ノワールの囁き4〜恋人達の岬

■シリーズシナリオ


担当:マレーア3

対応レベル:8〜14lv

難易度:やや難

成功報酬:4 G 15 C

参加人数:10人

サポート参加人数:4人

冒険期間:02月28日〜03月05日

リプレイ公開日:2006年03月05日

●オープニング

●闇のゲーム第二章
 ギルドの依頼に紛れ込む闇符。
 赤き光に浮び上がる漆黒の扉をくぐり訪れる冒険者。出迎える男は恭しく一礼。
「『NOIR』へようこそいらっしゃいました」
 紫煙ゆらぐ闇色のパイプを片手に、自称アメリカ合衆国市民、日系三世の染之助闇太郎は二つに割れた顎へ白手袋の手を置き、唇の端に浮かぶ古い傷跡を指で撫で上げる。
「もう皆様、おそろいの様ですが、その前に何か飲み物でも如何ですか? 私としては故郷、カリフォルニアのワインを是非味わって戴きたい処ですが‥‥」
 静かな黒い眼が、まるで胸の内まで見通す様。

 血よりも紅い液体が、なみなみと注がれたワイングラス。芳醇で鮮烈な若い香が、これを持つ者の鼻腔をしっとりと覆い包む。
「さて、次のゲームの舞台ですが、折角ですのでまたショアに皆様を送り出させて戴きます。と申しますよりも、当面、ここがその舞台になる様で御座います」
 闇太郎が言葉を続けた。
「何しろ、店の方と致しましては、余りに大きな負けにショックを隠しきれないとの事で御座います。そこで、是が非でも負けを取り戻したいと、同地での勝負に固執する次第で、皆様、暫しの間お付合い願って宜しいでしょうか?」
 それは、海に祝福されたショアの地を、破滅の淵へと貶めたいという暗い欲望の現われ。既に闇の策謀がそうと判らぬ形で張り巡らされている証。
 闇太郎は何かを試すように問い掛ける。
「では、宜しいですね?」

●恋人達の岬
 ショア湾の南端、鋭く突き出したゴロイの岬には、ちょっとしたスポットがある。そこを、地元では恋人達の岬と呼ぶ。
 この地の領主、キャプスタン・ゴロイ・キールソン男爵は、メンヤード伯爵家より代々この地の管理を任された由緒ある家柄。
 岬にある小さな塔を管理し、夜になると松脂たっぷりのかがり火を燃やし、海の指標を長年に渡り維持して来た。
 キールソン家の邸宅は岬から少し離れた所にあり、小さな漁村を五つほど所有している。その内、三つを配下の騎士に任せ、一族で二つの村を直接支配している。湾に面しているのはその内、直接支配している一つの村と、その統治を任せている二つの村。残りは霧にむせぶ外洋へと面す。

 ぷ〜ぱ〜〜ぷ〜ぱ〜ぷ〜〜〜、と合図のホルンを吹き鳴らし、小さな入り江へ小型の帆船がゆっくりと近付いた。鐘が鳴り響き、船の上では船員達が忙しく動き回る。すると、桟橋にある小屋から日焼けした不精ひげいっぱいの老人が転がり出、船員がもやい綱を放ると、それを巧みに受け取り、バタ足でゆっくりと誘導する。湾内とは言え、外洋に最も近いここでは波もそこそこある。
「お帰りなさいましぃ〜、若旦那様ぁ!」
 歯のまばらに抜けた口を大きく開き、老人は笑みで顔をしわしわにする。
「伯爵様のお役に立たれたとかでぇ〜、大旦那様もことのほか、お喜びでございますぅ〜!」
 桟橋の杭に手早く綱を巻きつけ、船をぐいぐいと引き寄せる。すると船上で待機していた7、8名の船乗り達が、手に手に綱を持ち桟橋に飛び降りるや手早く接舷作業を開始する。
 船が固定されるより早く、苦虫を噛み潰した顔のキャプスタンは桟橋に舞い降りた。
 それを迎えるべく老人は手もみして歩み寄り挨拶をするが、その表情に怪訝そうにする。
「おや、どうなさったんで若旦那様? 伯爵様に何かお叱りでも?」
「オーロ爺、それはやめてくれと何度も言ってる! もう私は30だぞ!」
「はて? 若旦那様は赤ん坊の頃から若旦那様で。他にお呼びのし様が御座いませんが?」
 うしゃしゃしゃと笑む老人に、キャプスタンは面倒くさそうに手を振った。
「ああ、もう良い。家の方は変わりないか?」
「はい。大旦那様はこの時期ですので、相も変わらず手足の痛みがお辛い様子で」
「そうか‥‥」
 ため息一つ、キャプスタンは歩き出し、すぐにピタリと足を止めた。
 その目線の先、桟橋と陸との付け根辺りに、三人の男が立っている。その真ん中の小柄な男が、すっと右手をかざし指を一本立てた。キラリ、金の輝き。
「ミミナー商会‥‥」
 にこにこと笑む東洋風のその男は、屈強そうな男二人を従え、南国風のカラフルな礼服に身を包みキャプスタンが近付くのをじっと待っている。黒ブチメガネがキラリと輝く。
 キャプスタンも六名の騎士を引き連れ、臆する事無く歩み寄った。

