●リプレイ本文
神のみぞ知る――
鋭利な刃にも似た酷く透明な冷気の中で、伊勢誠一(eb9659)は眼前に横たわる巨大な水の塊を見るともなしに眺めやる。
世界が奇妙に広く明るく感じられるのは、光が雪に乱反射するせいだ。美しいがどこか日常より乖離した危うさを漂わせる情景でもあった。
大気は静かで、水面を白く泡立てる波だけがとめどなく騒がしい。船乗たちは、これを天気が崩れる前兆だと表情を険しく立ち働いている。
一行の内に強力な晴れ男がいたのか、日頃の行いが良かったのかはともかく。旅慣れた冒険者には物足りぬほど道中の空模様は穏やかだった。さすが巷に名を馳せる者たちは天運も強いのだと感心する船乗りたちの言葉に、伊勢は小さな苦笑を零す。
海上輸送の最大の問題と天敵は、気まぐれな天候だった。
東廻りと呼ばれる航路は、西廻りの航路に比べて格段に危険が高い。――潮目が速く荒れやすい上、難所も多かった。また、海が荒れた時に逃げ込める湊も少ない。房総、常陸のあたりには情勢の不安まであって‥‥
波乱を憩う冒険者ではなく商売人として眺めると、この不安定さには確かに二の足を踏だろう。
「大変、魅力的なお話ではありますが‥‥」
伊勢の構想を聞かされた奈良屋の大番頭は、曖昧な笑みを浮かべて言葉を濁した。
魅力的ではあるが、慎重な腰を上げるにはひとつふたつ決定打に欠けている。そんな奈良屋の反応だった。
泰平が揺らぎが始めた奥州にて、果たして必要とされる量を確保することができるのか。
本来は奥州の民の為のものであるはずの食料その他を掠め取るばかりで謝辞すら寄こさぬ東戎への隔意もあろう。――その辺りは実際に顔を合わせ突き詰めてみなければ、確かな答えは得られぬが。
そちらはともかく、天候ばかりは如何とも‥‥
●陸奥司
街全体が重く、どこか鬱屈した息苦しさを感じるのは季節のせいだ。
イリアス・ラミュウズ(eb4890)、木下茜(eb5817)と共に仙台より天馬を駆って更に北を目指した天城烈閃(ea0629)は、都の入り口に建つ南大門の姿に吐息する。
鮮やかな朱塗りの門も、京の都を想わせる整然と並んだ街の姿も。積もった雪の中で、じっと息を詰めている風だ。広い大通りを行き交う人の姿も、着込んだ衣服に顔を埋めるようにして黙々と足を急がせる様は、どこか余裕がない。――厚く空を埋めた灰色の雪雲のせいなのか、翳りが見えたこの国の泰平への不安なのかは判らなかったが。
江戸にて風雲を巻き起こす伊達政宗の名は、平泉でも特別な存在であるらしい。
政宗が奥州に在れば不安など入り込む隙はなかったのに‥‥世情の揺らぎについて木下に尋ねられた領民の中には、そう応えた者も多かった。
その伊達家に縁ある者として―ラミュウズと伊勢の肩書は様々な場所で重宝した―彼らは幾らも待たされることなく、陸奥司・藤原秀衡への目通りを許された。
天城が建設を志す「学問の都」。その計画遂行に必要な、技術や知識を持つ人材の発掘勧誘を行いたいという要望もにもさほど異を唱えることはなく。老いた貴人は、ただ鷹揚に頷いた。
調子が狂う。冒険者たちの目前に座す秀衡は源徳家康や藤豊秀吉と比べれば、いかにも小さく凡庸な老人だ。その眠たげな目をした枯れた男が、独眼竜を頤使し、源義経を都より匿い、悪路王にさえ一目置かれる奥州の王だというのだから力が抜ける。‥‥否、力を抜いた心算は微塵もない。にも関わらず、確かな感触が得られないのだ。圧した力を全て呑み込まれてしまうかのような‥‥。
「争いの終わった後に向けて、今のうちから出来ることを始めておきたいのです」
