●リプレイ本文
靴は踊る。少女は踊る。
くるくる、くるくると時を忘れて。
やがて早鐘のように脈打つ心臓が破けるまで。
美しくも残酷な音色が辺りに響く農場で、音色が響きはじめてまもなく老人は大地に倒れた。その老人は元々、殆ど体を動かしてはならないほど、いいやそもそも動かすだけの力がなかった。徐々に体の四肢の筋力が弱り、やがては静かに死に至るという先祖代々続く奇病が原因である。魔性の音色は殆ど例外なく知覚した者を捕らえて強制的に踊らせる。
「おじーちゃん、おじーちゃん、ままぁ、ぱぱぁ、おねーちゃん、おにぃちゃぁぁぁん」
幼い子供の泣き叫ぶ声が聞こえた。魔性の音は止まない。
何処から聞こえるかも分からぬ屋敷の中で、少女は踊り続けた。自分のしでかしたどうしようもない間違いを、悔やんで、悔やんで、悔やみきれぬまま誰も助けの来ない孤独の中を、力つきて倒れるのを待ち望みながら。ただきゃんきゃんと犬が鳴いている。
部屋の中で人の目には見えぬ者が、にたりにたりと笑っていた。
たった一人魔性の音色を逃れてギルドへ駆け込み、急ぎ集められた冒険者達。
総勢十五名という大人数が集まり、使者から状況を聞かされた者達は急ぎ対策を練った。履いたが最後死ぬまで踊り続けるという曰く付きの赤い靴、踊り出した老人と娘、つくづく話をするうちに半数ぐらいの者が目尻をつり上げ、いまに激怒せんばかり。
「こんな怪しげなこと出来るのなんて、トランシバかジェルマンのどっちかくらいじゃん! どっちにしたって、農場にこんな阿呆なちょっかい出す奴はきまってるんだよ!」
アリシア・シャーウッド(ea2194)が火を噴かんばかりの形相でギリギリ使者を締め上げている。怒り心頭。すでに使者すら不信人物にしか見えないらしい。今にも依頼人を絞め殺しかねない勢いのアリシアを「落ち着ついてください」とバルタザール・アルビレオ(ea7218)が抑えていた。体力不足でズルズルアリシアに引きずられながら此方も。
「私だって、私だって、もしも元凶が黒ユニコーンだったらと思うと‥‥ぶちっと」
怖い。と怒り心頭の万歳コンビの様子を観察している場合ではない。
普通、単なる呪いの靴であれば熟練の冒険者はあまり気にもとめないだろう。しかし幾度か農場へ足を運んでいる者には、小さなほころびが大きな破れと化す事を知っていた。農場はと言えば、さして大きくもない農場ではある。けれど、人の因果が闇を呼ぶ。
「話には多少聞いていたがなるほど。何度も誘拐されては、身の上の怪しい者どもにつきまとわれている‥‥という解釈で間違いはないな?」
尤も使者の様子からしてまともな呪いの品事件と言うわけではないだろうが、とガイエル・サンドゥーラ(ea8088)が相談の最中に確認をとった。話がつかめないのでは何が起こるのか分かったものではないし、対処のしようもないというもの。
「そうだ。アリシアを含め、危惧しているのはミゼリを付け狙う連中であった場合にろくな事がないという嬉しくもない保証だな。一番厄介で可能性が高いのがハーフエルフ姿の悪魔だ。元凶が何であれ、報復はミゼリを助けた後にきっちりくれてやるつもりでいる」
今や農場主の義理の孫娘ミゼリの母親に近しきクレアス・ブラフォード(ea0369)が両の手を見下ろした。空の両手をぐっと握る。早く恐怖から解放して抱きしめてやりたいと考えているようだ。使者の話が真であるなら、今頃一人で苦しんでいるだろうに。
「何、俺はちょっと頼まれて加わったんだが‥‥話を聞いてると随分厄介な相手か。いや別に怖い訳じゃない、レディの苦境を放っておくわけにはいかんからな」
「そうです。私もお友達の‥‥ミゼリちゃんのぱぱさんから農場のコトは良く聞いていましたが‥‥軽い呪いの品ならばともかく、もしも今回の仕業がその悪魔であるなら、いいえそうでなくても、出来る限りのお手伝いを致します」
