【巫蠱の蟲籠】〜壱・啓蟄の凶
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■シリーズシナリオ
担当:津田茜
対応レベル:4〜8lv
難易度:普通
成功報酬:3 G 16 C
参加人数:8人
サポート参加人数:-人
冒険期間:04月11日〜04月17日
リプレイ公開日:2005年04月20日
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●オープニング
【啓蟄】 陽気地中にうごき、ちぢまる虫、穴をひらき出れば也 ――『暦便覧』
‥‥風‥を、感じる。
桎梏の闇に塗り潰された刻の狭間で――
それは唐突に目を覚ます。
悠久にも想われる永らくの間、さゆるぎもせずたち込める漆黒の‥‥それを繋ぎ止める形無き檻‥‥その、境界に揺らぎがあった。
ぽつり、と。凪いだ湖面に投じられた漣の如くひそやかに。
風と呼ぶには、あまりにも頼りなくかそけき流れ。だが、生じた波は縛めの力に打ち消されることなくゆるゆると闇を伝わり、それの元へと届く。
春に温む大地の匂い。
雪解けの水、日向の陽炎、薄紅に霞む花。
久しく忘れていた《外》を想い、それは気配を手繰ろうと蠢いた。刹那――
臓腑の裡より突上げる強烈な衝動に目が眩む。
思考の全てを押しのけ支配するそれは、灼けつくような渇き‥‥そして、飢餓‥‥
■□
「善からぬコトが起こるやもしれん」
番台の前に腰を下ろすなり、男は開口一番そう言った。
淡々と紡がれた悪しき予言に、手代はほんの少し顎を引き、差し向かいに顔を合わせた男を眺める。50歳をいくらか出たところ―本当はもっと若いのかもしれないが―洗いざらした法衣を纏う雲水姿は、僧侶というより僧兵か山伏といった雰囲気だ。
只人ならぬ冒険者がたむろする“ぎるど”の様相にもさほど心を動かされた風はなく、気難しげな顔に表情は乏しい。
「‥‥善からぬ‥で、ございますか‥‥」
“ぎるど”に持ち込まれる相談は、大抵が“善からぬ”話。依頼人にとっては一大事でも、傍から見れば‥な筋は、ままあること。
そう気楽に思い直して、手代は接客用の笑みを浮かべる。
「拙の思い違いであれば良いのだが」
どうも感触がよろしくない。
小弥太と名乗った雲水は、ほんのわずか暗い光を湛えた双眸を険しく細めた。
「あるいは、既に始まっているのかもしれぬ」
何の感動もなくさらりと告げられると、却ってなにやら薄気味悪いのは気のせいだろうか。決まり悪げに視線を逸らし、受付係はぽりぽりと筆の尻で頬をかく。
「‥‥そう‥思われるには‥‥何か兆しでもございましたか?」
コトの起こりは、1ヶ月前。
男の在所――江戸から2日ばかり下った鄙びた寒村であるらしい――では、ちょっとした祭事があった。
田畑に害なす虫を封じ、豊作を見守る山の祠。村の者たちからは、《蟲封じの祠》と呼ばれる社に、この年の豊作を祈願祭が執り行われたのだという。
「ああ。そろそろ田起こしの時期にございますね」
そういわれれば、ずいぶん暖かくなった。
遥かな昔、刈り取った稲株に足を取られたが為に不覚を取った武士の怨霊が、稲を喰らう蟲に変じたなどという逸話もある。田畑を耕し得る糧がすべての基盤の世界において、田の神を崇める神事は軽くないのだ。
「祭事の折に不吉でも?」
不吉と思うと、すべてが悪しきモノに見えるのもよくある話。言ってみれば、気の迷いだが、これがどうして意外に重い。
上手く調子を合わせた手代に、小弥太はむっつりと肯く。
祠のある山には木地師と呼ばれる山の一族が住む集落があり、祭事は彼らの管理するところであった。近隣の村々は、年に1度‥‥啓蟄に併せて米や味噌、酒などを彼らに上納することで神託を得る。
