●リプレイ本文
●儀式の日まで――まとまらぬ指針
嫌な雨が降り続く。もう慣れたといってしまえばそれまでなのだが、それにしても限度というものがある。
久遠院透夜(eb3446)は侯爵夫妻の前で水鏡の円盤のもう一つの力について語ってみせた。彼女が見つけた暗号は前夫人の手によるもの。夫人に伝えられる口伝であったと推測される。
『雨を願えば、空は曇り、後に雨が降る
晴れを願えば、雨は上がり、後に空は晴れる
それはきっかけ
自然に対する小さな干渉』
それが暗号の答え。
なるほど、と侯爵は唸るように呟く。侯爵に伝えられていた『水を操り、真実の姿を映す』という口伝は途中で歪められてしまったもののようだ。もしくは最初から、半分のみ真実を伝えるための口伝だったのか――それは初めに円盤を手に入れて宝として封印したものにしかわからない。
「侯爵様、お願いがあります。事件が解決した後、水鏡の円盤の破壊か封印をここに進言します」
「あんな綺麗な宝を封印だなんて!」
「‥‥‥ふむ」
夫人は柳眉を吊り上げて叫んだが、侯爵は考えるように頷いただけだ。
「使い方によっては立派な戦略兵器。盗賊やカオスの魔物に奪われた場合、どこまで被害が出るのか判りません」
「‥‥まぁ、それも一理あるな。考えておこう」
夫人をなだめながら、透夜の言葉に答える侯爵だった。
「‥‥エリヴィラ、歌姫よ。過日の強行軍、無体なことをさせてすまなかった」
侯爵家の廊下でアマツ・オオトリ(ea1842)に呼び止められ、エリヴィラは不思議そうに首を傾げる。アマツが言っているのは先だってメイディアで行われた孤児院のパーティのことだろう。だがエリヴィラは自分の意思で同行したのである。謝られるいわれはない。
「我らはただ、あの無垢な笑顔を守りたいだけなのだ。それを知って欲しかったのだ。偏見でエリヴィラを苦しめたのも民なら、笑顔でそなたの歌を喜ぶ子らも民なのだ。ふ、あの紳士は別格だがな。全く奴め、下心が見え透いておるわ」
アマツの言う「紳士」がキース・レッド(ea3475)の事を指すのは判ったが、下心とは何事だろうか。不思議に思うエリヴィラに皆まで言うことなく、彼女は続ける。
「まだ、この世は捨てたものではない。今しばらく我らの、いや人々のために助力して欲しい。頼む」
礼儀正しく頭を下げたアマツ。その頭を上げさせ、エリヴィラは彼女の手を握る。
「絶望と、悲しみと同じ数だけ‥‥いえ、それ以上の笑顔があることを教えてもらいました。私は‥‥この地が晴れるのを見たい‥‥人々が晴れた空を見て笑うのを見たいです‥‥だから、こちらこそ‥‥力を貸して、ください」
祈るように、願うように。体温を通して心が伝わるように。暖かく、その手を包んだ。
儀式の日は近い。だが冒険者の中ではいまいちしっかりと指針がまとまっていなかった。いや、上手く伝達されていなかったというべきか。それが計画の齟齬に繋がらなければいいのだが。
一度話に上がったエリヴィラの代役案を実践するかは宙に浮いたままで、冒険者によって認識に差異がある。侯爵家の参列者は侯爵家のみ、なるべく少人数でという事は決まっていたが、セーファスとディアス、二人の子息を参列させるかどうかは直前まで決まらなかった。結局のところ二人の子息は別所で待機してもらい、参列は侯爵と夫人のみということで落ち着いた。