真幌葉京士郎(ea3190)とセリア・アストライア(ea0364)の二人が真摯な眼差しで皆に宣言した。彼らの思うとおり、いやもしかしたらそれ以上に苦戦を強いられるかも知れないと言う恐怖が目の前に立ちはだかっている。京士郎はじいっと資料を眺めて呟く。
「なぁ‥‥心当たりに仕業から考えて、悪魔の関与‥‥とすれば今回の意図はなんだ? 冒険者のおびき寄せか」
「あながち間違いじゃないかもしれないわね。あれは前から魂狩りをしていたようだし」
壁により掛かっていたリーベ・フェァリーレン(ea3524)は、ふぅっと溜息を吐いてテーブルに歩み寄ってきた。「夏の初め頃だったかしら。私、別件で戦ったのよね」と嫌そうに記憶の糸を辿り始める。それは聖杯戦争真っ直中、アーサー軍への援軍を送り込む為、制圧された某伯爵の城と軍を奪還せよという仕事の時に、出会ったという。
「ああ、あの時の城のことですか」
話を聞いていたリアナ・レジーネス(eb1421)が合点いったようにリーベの顔を見た。リアナとリーベは活動班が別であったが、お互いの連携を駆使して親玉の駆除と囚われの兵力奪還に力を注いでいた。
「そう、あの時。もし原因が心当たりの悪魔なら、の話だけれど。そいつが農場にちょっかいだしてたのは随分前からよ。長い間ずっとやけに能力の高いハーフエルフだと思ってきたのが、悪魔だった。目の前で漆黒の一角獣に変じたわ‥‥色々あって私達も死にかけたけど」
「それの姿なら、私どもも見ておりますよ」
静かに口を開いたアリッサ・クーパー(ea5810)の言うように、相手が化け物だと知ったのは、別の仕事で戦ったリーベだけではなかった。以前、農場を彷徨いていた純白のユニコーンが目の前で変じた。体の質量すらも変えてしまう魔法は人間には使えない。
「いつの世でも人を欺く。それが悪魔なのでしょうね。私の他、クレアス様、バルタザール様もその時のことを克明に覚えておられるでしょうし、何より‥‥丁度二ヶ月ほど前、深夜に私ともう二方、外へ出た時に遭遇しました。決定的な事をいってましたよ」
深夜の密会については、本当に一部の者しか知らない。初耳の者も多かったようで食いいるようにアリッサを見つめた。重い表情で俯くと、やがて沖鷹又三郎(ea5928)の方をちらりと一瞥する。沖鷹は「あぁ」と頷いてから、ゆっくり唇を開いた。
「深夜、ただ見に来たと‥‥『私はあなた方を好いている、香しく実るまでは見守る身』‥‥などと戯言も言い放っておったでござるよ。察するに拙者等の命をいつか必ずもらいにいく。そう言う意味でござろうな。今回の件がただの呪いの品ならばともかく、悪魔絡みならば。拙者等の危険は極めて高いと見て良いのではないかと思うでござる」
用心が要ると沖鷹は言う。それまで壁際でぼんやり立っていたエイス・カルトヘーゲル(ea1143)が頬を掻く。農場にいたときのように悪魔なんぞ忙しいから後にして欲しいとか、めんどうだなぁ、というような言葉は今は出てこない。
「悪魔絡みなら‥‥ちょくちょくそんな話を聞いていたけれど、本当に来るとは‥‥」
「普通は思いません。何にせよ、話を伺えば伺うほど、普通の呪いの道具の事件では済まないだろうと言うことです。じきに夜明け、作戦や行動班をまとめて急いだ方がよさそうです」
リアナは肩をすくめた。こうして話している間にも時は刻々と過ぎてゆく。
「それがよい。各々急ぎ農場へ赴き、ミゼリ殿とギール殿の安全を確保しなければ。私は一応、様子を見てニュートラルマジックを試してみるつもりだ。‥‥ふと思ったが農場まではどれほどかかった、誰か分かるか」
「大体一日掛かりますの。朝早くに出発しても、到着するのは夕方なんです」