 二人とも面差しが狐顔っぽく、どことなく雰囲気が似ている。
「これはこれは、男爵様。どうなさいました? お顔の色がすぐれませぬ様で」
 うやうやしく一礼する男に、男爵は不機嫌そうに相手の名を口にした。
「龍男・汗(ナガオ・カーン)、何時ここに?」
「はい、昨晩から。大旦那様にはじっくりお話をさせて戴きました。先日、ショアでお話をさせて戴いた件で御座います」
 そして、ナガオは右手の人差し指一本で天を差し、ミミナー商会のキャッチフレーズを口にする。
「一つ! 時は金なり、で御座います。大旦那様も、若旦那様さえうんと言うならばとおっしゃっておいでですよ」
 ナガオが嫌味っぽく口にする、ある言葉に眉を寄せ、キャプスタンは振り切る様に歩き出す。
「その話は後日で、と言ったではないか!?」
「そう。それでこうして足を運ばさせて戴いている訳で御座いますよ。あれを是非、うちでと‥‥」
 追いすがる様に、同じ歩調で歩くナガオ。
「それに、で御座いますよ。実はある物が手に入りまして、これが絶対に男爵様のお役に立つ事、間違い無し!」
 片目でウィンク、びっとナガオは指を一本立てる。
「ここだけの話、一度私どもの船へご足労戴き、物を確認して戴きたいので御座います」
「ショアに停泊中の、あれにか?」
「はい、で御座います。少々、お耳を拝借‥‥」
 にっこりと笑むナガオはキャプスタンの耳元で何事かを囁いた。すると、キャプスタンは大きく目を見開き、少しの間考えを巡らせた。
「判った。一度見に行こう‥‥話はそれからだ‥‥」
「お待ちしておりますよ。がっぽり稼いで、一緒に幸せになりましょう!」
 そう言ってほくそえみ、ナガオはキャプスタンを見送った。

●ゴロイの入り江 1日目
 夕映えに染まる入り江に、忽然と紅い輝きを灯す、闇より黒い扉が忽然と姿を現した。
 その扉が開くと、ずしゃりと重い足音が。
 様々な武装を身にまとう冒険者達の一団が、人気に寂しい漁村へと、ゴロイの村へと現れる。
 ある者は馬を引き、ある者はペットが足元を駈け回る。
「さて、どこから調べるか?」
 不敵な笑み。愛らしい瞳。様々な気配が交錯し、闇のゲーム、第二章がスタートした。

●今回の参加者

 ea0163 夜光蝶 黒妖(31歳・♀・忍者・人間・ジャパン)
 ea1128 チカ・ニシムラ(24歳・♀・ウィザード・人間・イギリス王国)
 ea1716 トリア・サテッレウス(28歳・♂・ナイト・人間・ビザンチン帝国)
 ea2253 黄 安成(34歳・♂・僧兵・人間・華仙教大国)
 ea2504 サラ・ミスト(31歳・♀・鎧騎士・人間・イギリス王国)
 ea8745 アレクセイ・スフィエトロフ(25歳・♀・レンジャー・ハーフエルフ・ロシア王国)
 ea9449 ジム・ヒギンズ(39歳・♂・ファイター・パラ・ノルマン王国)
 eb4141 マイケル・クリーブランド(27歳・♂・天界人・人間・天界(地球))
 eb4245 アリル・カーチルト(39歳・♂・鎧騎士・人間・天界(地球))
 eb4565 難波 幸助(35歳・♂・天界人・人間・天界(地球))

●サポート参加者

ソウガ・ザナックス(ea3585)/ 利賀桐 真琴(ea3625)/ ファル・ディア(ea7935)/ シャリーア・フォルテライズ(eb4248

●リプレイ本文

 煌めくガラスケースの中、黒い円盤がゆらゆらと回り、地球のの音楽がザリザリと響いていた。陽気なだみ声が、金管楽器のスローなリズムに、ヘローとダリルへ挨拶する。
 扉を開く真っ赤なバニーガールのリリムが愛らしく微笑む。それは完璧な微笑。

「それでは皆様、グッドラック」
 恭しく闇色の戸口にて一礼する染之助闇太郎。漆黒のタキシード。その向こうは茜差す海。波の砕ける音が、潮風に乗って吹き込む。闇太郎は静かな声で宣言する。
「三日後に、またお会いしましょう」
 緊張か、無言で次々と戸口をくぐる冒険者達。その中にあって黒衣の美女が一人、その歩を止める。
 夜光蝶黒妖(ea0163)。
 暴力的なボディラインに無情の瞳。歯車のかみ合わぬ機械人形の如く、艶やかな唇は人語をつむぐ。
「また‥‥闇のゲーム開始‥‥か‥‥。ねぇ‥‥闇に身を堕とすのは‥‥どんな感じ‥‥なんだろうね‥‥?」
 その問いかけに、闇太郎は小首を傾げ、すっと上体を起こした。黒曜石の如き闇色の瞳。その奥にちろちろと揺れる何か。
「人は産まれた時から闇の中‥‥光の中にあって闇を求めるのは、その性ではありませんか? 黒妖様、闇は虚無と似て非なるモノ。闇に潜む虚無にお気を付け下さいませ‥‥」
 一瞬の沈黙。
 僅かに開いた唇が、何事かを洩らさんとしたその時、陽気な叫びが店内に響き渡った。

