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イメージノベル『欠落性渇望症候群』    作:yakigote

第2話「停滞型ナパーム」


知識だけで実感を得られたらと、思わないことはない。経験には痛みが伴い、そして意図的なそれを持ってしか伝えきれないことも存在する。

1.ファストアタック・ファストライン
揺れる。揺れる。トラックの中。事件の起きた現地まで自分達を運ぶそれである。
自分達、自分達だ。任務にひとりであたることはまずない。常人より遥かに優秀な身体性能を持つ撃退士ではあるが、それら個々のものをいうのであれば、多くにおいて、天魔のそれは自分達を遠く上回るのだ。
個人での討伐参戦など生命を捨てる行為に他ならず。また、学園側もそうした事態へ陥った際に認可することはない。撃退士は常に不足しており、それを無碍に消費することなどあってはならないからだ。
車体が跳ねる。石でも踏みつけたのだろうか。浮いた腰を戻して座りを直し、自分と同じそれをとった仲間達の顔を見回した。
仲間達。同じ学園の生徒であることは間違いないのだが、直接面識のある相手がいるわけでもない。通常の学校機関と比べ、何倍もの規模を誇る久遠ヶ原学園において、そうしたことはさして珍しくもないだろう。
自教室以外での交流を挟む方法もなくはないのだが、そのひとつがこうした任務であるのだから。鶫に交流性の低さが見受けられるのも致し方ない話である。
一見。ぱっと見。実戦経験がないため、そうした勘が鋭いわけでもないのだが。自分以外の皆がいずれも戦闘経験者という出で立ちであった。
軽く自己紹介を挟んで直ぐに、作戦行動の打ち合わせを進めている。慣れたふうで話の弾む彼らに、鶫は自分の意見を加えられないでいた。
聞くに徹してはいるものの、理解の及ばない言葉も混じる。質問を繰り返して馬鹿にでもされたら。余計なプライドが、彼の意識に疎外感を助長させていた。
なに、問題はないはずだ。任務依頼としての募集要項にあった『資格問わず』。それはつまり、自分のような初任務者を抱えても、問題なく成功するであろうという予測に基づいて行われている。
仲間達は自分よりも実戦に長け、さらに依頼者はその上を行く判断能力を有しているだろう。そうであればこそ、自分の參加を認めてくれたのだから。
つまりは、未熟者の自分も役に立てるということだ。戦いの数に入るということだ。未熟者。その言葉が脳内で繰り返される。だが、問題ない。問題はない。
どうせ、今のうちだけだ。憧れのそれに、目指しうる英雄に。自分はなる。なってみせるのだから。これはそのための一歩。通過点に過ぎないのだからと、自分の焦燥感に言い訳を並べ立てていた。
彼らから視線を逸らす。理解の端を越えてしまえば、その先に繋がる一連とも断ち切れてしまう。そうとなれば、それこそ耳を傾けている意味もない。価値もない。
わからないなら聴けばよいのだ。聴いてしまえばよいのだ。それを分かっていても、口にできないでいた。焦燥感に駆り立てられても、自分の喉は何も鳴らしはしないのだ。
このままではいけないのだと、駄目なのだと。分かっている。分かってはいるのだ。それを一時の恥と、その為に生涯のそれを捨てられるのだと。理解していても。理屈で行動なんてできやしない。できやしないのだ。それができているのなら、自分はこんなことでうだうだと迷ってなんかいない。だから。
だから、心もいつしか現実から離れ始めていた。仲間達の声が遠い。遠い。目に映るものも霞み、脳は今を失い。そして、思いは過去へと遡る。鶫は、この仕事へと志願した時のことを思い出していた。

「ディアボロの討伐をお願いしたいの」
集合場所。どこぞの教室。夕暮れ時。そこへ集まった自分達に向けて、彼女の開口一番はそれだった。