しょんぼりガイエルの質問に答えるエヴァーグリーン・シーウィンド(ea1493)。まだ確定したわけではないものの悪魔の筋が強い今、リーベを始め、昔から幾度と無く対峙してきた者から『月魔法』を使用する恐れが強い事を考えるとギリギリだ。
「女の子とお爺ちゃんが踊りだして、で、農場からの距離を考えると‥‥ぎゃ。わ、私達間に合うのかな。早く到着できても明日の夕方じゃぁ‥‥ちょっと。あ、でも普通に歩いて、だったよね。セブンリーグブーツとか馬で移動するから‥‥お、お昼?」
ユーディス・レクベル(ea0425)が青くなったり白くなったりと百面相しながら、出来るだけ時間を短縮できないか、唸っていると割とあっさり答えは出てきた。月魔法を使用してくるなら夜を避けて戦えばいい。昼間のうちに戦えば、少なくとも力は夜よりも衰えているはずである。ただ、とエヴァーグリーンが控えめに手を挙げた。
「お使者の方も話している歌の対策、一応メロディーで対抗しますけど、強制力はありませんから過信は禁物ですの」
「ううむ。確かにその通りだ。皆、気を強く持とう」
日の沈みは諸刃の剣となる。其れを踏まえて月光の指輪を持つ者も多かった。ジーン・グレイ(ea4844)が呼びかけたそんな中、ひとり、かりかりとシルバーナイフで木片を削っている者がいた。レジエル・グラープソン(ea2731)である。何をしているのかという言葉に対して「秘密兵器です」小さな木片を削っていた。このアイディアが後々成果を生むのではあるが、今は誰も知らぬ話である。
農場が見える。馬で走り続けた者達が農場へ到着したのは、それこそ昼を過ぎた頃だった。後一時間か、二時間もすれば走ってくる者達も合流するだろうけれど。しかし一足早く農場へ向かった者を待ちかまえていたのは靴を履いて聞こえてきたという笛の音だ。
「こら、ジオット! 一体どうしたんです! うわっ!」
レジエルが困惑の声をあげた。レジエルの愛馬が、農場へ近づくに連れて見当違いの方向へ走りだし始めたからだ。彼の馬だけではない。リーベと二人乗りしていたセリアの馬も、クレアスの馬も、エヴァーグリーンの馬も、京士郎やジーン、沖鷹の馬までも。
まるで踊り出すかのように乗っている者達を振り落とした。落馬するセリア達。
「いたた。あぁ‥‥なんだか、音が、します」
美しい音色だった。禍々しい音色だった。もう屋敷は目の前なのに、冒険者達の思考を奪う薄く強い音色。ぼうっと頭に霞がかる感覚とともに、いつの間にかセリアが踊り出した。頭を抱え、耳を塞ごうとしても、そう簡単に魔性の音色は阻めない。「音が!」とジーンが叫んで間もなく、次に踊り出したのは京士郎とジーン、沖鷹、そしてメロディーを歌おうとしたエヴァーグリーンだった。耳から忍び込むあがらい難い力に引きずられていく。
「沖鷹さん、京士郎さん、だめよ、しっかりして! この音色普通じゃないわ!」
あぁっ、と耳を押さえて悶えるリーベ。
現在正気を保っているのは先に到着した八人中、クレアス、レジエル、リーベのたった三人だった。今にも役目を忘れ、踊り出しそうになる自分を抑えるので精一杯。しかしレジエルはすぐ自分の耳に何か入れた。それは出発前に作っていた耳栓だった。‥‥賢い。
「助かった。皆さん、しっかりして下さい」
セリアや京士郎達は「分かっている」とは答える。夢心地ではあるけれど理性は消えていないようだ。強制的な音の力に翻弄されていたクレアスの耳にミゼリの泣き声が届く。
「ミゼリっ! ‥‥くそっ、なんて真似を!」
「くっ、あの一角獣もどき。なめたまねしてくれるじゃないの」
もはや敵は間違えようがない。クレアスの叫びに、リーベの舌打ち。当初それぞれ班を組んで行動するつもりだったようだが、笛の音の力があまりに強い。意識下で抵抗できなかった者は踊ってしまう。たった三人で乗り込んで勝てるほど、ひ弱な相手ではない。
