉は不恰好で、光圀の前で大言壮語を吐いた同じ若武者のものとは思えない。
「江戸を飛び出した時に思い描いた夢にはまだ及ばないかもしれないが、大働きをした。いつかの借りを返すにはまだ全然足りないけど、俺、もっと――」
「道志郎」
 穏やかであたたかな眼差しが道志郎を見詰めていた。
「‥‥良くやった」
 破顔。溢れそうになる感情を堪え、少年は屹立する。
「見ていてくれよ、俺の是からの働きを」
 二人の視線が固く交わり、胸に去来するあたかかななもの。
 と、そこへ。
「道志郎、ここにいたのか」
 屋根裏から降り立った信也が二人を見止めて、愉快そうに笑みを漏らした。
「‥ふらりと消えたと思ったら‥‥主役のお前がいなくてどうする。今日くらいはとことんまで付き合って貰おうか」
 そう意地悪そうに笑うと。
「それにお前がいないとイリスが寂しがるからな」
 肩を組まれて連れられながら道志郎は真崎を振り返る。頷き返す男の顔には穏やかな微笑。
「行って来い」
 消えていくその背中を、真崎はいつまでも見送っていた。


 ■□
 天頂から見える風景がいつしか白んで来た。
 別れの時だ。
 辺りに薄く霧が棚引き始め、この天守にもうっすらと霞が掛かる。
「蒸気となり雲となり雨となり‥‥水がそうであるように。形を変えても、人の道を歩む限り自分はきっと助けになろう」
 その中ある流の立ち姿は、その言葉が示すとおり水のように穏やかだ。
「例え天下を得たとして、力に囚われ優しさや労りを忘れないで欲しい。必要なものは既に持っているのだから、自らを活かせば自ずと道は開けよう」
「流のような才人が共に歩んでくれたことを深甚に思う。遠く離れた京の都で、いつか黒崎流の名が聞こえるのを楽しみにしていよう」
 道志郎はまた大空の下へと。
 再び旅立つ若者の姿に、空間はかつての己の姿を重ね、胸を甘くした。
「私は昔大空の下で流れて医術や剣の腕を学んだ。貴殿も何か得る物もあろう。私もそろそろ残り少ない人生を考えれば落ち着く頃なのかもな」
 そっと耳元へ寄せて囁くその顔には、慈しむような微笑み。
『なに、もう二十年以上も前のことだがな。この事を知ってるのは身内と信康殿だけだからな』
「俺は、そうさなナァ。都を遊山するのも悪くねェ」
 最後の一杯を飲み干した天山が大きく伸びをする。
「学がないから難しい事は分からんね。だが、ガキが出来もしねェ青臭いことを本気になってやろうとしてるんだ。大人がそれを助けなくでどうするよ?」
 共に歩む者。別れる者。
 ひと時のあいだ交わった道は再び岐路へと。苦楽を共にした仲間達へ道志郎が視線を巡らす。その眼差しを受けて、斬は小さく首を振った。
「御岩の弔いができていない。雲野は忙しいだろうから巫女の護りは俺が引き受ける。彼女が‥‥萌樹が弔いを終え、新しい道を一人で歩けるようになるまでは」
「斬は水戸に残るんだな。御岩のことは悔やまれるが、巫女の命だけでも救えたのは斬がいてくれたからこそだと思う」
 差し出した掌を結び、二人は固い握手を交わす。
「ここまでの助力、感謝する。次に会った時はまた稽古をつけてくれ」
「なに、別れは一時だ。この道の先にはいつも仲間が、そして道志郎、お前がいる。いつの日かまた道は重なり、共に苦難を分かち合う日が来る。そう、この道の先に――」
 遠く山々から眩い光が覗く。夜明けだ。冒険者達は並んでその光景を見た。眩く輝きながら昇りゆく陽が、信也にはまるで道志郎の行く先を暗示しているように思えた。
(「‥これから先、道志郎が何を成すのか‥‥機会があれば、俺もまたあいつと一緒に動いてみたいもんだな‥‥」)
 ただ一つ、皆気がかりなことは。
 カーレスが改まって居住まいを正した。
「最後に陸堂団長からもう一つだけ言伝です」
『恐らく貴殿はまた旅に出るのだろう。だが、今度はイリス殿を必ず連れて行け。道志郎殿が我々の光なら、イリス殿は貴殿の光だ。もうこれ以上一人にさせるな』
 誰もがイリスの献身を知っている。ただ道志郎の大志のため己の身を厭わず尽くしたこの少女のことを。
(「頭では、今の私じゃ迷惑かけるって分かってますけど‥‥」)
 この体に不安は残りはするが。少女の決心は固い
(「だめになったら‥‥その時考えます」)
 不安げにイリスが道志郎の顔を窺う。滲んだ視界では彼の表情もおぼろげにしか映らないが、イリスにははっきりと分かった。
「元からそのつもりだよ」
 道志郎の向ける微笑が。
「俺のために、こんなにまでなって‥‥苦労をかけて済まなかった。これからだってずっと掛け通しになるかもしれないけれど。イリス。俺について来てほしい」
 枯れた喉では答えることも叶わないが言葉などいらない。身を寄せ合う二人を仲間達は静かに祝福する。
「お二人の未来に多くの幸と光が在らん事を。光は、常に世を照らすのですよ」


 こうして冒険は終わった。
 一夜明けた水戸城を正装に身を包んだ流が訪ねている。
「‥‥という次第。水戸に害意あってのものではなく、どうか追認頂けますよう」
「雲野からは何の報告も受けていません。御庭番がそういうのだから、侵入者などいなかったのでしょう」
「寛大なるお心、感謝致します」
 平伏した流がさらに深く頭を下げた。
「どうすべきか迷っても居りましたが、自分は人を活かし、育ててみたくなりました。それによって、人の世を地上の楽園に近づけたい。どうか自分を石岡復興に使って頂きたい」
「なりません」
 表をあげて下さい。身を固くした流れへ光圀は告げた。
「石岡の復興は、そなたが自らの手で成し遂げるのです」
 怪訝な顔の流へ、光圀は愉快そうに微笑んだ。
「常陸府中には矢張り水戸の支藩としての働きが必要なようだ。水戸の復興と関東の安寧に尽力なさい。そなたを石岡の城主に封じます」
「道志郎殿の強い推挙があったのだ。喜ぶがいい、今日から貴殿は常陸府中藩主だ」
 ――彼の者、古の張良・陳平のごとき奇才有り。玉は貴人の掌中でこそ彩を増せり。最も得難きは是、王佐の才と呼べる也。
 流が、道志郎の消えていった遥か彼方へと首を巡らせた。
 どこまでも伸びる直道(ひたみち)は、心指すままに進み続けた青年の後姿のよう。
「道はまよはじ、なるにまかせて、か」
 年代記に云う。
 神聖暦一千年の乱世に、己の志一つを頼りに日ノ本を駆けた若武者の姿があった。黒地に星をあしらった旗印の下へ多くの仲間達が集い、千年の太平を共に夢見た。民草より出でたその若武者の出自は知れないが、一説には水戸の光圀公からその名を賜ったともいう。美しき紫に咲く藤を名に冠し、人の世の至福を求めて生き抜いたその男の名は――。
 水戸城天守、鬼瓦の上。
 とうに見えなくなった道志郎の背を見送り、嵐もまた風と共に。
「さらばだ、紫藤」


 志道に心指す ‐完‐