 脳をハンマーで殴打したみたいな、濃密な甘い香りに、アリル・カーチルト(eb4245)は天国への階段を一気に駆けた。
「一晩だけなんて‥‥言わないで‥‥」
 眼前に迫る破滅の美貌、リリムの青く潤む瞳が、その柔らかな指が、火ぶくれする程に熱い身体が、アリルの血を瞬く間に沸点へと誘い、その肉も骨もぐずぐずに床へ散華させた。
 びぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃん‥‥
 細かな振動音にハッと我に返る。アリルは戸口の床に腰を落とし、呆然と天井を見上げている自分に気付く。春まだ早い、ゴロイの風が吹き付ける。
 スペードのエース。
 戸口に突き立つ一枚のカード。
 リリムはその愛を語る為に形作られた真っ赤な唇を尖らせ、抗議の声をあげた。ご丁寧に、涙まで浮かべ。
「どうして!? 彼から誘って来たのに!」
「彼はまだプレイヤーです。ゲームをプレイする以上、仮令、神であろうと悪魔であろうとゲームのルールには従って戴きます。まさか、最低限のルールも護れないなどと、情けない言の葉を?」
「だって、だって彼は狂王子のしもべよ! 半分、魂を売り渡してる様なものじゃない!?」
「それはどうでしょう? それが心から望んでだとしても。まだ残り半分は彼のものです。さぁ、その名にふさわしく、あなたの役目を演じて下さい」
 あくまで静かな闇太郎に、リリムはしぶしぶ。
 慌てて立ち上がったアリルは、上擦った声で陽気に振舞って見せた。
「へいへい、ジョークだって。魂取られそうだしな」
「ごめんなさい‥‥」
 アリルに向けられるリリムの潤んだ瞳は、年頃の女性のそれであり、先程の淫靡な魔力は微塵も感じられなかった。ただ、そのあまりに細く、弱々しく震える肩が強大な引力となって。
 右手を左手がわっしと掴み、押し留めた。
「ま、俺はあの王子様に義理立てする気あんまねぇし‥‥」
(「つーか、もう既に命懸けのゲームなんだよなー、ヤレヤレ、洒落になんねぇこった」)
 転がる様に店から飛び出すアリル。正に身を裂く想い。うつむくリリムは、赤い舌先をチロリと覗かせ、ゆっくりと唇を舐めた。
 それを見送り、最後の一人となった黒妖は音も無く歩き出す。
「お話の途中に申し訳ございません」
「‥‥単なる‥‥興味だよ‥‥。‥‥多分、俺が‥‥あの中で‥‥闇に‥‥一番近いだろうから‥‥ね‥‥」
 深々と頭を下げる闇太郎に、黒妖は一瞥投げかけた。

●ゴロイ村 一日目
 風除けの分厚い石塀の、屋根が平べったい家が肩を並べる。
 夕暮れともなると、煙突からは炊事の煙がもくもくと立ち昇り、何とも空腹を刺激するえもいえぬ香りが漂い出す。
 枯葉や小枝が燃え、焼けた魚の油の臭い、小魚や海老、貝や蟹等をぐつぐつ煮込む煮汁の匂い、雑穀が炊き上がるほんわかとした湯気の香り、それらを囲む人々の団欒が確実にそこにある。

 ぼろろ〜ん‥‥
 ぼろぼろろ〜ん‥‥
 魚脂の燻る薄暗い部屋。隙間風に炎が揺れる。
「すいません。すっかりお邪魔してしまって」
 にこやかにリュートベイルを爪弾く青年、トリア・サテッレウス(ea1716)は、得意の音楽を武器にそんな団欒の中へ溶け込んでいた。
「いやぁ〜、天界の音楽ってのは面白いもんだでなぁ〜」
「さ、さっ、暖かいうちにどうぞ。どうぞ」
 地べたへ車座になる老夫婦の一家。その息子夫婦達合わせて十数名が、大きな板に盛り付けた料理を囲む。その中にトリアも混じり、大きな手、小さな手、しわしわの手、みんな素手でつまんだ。
「お兄ちゃん、後でまたお歌聞かせてね」
「いいですよ。次はとびきりのをお約束しましょう」
 ぺろぺろと指を舐め、にっこり笑う女の子。くしゃくしゃの髪に、そばかすいっぱい、無邪気な瞳。トリアの膝に遊び、甘えてくるのを、母親らしき女性が笑いながらたしなめる。
「いいんですよお母さん。でも、陸に比べると食が豊かですね。魚や貝は獲れたてでとびっきり甘く、身はぷりぷりしててとっても美味しいです。ウィルの王宮でもこれ程の料理は難しいと思いますよ」
「まぁ、聞いたかい! ありがとうよぉ〜!」
「ぎゃはははっ! ひぃひぃ! うちのメシをほめすぎじゃよ!」
 膝に乗せた歯の生えそろわぬ孫の頭を撫でながら老人が笑った。
「やっぱ、若旦那様のお陰じゃよなぁ」
「そうじゃねぇ〜」
「あれから毎日豊漁続きじゃ。ホンに精霊様、若旦那様じゃて」
 ひゃひゃひゃっと嬉しそうに大笑い。一曲奏でると、自家製だと山葡萄の酒が出た。酸味がきつく、香りも鮮烈だった。
(「随分とまぁ、領民には慕われているみたいですね‥‥」)
 ひとしきり話をしてみて一人身である事以外、悪い噂を聞かない。
「岬は何かあるのですか?」
 すると、大人達はニヤニヤ。
「そりゃぁ〜」
「なあ‥‥」
 夫婦で見つめ合い、すぐに照れて微笑む。
「まぁ、行ってみなさいな」
「行くなら一人で行っちゃぁ〜駄目じゃよ」
 そう言って、皆、顔をくしゃくしゃにして笑った。

