夜叉姫椿 〜前編〜
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■シリーズシナリオ
担当:津田茜
対応レベル:3〜7lv
難易度:普通
成功報酬:1 G 22 C
参加人数:8人
サポート参加人数:-人
冒険期間:02月22日〜02月25日
リプレイ公開日:2005年02月28日
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●オープニング
ぽつりと落とされた吐息に、絢(あや)は針仕事の手を止める。
膝を突き合わせて座った母の視線は手元の縫い物に落とされたままであったが、身が入らないのか‥‥いくらも進んでいなかった。
繰り返される溜息だけが、細い明かりひとつが頼りの薄暗い室内に重く降り積っていく。
誰も、何も言わない。
父も、母も――
ただ、絢の顔色を伺うように‥‥言葉にはせず、ただひっそりと吐息を落とすのだ。
■□
花のお江戸は八百八町――
繁華な賑わいから少し離れた町の外れ、ちょっとした空き地と雑木林に挟まれたその場所に、小さな鬼神堂が東を向いて建っている。
「‥‥傍らに椿が植えられておりまして‥‥付近の者たちからは椿堂の名で呼ばれております」
鬼神を祀る場所にはどこか不似合いな花の名に、係りの手代はほんの少し眉をしかめ差し向かいに腰を下した依頼人に目を向けた。
小柄な痩躯にしっかりと綿入れを着込んだ四十絡みの町人だ。――あまり懐に余裕があるようには見えなかったが、まあ、悪人にも見えない。
“ぎるど”を訪れる依頼人のほとんどは、大なり小なり問題を抱えているものである。顔色が冴えないのはそのせいだろうと割り切って、受付係はにっこりと営業用の笑みを浮かべて先を促した。
「‥‥その椿堂がなにか?」
問われた男は、ほんの一瞬、視線を動かす。そして、出されたお茶で唇を湿らせるとぽつりぽつりと話を始めた。
「ここ数日ばかり、この椿堂に夜毎、かすかな明かりが点り、若い娘が籠もっているという噂が立ったのでございます」
どう転んでも気楽な想像を許さぬ雲行きに、受付係はうっと言葉を詰まらせる。ようやく吐け口を見出したのか。受付係の顔色にはまったく気付かぬ様子で膝に置いた拳を握り締めた。
「‥‥どこからくるのか判りませんが、御高祖頭巾を被った若い女が、ふらりと現われ鬼神堂の中に入り込むのでございます。小さな明かりを点して‥‥やはり参籠のつもりなのでしょう。はっきりと顔を見た者はおりません。ですが‥‥」
遊郭帰りの中元ふたりが、朝帰りの途中、椿堂から出てくる御高祖頭巾の女を見かけたのだという。ふざけて声を掛けたところ、ぎっと睨みつけられたとか――
「その目からは青い燐光が放たれ、口は耳のあたりまで赤く裂けていたそうにございます。悲鳴をあげて逃げ帰えったものの、ひとりは熱を出して寝ついてしまったと聞いております」
「‥‥それは、また‥」
仏法守護の神の中には、鬼の本性を持つ神も少なくない。仏の教えに触れて心を入れ替えたとはいえ、恐ろしい姿形で描かれる者も多く‥‥江戸の町人たちには敬われているが、同時にひどく怖れられてもいる。
そんな場所に若い娘が――
「‥‥場所が場所だけに誰も気味悪がって近づかず、娘の身元も改めぬのでございます。町年寄りや奉行所の同心衆も見てみぬふりで‥‥界隈の者たちの不安は募るばかりでございます」
さもありなん。
できれば聞かなかったことにしてしまいたいくらいだ。とは、流石に言えず、受付係はちらりと男の顔に目を向ける。
「‥‥それで‥‥本日のご相談というのは‥‥」
「はい。こちらにお願いすれば、なんとかしていただけるとお伺いしましたゆえこうして‥‥」
ああ、やっぱり。
恐縮しきりに頭を下げる男に力なく笑み返し、受付係は広げた“大福帳”に依頼の内容を記すのだった。
●リプレイ本文
こぼれる光が木立の濃い緑を濡らし、鮮やかな紅の花に匂い立つ。