「でも、このままじゃ私達もいつ踊るか分からない。後から辿り着いた仲間まで踊り出す危険は充分ある‥‥ミゼリちゃんとギールさんは中、一網打尽だわ。なんとかしなきゃ」
「‥‥い、いって、行って‥‥ください」
息も絶え絶えに、途切れ途切れに言葉を発したのは京士郎や沖鷹達と踊り続けているエヴァーグリーンだった。最初何としてでも楽器を弾いてメロディーをと奮闘していたが今は無理にあがらおうとする気配はみせず、音に体を合わせている。
「‥‥なんとか、‥‥ムーンアローを‥‥唱えて‥‥みます‥‥ですの。踊ってはいますけど‥‥意識まで‥‥乗っ取られたわけでは‥‥なさそうなので‥‥片手で印を結べさえすれば、一度‥‥くらいなら‥‥、それと早く‥‥中でミゼリちゃん達を‥‥」
むりにあがらわず、体を音に合わせながら、相手を特定してみせるとエヴァーグリーンは言った。一刻を争う今、早く耳から忍び込む力を排除しなければ。相手は人の目には見えなくなっている可能性も高い。急いでミゼリ達の安全を確保し、対峙せよと。
踊るセリア達を残し、クレアスとリーベ、レジエルは屋敷に潜入した。いつも食卓を囲んでいた場所で、ボロボロになったミゼリが踊っている。足下ではアンズがきゃんきゃん気が狂ったように走り回っている。遠くにギールが背を向けて倒れていた。
「ひっ、ひっく、ふぇ、‥‥まぁま?」
「ああ、ミゼリ。すまない、遅くなった。今助けてやるからな」
ふらふらと踊り狂うミゼリの足には赤い靴を履いていた。リーベが、ギールさん後で絶対助けるから、とアイスコフィンを放った。そして次にレジエルとクレアスが二人掛かりでミゼリを押さえつけ、リーベが赤い靴を脱がせた。しかし音はやまなかった。靴を履けば音が聞こえるという、靴を脱がせば音は止むのではないのかと困惑した仲間達。
「これが、魔法の靴なら‥‥ガイエルが来ないと解除ができん。もう少し、もう少しだけまっててくれ」
朦朧とした意識の中でじっと耐えなければならなくなった。リーベが出てきなさいよ、とわんわん叫べど屋敷は静か。そうこうしている間に走る組が農場に到着しつつあった。遠目から踊る京士郎達を発見した仲間達は嫌なものを感じ取っていたが、正しくその通りでユーディスとアリシアが付近に到着すると踊り出した。しかしエイスとアリッサ、バルタザール、ガイエルとリアナの五人は呻きながらも踊ることはなかった。使者のように音の影響力が低かった者達なのだろう。ジーンから中にいると聞いた者達は急いで向かった、仲間の到着により、ガイエルがすぐさまニュートラルマジックを試したが変化がない。リアナがブレスセンサーを試みるが、怪しい者は見つからない。
「もしやこの靴カースでは? そうなら私の手には負えぬ。急ぎ教会へ運び込むかして」
「けど‥‥みんなも‥‥踊ってるし」
エイスの言うとおり、音がこの靴が原因というなら、遠ざければいいのかも知れない。しかしこの状態で教会へ持ち込めば、周囲の者や教会へも影響が出るかも知れない。憶測ばかりが巡るが、外で踊っている仲間達も踊りっぱなしで体力が危険な状態だ。
日は徐々に暮れていく。このままでは夕方になり夜が来てしまう。館内に怪しい者は見えない。しかし仲間達が到着した時からエヴァーグリーンが奮闘していた。
「‥‥風を切り、空を駆け、悪しきを砕け。アムドゥスキアスの名を持つ者を射抜かん!」
ようやく放たれた一条の光は、迷うことなく突き進む。やがてミゼリの周囲に集まっていた冒険者達を通り過ぎ、部屋の隅にぶち当たる。
『痛っ‥‥ムーンアローですか。これでも当たれば多少痛いんですけどね』
音が途絶えた。
皆がいた部屋の隅にズッと男の姿が浮かび上がる!