エリヴィラの代役を置くという案は、最後までどうするか決まらなかった。どちらに転んでも良いように、代役のために呼ばれた水無月茜(ec4666)はカツラと衣装の試着、そして歌の練習も済ませていた。少しでも似せるために、とエリヴィラと共に歌の練習をした茜は憧れをこめて呟く。
「やっぱり‥‥上手だなぁ。エリヴィラさんならレコード大賞も夢じゃないのになぁ」
「‥‥レコード、大賞‥‥?」
「地球で行われる、音楽祭の栄えある賞のことですよ。今度、地球の歌も聞いてくださいね」
にこり、笑うメガネの奥の瞳に、いくばくかの緊張をほぐされ、エリヴィラはゆっくりと頷いた。
「エリィ!」
儀式を行う洞窟。以前祭壇の裏に賊が隠れていたことがあった。それゆえキースは事前に洞窟を調べに行っていた。戻ってきた際、銀色の波打つ髪を見つけて思わず声を上げる。
「‥‥キースさん」
足を止め、振り返ったエリヴィラは、彼が自分のところまで来るのをその場で待った。
「エリィ、これを」
丁寧に畳まれた衣服と、淡いピンク色の宝石がキースの手から渡される。
「これは‥‥?」
不思議そうに見上げる彼女の瞳を覗き込み、彼は口を開いた。
「あの青空も、リンデンの人々の笑顔も、僕たちが奪い返すんだ。もう少し、僕らに力を貸してくれ‥‥エリィ。平和になったら、このドレスを纏った君の歌声を聞かせて欲しい」
「‥‥みんな、私に『力を貸してくれ』というのですね‥‥。大丈夫ですよ‥‥皆さんが私の側にいてくれる限り、私は‥‥逃げませんから。身命を賭して‥‥役割を果たす覚悟です」
「エリィ‥‥君は僕の命に代えても、必ず護る‥‥!」
――だから、これが終わったら僕と――
喉元まで出掛かった言葉を堪えるキース。エリヴィラは小さく首を傾げるようにして、いたずらっぽく言った。
「キースさんとは‥‥お約束、していますものね。‥‥きちんとお返事をするまで、どちらが死ぬとか‥‥そういうのは言いっこなしです‥‥」
●始まりのとき
雨の中、一同は儀式会場へと向かう。その時ランタンを持った雀尾煉淡(ec0844)は、足を止めぬようにしながらエリヴィラへと話しかけた。
「人がたった一つ逃れ得ぬもの、それは己自身の出自でしょう。大切なのは己の意志であり、勇気です。血の呪いに己を委ねるか、己の心と体で立ち向かうか。私は貴方が自分らしい選択ができるよう、貴方が大事に思うもの全てを護りましょう」
僧侶の説法のようなその言葉。しかしそれはエリヴィラをずっとそばで見てきた煉淡からの助言。彼女が進む道を少しでも歩きやすくするように、そんな思いが込められている。
「ありがとう‥‥ございます」
その言葉を胸に刻み込み、エリヴィラは深く深く頭を下げた。
「セーファス君とディアス君は異常なかったアル。侯爵とティアレアさんにも異常は無かったアルよ」
ディテクトアンデッドを使用した孫美星(eb3771)は、皆にその情報を伝える。以前冒険者に化けた過去を覗く者が堂々と近づいてきたことがあった。まさかまた同じ手を使ってくるとは思わなかったが、念には念を入れて、だ。
「さすがに同じ手は使ってこなかったわね」
そんな単純な奴なら、苦労はしないのだけど、とフォーリィ・クライト(eb0754)が呟く。
「意外にお似合いですよ、渓さん」
侯爵家に用意してもらった銀髪のカツラ(人毛でできている)とエリヴィラと同じドレスを纏った茜が、メイド服を着込んだ巴渓(ea0167)をにこにこと見守る。
「本当に、似合いますよ」