天を刺す急勾配の庇にどこか異国の情緒を宿す小さなお堂は、ゆるやかに流れる時の中でのんびりとくつろいでいるようだった。
凛と冴えた寒気の中で花開いた無数の紅に飾られた閑静なたたずまいからは、界隈を震え上がらせている噂話は想像もつかないが‥‥。
蝶番を微かに軋ませ細く開いた格子扉からするりと抜け出した御高祖頭巾の女は、薄明に落ちた淡い翳にふと顔を上げる。
「‥‥こちらのお堂に御用ですか?」
そう声をかけてきた志士の、男性にしてはいささか小柄で線の細い立ち姿に、女はその双眸を僅かに細めた。
疎んじられているのは明らかだったが、片東沖すみれ(eb0871)を睨み付けるその眸から青白い燐光が放たれることはなく。――もちろん、口が耳まで裂けているというようなこともない。
強い意志の持ち主であることは確かだったが、黒い眸は涼やかに澄んだ眸は悪人‥‥魔物のそれには思えなかった。
「‥‥‥‥」
鬼気迫る色を湛えた一瞥に、思わず言葉に詰まったすみれから女はついと視線を逸らすように背を向けた。
振り向きもせず堂を後にするまっすぐに伸びた背中を眺め、すみれは張りつめた肩の力を抜く。――確かに魔性の類ではなかったが。それでも、鬼神の加護を得んとするには理由があるのだと納得させる何かを感じさせる女であった。
「男を睨み付けるなんてダメってカンジィ。やっぱりぃ、女は愛嬌よねぇ」
ひょっこりとお堂の裏から顔をのぞかせた大宗院亞莉子(ea8484)の素直な感想に、山下剣清(ea6764)ももっともらしく相槌をうつ。――生き甲斐とまではいなくとも、女性には声を掛けるのが山下なりの礼儀というもの。睨まれるよりは、笑顔を向けられる方が良いに決まっている。
謹厳をもって自らを律するすみれには少しばかり返答に窮する生き方だが、ふたりが歩むのもまた人の道。
「大丈夫よぉ。尾行は私に任せてってカンジィ」
「なら、俺はちょっとその辺りを当たってこよう」
御高祖頭巾の女とは対照的な人当たりの良い笑みを浮かべた亞莉子と山下を交互に見比べ、取り残された志士は吐息をひとつ。
●鬼神の祠
「‥‥鬼も神さまになるですか?」
ジャパンの人たちは変わってるですねぇ、と。小首をかしげ、アイリス・フリーワークス(ea0908)は薄暗い堂内を覗き込もうと格子扉に顔を近づける。
願い事の内容で、頼る神が違うのも不思議な話だ。――アイリスの祖国では、唯一無二の神へ忠誠を誓いその教えを尊ぶことが美徳とされているのだけれど。
「まぁ、そうですねえ」
ふわふわと宙に浮いた羽根妖精と視線を合わせるように背を屈め、陣内晶(ea0648)は、扉の格子を指先でなぞる。広まった噂話に参拝の足も途絶えているのか、格子にも薄く埃が積もっていた。
「‥‥五寸釘だったら嫌だなぁ」
深夜の鬼神参詣と言われれば、まず思い当たるのはアレだ。
「ごすんくぎ‥? なんですか、それは?」
ぽつりと遠くを見つめて落とされた呟きを聞き咎めたアイリスに、陣内は曖昧な笑みを浮かべて肩をすくめる。
「――とりあえず、中に入って見ましょうかね」
「あ、何か隠しているですね! すけべぇな事だったら、紅水さんに言いつけるですよ〜」
これも徳のなせる業、日頃の行いというもの。
「いーえ! 別にえっちぃ事なんて考えてないですからっ!」
ちょうど目の高さに合わせて宙に浮いているアイリスの隣でしゃがんだら‥‥なんてことをちらりと考えたのは、猛烈に秘密だ。出来心というよりは、向けられた水に思わず応えてしまう芸人の奉仕精神というべきか‥‥。
「う〜、あやしいです〜」
むぅと頬を膨らませアイリスは、いつもの笑顔ではぐらかしてお堂の格子扉を開いた陣内の背中を追いかける。
ふわりと飛び込んだ薄暗い堂内で、ばったりと顔を合わせたそれは――
恐ろしげな形相で仏敵を睨み付ける炎髪の阿形像。
「はわわっ!?」