●恋人達の岬
 夕闇が迫っていた。
 岬へと続く海沿いの一本道。風は凪いでいた。
 右手には木々がうっそうと繁る斜面、左手には波が砕ける岩場が続き、半時ほど歩くと前方に塔の灯りが見えて来る。
 ノワールの扉をくぐり、真っ先に岬へと向かった黒妖とアレクセイ・スフィエトロフ(ea8745)、そして二人に置いてかれまいと急ぎ足のチカ・ニシムラ(ea1128)の三人は、薄暗がりの中を行く。
 チカはこのゴロイの地に降り立ってから、不思議な違和感を感じずにはいられなかった。ウィルの地は比較的風の精霊力が強い。だが、この岬に近付くにつれ、ぞわぞわと足元より吹き上がる様に、上位にある地の精霊力が下位にあたる風の精霊力を圧迫する。気の迷いかも知れないが、風のウィザードであるチカはそんな息苦しさを覚えた。
 それは岬に出る頃には決定的だった。
 岬の先端にある石の塔を見下ろす大きな崖が、星空をくり貫く漆黒の影となってチカの眼前にそびえ立つ。黒妖とアレクセイは何事も気付かず、波が洗う岩場を塔へ向かって歩いてゆく。
 僅かな星明りの下、チカは興奮を隠せず独り言。
「うみゅー‥‥これってイギリスと同じ‥‥パワーポイントだわ‥‥凄い地の精霊力‥‥」
 故郷にあるストーンヘンジや、不思議と精霊力の集まる地点、それと良く似て、目の前の崖全体から立ち昇る様であった。
「アトランティスにも、こんな所があったんだね‥‥」
 崖へとまるで魅入られた様に歩み寄る小さな影。岩肌にそっと手を触れ、徐に両腕を開きおしいだく。頬に伝わる岩肌の温もり、それは大地の息吹。総毛立ち、ため息を洩らした。

 片や塔へと赴いた二人は、夜警の兵士達に声をかけた。
 塔の門は兵士が一人通れれば良い程の狭い扉。その青銅の止め具はかなり腐食が進み、簡単に破壊出来そうに思えた。
 壁の厚みは充分にあり、そう簡単には倒壊しないだろう。
 灯火は5m程の高みにあり、そこに4名程の兵士が居た。
 逆光になって顔ははっきり見えない。されど兵士達の言葉の端々からにやついた気配が伝わって来る。
「で、女二人でこんな夜更けに何の様だ〜!?」
「わりぃが、ここにいるのは、みんなかかあ持ちだぞ〜!」
 次々と投げかけられる野卑た言葉を、アレクセイは笑顔のシールドで受け流し、早々に切り上げようと幾つかの質問を投げ返す。だが、兵士達は勝手に異様なまでの盛り上がりをみせる。くらくらしてきた‥‥
「アレクセイ‥‥」
「ええ‥‥ねぇ! どうしてこの岬は『恋人達の岬』って呼ばれるの!?」
 すると、兵士達は不思議そうに問い返して来た。
「おいおい、何の冗談だね!? あんたら、子宝が欲しくてこの岬に来たんじゃないのか〜!?」
「え、ええっ!!?」
「‥‥おう‥‥」
 何となく納得。ぽんと黒妖は、手を叩いた。

●男爵の館
「ああ、こりゃぁ〜酷い痛風だ! こいつはいけねぇぜ!」
 腫れ上がった指や足などの関節を触りながら、アリルはあっけらかんと口にした。
「つ〜ふ〜? それはどんな病なのかね?」
 白髭ぼうぼうキールソン家の大旦那、シュラウド老は痛む身体をよじり、寝台より身を起こそうとする。苦痛に歪む、深い皺の顔。鷲の様に大きな鼻。白く濁りかけた瞳が、鋭くアリルに問い掛ける。
「ようは小魚や貝の食べすぎじゃん。煮詰まったスープみたいに、血の中がどろどろして悪さをするんだぜ」
「ほう、他の医者は栄養のあるものをどんどん摂れと言っておったが、天界の御医師殿は全く逆の事をおっしゃる」
 半信半疑。そんな顔で見返す老人に、アリルは慣れた口調でこの世界の人に判りやすい言葉を選んで言い聞かせる。
「まぁ、栄養の摂り過ぎだ。海草や根菜、雑穀などを中心の食事に切り替えてだな。水分を余計に摂る様、心がけてくれ。小便いっぱいして、身体の外へ過剰な栄養を出す、といった事だ。卵やにこごりとか絶対食べちゃ駄目だ。酒も控えてな」
「う〜‥‥それは、ずっとかね?」
「ああ」
「少しぐらいはいいんじゃないのか?」
「少しも駄目だぜ。そうしねぇと、終いにゃ起き上がれなくなるぜ。尤もこの病、上手くつきあえば他人の倍も長生きできる。孫の孫の顔まで見れるかも知れんぞ」
 アリルがさっと立ち上がると、部屋の戸口に立つオーロ爺が、シュラウド老に呼び寄せられる。シュラウドは枕の下から何かを取り出し、それをオーロへ。そしてオーロが満面の笑みでそれをアリルの掌に握らせた。
「これは大旦那様からの‥‥」
「先生は口が悪いし態度も悪い。最悪だ。だが、高い診療を求めるでもなく、高価な薬を売りつける訳でもない。そこがいい」
 少しふてくされたシュラウド老の言葉に肩をすくめ、アリルは掌のものを懐へ収めた。
「そりゃぁ〜どうも。仲間にその辺が五月蝿い奴がいるんだが、なかなかこれが直らねぇ。まぁ性分って奴で。さっきも、解説しよう! なんて長々と話始めるんだがこれがまた長ぇ!」
 おっとと口元を押えるアリルに、シュラウド老も流石に苦笑。
「今宵は当家へ泊まっていくが良い。部屋を用意させよう」