明確で、簡潔。わかりやすいことこの上なく、自分達の仕事を教えてくれる。慣れたものだと、感心する。目的。目標。意図。それらを何度となく口にし、何度となく言い渡してきたのだろう。その経験が為せるものだ。
だが、それ故にそれだけでは理解できず。また、彼女自身もそれを理解しているのだろう。燃えるような赤い髪。決意に満ち、自我を主張する瞳。堂々たる立ち振舞い。それらが、如何せん燻り続けてきた鶫にも、容易く理解させていた。
だから、だからこそ。そこで終わるはずがない。一を聴いて十を知るのが理想であれど、それを怠けてしまっては説明者として失格である。
否、それを分かっていて尚、十を口にするべきなのだ。望むならば、百まで千まで語りたいのが送り出すものの心境であるのだから。
「人食い。廃病院。ん、何人かは気づいたかな。今うわさになっているんでしょう?」
本当に、フラグ回収の早いことだ。幼馴染の顔を思い出し、胸中で彼女に感謝する。この現実がアニメなのだとしたら、彼女のセリフこそがトリガーだったのかもしれないのだから。そんな、神頼みにもにた子供心。幼い。それを自覚していても、内心で笑わずにはいられない。
人食い。人食い。欠損された死体。発見された次第。舌。内蔵。頬。タン。レバー。スペアリブ。食して、食して。失われせて。満たされて。そんな化物。そんなケダモノ。
例えそれがどこまで悲劇的な生い立ちであろうとも、例えそれがどこまで喜劇的な結末であろうとも。許容できない。許容できない、認可できない、屈服できない、諦観できない、黙殺できない。相手。敵。天敵。食うならば天敵だ。食わぬなら敵で終えられたものを。
だからこその、自分達なのだろう。自分達が集められたのだろう。人類の天敵への、抵抗勢力として。
その実感、それへと組み込まれたのだという実感。夢であるならば醒めないで欲しいと。夢であるならば現実と入れ替われと。願わずにはいられない。
それほどに待ち望んだ英雄への第一歩。待ち望んだ、これに。花々しい未来への期待に。
「調査班の見解として、成り立てであるのだと想定されるとのこと。叩きやすいと思えなくもないけど、逆に言えば未知数でもあるわ。油断、しないでね」
成り立て。予測はしていたのだが、そう言われるとやる気に水を差されたようだ。自分が望むそれは、列強との命比べ。英雄凱歌。
だが、成り立て。成り立てだ。ディアボロ。それは人間の変わり果てである。作り変えられたものである。つまりこの場合、成り立てとは人間の辞め立てを示唆していた。
ディアボロの性能として、それが直接に弱物を示すわけではない。だが、人類天敵たる天魔の中でも下位に属するディアボロである。
その上、撃退士を含め対人としての経験が少ない個体となれば、その強さも軽視されがちなのであろう。事実、鶫がこの場にいられるのもそれが理由のひとつであった。
望むべくは遠い。だが、同時に仕方がないのだとも感じていた。
自分は所詮、新兵に過ぎない。経験のないものに期待が寄せられることなどないのだ。ならば、この初戦において打ち立てる功績。それがあれば、もっと上の戦いへも脚を運べるようになるのだろう。
つまるところこれは、一歩目。一歩目でしかないのだ。彩られたデビュー。輝かしい経歴。そんなものは夢物語だ。築きあげ、積み上げて。いつしかそびえ立ったそれを、見せつけてやればいい。
思考は積もる。凝り固まって、狭まって。堂々巡り。自問自答。自己解決。自己解釈。深く、深く沈んでいく。沈んでいく。

「―――グミくん? ツグミくん?」
意識が、回想から引き戻された。似たようなことが、昼方にもあった気がする。
そういえば、彼女はもう任務についたことがあるのだろうか。自分より要領の良い彼女のことだ。もしかしたら、自分よりも数歩先へと進めているのかもしれない。