戦さを厭う想いが作り上げた都になら、得られるモノがあるはず。――そして、密かに追い求める消された歴史の手掛かりも、都より隔絶したこの地になら忘れられずに残されているかもしれない。
淡々と。それでも、普段よりはいくらか熱の入った天城の言葉を反芻するかのように、老人は萎びた瞼を閉じる。ゆっくりと閉じて、開くその沈黙がとてつもなく長く感じられ‥‥
「――それは、まあ、よかろう。だが‥‥」
ひとつ吐息をつくように、秀衡はゆるゆると言を紡いだ。そして、思い出した風に天城と並ぶラミュウズ、木下の方へと視線を向ける。
「知っての通り、こちらも少しばかり忌々しき風が吹いておる。今、其許等に触れられては‥‥塞がらぬ傷口もある」
江戸が、西国が揺れるこの時期に平泉を訪う者の思惑が、見越した未来の話ばかりであるはずがない。
降り積もる雪が生み出す白き闇にも似た静謐を纏う奥州の主は、音すら呑み込む混沌の深淵より彼らを推し測っていた。
●揺らぐ天秤
天空より舞い降りた訪問者に、北畠顕家は少し呆れた風な視線を向けた。
噂とはいえ、この辺りは北武蔵を脅かす鬼軍の勢力圏。その緊迫した情勢下に、寒中の単騎駆け。――空行騎獣を従える者ならではの力技とはいえ、冒険者の面目躍如といったところか。
「お久しぶりです」
疲れも見せずけろりと悪びれない口調で再会を喜ぶシオン・アークライト(eb0882)をしばし無言で眺めやり、そして彼は吐息をひとつ。
今更だと諦めたのかもしれない。まっすぐに伸ばされた姿勢の良い背中に従い歩を進めながら、シオンはそっと周囲を見回した。
地上より垂直に立ちあがる断崖の上に建つ城は、流石に前線だという緊張に満たされていた。顕家も湯漬けを運んで来た兵士も、戦装束に身を包んでいる。――蘆名領の鬼軍は、未だに南下を続けていると聞いていた。
「戦況はどうなっているのかしら?」
「挑んでくる輩はひとまず討ち取った。だが、楽観もできぬ。――少しばかり調子に乗せてしまったようだ」
「調子に、ですか」
板間に広げられた絵図に気付いてふと騎士の憂いを浮かべたシオンに、顕家は言下に答え、そして、呟くように付け足した。華の乱の後、白河を占領した奥州の兵はただちに引き上げてはいるのだけれど。――将たる政宗不在の影響か、あるいは、他に理由があるのか。
そういえば、と。両の手で椀を包み込むようにして指先を温めながら、シオンは胸中の気がかりを口にする。混迷を極める江戸の趨勢を見据えんとする度に、胸を塞ぐ疑問はいくつもあった。
「どうして、鬼軍は白河を目指すのかしら?」
シオンの問いに、顕家はゆるやかな笑みを口角に刷く。そして、つと指を伸ばすと絵図に描かれた隣国を指示した。
「貴女が鬼軍の将なら越後を目指す、と?」
「とんっでもないっ!」
越後を仕切るのは、上杉謙信。軍神とまで讃えられる当代最強の武将だ。――ぶんぶんと首を振ったシオンに、顕家はすいと指先を絵図の上で滑らせる。
「では、常陸はどうか?」
「そちらもちょっと‥‥ああ、なるほどねぇ‥‥」
今の常陸は、黄泉人が跋扈する魍魎の地。
越後の龍と常陸の魔界。鬼としても面倒な―というと語弊もあるが―障害を避けようすれば、奥州街道を南下するのが確かに無難であるように思われる。事実、冒険者の助力がなければ、赤頭に率いられた鬼軍はとおに白河を越え江戸へ雪崩込んでいたはずだ。――そして、赤頭をどうにか退けた今でも、鬼軍の南下は止まらない。
悪路王は知っているのだ。
人の世が―武蔵が、東海道が―決して盤石の上になく、人同士の諍いによって揺らいでいる事を。