「そこか。くらえっ!」
ビュッ、と風を切る音を立ててナイフが飛んだ。レジエルのナイフは一直線に笛を狙う。ぱんっ、と陶器の割れるような音を残して、笛は真っ二つに折れた。
『私の笛がっ』
「‥‥止まった、か」
がっくりと地面に膝をつく京士郎。沖鷹やジーンもセリアも疲労の色を残してがっくりと倒れ込む。音の呪縛から解き放たれた仲間達は、疲労した体をひきずって中へと入っていった。
睨み合っていた、いいや睨んでいた。
「これでもう音は出来ぬぞ、魔性の者よ」
ガイエルの声が低くこだまする。敵の悪魔‥‥アムドゥスキアスのトランシバはずっと部屋の中で笛を吹いていたらしい。ミゼリやギール達が踊り狂い、またやってきた冒険者達が苦悩する様を酷薄な笑みで見つめていたというのだ。「化け物が」とジーンが吐き捨てた。アリッサがジッと相手を睨んでいる。
「ライズ様に引き続き、何が目的でギール様を狙ったか教えていただきましょう」
『あの少年は邪魔でしたから。今回はあなた方が目的ですよ、お嬢さん』
アリッサの能面のような顔が、厳しくなる。沖鷹の言っていた事と同じ事を言った。
『餌は太らせてから弱らせて手に入れるのが鉄則でしょう、そのまま踊り狂って頂ければ無駄な争いも避けられたというのに。痛められるのが好きなんですねぇ、物好きな』
「誰が物好きかぁ! 今度こそ許さないんだから! 覚悟しなさいよ莫迦悪魔!」
顔を怒りで真っ赤に染めたアリシアに並んでバルタザールもまた。
「フレイムエリベイションは、熱血と根性ですけど、お笑い魔法じゃない所を思い知らせてやりますとも。今度こそ倒します」
ユーディス達も思い思いの武器を手に取る。では試してみますか、と言うやいなやエボリューションを唱えたが、アリッサが動いた。白く淡い光がアリッサを包み込み、トランシバの唱えた魔法をうち破る。
「‥‥以前、私は申し上げたはずです」
静かで凍てついた声が悪魔に鞭を打つ。
「あなた様の邪魔をすると」
お約束通り邪魔を致しますよ、不敵に笑んだ。逃がさない、許さない、此処をお前の墓場にすると。そういった獣のような鋭さを帯びた眼差しで。『面白い』と呟きながらもトランシバの瞳には興奮と驚愕の色が見えた。シャドゥボムでひ弱な壁を破壊し、外への道を作り出す。それを見ていた沖鷹が。
「あぁぁぁ! 拙者が日夜丹誠込めて磨き上げた台所の壁を! 一体どれだけ修理と掃除に掛かると思っているでござるか! ミゼリ殿といい、ギール殿といい、これまでの悪行見過ごすわけにはいかないでござる。覚悟するでござるよ!」
「‥‥沖鷹が怒ったの初めて見たかも、さて、俺も‥‥死ぬ気でやるさ」
スクロールを手に、ぼんやりしていたエイスの表情も隙が消えた。
「音で苦しめていたのが、音で苦しめられる側になった気分はいかがでしょう」
リアナが空を漂う悪魔にほえる。
エボリューションを唱えても、アリッサが徹底的に邪魔をした。そんな暇は与えてやらないという無言の圧力がひしひしと伝わってくる。ガイエルがホーリーフィールドを展開し、リアナが沖鷹と交代で長弓を鳴らした。悪魔の行動を鈍らせる力があったからだ。
「逃げたければ逃げるがいいでしょう。ですが、あいにくと私は外しません」
レジエルが空に逃げた相手をシルバーアローを用いて援護を行う。エイスとリーベがウォーターボムで撃ち落とさんばかりに狙い、エヴァーグリーンはメロディーを歌う。