 退室したアリルは、そのまま庭先へ。
「若旦那様、大旦那様の診察が終わりましたでな」
 オーロ爺がすぐその後ろに着いて来る。
「成る程、オーロ爺が連れて来た天界人の医師とは、お前達の仲間という訳か」
「よっ、やってるじゃ〜ん」
 星明りの下、僅かな魚脂の灯りに照らされ、黄安成(ea2253)とマイケル・クリーブランド(eb4141)の姿が、キャプスタン・ゴロイ・キールソン男爵と共にあった。
 ここからだと夜の海がよく見える。
 マイケルが杯を掲げた。
「お疲れ」
「お先にじゃ」
 下戸の黄は、手をあげる。
「アリル殿、父上の容態は?」
「ああ、まだ大した事は無いぜ」
 空いてる素焼きの杯に、勝手に酒らしき液体を注ぐアリル。そのまま一口、その独特の味に変な顔をする。
「くはぁ〜‥‥生活習慣病って奴だな。食生活さえ気を遣っていれば当面は問題無いぜ」
「かたじけない」
 深々と頭を下げる男爵へ、アリルは片目で様子を見る。
「何、良いって事よ。まぁ、ついでにおたくの領地をずらっと覗かせて貰うぜ。医療体制ってのが気になるからな」
「必要なモノがあったら言って欲しい。貧乏領主故、大した事は出来ないが、それでも出来るだけの事はしよう。私は明日の朝一でショアへ行くが、家には父上も居るので話を通しておこう」
 頷く男爵とアリル。そこで、オーロ爺が恭しく頭を下げた。
「何かありましたなら、ワシも桟橋の番小屋に居りますで、声をおかけ下さいましよ。では若旦那様、お休みなさいませ」
「もう暗い。足元に気を付けてな」
「はい。では皆様、お休みなさいませ。若旦那様を宜しくお願い致しますじゃ」
「オーロ!」
 ぺこぺことどうにも嬉しそうに頭を下げて回るオーロ爺。男爵の剣幕にさっさと暗がりへ姿を隠す。
「全く‥‥」
 それを横目にマイケルは手酌で杯を満たす。
「どうした、かなりカリカリしているじゃないか?」
「何か悩み事でもあるんじゃないか? あれば相談に乗るぞ」
 黄も続けて問い掛けるが、どうものらりくらりと手応えが無い。
「女か?」
「ブッ!」
 マイケルの一言に、何故か大きく反応するアリル。一同、不思議そうにアリルを見る。酒の回りが速いのか、妙に顔が赤い。
「お前に聞いてないぞ」
「う、うるせぇっ!」
 苦笑しつつ、男爵は杯を空けた。
「私も少なからず領民を抱えているからな。その暮らしぶりや今後の事を考えると、少なからず悩みもある。だが、それは領主の義務として当然の事だ。皆、重くなる一方の税の中、よくやってくれている。それに、その辺の心配は希有で済みそうだ」
「あれ以来、湾全体で豊漁続きだそうじゃな」
「お陰で持ち直してくれている。だが、網を破られた領地はまだ大変だよ。実は中古の網があると、商人から話を持ち込まれているのだが、果たして使えるかどうか。まぁ、それで明日、ショアの商人を訪ねるのだが‥‥」
「実物を見に行くのじゃな?」
 黄の言葉に頷き、男爵はこうも続けた。
「皆、ショアの湾に生きるウィルの民だからな」
「へぇ〜へぇ〜、税を納めぬ流民達はウィルの民では無い訳だ。ご立派ご立派」
「そういった流賊から、ウィルの民を護る事は私の務め。アリル殿もその辺の事情を汲み取って戴きたい。天界とは事情が違うのですよ」
 歯に衣着せぬアリルの物言いに、男爵は平静に答える。その様に目を細め、マイケルは心に引っ掛っていた事を尋ねた。
「では、マリンの事はどうなんだ?」
「マリンか‥‥仕方ないさ。あのままでは騒ぎの首謀者として、死罪は免れなかった。あの娘が獄中死という事で、捕らえた流民も海へ叩き込むという懲罰刑で済ませる事が出来た」
「俺が聞いているのは、そんな建前じゃないぜ」
 ぐいっと男爵の袖をマイケルが掴む。それを振り切り、男爵は冷笑を浮かべた。
「聞いた話では、天界人マイケル殿は流民どもが注目する中で、女をこっぴどく振ったらしいじゃないか。もっぱらの噂ですぞ」
「話を逸らすな! 仲間からマリンの死に責任を感じているようだったと聞いたんだ!」
 激高するマイケルが男爵の胸ぐらを掴み絞り上げると、男爵は目を細めて目線を逸らす。
「取調べの最中に‥‥死なせてしまったのは私の責任だ」
「ほお〜、あれが取調べか!?」
「悪いか! あのまま死なせるには忍びないと、私の言うがままに取調べに応ずれば、本当の首謀者が別にいるという形にして、命だけは助ける事が出来たのだ!」
「下心丸出しで言い寄ったんじゃねぇのか!? それで死なせてりゃ世話ねぇぜ!!」
 もんどりうって倒れる男爵。殴った拳をそのまま、飛び掛るマイケル。その下腹を蹴り上げ、逆に馬乗りになろうと男爵は低姿勢のまま掴みかかるが、マイケルは寸での処で横に転がって逃れた。
 それを眺め、黄は手を合わせて経を詠む。
「やれやれ、始まってしまったのう‥‥南無〜」
「へぇ‥‥アリルの旦那‥‥」
「お、サンキュー」
 仲間から応急手当セットを手渡され、アリルの準備も万端だ。残る片手で酒壺を護り、そのままぐいっと一気呑み。
 家人も何事かと顔を出すが、後ろから姿を現した大旦那が暫くやらせておけと指示。
 この決着は数分後、二人とも酔いが手伝い、目を回して終結する。顔面が赤紫色に腫れ上がり、その夜は共にかなりうなされた。