「ねえ、大丈夫?」
いけない。自分を戒めて、首を振る。せっかく呼び覚ましてくれたのに、また微睡むところだった。
そういえばと、自分の名前を呼ばれていたことに改めて気づく。顔を合わせた際に一度名乗っただけだというのに、よく覚えていたものだ。
それも、経験のなせるものなのだろうか。相手の顔、味方の顔。それを把握し、任務へとあたる。そこにまた浮かぶ感情が、劣等感なのだと認めたくはなかった。
名前を覚えていない仲間のあとについて、立ち上がる。いつしか車両は動きを止めていて、それはつまるところ。
戦闘が目前に迫っていることを示していた。


2.スニークアタック・スニークライン
廃病院。廃病院。『女』という文字を職業名の頭につけると淫靡になるのだとかなんとか、学友が言っていた気もするが。施設名の頭に『廃』という文字をつければおどろおどろしくなるのだと思う。
それは名前を聞くだけで悪寒を擽り、実際目の当たりにしてみれば。その予感は実感に限りなく近いものとなっていた。
人の居着かない人工物、というのは得てしてこういうものなのだろうか。それは、平常ならざるものを倒すべく訓練された自分達でさえ、何かが居るという怯えに似た空想を抱かずにはいられなかった。
「いこう」
それが、誰の発したものなのか。鶫には分からなかった。もしかしたら、誰の発したものでもないのかもしれないだなんて妄想。空虚。それを懸命に振り払う。
何か居るというのなら、何かが居るのだというのなら。それこそ敵だ。倒すべき相手だ。それをこそ、自分は望んでいたんじゃあないか。
仲間の歩に合わせて、そこに乗り込んでいく。割れた半開きの自動ドア。受付。待合席。それと、小さな少女。 と。
一瞬の思考停止。そこにはないもの。あるはずのないものに頭の中身が空白になる。次いで湧いた感情と行動は、後から鑑みてもけして褒められたものではなく。
「どうしたの、こんなところで。あぶな―――」
肩に感触。強い力を持って、自分の身体が後ろへと引き戻された。何を、と言葉を出す前に衝撃音。タイル床を何かが削る。それは、先の先まで自分が立っていたまさにそこだった。
「鶫! 何をしている!? ディアボロだぞ!!」
その意味が、理解できない。否、理解はできているのだ。できているのだが、目の前の現実を脳が易くは受け入れてくれない。
少女。少女だ。西洋人形みたいな、金の髪。幼い容姿。あどけない顔。笑顔。笑顔。
その異常性に気付けない。わかっていない。知識としては持っていたはずだったのに。個体数としては少ないものの、人間を象ったディアボロも存在しているのだと聞き及んでいたはずだったのに。
それでも思考回路はそこへと辿り着かない。人を食う化物と、目の前の少女が同一なのだと確定できない。
「だって、女の子だ!」
「前はそうだったかもしれん! だが、今は敵だ!」
戦場展開。その最前線に躊躇いもなく突き入れていく仲間。名前もわからない、覚えていない。仲間。
その少女に向けて、ディアボロに向けて。大上段から両刃の剣を振り下ろす。その勇姿は英雄に憧れる鶫からして惚れ惚れするものであり、そこへと。その先へと。辿りついて、走り抜けたいのだと感じているものだった。だが。
異様な光景を目の当たりにする。その前提から想像できるものは、ただの屠殺現場でしか無い。事情を知らない人間からすれば、殺人鬼が幼い少女を無残にも殺害したのだと。そう映るそれでしかなかっただろう。だが、それでも。
その少女は片手で大振りの刃を受け止めている。それだけ。それでも、それだけが現実だった。混乱する。何がどうしてという感情が身体への伝達を阻害する。
鶫がその事態に陥ってしまったこと。どうして責められよう。武器を振り下ろした仲間の彼も、同じ思いであったのだから。