すっ飛んで逃げたその先に、巻髪の吽形の像が立っていた。共に上半身は裸で、腰に獣皮を巻いている。仁王像のように対照的な姿ではなく、右斜め前に大きく目を剥いた奇怪な顔を向け右足を少し踏み出すような姿だ。
「怖いですよぉ〜!!!」
重くこもったお堂の空気が響いた悲鳴に大きく揺れる。
●椿堂の女
「夜毎の鬼神堂参りたァ、お百度参りでもしとるんだべか?」
買ったばかりの真新しいお守りを大切そうに懐にしまい込みんだ田之上志乃(ea3044)の言葉に、御神楽紅水(ea0009)は慎重に言葉を選びつつ思案気に頬に手を当てた。
「‥‥でもそれって、どちらかというと丑の刻参り‥だよねえ‥‥」
同じ神頼みでも、こちらは相手を呪い殺そうという壮絶な邪術である。
人を呪わば穴ふたつ。どちらにとっても、悲しいことなのだけど。
1日を使って周辺を聞き込んだところ、椿堂に置かれた鬼神像に特別な何かがあるという話は聞かれなかった。
雌雄で一対。仏の教えを護るのも、ものの本に伝えられる通りである。
「鬼神を祭るのは、厄から護ってもらいたいと願う心ネ」
お茶汲み娘が運んだ甘酒に手を伸ばしつつ羽鈴(ea8531)は、のんびりとそれに応えた。
椿堂に祀られた二像の鬼神が、どこから持ちこまれたものかは不明。だが、位置からすれば、江戸の中心――江戸城を守護しているのは明らかである。
毛布持参で床下に忍び込んだ志乃が耳にしたのも、細い唱経の声だった。
鬼神の好物は蛇や蝦蟇、蜥蜴や百足などだと聞くが、陣内、アイリスが調べた限りではそれらしい供え物は見当たらなかった。――尤も、鬼神像が食べてしまったということも考えられないわけではないが。
「うう、アイリスは虫じゃないですよ〜」
奇怪な形相を思い出して身震いしたアイリスに、鈴は相変わらず悠然と構えて甘酒をすする。
「きっと人には言えない悩みを、鬼の力を借りても祓いたいと考えているんだと思うネ」
「あ、そう言われればぁ、そんなカンジィ」
こちらは温かいお汁粉に手をつけながら、亞莉子は鈴の言葉に納得顔でぽんと手を叩いた。
「そうだな。‥‥どう見ても普通の町娘だったぞ‥」
山下も亞莉子に同意する。
椿堂を訪れる御高祖頭巾の女を尾行し、身元を突き止める作業はあっけないほど簡単だった。
「やっぱりぃ、ダーリンと一緒に仕事したいなぁ‥」
あまりの張り合いのなさに、亞莉子が思わず遠い目で空を見上げてしまうほどあっさりと。
幽霊の正体見たり‥とは、言うけれど。これを椿堂の障りだと畏れおののく。ひとり歩きする噂がいかにいい加減なものだか判ろうものだ。
「彼女の名は、綾。深川の長屋で両親と三人暮らし‥‥なかなかの美人だぞ」
「ほう」
山下の報告に、番茶をすすっていた陣内がきらりんと目を光らせる。が、アイリスと紅水の視線に気づいて、そしらぬ顔で視線を伏せた。
「父親は腕のいい組紐職人ネ。――でも、借金‥たくさんあるって聞いたヨ」
「‥‥借金‥ですか‥」
仏の教えだけでは生きていけないことは、皆、良く知っている。
突然、現実を突きつけられたような表情で呟いたすみれに、紅水は育ちの良さげな顔にやわらかな笑みを浮かべた。
「でも。相手が人間なら、お話聞くことできるものね」
本物の物ノ怪を相手にするよりは、ずっといい。
●夜叉姫
陽が落ちると、すぐに闇がやってくる。
町筋から人通りが少なくなり、やがて途絶えた。椿堂に参詣する口裂け女の噂もあるのだろうか、世が更けるにつれ、周囲はしんと冷たい静寂に包まれる。
小さなお堂を囲むように植えられた椿木が落とす影の黒さも寒々と‥‥
咲き誇る紅の椿が花の盛りにぽとりと落ちる微かな音がやけに大きく、待ち人たちの耳に障った。
「‥‥女を待たせるなんてぇ、ダメダメってカンジィ‥」
はぁと両手に息を吹きかけて、亞莉子がぼやく。暦の上では春だとはいえ、夜はまだまだ寒い。
「そろそろネ。‥‥お籠もりや願掛けは決まった法則や様式にのっとってやるのが決まりネ」
華国の術師は手順を大切にするネ。こちらはしっかりと防寒着を着込んだ鈴が応じる。御高祖頭巾の女が決まった時間に椿堂を訪れるのは、前日の聞き込みでも明らかになっていた。