アルトリア・ペンドラゴン(ec4205)も同意を示してほめたが、当の渓としてはなんだかからかわれている気がしてならない。だが侯爵一家のそばにつく都合上、言葉遣いにも注意をしなくてはならないため、いつものように口を開くわけにはいかない。忍耐が必要だ。
「そろそろ始めようか」
アマツの声にそれぞれが持ち場へと散る。キースは入り口と広場とを繋ぐ通路に。アマツとアルトリアは広場に散らばり、フォーリィは祭壇の側に。渓は侯爵と夫人の側。エリヴィラに化けた茜は、ランタンを持った煉淡と共に祭壇へ。
そして本物のエリヴィラは、透夜と美星と共に別の場所へ――。
●過去を覗く者の逆襲
偽の儀式が始まったようだ。キースは自分の耳に茜の歌声が小さく聞こえてくることでそれを知った。彼は、儀式の行われている広場と入り口とを繋ぐ細い道で待機している。入り口は侯爵家の私兵に固めてもらっているので、何かあればすぐに異変がわかるはずだ。
「久遠院君、今のところ異常はなしだ。そちらはどうだね?」
30cm四方の青い豪華な飾り箱の上部にある筒に向かい、話しかける。携帯型風信器だ。暫くすると押し殺したような声が返ってきた。
『こちらも無事に儀式が始まった。エリヴィラと美星も一緒に隠れている』
声の相手は透夜。彼女は美星とエリヴィラと共に祭壇の後ろに隠れていた。エリヴィラの格好をして囮を勤めるという茜がいる以上、現場に本物のエリヴィラが姿を現していては不自然だからだ。美星はパラのマントにくるまって、透夜の肩でじっとしている。そうすることにより彼女の姿は見えなくなる。
しかしただひとつ、直接エリヴィラが儀式を行うことを主張していた透夜にとって譲れないことがあった――それは水鏡の円盤のこと。
最初の儀式では水鏡の円盤は直接手に持たずに石造りの祭壇の上に置いた。だが現在の、過去を覗く者が儀式の妨害を、円盤の奪取を狙ってくるであろう状況でそれはあまりにも無防備だ。故に円盤は今、透夜の後ろでじっとしているエリヴィラの手の中に在る。
最初の変化は、突然訪れた。
「っと‥‥蝶が騒ぎ出したようだ」
キースが指にはめた石の中の蝶へと目をやる。蝶は羽ばたき始めていた。同時に洞窟入り口でなにやら私兵たちが騒いでいるのが聞こえる。
「霧だ‥‥」
「辺りに注意しろ!」
「うわぁ! 熱い!」
「‥‥久遠院君、洞窟入り口で何かが起こったよう――」
風信器にそう語りかけたキースの言葉が止まる。キースのいる通路にまでも霧が充満してきたのだ。霧は通路をどんどん進み、奥の広場を目指しているようにも見える。霧は一メートル先も見えぬほど深い。
――これにまぎれて敵が広場を目指していたら?
キースは今一度石の中の蝶を見やる。蝶はこれでもかというほど羽ばたいていた。そして何者かが側を通り過ぎて行く気配をわずかながら感じた。それも、複数。
「久遠院君、敵は霧と共に現れる! 皆に周知を! 僕も急いでそちらに向かう!」
風信器に向かって声を投げつけたキースは、その場に風信器を置いて走り出す。視界はものすごく悪い。広場へ向かっているつもりが別の方向へ進んでるかもしれない――だが、今は自分の直感を信じるばかりだ。
どんっ
急に何かにぶつかった。突然視界に現れたそれは大型の邪気を振りまく者のような姿をし、背中に黒い翼を生やしたカオスの魔物。キースがその姿を認識する間に、魔物は何か呪文のようなものを早口で唱え――彼の身体は地面から立ち上る炎の円柱に包まれた。