『家族を守る為、幼き少女を守る為 ここに集いし者達よ
闇の魔手に囚われるな、邪悪な音に引き摺られるな
倒れる事は守るべきものの明日をも絶つことと知れ
永久の平和を勝ち取るために、太陽と共に我等は戦う!』
「大人しくどつかれろ、このスットコドッコイ! どりゃあぁぁぁっ!」
戦神の加護を受けたティールの剣と、聖剣アルマス。二つの剣を手にユーディスは大地を蹴った。逃げては追い、或いは追われては逃げ。何分相手の逃げる速さも並大抵ではなかった。並の早さでは逃げられてしまうのだ。リーベが叫んだ。
「脆弱種族と侮っていると、取り返しの付かない事になるのを教えてあげるわ!」
続いて走り抜けたクレアス。さらにセリアがアルマスを一閃する。
「彼がこの場に居れば行った事でしょうから。代わりにはなれずとも、代役ぐらいは果たして見せます。あなたは、滅びなさい!」
ずぶっ、と刃が悪魔の腹や腕を掠めた。すいっ、と双眸が細くなる。
『‥‥少し本気でお相手しましょう』
時折透明になって姿を消すトランシバだが、現れるたびに姿を変える。当初はコンフュージョンで向かってきた京士郎やジーン達を混乱させ、同士討ちを促して大けがさせていたが、ユーディスが操られた相手に強烈なビンタをうちこみ、またアリッサがトランシバの、ガイエルが仲間にかけられた魔法を解除、という点から始め結界からサポートと後衛が徹底していた。したがって、月魔法は時間の無駄と思わせたのかも知れない。
姿が歪んだ、ぐにゃりとひずんで現れたのはユニコーンとも錯覚しそうな漆黒の一角獣。
ずざっ、と後ろに飛び引いた京士郎が背筋に冷たいものを感じ取る。
「今頃マジになりやがったか。もう少し俺達の体力考えてほしいな」
「元々性格の悪い奴ゆえ仕方がないでござろう。しかし、もう逃げ場はないでござるよ」
黒い巨体の鋭い角と強靱な蹄が冒険者達を襲う。
余裕の消えた相手は多少のかすり傷や軽傷はもろともせずに突進し、角で串刺しにしてはふるい落とした。あるいは巨体で押し潰し、一気に骨を砕いて重傷を招く。
「がぁぁぁぁっ!」
絶叫。諸刃の攻撃である。自らに怪我を負うのを躊躇いなく襲うのだから。
「くっ、ジーン殿を放すでござるよ化け物‥‥な、かはっ!」
体を貫かれたジーン共々吹き飛ばされる沖鷹。味方もそうだが相手も相当重傷だ。魔法薬を飲めばまだ助かるのが救いだが、度重なる仲間への仕打ちに前衛の者達の目つきも変わっていた。余り長引かせたら今度はこちらが全滅させられてしまう。
その時、エイスが敵体の影を捕らえる。リアナ達が魔法を繰り出した。
「いっけぇ!」
注意がそれている間にアリシアとレジエルがトランシバの目玉を狙った。どっ、とシルバーアローが突き刺さり、獣の絶叫が上がる。視界を奪われた悪魔が暴走する最中、立て続けに攻撃がうちこまれた。クレアスが地を蹴った。狙う先は――首っ。
「大切な家族に手を出した報いだっ!」
ザンッ、と刃が肉を裂いた。首が半ばまで抉られていた。
『綺麗な景色が見えません』
茜色の空に月が見える。
もう回復するだけの力もなく、逃げるだけの気力もない。どうせ滅びを待つだけの身だからと相手は言った。奇妙な相手だった。激情してしなばもろとも、そんな行動をとるのではないか、もしくは適当な言葉で隙を誘い、殲滅するのではないかと想像を巡らせた者も居たのだが。まやかしではなく徐々に相手の体は壊れ崩れていく。