その一撃で打ち倒すとまではいかないものの、それでも負傷は負わせられるだろうという算段であった。思惑は外れ、硬直する。鶫が英雄の影を見た彼もまた。それでもまた、『成り立て』に駆り出される程でしかないのだから。
その一瞬を、見逃さない。化物は見逃してなんかくれない。交差。脇を潜り、その背の向こうへと。少女の姿をしたそれが一歩を踏み出した時には。肩から血を流し、倒れる姿が無邪気な笑顔越しに見えた。
咀嚼。咀嚼。嚥下。もぐもぐ、ごくん。その行為の意味を理解した誰かが、嗚咽の声を漏らした。嘔吐の醜音は聞こえない。それをして非戦を免れるほどには、戦士であったということなのだろう。
嗚呼、食った。食ったのだ。それは、そうだろう。食うだろう。食うだろうとも。自分は、自分達は。そういうものを倒しにきたのだから。そういうものを倒してこいと言われているのだから。
ここにきて、初めて。その異常性に気づく。その異様性に気づく。気づく。気づいた。どうしてだろう。どうしてここに及んで、この期に及んで。悲劇喝采の中心でありながら。人食鬼畜の身でありながら。どうして笑っているのだろう。どうしてこんなにも無邪気に笑っているのだろう。その笑顔に嘲りはなく、その笑顔に悪意はない。
崩れ落ちた彼の方を、化物は見向きもしない。ずっと見ている。こちらを。仲間達を。否、自分のことを。
声が出ない。恐ろしくて。分からなくて。この人食いがまだ、ただの少女なのではという願望に似た思考と、自分達よりも遥かな膂力を持つということの実際で。合わさって、混ざり合って。動けない。動くことが、できない。
「おにいちゃん」
仲間でもいるのだろうかと考えて、それが自分のことだと思い至る。呼ばれた。呼ばれたのだ。それだけで。そのことだけで恐ろしい。恐ろしくてたまらない。
「おにいちゃん、あーそーぼ」
それが、宣戦布告。殺意の指向性。きっと、それにとっては言葉通りの意味でしかないのだろうが。それでも、人間である自分にとってはとっくのとうに始まっていたはずの開戦合図に他ならなかった。
心はまだ、迷ったまま。それでも刃を抜き、正中に構えを取れたのは嫌々にも繰り返された基礎訓練のおかげだろうか。
鍔の音。目前に意識を。それが、予想よりも近く。近い。眼と鼻の。友人よりも近くて、恋人よりも遠い。殺し合いの距離。
振り下ろされた幼い爪を、得物の腹で受け止めた。金属質同士が打ち合わされた、不可解な音。二度、三度。思うように身体が動かない。理解できず、恐ろしく、そして自分ひとりでどうにかなるような相手でもない。
捌けまいと、自覚していた。後何度。その程度でこの狂気は自分に突き刺さるだろう。食欲がもたげるだろう。だから、誰かに助けを求めようとして。誰の名前も、覚えていない自分に気づいたのだ。
思考停止。刹那硬直。小さな三爪が、自分の肩から腰までを斜めに引き裂いた。
激痛。出血。立っていることもままならず、自身が後ろへと倒れていくのがわかる。途切れていく意識。どうしてこんな。考えるだけの時間がいやに長い。走馬灯だったのだろうか。後から後から後悔が溢れでて、自分の無力さと愚かさを噛み締めた。
最後に見えたものは、この病院に足を踏み入れてからずっと同じだったもの。あどけない笑顔。悪意のない笑顔。無邪気なそれがたまらなく恐ろしくて。遂にはただ、死にたくないとだけ考えていた。
暗転。


3.スタイルアタック・スタイルライン
瞼を開いてはじめに感じたのは、どうして生きているのだろうということだった。目覚めて直ぐの瞳が、まともに視界を伝えてくれるはずもなく。天井にピントが合う頃には、自分の実情を思えるほどには脳回路が立ち上がっていて。
記憶が。恐怖が。再現される。その奔流に思わず自分の身を抱きしめようとして、痛みに遮られた。激痛。もがいて、それがまた痛みを生む。息が止まる。身動きができなくて、呼吸の仕方を思い出せなかった。