「霧‥‥?」
キースからの連絡を受けた透夜は不審げに呟いたが、状況から見て敵の侵入はすでに始まっているのだろう。だとすれば偽儀式を多少中断したところで問題あるまい。透夜は祭壇後ろから顔を出し、広間内の仲間に伝える。
「敵の侵入が始まったらしい。敵は霧と共に現れるという。こちらの視界を妨げると予想されるので皆、警戒を!」
その声に煉淡がランタンを祭壇において高速詠唱でホーリーフィールドを張る。祭壇にいるエリヴィラの代役――茜を護るようにフィールドは展開された。それを確認すると彼は祭壇付近から走り出て、侯爵夫妻と渓のいる付近へと向かう。そこでも高速詠唱でホーリーフィールドを展開した。
「これで暫くの間は安全で――」
煉淡が口を開くのと同時に、通路から濃霧が噴き出してきた。それは瞬く間に閉鎖された広場へと広がる。閉鎖された空間に誘き出すというのを逆手に使われたのか、1メートル先すら見えぬ深い霧は広場内に完全に充満した。ただ2箇所だけ、霧が行き渡っていない部分がある。煉淡の張ったホーリーフィールド内だ。そこだけ半円形に、霧の侵入を防いだ透明な空間が作られていて、逆に目立つ。
「こちらの視界が悪いってことは相手も同じ状況だってこと! 声出してお互いの位置を把握しましょう。じゃないと同士討ちになる!」
この声はフォーリィ。彼女もまた霧に包まれ、視界を遮られていた。
「美星、ディテクトアンデッドの反応は?」
濃霧の中、じっと辺りの気配に気を配りながら透夜は肩に乗る美星に尋ねた。だが帰ってきた答えは――
「沢山、沢山ありすぎるアル‥‥!」
「!?」
「沢山のカオスの魔物が、広場に入ってきているアル!」
過去を覗く者は以前探査魔法に引っかかり、姿を見破られたことを忘れていなかったのだろう。探査魔法を逆手に取るために、大量の部下を投入してきたに違いない。
「小さいのが‥‥12くらい、大きいのが3‥‥」
「鏡は祭壇にはないわ! 歌姫が持っているのよ!」
「「!?」」
視界の悪い中、その声だけははっきりと広場内に響いた。侯爵夫人の声だ。
「ティアレア、何を!」
「だって、だって鏡を手に入れる手伝いをしなければ、ディアスの魂を奪うと‥‥」
侯爵に詰問され、狼狽しながら応える夫人。
「茜、気をつけろ!」
渓の声が、飛んだ。
ホーリーフィールドで護られているということは、そこだけ霧のない空間ができているということ。敵からも味方からも、その場所は察知しやすい。茜はホーリーフィールドに護られたまま、敵が姿を見せたらいつでも攻撃できるようにと準備をしていた。
突然、その時は訪れた。音こそ上がらなかったものの、まるではじけるかのように結界が消え、ゆるゆると霧が彼女に接近してくる。その時、霧よりも早く彼女に接近した者があった。馬に跨ったその男は茜の肩に手をやり、引き寄せて自分のほうを向かせる。そして
「貴様、歌姫ではないな?」
メガネがないと見えないという茜はめがねをつけたままだった。変装したとはいえ、正面から見られてはばれるので極力俯くようにしていた。だがそれもこうなってしまっては無意味で。その男は茜の返答を待つ前に鋭い爪で彼女を切り裂いた。
「きゃあああああぁぁぁぁ!」
茜の叫び声が広場にこだまする。衣服の胸元は引き裂かれ、血が噴き出す。思わず膝を突いた茜を、何かが襲った。それが魔力だと気がついたとき、すでに茜は氷の棺の中にいた。
「チクショウ、何が起こっていやがるんだ」