ところが、今年に限って――
「木地師の集落から、祭事の遣いがこなかったのだ」
「‥‥それは‥‥また‥‥」
確かに、不吉だ。信心深い農村の者たちでなくても、なにやら気持ちの悪いものを感じずにはいられない。
その数日前、旅装束で身を固めた木地師の衆が数人、慌しく山を降りて行くのを村の子供たちが目撃したのだという。もともととっつきやすい者たちではないのだが、それに輪をかけ一様に厳しい顔をしていたそうだ。
それが、1ヶ月ほど前。ちょうど、啓蟄の頃の話である。
さして交流があるわけでなく。
また、大きな異変もなかったことから、そちらを気にしながらも日々の暮らしに追われて時間が過ぎた。そして――
「‥‥今年はなにやら虫の姿が多い気がする‥」
誰かが、ぽつりとそう言った。
平年ならまだ姿を見ることさえ気の早い虫の話題が、村人たちの口に上るようになったのだという。
「そうこうしている裡に、炭焼きの煙が絶えた」
その頃には、誰に目にも異常だと分かるほど、虫の姿は頻繁に見られるようになっており、村人たちの不安は募るばかりだ。
「‥‥‥人の顔を持つ蝶がひらひらと舞うのを見たという者までいる‥‥」
そろそろ傍観を決め込むのも、限界といったところか。
「何が起きているのか。‥‥いや、集落の者たちがどうしておるのか‥‥確かめたいと思うのだが」
さすがに、拙ひとりでは少々荷が勝ちそうなのでな、と。自嘲気味に表情をゆらした男の言葉に、“ぎるど”の手代はようやく臓腑に溜めていた息を吐き出した。
●リプレイ本文
―――風‥を、感じる。
重く闇の底に堆積した星霜の桎梏は、未だそれを繋いでいたけれど。
歪められた境界の隙間から入り込む微かな流れは待ちわびた春を寿ぎ、ざわめく季節の波動をもたらす。
悠久なる午睡の揺籃より目を覚ました、それ。
漆黒に閉ざされた深淵の虜囚。春を運ぶ風が呼び起こしたものは安穏たる春の喜びではなく、耐え難い飢餓。思考のすべてを塗り潰し衝き上げるただひとつの奔流に、抗う術も‥‥理由も、ない‥‥
極限に瀕した魂の慟哭に、深淵を埋める闇が揺らいだ。
●這い寄るモノ
べし‥ッ!
「あいたっ☆」
横合いから力任せに叩かれて、陣内晶(ea0648)はじんと痺れた頬を押さえて振り返る。
「‥‥た、田吾作‥‥僕に何の恨みがあって‥‥」
恨みはない。強いて挙げれば、こんな場所に連れてこられたコトが恨めしい。
うっかり陣内に当ててしまった申し訳なさを表情に滲ませつつも、驢馬は大きく左右に揺らす尻尾を止める気配はない。――田吾作だけでなく、御神楽紅水(ea0009)の紅桜をはじめ、丙鞆雅(ea7918)、火乃瀬紅葉(ea8917)、もちろん陣内が同行させた愛馬も神経質気に足踏みを繰り返し、周囲を気にしているようだ。
ばしり、と。強烈な一撃を喰らったのも、1度や2度ではない。ふわりと風に揺れる様子は一見やわらかそうだが、これがなかなか強力で。
「普段はおとなしい仔なんだよ。‥‥どうしちゃったんだろう‥」
常とは違う愛馬の様子に思案げに首をかしげた紅水に、同じく小旅行の馬装を解いて世話をしていた火乃瀬が応じる。
「‥‥羽虫が多いのでございまする」
「え?」
言われて見れば、小さな飛影がひとつ、ふたつ。
怪訝そうに眸を細めた紅水に、火乃瀬は異性に間違えられることの多い容貌に微かな笑みを湛えて、落ち着かなげに揺れる首を軽く叩いた。
馬のいるところには、ハエが集まる。餌を得るため、卵を産むため。様々理由はあるのだが、多少季節を外していてもさほど珍しいモノではない。――馬にとっては迷惑な話であるので、こうして神経質になるのだけれど。
「虫のせいですか?」
「はい。羽虫の中には馬の血を好むモノがいるのでござりまする」