「そうね、もうそろそろだと思うけど‥‥」
すみれが着込んだ重厚な大鎧を視界の端に、紅水は昼間の喧噪が嘘のように沈黙を讃えた通りを見通す。暗がりにほの白く浮かぶ道筋は、そのまま深く闇の底へと続いているようにも思われて――
■□
「――夜回り、ご苦労様にございます」
すれ違いざま丁寧に頭を下げた御高祖頭巾の女に、拍子木を持った陣内はやや遅れて頭を下げた。当たり前だが思いがけない反応に、調子が狂う。
「………これは…ご丁寧にどうも‥‥」
ごにょごにょと口ごもった陣内の脇をすり抜けて、女は両の手で椿堂の扉を押し開き中へと消えていった。
ほどなくお堂の中に明かりが点され、唱経の声が低く起こる。
「‥‥あうう‥」
羽目板の隙間から堂内を見おろし、アイリスは手に触れた毛布を無意識に手繰り寄せた。足下に点された灯明が彫りの深い顔立ちや炎髪に映えて濃淡を描き、昼間に見るよりいっそう恐ろしい。
「あ! これは寒くねぇように下さ引くために持ってきただよ」
「いやです〜。これは放しません〜」
毛布を引っ張り合うふたりの下で、誰かがお堂の扉を叩く。
「失礼致します。ご参籠の折り、不躾ではございますが、少しお話を聞かせていただけませんか?」
凛と響いた声は、すみれだろうか。
唱経が止み、ややしてか細い声が返された。
「はい。――どうぞご遠慮なく。お入り下さいませ」
声の調子からして、間違いなく若い女であろう。返された言葉に顔を見合わせ、すみれと紅水はゆっくりと格子戸に手をかけた。
並べられた鬼神の像は、細長い基壇の上に立ち、前に数人がやっと座れるほどの広さがある。その中央に、若い娘が座していた。
地味なきものを着た若い娘。年齢は紅水と同じか少し上だろうか。化粧っ気はなかったが、山下の評どおり美しい容貌の娘だ。
「うぅん、結構いい線なんだけどなぁ」
化粧をすればもっと艶やかに映えるだろう。残念そうな亞莉子を遮り、すみれはまっすぐに娘を見つめて口を開いた。
「私は片東沖すみれと申します。こちらのお堂に、夜な夜な怪しい御高祖頭巾の女子が参籠いたし、町内の衆ばかりか、通りすがりの者を脅かすとお聞きしその不審をただす為に“ぎるど”からお役儀を受けて参りました」
人間ならば、話せば判る。
鈴の言葉の通り胸に強い願を秘めている者ならば、事の次第によっては成就させてやりたいとも思うから。
「‥‥それは、そちらのお侍さまを見たときから判っておりました」
娘の視線がちらりと拍子木を持った陣内に向けられ、またすみれに戻された。
「それは、最初から誰かに参籠の不審をただされるのを承知で、こちらに来ていたということでしょうかねぇ」
ううむと首をひねった陣内に、女はこくりと首を肯かせる。
「はい。その通りでございます」
「ええ、と。どういう事なのか、聞いてもいいかな?」
どうしたものかと頬に手を当ててとりあえずその問いを口にした紅水に、顔を上げた女は強い光を湛えた眸で前を見つめた。
「こちらの鬼神様は皆に恐れられておりましょう? 心願の筋があって、上野や浅草へお参りしても、奇怪な噂は立ちません。でも、鬼神様なら別物でございます」
娘の口が耳まで裂けていたとか。蛇や蜥蜴を食べていたとか噂だけが広まって、夜にはもう誰もこちらい近づかない。
「鬼神堂に75日参籠したら、化生が身につくと聞いております。――私はどうしても気味の悪い女にならなければいけないのです」
笑っている方が絶対可愛いに決まっているのに。
そう諭したかった亞莉子だが、どうやら彼女の意図するところとはまったく正反対であるようだ。
もちろん、参籠を重ね満願を迎えても‥‥普通の人間が魔性に転化することはありえない。
「もしかして‥‥化生の身になったとして人を恐れさせ、それで何かの難から身を守ろうとしているのではないか?」
そうに決まっている。
そう断言した山下に、娘は血の気の失せた唇を噛み俯いた。