渓が思わず舌打ちして小さく呟いたその時、どこからか飛来した炎の塊が結界を破壊し、そして渓の頬をかすった。傷自体はかすり傷だが、これで侯爵夫妻を護る結界は無くなった。だが煉淡がそれを素早く察知し、再び高速詠唱でホーリーフィールドを展開する。再び炎が飛んでくる。ホーリーフィールドが展開される。暫くはその繰り返しだった。
「これではいつまで経っても‥‥同じことの繰り返しですね」
ただただ魔力のみが消費されて行く。魔力が切れたとき、その補充にアイテムを使うとき、その一瞬の隙を相手が見過ごすとは思えない。その瞬間に侯爵や夫人を攻撃されたらこちらの負けだ。
「クソッ‥‥向こうからはこっちの姿が見えるんだろうが‥‥こっちからはちっとも見えやしねェ。打って出るしかねェか」
渓は覚悟を決めて、一歩結界から足を踏み出した。
「一体どうなっているのだ‥‥」
アマツは霧の中、一人呟いた。手元の石の中の蝶を見れば蝶は激しくはばたきを続けている。また、殺気を感じ取ろうとしてみれば、姿こそ見えぬもののそこかしこに殺気を感じる。
「そこか!」
オーラを纏わせた刃を振るえば、何とか手ごたえは合った。ぎゃっと声を上げてどすんと倒れたと思われるその方向へと歩み寄る。目視できる範囲まで近づけば、それは邪気を振りまく者に似てはいるが毛むくじゃらで尾のないカオスの魔物。
「邪魔をするならば容赦はしないぞ」
胸元にレミエラの光を浮かび上がらせたアマツの刀が奔った。
「かかってくるなら容赦はしないわよ!」
フォーリィは濃霧の中でも敵の動きを敏感に察知し、そして攻撃を回避、反撃を与えていった。ぎゃん、という叫び声と共に敵は倒れる。だが再び起き上がって攻撃を繰り返す。敵も視界が悪いだろうに‥‥いや、悪いのは運か。フォーリィほどの技量を持ってすれば、視界の悪さなど瑣末な事に過ぎない。彼女に群がる低級のカオスの魔物たちが全て駆逐されるのは、時間の問題だろう。
アルトリアは武器にオーラを宿した。だが敵の攻撃が執拗に彼女を攻め立てる。まるで霧の中でも彼女の姿が見えているかのように、牙が彼女の足を、腕を穿っていく。一撃だけ、その相手に攻撃を加えることができたが、それ以上は無理だった。蓄積されたダメージが彼女の身体から血液を奪い、そして彼女は立っていることができずに膝をついた。
エシュロンの羅輝に五行星符呪を燃やさせた美星。これで少しでも魔物たちの動きが鈍くなることを期待するが――
「透夜さん、魔物が2匹、近づいてきているアル!」
慌てて小声で指示をする美星。だがそのタイムラグが仇となる。敵は、突然透夜と胸元が触れ合うような距離に出現した。
「(スタッキング――!?)」
同じ技を使う透夜にはそれがスタッキングであることが判った。しかしその攻撃を避けることはできず、袈裟懸けに鋭い爪で、上半身を切り裂かれる。
「くっ‥‥!」
その反動でバランスを崩した透夜の肩から、美星が転がり落ちそうになる。だが自前の羽根で、かろうじて落下を防止した。だが動いた時点でパラのマントの効果は無くなり――その魔物は近くに出現した新たな獲物に標的を変え、美星の小さな身体を鋭い爪で切り裂く。それに追い討ちをかけるように、長い鞭のようなものが美星の体を絡め取った。
「あぁぁぁぁぁ‥‥」
ぎりぎりと締め付けられて、か細い声を漏らすだけの美星。
「今助ける!」
透夜はその尻尾の先へとサイを突きつける。
ぎゃんっ!