●血族の驕り
秀衡はかなり早い段階で、政宗の名を後継に挙げていたのだという。
血を分けたふたりの息子を差し置いて。それだけ政宗の才幹が抜きん出ていたこと、そして、泰衡、国衡の器がそれに遠く及ばなかったこと‥‥力の差があまりにも歴然であった為、秀衡の決断に異を唱える者は少なかったとか。
江戸の巷で囁かれた奥州の後継者問題について尋ねた木下に、下働きは周囲を憚るように声を潜めた。
例えば、兄弟の間で確執があったとして。国衡を頭領に担ぐ者たちが泰衡を刹しても、そのままでは彼が陸奥司の座につくことはまず適わない。泰衡の側近にしても同じこと。――これは平泉、奥州の事情に通じていれば、皆、周知していることだ。
もちろん、泰衡、国衡にも自尊心というものがあり、思うところもあるだろう。ふたりの近習であれば尚のコト、忸怩たる想いを呑んでいるに違いない。
木下としては可能であればふたりの内心にまで踏み込んでみたいところだが、残念ながら彼らへの目通りは適わなかった。季節柄、外出の機会を狙うのも難しく忍び込むことも考えたのだが、半年前の狙撃事件が尾を引いているのか館を守る衛士たちの目は幾重にも厳しい。
偉大なる者の血脈。ただそれだけで、何か有難いモノだと頭を下げる東国・西国の風潮は、泰衡、国衡の心に分不相応な野心を抱かせる。――冒険者をふたりに近づけまいとする秀衡の思惑は、あるいは親心なのかもしれない。
「京や江戸なら、年端ない子供でもそれで上手く行くのでしょうが‥‥」
悪路王の理は――
あるいは、侮ればたちどころに牙を剥くこの地の峻厳な山と風の理は――
尊き血に、敬意など抱いてはくれないのだから。
その理を知っているからこそ秀衡は政宗を指名し、奥州の民も異を唱えることなくその選択を受け入れた。
そして、国守の竜の不在が奥州に風雲を呼び、翳を落としている。
●白闇の壁
唸りを上げて渦を巻く地吹雪が視界を白く塗りつぶす。
ラミュウズの育ったロシアの冬も厳しいがさらさらと軽やかな大陸の雪に比べ、こちらの雪は湿って重い。薄暗い舘の中で耳にする梁や柱の苦しげな軋みは、いっそ恐怖さえ感じるほどだ。
これ以上の侵入を拒絶するかのように吹きすさぶ風雪の勢いは、天馬の脚をも躊躇わせる。
「彼の者と逢い見えることまかりならぬ」
悪路王に逢いたいと伝えたラミュウズの申し出を、秀衡はすげなく撥ねつけた。
対立する勢力ではあるが、陸奥司と悪路王には深い繋がりがある。親しい交流があるワケではなかったが、侮れぬ相手であるからこそ互いの動向には敏感だ。――陸奥司には北緯の鬼を封じる役目もあるのだから。
事の起こりは、小競り合いだったのかもしれない。
伊達政宗が江戸にて不在であったのは、人にとってのちょっとした不運‥‥鬼軍にとっては幸運だった。
風向きを変えたのは、予期せぬ客――陸奥守を通さず、尚且つ、同胞であるはずの人目を憚って訪れた東国からの訪い者たち――興味本位か、何か目的があったのか。彼らには知らせる気などなかったはずだ。
だが、人より遥かに優れた思考と洞察力を有する鬼王にとっては、それで十分。彼は東国の動乱を嗅ぎ取った。
「無意味な接触は、こちらの手の内‥‥窮状を知らせるだけじゃ」
無意味ではない、と。
反駁したい気持ちを抑え、ラミュウズは秀衡の何処か疲れを浮かべた老いた顔を見る。
異形の鬼に、人里に忍んで情報を拾い上げる能力はない。彼らが情報を得るのは、概ね人と接触した時に限られる。――武芸に於いては絶対の自信も、己の語力、話術を鑑みれば、絶対に大丈夫だとは言いにくい。相手が鬼の中の鬼王ならば、尚のコト。