それならば、と。ぶんぶんと不愉快な羽音を響かせる小さな影をぱしりと叩き落して踏みつけた陣内の様子にくすりと小さな笑みをこぼしたものの、火乃瀬はすぐに笑みをひきしめて周囲を見回す。
「――平年より虫が多いという小弥太さまのお話は、真実のようにございまする」
「そっかあ。やっぱり何かあるのかな」
異変を察する直感は、人よりも獣の方が鋭いとは云うが。
落ち着かない馬たちの動向も、村に忍び寄る異変の前触れなのだろうか。
乾いた砂を踏む軽やかな足音に顔をあげると、田之上志乃(ea3044)とハロウ・ウィン(ea8535)が両の腕いっぱいに木の枝などを抱えた丙、枡楓(ea0696)と連れ立って歩いてくるのが見えた。
「ああ、いたいた。良いもの見つけてきたよ」
朗らかな笑みを浮かべたウィンの隣で、丙はよいしょと抱えていた荷を降ろす。大儀そうにおろされたそれを覗き込み、火乃瀬と紅水は顔を見合わせた。――見たところそれほど珍しいものではない。
「良いもの‥に、ございまするか?」
「虫除けにはコレで燻すとええだよ」
火乃瀬の問いに、志乃がにんまりと得意げな笑みを浮かべて胸を張る。
植物に少し明るいウィンを中心に、虫除け・殺虫に効果のある植物を探して村を回ってきたものらしい。生憎、ウィンの祖国で見かける香草は見つけられなかったのだけれど。楠やひば、松、杉といった匂いの強い樹木を燃やした煙でも十分に虫除けの効果は得られる。運んできた木の枝を手際よく組んだ楓が火種を移すと、枝打ち直後の生木はもくもくと青い煙を立てて燻りはじめた。
「煙を服に焚き込んだら、少しは虫除けの効果が得られると思うんだ。――お花と違って、青臭くなっちゃうけど‥‥」
「ちょっと目に染みるが、我慢するのじゃ」
一寸の虫にも五分の魂(誤用)。相手は小さな虫でも刺されれば、痛かったり痒かったり‥‥、ものの本には悪い病気を運ぶと書いてあったりもする。
避けられるものなら、避ける努力をするのが吉だ。
●跡を追う者
何故、祭事の遣いが来なかったのか――
鋼蒼牙(ea3167)の疑問に答えられる者はいなかった。
容易く答えが得られるものならば里山の者たちも、自ら解決の道を模索できただろう。あるいは、“ぎるど”に持ち込まれた依頼は別のものになっていたかもしれない。――鋼自身も明確な答えを期待していたわけではないので、自らの足で真実に擦り寄る努力をしているわけだが。
まず、ひとつ。祭事の遣いが来なかったコトと、木地衆の者が山を降りたこと。このふたつが無関係だとは思えない。
「直接、話を聞き出すことができれば、それが1番いいのだろうが‥‥」
集落の煙が絶えたということは‥‥生活の気配が絶えたということだ。
「‥‥俺は木地衆の者たちがそもそも居ない状況を前提で動こうと思う‥」
そう告げた鋼に、小弥他は小さな苦笑をこぼす。
「ずいぶん、悲観的な考え方をする」
「まあな。こういう場合は期待すると後がツライ」
冗談めかして肩をすくめて見せた鋼のあまり成功したとはいえない陽気さに微かに肯き、小弥太は不気味な静謐を湛えた山へと視線を向けた。
「彼らも山で生きる者。里の者よりは腕も立つ。――仏の守護を期待したいところなのだが」
「ああ。俺もそうあって欲しいと思ってる‥‥」
だが、たぶん――
口を噤んだ鋼の気配を察したのか、小弥太は山を見つめたままそういえばと話題を変える。
「山を降りた木地師の行方を追ったと聞いたが?」
ああ、と。応えてはしたものの、鋼は少し考え込むようなそぶりで頭をかいた。
山を下りる姿を目撃したという里の子供たちから人相や風貌などを詳しく聞いて、街道沿いに足取りを追う。往来の少ない村から近い宿場町までは、何とか足跡を突き止めることができた。が、人の多い江戸に近づけば、その分、ひとりの存在は希薄になる。