鼠に似た姿をしたその魔物は、なんとも言い難い叫び声を上げ、美星を締め付けていた尾を緩めた。その機を見逃さず、透夜は美星を救い出す。
「大丈夫か?」
「大丈夫‥‥アル、よ‥‥」
血にまみれた美星は息も絶え絶えに、だがしっかりと高速詠唱で己にリカバーを施す。するとその傷はみるみるうちに塞がって――。
その瞬間、祭壇裏からどっと炎の柱が立ち上った。巻き込まれたのは透夜と美星とエリヴィラ。三人は炎に焼かれる熱さに叫び声をあげる。
「エリィ!?」
広場に駆けつけたキースが、濃霧の中で叫ぶ。炎のおかげでその周囲の霧は蒸発していたが、彼の位置からでは霧が邪魔してその位置が目視できない。
「英国紳士、そこら中に魔物がいるようだぞ! 何とかせねば、せめてこの霧を何とかせねば埒が明かぬ!」
どこからか聞こえてきたのはアマツの声。霧の中から振るわれる攻撃を回避したキースは状況を把握し、剣を振る。手ごたえは、ある。
「わかった! ともかく確実に倒して行く!」
声を返しつつ彼は剣を振り続けた。
「ここにいたのか、歌姫よ」
炎によって霧の薄くなった祭壇裏、そこに現れたのは馬に乗った過去を覗く者と、耳の尖った猿の様な子鬼、そして鼠に似た魔物と邪気を振りまく者を大きくしたような魔物。
「エリヴィラには手を触れさせない」
傷を負ったまま、透夜が前に立ちふさがる。美星も傷を負っていたが、傷の深い透夜を優先してリカバーをかける。その瞬間、猿の魔物の持ったふいごから炎の玉が飛び出し、美星を直撃した。そして再び大型の邪気を振りまく者の身体が赤い光に包まれ、地面から火の柱が上がる。
「きゃぁぁぁぁぁっ!」
その隙に、鼠の尻尾が再び美星を絡めとった。深手を負った美星をこのままにはできないと、透夜は鼠にサイを再び突きつける。
「エリヴィラさん‥‥逃げる、アル‥‥」
息をするのも苦しそうに美星が逃亡を促す。濃霧の中に入ってしまえば、敵も特定が困難になるはずだから、と。
「くっ‥‥ここは抑える。エリヴィラは他の仲間と合流を‥‥!」
サイで攻撃を続けて、漸く鼠を動かなくさせた透夜だったが、その間に他の魔物から何度も攻撃を受けて満身創痍だ。美星が己と透夜に急いでリカバーを使ってはいるが、なかなか追いつかない。
「透夜さん‥‥美星さん‥‥」
円盤を抱きしめたエリヴィラは、傷ついていく仲間を涙目で見つめている。
「行って、エリヴィラ‥‥!」
背を向けたままの透夜の叫び。エリヴィラは火傷を負った手足を必死に動かしながら、濃霧の中へと飛び込んだ。
「逃げられると思うのか?」
過去を覗く者の嘲笑が、消え行く彼女の背中に振りかけられる。
「追わせはしない」
その笑いが癇に障る。透夜はサイを握り締め、過去を覗く者に向かい合った。
何匹目かの毛むくじゃら――後でそいつは『酒に浸る者』という名だと知る――を退治したフォーリィは、炎の攻撃を何度か受けていたがその傷は即座にリカバーポーションで癒した。一番最初に合流できたのはアマツだったが、彼女もまた傷を負っていた。濃霧という悪条件では不意打ちに対して反応が鈍くなる。
ホーリーフィールドとそれを破る火の玉とのいたちごっこに終止符を打つべく結界を飛び出した渓は、ふいごから火の玉を発射している魔物を見つけ、オーラショットで戦いを挑んだ。火の玉のダメージが蓄積すればリカバーポーションで回復を図る。そして上手く合流できたキースが攻撃に加わり、漸く優勢になってきた。濃霧の中、他に姿の見えぬ敵からの攻撃が続いていると思えば優勢とはいえぬかもしれないが、少なくともこの火の玉の攻撃が彼らの周りで一番脅威なのは確かだった。
「もう少し耐えてくれ!」