『数千、数百、永遠に等しき年月への終わり。随分‥‥あっけないものなんですねぇ』
初めて知りました、とぼんやり人型にもどって屋根の上に腰掛けている相手にユーディスが首を傾げて。
「‥‥あんた、悪魔らしくないな。瀕死なら私達の命でも奪っていきそうなもんなのに」
『ふふ、そうですか? お望みならばやっても構いませんが‥‥ここまで崩れると無理ですね。無様に足掻くなどと、私は美しくないことは嫌いなんです』
美しくないから、という理由を話すアムドゥスキアスにバルタザールは柳眉を潜める。
「変な悪魔ですね。それでもホントに高位の魔物なんですか?」
『一応、私ほどになると国に十もいませんね』
今までの怒りや憎しみをぶつける者もいたようだが、そもそも我々は人を糧とする種なのだから相容れぬ者同士だとキッパリ言った。人の悲しみなど理解は出来ないと。
クレアス達が何とも言えぬ顔で崩れ行く様を見ていると、ふとトランシバは西へ顔を向けた。目も見えていないのに。
『――それにしても参りましたねぇ‥‥伯爵に、必ず戻ると誓ったのに――‥‥』
バートリエの事が笑えません、と苦笑する声とともに悪魔が崩れていく。
やがて風化するように塵と化して気配が消えた。それは真の消滅を意味していた。
「おじーちゃん、ごめんなさい、おきて、おきてよぉ」
ぐらぐらと冷たく固くなった遺体を揺さぶる小さな手。それでも老人は目覚めない。衣服の裾から見える皮膚は青白くなっていた。呼吸はなく脈もない。氷の中にいた冷たさだけであって欲しいと願う人の心は祈りか弱さか。医者として通じるだけの医術の心得を持っていたレジエルが、ミゼリを押しのけてギールの手を持ったり首に手を当てたり、瞼の裏に隠れた眼球を覗き見た。やがて苦渋の表情で目を伏せた。
「表皮剥離、眼球の白濁、暗紫赤色の死斑‥‥だめです。全身硬直がとけ始めている、死後一日近く経過しています」
よろよろと再び遺体に近づくミゼリ。クレアスが後ろから労るように手を伸ばす。
『ふん、お前さん達か。さっさと仕事をしてくれ』
人嫌いの頑固な老人だった。
『もしミゼリが心底慕う者が現れた時は、その者に任せたいとさえ思っている。なんにせよミゼリには‥‥ワシの爵位を継いでもらう。ライズにも渡さん。ダニエル家の忌まわしい血はワシの代で終わらせる』
日々隣り合わせだった原因不明の病魔。それでも家族に見守られて老人は生きていた。
それなのに魔物の悪戯で理不尽に奪われた命の灯火。
『ミゼリを、頼む』
いつか唐突に来る別れ。
なればこそ、刹那の命が愛おしい。
「ミゼ――」
「嘘だ!」
ばしんっ、と手を払う。金の髪が揺れた。
ミゼリはクレアスの腕をふりほどいて睨みつけた。
「だって、おじいちゃんいってたもん。年越しには、みんなで騒ごう。春になったら、種を植えよう。元気になって、もう一度畑に立ってみようかって‥‥ミゼリと皆とずっといるって言ったもん」
大粒の涙がこぼれ落ちる。
さらに冷たい遺体を揺り動かそうとする小さな手を掴んだのは、鉄面皮にも悲しみを滲ませたアリッサだった。小さなミゼリを見下ろす聖職者。月を背にしたアリッサをおねーちゃんと呼ぶ前に、アリッサは低い声ではっきりと、言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「ミゼリ様。死んだ人間は、生き返りません」