「どうやら、やつらは江戸を目指していたらしい」
「‥‥江戸を?」
正確には、江戸に向かった“誰か”を追って。
‥‥誰か‥、と。口の中で呟いた小弥太の横顔をちらりと眺め、鋼は少し悔しげに首の後ろに手をやった。始終、視界を横切る羽虫の影になにやら痒くなってくる。
「そこまでは、な‥‥何か心当たりでもあるのか?」
「いや。ただ――」
思案げに眉を顰め、そして、ゆっくりと時間をかけて男は長らく忘れていた記憶を思考の淵より引き上げた。
如月の初め――祭事が行われるよりもひと月ほど前になるだろうか――村に、訪問者があったのだという。
このあたりの村を回って産物を買い取ってゆく商人とその護衛。
「そなたたちの仲間にも居るだろう。‥‥金色の髪に青い目をした、耳の長い‥このあたりでは見かけぬ風貌をした」
ウィンのことを言っているのだろう。月道が開いてより数年、大きな町ではさほど珍しくなくなった外国人も、地方へ行けばまだまだ奇異の目を向けられことが多い。
「そういえば‥‥この村の者たちはウィンを見ても驚かなかったな‥‥」
村を訪れた異邦人は雇い主が村人相手に商い事をしている間、村の周辺を散策したり、物珍しげに寄ってくる子供の相手をしたりと辺境の村にいつもとは違う異色の風をもたらしたようだ。
「無論、彼らが此度の事変に関わっているという確証はないのだが――」
ただ、思い出したのだ、と。
腕組みをして考え込んだ鋼に、小弥太は少し自嘲的な笑みを浮かべる。
●分岐点
「――信じていたのに‥」
ぼそり、と。吐息と共に落とされた恨み言は、陰鬱の中に妙な明るさを込めて大地に染みた。
「せめて紅水さんだけは、いつもの軽装だって‥‥信じてたのにっ!!」
厚手の陣羽織に着物の袖を絞った完全装備の紅水を前に、身も世もなく嘆き悲しむ男がひとり。何を根拠にそれを信じていたのかは彼のみぞ知るところだが、とりあえず、陣内の楽しみ――世間一般の男性の楽しみと同義であるかどうかは、おいといて――がひとつ減ったのは間違いない。
「何言っとるだ。乙女の玉肌に傷でもついたらどうするんだべ」
仮にもお姫様を志す者としては、笑い事ではすまない大惨事だ。――大真面目に陣内を諭す志乃の後ろで皆が頷く。もちろん、お姫様を目指しているわけではなく、毒虫でなくとも虫刺されは避けるに越したことはない。
「‥‥虫か。その昔は義弟と一緒に昆虫採集に出かけたものだが‥」
「ほお、虫取りをのう」
それは楽しき思い出であるな。と、鷹揚な笑みを浮かべた枡に、丙はうむと相好を崩した。
「悪戯で頭に虫を乗せたら、泣かせてしまって――あれは、可愛かった‥」
「‥‥‥‥‥」
苛めですから、それ。
「‥‥炭焼きの煙も途絶えた今となっては、既に人が住めぬようになっているかもしれませぬね‥‥間に合って、紅葉達で力になれればよう思いまするが」
《虫封じ》と呼ばれる祠の云われなどを細い林道を登る気晴らしに小弥太に問いながら、火乃瀬は眉を曇らせる。
「なにしろ、大昔の話なのでな。詳しいことは誰も知らん。――木地師の衆も正確な謂れまでは知っているかどうか‥‥」
昔々、このあたりに害を成した悪い虫を徳の高い僧侶が鎮めて山に封じ、里山の者たちは虫の魂を慰め、また僧に感謝を込めて祠を建てた。‥‥どこにでもある昔話だ。
「その話が本当なら、祠は虫を呼び寄せる魔物や呪具でも封じてあるのかもしれませぬね」
自分なりの推論を口にした火乃瀬に、紅水も顔をしかめる。
「その封印が壊されて‥‥それで、中からたくさん虫がわいてるのだとしたら‥‥なんとかして、穴を塞がないと」
虫は苦手なんだよね。手折った木の枝で無造作に寄ってくる虫を払う陣内や、村から借りてきた箒で掃き散らす志乃をちらりと横目で眺めて吐息を落とした紅水に、小弥太はそうだなと頷いた。