それはホーリーフィールドを張り続けている煉淡への言葉。彼の結界が崩れれば、侯爵夫妻の命が危ない。何が何でも護り続けてもらわなければならなかった。
エリヴィラは走った。炎に焼かれた傷が痛む。血が滲み出しているのがわかる。走るのは辛い。けれども円盤を奪われるわけには行かない。
「アマツ、殺気!」
フォーリィに言われるまでも無くそれに気がついていたアマツは、振り返った。いつでも刀で斬りかかれるようにして。だが、その胸に飛び込んできたのは銀色の糸――
「エリヴィラ!?」
倒れこむようにしてきたその身体を支え、アマツは腕の中の者を確認する。確かにそれはエリヴィラだった。顔色はすこぶる悪いが。
「アマツ‥‥さん、フォーリィ‥‥さん、よかっ、た‥‥」
「一体何があったの!? 美星と透夜は――」
フォーリィが発した問いは、答えを得ぬまま飲み込まれた。エリヴィラを追うようにして現れた馬に乗った男、その姿を見つけたから。
「過去を覗く者‥‥」
エリヴィラを背後にかばうようにし、アマツが呟く。フォーリィは黙ったまま過去を覗く者に武器を振るった。彼女の髪は逆立ち、目は赤く染まっている。狂化だ。
フォーリィのダブルアタックとポイントアタックは過去を覗く者の首筋を切り裂く。
「もっと痛い目にあわせてあげるわよ」
首筋に深い傷を負った過去を覗く者の爪を楽々と交わしたフォーリィが、口元にサディスティックな笑みを浮かべた。
「如何な手段を用いようと、お前は我が斬奸刀が必ず‥‥斬る!」
オーラを纏わせた刀で、アマツは過去を覗く者の馬の足を狙う。三度、斬りつけられて馬は足を折った。
「このまま終わるものか!」
過去を覗く者が爪を振るう。アマツはそれを回避できず、背中に深々と爪痕を刻まれ、膝を突いてしまう。
「過去を覗く者!」
駆けつけてくる足音がある。それはキースの足音だった。いつの間にやら辺りの霧は晴れ、広場内の見通しが良くなっている。
「渓が氷の棺に囚われた。厄介な魔法を使う鼠は倒したが‥‥」
合流しながら告げられた報告に膝を突いたままアマツが広場を見渡すと、祭壇の辺りに茜が、侯爵夫妻の近くに渓が氷に閉ざされて立っていた。
「霧吐く鼠が全てやられたか‥‥」
己も苦しげに、過去を覗く者は呟く。だがその表情に未だ諦めの様子はない。と、突然四人の足元から炎の柱が立ち上った。フォーリィ、アマツ、キース、エリヴィラはそれに包まれる。その隙に、と過去を覗く者がエリヴィラに接近を試みるが、それをみすみす彼らが見逃すはずは無く。
「もっと痛い目にあわせてあげるって言ったでしょう!」
「エリィは僕が護る!」
フォーリィの攻撃を横腹に受け、キースの攻撃を胸に受け、過去を覗く者は呻き、崩れ落ちる。もう一手、せめて反撃を、と挙げられた爪が止まる。彼の背中に、そして反対の横腹に、深々と武器が突き刺さったのだ。
「ぐはっ‥‥」
「エリヴィラを落とせなかった時点で、貴様の負けは決まっていた。なぜなら彼女は絶望を乗り越えた『希望の歌姫』なのだから!」
過去を覗く者の背中にサイを刺した透夜が叫ぶ。その身体は傷だらけで、ここに来るまでの他のカオスの魔物たちとの戦いの熾烈さを実感させた。反対の横腹を切りつけたアマツは無言だ。無言でカオスの魔物が消え行くのをじっと見ている。
「く‥‥我が野望、ここで潰える‥‥か。申し訳ありません‥‥‥‥‥様」
最後まで憤怒の表情のまま、過去を覗く者は消えていった。姿を消したのではなく、文字通り、その存在が消えたのである。
同時に透夜とアマツが崩れ落ちた。キースもフォーリィも多少は傷を負っている。だが、魔物はまだ残っていた。
「あれをやっつけるわよ!」