●隣のキール村 二日目
 夜明けを迎え、右手に海を見ながら馬で少し走ると、小さな入り江に村があった。船は漁へと全て出払っていた。
「えっ!? こっちが本家筋なのかよ!?」
「あんまり大きな声で言う事じゃないよ。それにずっと昔の話さぁ‥‥」
 波打ち際で貝を採る老婆に話を聞いたジム・ヒギンズ(ea9449)は、治めている騎士の評判を尋ねると、変な顔をされた。
「あんた、馬なんか連れて何者だい? お館様の評判だって?」
 ジムを睨みつけ、老婆はそそくさと逃げ出してしまった。

●オーロ爺
 朝を迎えるより早く、ゴロイ村の漁船は一隻残らず自分達の仕掛け網へと、漁へと出発する。それを桟橋で見送るオーロ爺はあくびを一つ、カンテラ片手によたよたと歩く。
 すると、その行く手を遮る様に腰に小太刀を差した一人の赤毛の青年が立ちはだかった。
「おや? あんた何者じゃい? 見かけん顔じゃな‥‥」
 警戒するオーロ爺に、青年は名乗った。
「俺は難波幸助(eb4565)! 天界人だ!」
 筋肉質の肉体を誇張し胸を張る幸助。
「ふむ、天界人殿かね。あんた、いや貴方様はもしや、あの超有名な天界人マイケル殿の仲間かね?」
「あ、ああ、俺と奴は共にこのショアの海の為に働いた仲だ!」
 するとオーロ爺はにっこりと微笑み、大きく頷いた。
「そうですか、そうですか。天界人マイケル殿も、昨晩から若をお訪ねにお屋敷の方へお見えになってお出でですじゃ。天界人ナニワ殿は、こんな朝早くからこの爺に何の御用で?」
 マイケルの知り合いとなると途端に態度を変えた、その豹変ぶりに戸惑いを覚えつつも幸助は答えた。
「実は、漁に協力したい。最近の海の様子や、商会等の出入りによって、漁に変化が出たか調べたいのだ」
「へぇ、それは構いませんが、明日で宜しいでしょうかの? 海の様子はもう爺が子供の時分から見た事も無い程の豊漁続きで、ゴロイの村ではもうこの数ヶ月の不漁が嘘の様でございますじゃ。お手伝い戴けるとは、皆喜びますじゃ。外ゴロイの方でも、その先のステム村でも、湾内のキール村やチラー村でも皆嬉しい悲鳴らしいで、どこも男手が欲しくて欲しくて仕方ないのですじゃ。しかし、天界人殿にお手伝い戴けるとは勿体無いお話で」
 恭しく答えるオーロ爺は、桟橋の番小屋へと幸助を誘った。
「商会とは、ミミナー商会の事でしょうか? 何やら以前に調査の為と、何人かが岬の方で泊り込んでらっしゃいましたが、それ以外でしたら、昨日、若にお会いにいらして‥‥ああ、若旦那様ぁ〜!!」
 突然、手を振り出したオーロ爺。幸助は、陸の方をみやると、数人を引き連れた男爵の姿を認めた。そして、その背後に見知った顔。
 話している内に徐々に世界は虹の光彩に彩られ、アトランティスの夜明けが始まっていた。
 桟橋を歩いてくるのは‥‥西瓜の様に腫れ上がった顔を包帯でぐるぐる巻きにした、男爵とマイケル、そして無傷の黄の三人だった。
「ふふぇふぉひゅんひひゃ、ひぇひひぇひひゅひょひゃ?」
「ひょほ、ひょうひゅへ。ひょひゃひょひゅ」
「こやつら二人の事は気にするでないのじゃ。昨晩は少し酒が過ぎたでな。これから我々はショアのミミナー商会へ行くのじゃが、幸助はどうするのじゃ?」
「お、おれは‥‥」
 ちらと振り返りオーロ爺の顔を見ると、満面の笑み。
「漁師さん達のお手伝いをしています」
 ぼそりと答え、がっくり。三人が小型の軍船で出掛けるのをデジカメに収めながら見送った。