ナースコール。そんなものに考え至ったのは、痛みに慣れてきた頃で。こうなれば、呼ぶ意味もないのだ。ひとり滑稽な踊りを見せただけで、寧ろひとりであったことが救いと言えた。
落ち着けば、恐怖がぶり返す。脳裏に張り付いた笑顔。怖い。恐ろしい。歯の根が鳴り、また鈍痛に苛まれた。 次いで、落胆。自分の行動に悔やまれる。どうして。どうして。自分の問題点など、数えてしまえばきりがない。
どうして仲間だと自覚しながらその名前を覚えることに努めなかったのだろう。どうしてそれを敵だと知っていながら理解しようとしなかったのだろう。どうして、自分のことばかり考えていたのだろう。そんな感情。そんな負方向。
堂々巡りで、行き詰まらない。どうすればよかったのか。どうすれば間違えなかったのか。思うことは多く、後悔だらけで。模範解答ばかりが頭を占めた。
だから、解決しない。円状ではなく、螺旋式に下っていくばかりの精神性に歯止めが効かない。だからなのだろう。それの接近にも気づかなかったのは。
「おにいちゃん」
冷や汗と恐怖と悪寒と死感が同時に爆発して思考の何もかもがひとつどころに集中したしてしつつ目線をそちらに向けて向けた向ければ。
それは、馴染んだ顔だった。幼馴染の、同級生。自分に、人食いの話題を振った。言うなれば、フラグを立てた、彼女。
「なぁによその顔。ねね、萌えた? 萌えた?」
「今の言葉で同い年に何か感じたら間違いなく変態だと思う。あと、萌えたとか言わないで。その、残念さが増すから」
「何よそれ。もう、せっかくお見舞いに来てあげたのに」
「ああうん、さんきゅ」
自然と言葉を返すことができたのは、知った顔への安心からなのだろう。事実、先程までの沈んでいた感情はどこへいったのか。日常へと気持ちを引き戻されていた。自分でも現金なものだと呆れたものだが、今は彼女の存在が、ただただ嬉しい。
お見舞い。わかっていたことではあったのだが、やはりここは病院なのだろう。病院。病院だ。『廃』病院ではない。頭にその文字が付かないのだから、恐ろしいものではない。ないのだ。
「ねえ、聞いてる?」
「あー……えっと、何?」 「もう、すぐ考え込むんだから。だからね―――」
聞きたいことは山程ある。自分はどれほど寝ていたのか。あの任務は一体どうなったのか。自分はどうして助かったのか。そして、自分以外は果たして助かったのか。
どうしても聞きたいことと、できることなら良い結果しか聞きたくはないこと。だけど、今はこの安寧に身を委ねていたかった。
自分が休んでいる間の学校の話。もうすぐ公開の新作映画。最近面白かった書物。マイブーム。家族の愚痴。総じて、日常。日常。嗚呼、ここに帰ってきた。帰ってきたのだ。あれほどまでに鬱屈したものだと感じていたこの世界が、この空間が。たまらなく愛おしい、どれほど大切なものなのかと。これを噛み締めていたかった。だから。
「思ったより、元気そうね」
その逆は。非日常は。憧れていたはずのあの場所は。たまらなく。たまらなく、恐ろしいわけで。

二人目の見舞い客。赤い髪の彼女は、そう意識したものではないのだろうが、鶫のそれを今や悍ましい非日常へと引き戻していた。
赤い髪。決意に満ちた瞳。自分に、あの任務を伝えた彼女。それが現れたのだから、ひとつの事実を理解する。知りたくはなかった方向へと、理解する。まだあれは、生きているのだろう。食って、いるのだろう。
「様子を見に来たのが半分。謝罪が半分、なのだけど……お邪魔、だったかな?」
その視線が、それまでの会話相手へと向かう。そういうふうに、見えたのだろう。幼馴染の男女が、ふたりきりで。仲睦まじく。
そう取られても仕方がないのかもしれない。事実を正そうかとも考えたが、面倒にも感じた。どうせ、隣の彼女が否定するのだろうと任せきりにしていたのだが。意外にも、反論は一言として飛び出さず。見れば、俯いたまま黙りこくっていた。