「まずは、木地師の衆に会い、何が起こったのかを確かめねばな。‥‥それに‥」
「それに? 他に何かあるのじゃろうか?」
呟きを聞きとがめた枡に小弥太はふと足を止め、ふたつに分かれた道の片方を指し示す。
「《虫封じの祠》は、この先の洞窟の奥にある。――洞窟の内側は入り組んだ横道が無数にある故、木地衆の力添えがなければ中に踏み込むことは難しいのだ」
祠へ辿り着くのも。
そして、洞窟の出口へと戻ってくるのも。
不吉なものを感じて顔を見合わせた冒険者たちをかすめ、冷ややかな風が走る。
‥‥ざあ‥ッ、と。何処か潮騒のような音を響かせてざわめく木々の梢から、極彩色の飛影が揺れた。
ひらり、ひらり、鮮やかに彩られた顔が舞う。
一抱えほどもある人の顔‥‥否、人の顔をした蟲‥‥。
「あれは‥‥」
人面蝶。その名前を思い出すより先に――
羽虫を追っていた小枝を離した手は、流れるような動作で腰の得物を探る。鯉口を切ると同時に、研ぎ澄まされた刃は一条の光となって鞘から抜かれ‥‥振るう者の意のままに、異形の魔物を切り裂いた。
姿の異様さに怯えなければ、やっとうにはいくらか心得のある陣内や丙にとって人面蝶はそれほど怖い相手ではない。
‥‥ぴいぃ‥ッ!!
耳に残る断末魔の悲鳴を残し、ふたつに裂かれた人面蝶はぽとりと地に落ちる。ぴくぴくと痙攣する様子も気味が悪い。
「急ぎましょう!」
誰ともなく紡がれた言葉。唐突に湧き出した不安に衝かれ、身体が動いた。
●啓蟄の凶
「‥‥う、わあぁ‥ッ?!」
風の精霊が動き出すやわらかな緑色の光が揺らめいたその瞬間、持たされた情報に肌が粟立つ。
悲鳴にとも呻きともつかぬ呼吸の意味は、尋ねずとも判った。
山の中に造られた小さな集落。さほど広くはないといえ、人の住んでいたその場所が虫に埋められている。そして、その集まった虫の全てが‥‥里で見た漠然とそこにいるだけの存在ではなく、ひとつのコトに執着していた。
「‥あ、痛っ☆ こいつっ! おらはお前ぇらの餌でねぇだよ!!」
振り回す箒に、重さを感じる。
「‥‥なんということじゃ‥」
ひとつ、ひとつ。取るに足りない小さなモノであるはずなのに。ざわざわと蠢きながら大気を揺らし、風を生む。
村、そして、山全体が――
「畜生っ! 誰か、生きてる者はいないのか?!」
這いよる虫を怒りに任せて踏み潰し鋼は、きっと丙を睨んだ。人の呼吸を感じ取ることさえできれば。ウィンもまたこの場所にあり、全てを見つめてきた植物たち問いかけんと詠唱を始める。
「‥‥ダメだ‥‥‥いや‥っ」
蠢く無数の息吹の中に、
虫よりは大きく、そして、まだ息のあるもの――
「あそこだ! あのいちばん端の‥‥」
集落のはずれにぽつりと立った、禾倉にも想われる建物を指差した丙の言葉が終わるより早く、枡の呪文が完成する。白い煙が巻き起こり、印を結び突き出した掌から放射状に炎が走った。
「今のうちじゃ」
「参ります!」
炎の加護により、気合を高めた火乃瀬が枡の火遁に薙ぎ払われた虫の中を駆け抜け、硬く戸口を閉ざした小屋に取り付く。躊躇する暇はない。
「――御無礼つかまつります‥」
開け放った扉から、光が差し込んだ。降り注ぐ陽光と、飛び込んだ火乃瀬の勢いに蹲る小さな影に取り付いていた無数の虫は反射的に暗がりへと走る。
抱き起こした小柄な身体の温もりを手放すまいと強く抱きしめ、火乃瀬は胸の内にて感謝を呟いた。
■□
「‥‥どんな具合だ‥?」
鋼の問いに、小弥太は微かにあごを引く。
「あまり良いとは言えないだろうな。――命があっただけでも善しとすべきなのだろうが‥まあ。そなた等の働きがなければ、それすらもなかったのだからな」
感謝している。下げられた頭に、鋼はごく小さな吐息を落とした。