●恋人達の岬
 昼間になりアリルが岬を訪ねると、まるで瞑想する様に、チカが一人ぽつねんと崖の上に座っていた。
 サングラス越しにそれを見上げ、思わず呟いた。眉に深いしわを作る。野性味を帯びた、男臭さがそこにはあった。
「これがソウガの言ってた奴か‥‥すげぇな‥‥」
 見上げる崖の岩肌には、一面に何やら細かい傷が。近付いてみれば、それは様々な絵だった。
 岩肌に、石か何かを使ってこつこつ彫った岩絵。その文様は、船や魚、鳥に動物、そして最も多いのが男女の姿。それが高さ幅ともに少なくても十数mはある岩肌いちめん、おびただしい数が彫られている。
「成る程、これが恋人達が願いを込めて互いの姿を彫れば、必ず結ばれ幸せになれるという言い伝えの、恋人達の岬か‥‥子宝祈願にも利くと言う‥‥正に二人で行う共同作業〜‥‥」
 唸りをあげ、アリルはまだまだたっぷりと空いている未開のキャンパスに手を置いた。妄想が脳裏を走る。
「うみゅ〜、チカと一緒に共同作業する?」
 はっと我に還るアリル。慌てて声の方へ振り向くと、すぐ目の前にチカの真っ青な瞳が、くりくりと覗き込んでいる。並の男なら抱き締めずには要られない程の愛くるしさで。
 果たして、どれ程の時間を妄想に費やしたのであろうか?
 チカは妖精をも魅了するのでは無いかと思わせる満面の笑み。
「恋人達の岬って何か凄いロマンチックな名前だけど、そういう言い伝えがあるんだ〜、やっぱりここって、すっご〜い☆」
「はっ!? お、俺は一体何を口走っていたんだ‥‥?」

●船の上のリュートベイル弾き
 穏やかな海に、屋根付きのボートが50艘程集まっていた。
 噂を聞きつけた人々が次々に集い、まるで一つの小島の様。
 みな、うっとりとその楽の調べに聞き惚れていた。
 波間にあってなお胸へと迫り来る確かな旋律。それでいて普段の生活では覆い隠している筈の、心の柔らかな部分へ直接触れて来る繊細な調べ。時には悲しく、時には喜びを、そして静寂が‥‥
 そっとリュートベイルを置くと、トリアの周りには大勢の人達が集まっており、一斉に拍手喝采。どっと盛り上がり一気に海の上での酒盛りへと突入する。
「やぁ、これは参りましたね‥‥」
 予想だにしない展開。代わる代わるにトリアの元へ人がやって来てはかなり感激したらしく、著しい興奮に目を輝かせ、口早に褒め称え、愛想笑いを返すと満足したらしくまた別の人へと交替する。そんな風に、他人に振り回されるのも何となく気分が良いなぁ〜等と思っていると、見知らぬ誰かに抱きつかれキスの雨を受けたりと、あっという間に時が過ぎてゆく。
「へぇ〜、そうなんだ〜。トリアさん、今、あの男爵さんのトコにいるんだね。でも、そこの岬って面白そうだね」
「ええ、そうなんですよ。今度はそこが舞台になっちゃいました」
 まったりとした時間から、いきなり引き戻された。
 目の前には、あの流民の娘、マリンが笑っていた。
「じゃあ、今度行ってみよ〜っと」
「えっと‥‥まぁいいか‥‥」

●試合
「ジ・アース、イギリスはキャメロットが騎士、サラ・ミスト(ea2504)と申します。先日は友人が男爵殿に大変お世話になりましたので、ご挨拶に伺いました。」
 そう言って男爵の館を訪ねたが、出迎えたのは初老の大旦那、シュラウド老だった。聞けば、騎士達はそれぞれの領地の様子を見に、各館に戻っているとか。
 一通り話をした上で、手合わせの相手を紹介して欲しいと願い出ると、シュラウド老は立てかけてあった板金鎧とその両手剣に手を伸ばし、自分が相手をしようと言い出した。
「先に言っておく‥‥私は冒険者の中では弱い部類に属する」
「ふむ、ならば老いたりとは言え、シュラウド・キールソンがお相手致そう。女騎士と病んだ老騎士、丁度良く吊り合いも取れるというもの。暫し待たれよ」
 家人の手伝いもあってようやく鎧を身にまとったシュラウド老は、よろけつつもサラを庭先へと案内する。
「試合なれど、ワシは女相手にオーラ技を使おうとは思わぬ。サラ嬢は存分に己が力を示すが良い」
「貴殿のお覚悟お見事!と言いたい所だが、私に手加減無用!」
 プライドを刺激され、カッとなるサラだが、その様を見てシュラウド老は2mもある刀身を隆々と、目の前に垂直に立てて構えた。
「その意気込みや良し! いざ!」
 唸る大剣。受け流す盾が、一撃でひしゃげた。
 身の丈は頭一つ分、その裏力たるや、腕の太さからして推して知るべし。
「くっ!」
「はぁはぁ、どうした? 受けるだけでは、試合にならぬぞ!」
 肩で大きく息をするシュラウド老。だが、その打ち込みは苛烈。たちまち盾を弾き落とされ、反撃は剣で受け止められる。
「喝!」
「うあっ!?」
 切り結んだ瞬間、身軽な女の悲しさか、シュラウド老の震脚に、どんと衝撃がサラの五体を剣ごと後方へ吹き飛ばす。
 辛うじて踏み止まるサラ。再度の斬り込みを剣で受けるや、シュラウド老は全身を一回転。たちまち刀身は巻き込まれ、サラの腕から弾け跳んだ。
 ゆるりとその切っ先を向けられ、サラは降参した。