フォーリィは狂化状態の解けぬまま、炎魔法を使ってきた敵へと向かう。 煉淡はその場からホーリーを使い、残った魔物を攻撃し始める。
「大丈夫アルか?」
自身も何度も傷つけられたのだろう。衣服をぼろぼろにしながら美星が飛んでくる。
「とりあえず二人の治療を頼む」
まだ動けるキースはそう願うと、座り込んだままのエリヴィラに駆け寄った。
「エリィ」
「‥‥私、を祭壇まで‥‥儀式、を‥‥」
キースは頷き、彼女に肩を貸して祭壇まで連れて行く。彼女が何をするのかわかっていたから。だが彼はその時点では気がつかなかった。彼女の纏ったドレスが、重厚なものであるが故に。
祭壇の前に立つとエリヴィラは水鏡の円盤を抱きしめ、祈りを捧げる。
「(雨が‥‥上がりますように)」
そして大きく息を吸い込む。途中、咳き込んで血の塊を吐いたが、大丈夫、歌える。
「ずぶ濡れの大地に白い水煙が舞う
不似合いな程の黒雲は嘆き続ける
私はただ祈り歌って
晴れの訪れを願い続けよう
曇天よ
空の涙よ
貴方の嘆きを解き放とう」
まだ残ったカオスの魔物との戦いが続く中、その歌声は朗々と広間内に響き渡った。
「風の抱擁よ
太陽の口づけよ
晴れと光を連れて
人々の心の曇りを解き放ち
降り注げ
この体と大地に」
彼女の声がだんだんと細くなる。それは歌の終焉を示していると共に――
「エリィ!?」
とうとう支えられていても立っていられなくなったエリヴィラが、がくり、と崩れ落ちる。心配して彼女を抱きとめたキースは、そこで初めて気がついた。彼女のドレスの後ろがわが、べっとりと血で濡れていることに。そのスカートが、血で重くなっていることに。
「治療を!」
そう叫んだキースを、エリヴィラは手で制する。
「まだ、やるべきことが残って‥‥。お願い、します‥‥洞窟の外に、空の‥‥見えるところに連れて行って‥‥」
「‥‥‥わかった」
キースはエリヴィラを抱き上げると、外へと向かう通路を歩んで行く。彼らの歩いた跡には、ぽたりぽたりと赤黒い染みが落ちていた。
「美星、いつでもリカバーをかけられる準備を」
「わかったアル」
カオスの魔物の残党を退治し終わり、他の仲間の治療を終えた美星が透夜に頷いてみせる。治療を終えた彼らは、氷に閉じ込められた二人にもう少しだけ我慢してくれと言い残し、ゆっくりと二人の後を追った。
●笑顔と引き換えに
「雨が、上がっている‥‥」
洞窟の外へ出た時、それまで当たり前だった雨が、止まっていた。キースは思わず驚きをもらす。過去を覗く者を倒したからだろうか、彼の降らせていた雨は上がったようだ。
そして薄くなった雲の合間から、細く、細く陽精霊の光が差し込みつつあった。
「エリィ、空が晴れる!」
「‥‥晴れ‥‥」
抱き上げたエリヴィラの顔は血の気がうせていて蒼白だった。大儀そうに顔を動かして空を見つめた彼女は、まぶしそうに目を細めた。
ゆっくりと、ゆっくりとではあるが雲が薄くなり、晴れ間が増えて行く。
「‥‥‥‥晴れ‥‥‥こんなにも陽精霊の光が‥‥綺麗だなんて‥‥‥」
エリヴィラの口角がゆっくりと上がる。目が、優しく細められる。
――笑顔。
「エリィ、笑顔が!」
だが、それもほんの一瞬のことだった。
「エリィ、エリィ!!」
糸が切れたようにエリヴィラは瞳を閉じ、その四肢からは力が抜けている。ドレスの背中から裾にかけてはぐっしょりと生暖かい血で濡れており、抱き上げていたキースもその生暖かい血にまみれていた。
「美星、早くリカバーを!」
後から追いついた透夜が事態を察し、美星が急いで飛ぶ。
何度も何度も呼ぶキースの声に、エリヴィラは反応しない。
その瞳は閉ざされたまま。長いまつげもぴくりとも動かなかった。