心なしか、顔が赤い。赤い。その一点から推測される結論に行き着きはしたのだが、頭を振って否定する。まさか、そんなはずはない。だが、もしかしたら。しかし、勘違いであればなんと下心に満ちた。
悶々。思考が別のところで。堂々巡り。回り回って。目があって。なんだか気恥ずかしくて、それを逸らしたりして。その行為こそが脈なのではとか、日常の大切さだとか、その感情がだとかなんだとか。
「ええと、続けてもいいかしら。なんとなく、事情はわかったけれど」
「え、あ、はい。ええと、どうぞ」
それでも、ここはその先を言及せずに留めておこう。止まっておこう。別の話としておこう。だって、これは彼の物語なのだから。彼とあの人食いとの物語なのだから。その甘さに酢酸を混ぜたような話は、別の機会をと期待して筆の矛先を変えるとしよう。
「まずは、謝罪を。ごめんなさい、情報不足で混乱させたわね。こちらも、対処に困ることのない個体だと誤認していたわ」
「いや、そんな……」
言葉の次が出ない。強いのだと思っていなかった。あんな姿だとは思っていなかった。ああまで怖いのだとは考えてもいなかった。
それは。そんなものは。理由にならないのだ。理由にはなってくれないのだ。その努力を惜しんでいたのは自分であり、あの場において間違いなく自分は要因をマイナスへと引っ張っていたのだから。足を、引っ張ってしまっていたのだから。
「それで、というわけではないのだけれど」
そう言って、彼女が寄越したものは紙束だった。見覚えがある。同じものではないが、似たものについ最近目を通したことがあった。作戦内容。概要。つまりは、浮かれていたあの時に。
「もう一度、討伐任務を組むわ。再戦したい気持ちがあるのなら、手を挙げればいい。警戒度を間違っていたとはいえ、倒せない相手ではないはずよ」
再戦。再任務。それはつまり、もう一度あれの前に立つのだということ。あれと刃を交えるのだということ。 笑顔。笑顔が脳裏に張り付いて拭えない。日常に戻りかけた自身の精神が、また恐怖に沈んでいく。侵されていく。怖い。怖い。その心を、誰かと思い伸ばされた手を。掴んでくれたのもまた、日常の中にいた彼女だった。 ぱしん、と。頭をはたかれる。それだけで思考が飛んだ。冷や汗が引いた。ぽかんとする自分の顔に向けて、幼馴染の彼女が親指を立てる。
「鶫、もう負けないでよね!」
何も、言えなかった。何も言い返せなかった。あれの怖さを知らないのだろうとか。自分の気持ちをわかっているのかとか。そんな女々しい答が、なにひとつ出て来なかった。ただ、ただ守りたいと思った。彼女を、日常を、自分が帰ってくるこの場所を。
身を起こす。立ち上がる。痛みは脳に危険を訴えかけてくる。でも、それはもう恐怖に変わりなどしなかった。だから、我慢できる。だから、それを無視して前を見据えられる。
「なあ、鵠」
久しぶりに、その名前を呼んだ気がする。その理由が気恥ずかしさなのだとわかって。自分の青さに笑みがこぼれた。否、これでいいのだろう。
「な、なによ?」
「帰ったら伝えたいことがあるんだ、聞いてくれるか?」
「やぁよ。知らないの? そんな約束したら、死んじゃうのよ?」
それもそうか、と苦笑を深めた。次に瞼を開けた時、瞳には決意が宿っているのだろう。怖い。恐ろしい。後悔でまみれている。でもそれは、戦わない理由にもなりはしないのだ。
日常。自分がこんなにも退屈に感じていたこれ。この場所。ここに、きっと帰ってくる。憧れ求めた英雄への一歩へと進んだまま、帰ってくる。だから。
鶫は自分から、躊躇いなく非日常へと踏み込んだ。
続。


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