●ミミナー商会の船
 黄とマイケルは、男爵と共に港へ泊まる一隻の船へ案内された。フィギュアヘッドは冗談みたいに指を一本突き出しただけの、商会のシンボルともいうべき右手。そして、船体の縁取りは黄色。
 ショアの港にあって異彩を放つ大型帆船『ビッグマネー』号は、荒くれ者の水夫達に護られていた。
「ど〜されました、若旦那様?」
 開口一番、ミミナー商会の主、ナガオ・カーンの口から呆れた声が飛び出した。
 弱々しく腕を上げて挨拶する男爵は、早々に船の倉庫へと降り立つと、だだっぴろい船底の倉庫に、巨大な網を見つけ、興奮を押える事もせずにそれへ歩み寄った。まだ走るのが辛い様子。
 黄とマイケルも近寄ると、異様に白い網がどっさりと山積みになっていた。しかも鼻が曲がる様な酷い匂いだ。
「どうですか〜? 若旦那様」
 にこやかに近寄るナガオに、男爵は怪訝そうにその網を手にする。
「これは何か塗ってあるのじゃろうか?」
 黄が代弁して問いかけると、ナガオは満面の笑みで人差し指を一本立てた。
「良くぞお気付きになられました! この網はですね、ザバで手に入れたんですが、特殊な薬品に溶かした鉛が塗ってあるんですよ! ま、あっちじゃ当たり前の事なんですが、こうすると、海草も、貝も、一切網には着かない! お手入れ要らずの魔法の網って奴です! 凄いでしょう!?」
 こくりこくりと頷く男爵。
「まぁ、これはうちとしてはサービスですよ。例の騒動で大変なんでしょう? 判ってますよ、その辺の情報はバッチリ入って来てますって。それを見込んで、うちとしてはご用意させて戴いた訳で御座いますよ。さぁ、今日にでもこれをお持ちになって、可哀想な領主仲間の所へ運んで行ってあげて下さいませ。その代わりにと言っちゃなんですが、例の契約の方をお忘れなくお願い致しますが」
 にんまりとするナガオのマシンガントーク。
 だが、男爵は首を左右に振って、手に取った網から手を離した。その手には、白い液体がべったりと。
 それから男爵は身振り手振りのゼスチャーで、ナガオに何かを伝え始めた。
「はぁ、自分、一人で、決める事は、出来ない? 相手の、都合も、確認、してから‥‥はぁ〜、まぁ多少はお待ちいたしますがね。うちもいつまでもこれをここで腐らせておく訳にはいかないんで御座います。他ならぬ若旦那様の為ですから、それは融通も利かせますよ。仕方ありませんねえ〜‥‥」

●ビッグマネー号 三日目
 夜陰に紛れ、見張りの目を欺き、二匹のメスネズミが黄色いチーズへと乗り込んでゆく。
 黒い影。アレクセイと黒妖は、音も発てずに船倉へと降り立った。異様な臭気が充満している。通常の船であっても確かに船底は臭いのだが、この船は更に輪をかけて臭かった。
 身振り手振りで、そっと二手に別れる。
 黒妖は網を、アレクセイは別の物を、それぞれに調べ始めた。
 黒妖は網を確認した後、懐より竹の管を取り出し、その網より滲み落ちる薬液を少しづつ集めてみる。
 アレクセイは床や壁を覆う脂を染み込ませた麻布にそっと手をやり、徐にめくってみた。そこには何かが引っかいた様な大きな痕が‥‥
 ハッとする殺気が二人を襲った。
 冷たい手が、黒妖の背に触れた。瞬間、指が肋骨の間に突き立ち、身をよじって肺を穿つのを防ぐが、ペキリと一本外れ鋭く痛む。転がり間合いを取ろうと跳び退るが、ピタリ付いて来る気配。
 片やアレクセイは、突然何者かに殴打され、その身を宙に舞わせた。ひらり、僅かにずらした打点がアレクセイの頭骨を粉砕から護るが、飛来する気配に二転三転、狂った平衡感覚にも関わらず、次々と床板を踏み割る烈脚を交わし、どんと背に懐かしい感触。
 巨漢の影二つ、二人を挟み立っていた。
 じくじくと血が、傷口より滲み出す。
「一先ず」
「逃げよう‥‥」
「殺!!」
 闇に影が交錯した。