「生死の理に背いて生き返らせたとしても、それはあなたのお爺さまではありませんよ」
アリッサとセリアの畳みかけるような言葉。けれど嘘をついても仕方がなかった。悲しい現実か優しい嘘か。それを判別できる歳の娘に、偽りを告げてなんになろう。絶望の色を奥に潜めたミゼリを、母代わりのクレアスが抱きしめた。しっかりしろと、きつく抱きしめた腕が語る。
「ごめん、ごめんな、間に合わなくて」
「ま、ま」
――すまない。
もしかしたら助けられたかも知れなかった。
もっと早くに退治していたら。一緒に暮らしていたら。
そんな意味のなさない後悔ばかりが皆の心を締め付けてゆく。命を食い散らして生きる化け物の考えなど知る由もない。リーベは歯ぎしりして怒りで赤くした顔を背け、ジーンは沈痛な表情を隠さず視線を落とす。
やがて沖鷹と京士郎が動いた。慌ててバルタザールも「手を貸してください」とエイスやレジエル、ジーンを始めとした男達に声をかけ始めた。ギールの遺体をこのままには出来ない。
泣きやまないミゼリの頭に手を置いた京士郎が伺うように顔を覗き込んで、小さく話す。
「空と大地に返してやろう、な」
遺体はジーザス教では禁忌とされている火葬にしようと言うことになった。敢えて禁忌を犯してまで土葬を避けたのは、因縁の関係上よろしくないと判断したからだ。奇妙な輩に操られて冒涜されてはたまらない。ガイエルやリアナ、ユーディス達も皆が薪を運び出す。
「おじーちゃん、まだ全然平気だったはずなのに。折角体調が持ち直したばっかりだったのに。あいつさえこんな所に来なければっ」
アリシアが恨み言を呟く間にも、松明の炎は徐々に薪を巻き込んでいく。死肉の焼ける匂いが鼻孔をついたが誰もそばを離れない。離れられるはずがなかった。ガイエルがぽつんと呟く。端正な顔が紅蓮の炎にてらされていた。
「娘御は助かったが‥‥私は何と言って、友の顔を見ればよいのだろうな」
ミゼリは救えた。ギールは死んだ。
何故という問いが消えない今、人の無力さを思い知る。
「一年前、後二年持つかどうかってお医者様はいってました。でも、こんな形で亡くなるはずじゃなかったですのに」
ぼろぼろと死を悼むエヴァーグリーンから悔しげな言葉がこぼれ落ちた。
こんなはずではなかった。もっと長生きするはずだった。依然と同じように顔を合わせ、くだらない話で花を咲かせ、同じ季節を迎えて微笑むはずの懐かしい未来。それが奪れて無惨に散った。冒険者達の命欲しさに現れた、悪魔の手で摘まれた希望の光。
クレアスの膝の上で表情を無くしたミゼリの肩にローブをかける。
「今は悲しんでいいのでござるよ。ミゼリ殿」
つぅっと目尻から涙が伝う。沖鷹の頬を過ぎゆく火の粉達。
バチバチと音を立てて燃えてゆく。消えてゆく。
二度と手の届かない‥‥遠くへ。
「ぁ、うぁぁぁぁぁぁ!」
か細い少女の声が、星の輝く天に昇る。
長きに渡る家の戒めと悪魔から解放された老人は、星夜に永遠の眠りについた。
遺灰は舞う。
血脈より固い絆の家族達に見送られながら。
この数週間後。
ミゼリと家族達は農場の存続をかけて重大な選択を迫られることになる。