「‥‥では、教えてほしい」
西の鬼王の酒呑童子には、建御雷神の別名があった。東の鬼王である悪路王もまた、古代神話にまつわる者であるのか。そして、古代の大戦で人・妖怪・不死人は共に第六天魔王と戦ったという。鬼と人とは、手を取り合うことができるのか。
ラミュウズの問いに、秀衡は笑う。
「それを知って、何とする?」
理を違えたのは、人間で。
神を伝説へと追いやり、不死人を魔物と呼んだ。繁栄を知った人は、今更、太古には戻れない。――妖怪の顔色を窺い、彼らを宥める為、犠牲を差し出す生活には。
■□
薄暗い書庫にて文献を漁る天城を訪うたのは、気配を持たぬ魁偉な人物だった。深くかぶった誌公帽子の奥の顔立ちは、暗がりでは窺いにくい。微かに見える萎びた肌の様子は木乃伊のようで‥‥ひどく年を取った人物だと判ったくらいだ。
気がつけばそこにいて、天城が積み上げた竹簡を改めていた。――秀衡への口上とは異なる内容に、彼はゆるゆると首をふる。
「‥‥迂闊に触れれば、ニ度と平常には戻れなくなる。ただ知りたいだけの興味本位であるのなら、これ以上はやめておきなさい」
《彼》は、国の理を創り上げた者の手で歴史の闇に隠されたのだから。
光を当てれば必ず影が現れるように、事実が明らかになれば差し障る者が現れる。ともすれば、国の根源が揺らぐかもしれない。――暴かれた者たちは、それを看過するワケにはいかないだろうから。
いずれ、どちらかの破滅を招く。
穏やかな口調にどこか憐れむような響きを乗せて、黄泉の民は緩やかに顎を引き再び暗がりの中へ戻っていった。
●奥州の黄泉
「遺志だと言うなら、確かに遺志だ」
伊勢が差し出した銚子を受けて、原田宗時は怪訝そうに首をひねった。
源氏の長である義朝が背負うのは、源氏の繁栄。その遺児である義経に託されたのもそのあたりだろう。
源氏の名を復興し武士を束ねるというのなら、藤原氏の色濃い奥州よりも武者の聖地たる関東で。――伊勢としてはもっとひねった答えが欲しいところだが、武門の勇としてはまあ妥当な答えだ。
奥州と深く縁を結んだ義経が関東を治めていれば、奥州の安寧は約束される。
自ら泰平を築き上げた奥州の民にとって1番の厄介事は、都、江戸より押しつけられる無理難題と争乱の風であるのだから。
「そうしますと、今の状況はこちらにとっても嬉しくはない?」
「まあ、そういうこった」
本腰を入れて悪路王と対峙しようかという時期に、イザナミ討伐の為、西国へ兵を出せと言ってくる。もちろん、犠牲に釣り合う見返りがあるわけでもない。
豊かとはいえ奥州の兵、物資は有限なのだ。関東に兵を割くツケが、悪路王への対応に跳ね返る。原田の口調は、いかにも迷惑だと言いたげだ。
「しかしながら、イザナミも放置すればいずれ奥州にも累が及びましょう」
イザナミの率いる黄泉の軍が奥州に及んだ時は、日本はきっと滅んでいる。
伊勢にとっては派兵を取りつけ、朝廷への影響力を強化しておく良い機会に見えるのだけれども。この辺りの見解の相違は置いた軸足の向きの違いかもしれない。
西国の諸国は壊滅に瀕していると聞いていた。辺境の動乱には腰の重い朝廷が、顔色を変え兵を募るほどには逼迫している。
ここで恩を売っておけば、奥州にとってはかなりの易になるはずだ。
そう説いた伊勢の言葉に伊達の諸将は、やはり曖昧な表情で頷く。身近に迫った悪路王の脅威とは違い、遠すぎて実感が掴みにくいのかもしれない。――いずれ、政宗より正式な下知が出る。
心を決める前触れになれば良い。そう、思うことにした。