希望の虹4〜暗闇の中で

■シリーズシナリオ


担当:マレーア4

対応レベル:8〜14lv

難易度:普通

成功報酬:2 G 49 C

参加人数:12人

サポート参加人数:3人

冒険期間:03月31日〜04月03日

リプレイ公開日:2006年04月06日

●オープニング

「逃げなくては‥‥逃げなくては‥‥」
 冷たい空気を割き、その女は駆けていた。裸足で踏むは冷たい雪‥‥その刺す様な冷たささえ感じる余裕がないくらい、女は必死だった。
 腕の中、唯一の生きる希望‥‥我が子の温もりだけを頼りに、逃げる。だが、女は気づいていた。自分に迫ろうとする気配に。そして、知っていた。追いつかれてしまったら、この腕の温もりは失われてしまう‥‥取り上げられてしまうのだと。
「この子は、この子だけは‥‥」
 愛した人は喪われた。だからこそ、この子だけは失うわけにはいかなかった‥‥それはあちらも同じだと、どこかで分かってはいたけれども。
 そして、女は足を止めた。このままでは逃げ切れないと、追いつかれてしまうと悟って。
「ここで待ってて‥‥追っ手をまいてきっと戻ってくるから」
 だから、言い聞かせた。我が子が凍えないように、自分の服を脱ぎ被せながら。子供はニコニコしながら「あう〜」と返事らしきものを返してきて‥‥そんな我が子を一度強く抱くと、
「ここにいて、ずっとここで待っててね」
 後ろ髪を引かれながら、女は再び駆け出した。
「やっと、追いついた‥‥っ!?」
 この寒さの中、薄着一枚の女。追いついた男は焦ったらしい。善良そうな顔に困惑と焦りを浮かべ説得に入った。
「別に、俺達はとって食おうってわけじゃないんだ。勿論奥様だって‥‥とにかく、こっちに。そこは危ない‥‥っ!?」
 それは一瞬の事。川べりに立った女が後ずさった時、足がもつれた。その華奢な身体が冷たい川に飲み込まれるのを男は呆然と見送り‥‥顔面を蒼白にしその場から逃げ出した。
(「ダメ‥‥あたしはまだ、死ねない‥‥あの子が‥‥待ってる‥‥」)
 決して深い川ではない。しかし、冬の川だ。冷たさに心臓が止まりそうに、意識が途切れそうになるのに、女は無我夢中で抗った。
「‥‥だいじょう‥‥しっかり‥‥っ!?」
 そして遠く誰かの声と、感覚の無くなった腕への強い力を感じて、女は意識を失った。

「パールちゃんの保護者、ですか」
 一人のご婦人が虹夢園を訪れたのは、ぽかぽか陽気のある日だった。
「ええ、そうです。私はパールの‥‥祖母に当たります」
 そこそこ名の知れた商家の夫人だと名乗った女性は、告げた。
「パールは亡き息子の忘れ形見‥‥私達もずっと、行方を捜していたのです」
 言外に事情ありを認めた夫人を、クリスは視線だけで促した。「若すぎる」と結婚を反対された息子が家を出た事、自分達に認めて貰う為仕事を頑張っていた息子が取引先のエヴァンス領で命を落とした事、残された孫を迎えに行ったが姿を消していた事、などを夫人は訥々と語り。
「嫁は‥‥若かったのです。結局子供を育てられず、こちらに放置してしまったのでしょう」
 可哀相な事をしました、悔恨を込めた呟きを落としてから、夫人は気を取り直すように問うた。
「それで、孫は‥‥パールはここにいるのでしょう?」
「はい。ですが少し体調を崩しておりまして、面会はまた今度改めてという事にしてはいただけませんでしょうか?」
 クリスは即断を避けた。夫人の言っている事が本当かどうかは分からないし、パールが体調を崩しているのは本当だったし。
「‥‥分かりました。では、また参ります。連絡して下さっても結構です」
 意外にも女性はそれ以上ごり押しをせず、一礼をして引き下がった。
「パールの事、どうかくれぐれもよろしくお願い致します」
 それだけは繰り返し、願いつつ。
「‥‥奥様?!」
「まぁ、ノア。そう‥‥あなたもここに居たのね」
 そして、その夫人を目にし驚いたのが、ノアだった。両親と仕事上の付き合いのあった商家の夫人。ノアにとっては懐かしくも‥‥胸が痛む再会だった。
「そんな顔しないで、ノア。言ったでしょ? あの子の事は‥‥あなたのせいではないのだと」
「‥‥ですが」
 俯いたノア、二人に沈黙が落ちる。重い沈黙が。
「パールは‥‥バートさんの子供、なんですか?」
 ただ一言、問うたノアに夫人は「‥‥ええ」とだけ応えた。

「何だかややこしい事になっているようですね」
 クリスの話を聞いたリデアは、困ったように手元に視線を落とした。
「実は、パールちゃんのお母さんらしき女性が見つかったと報告が入った所なのですが」
 事故なのか自ら身を投げたのか、冬の川で女性が保護されたのが丁度虹夢園が開校した頃‥‥パールが置き去りにされていた頃と一致するというのだ。
「その方はずっと意識不明だったらしいのですが、最近ようやく意識を取り戻したそうです‥‥ただ」
 言い淀み、リデアは溜め息をついた。
「どうやら、記憶を失っているらしい、と」
 助けてくれた男性の家で介抱されている‥‥それだけとっても状況は厄介だと、もう一つ溜め息。
「どちらにしろ、どう対処するにしろ、考えなくてはですよね‥‥何が一番パールちゃんの為になるのか、を」
 リデアに、クリスも真剣な面持ちで頷いた。だが、二人は気づかなかった。そんな二人を窺っていた子供‥‥ノアの気配に。
「ノアがパールを連れ出した?!」
 そして、虹夢園に動揺が走った。

「ノア君は勉強家だね」
 そう言ってくれたのは、本をくれた大好きなバートさん。
「うん! 僕大きくなったら父さん母さんの手伝いしたいんだ」
 バートさんは僕を眩しげに優しく見つめ、言ったんだ。
「そっか。‥‥うん、僕もそうだったな。ノアくんと同じくらいの頃からずっと」
「? 今は違うの?」
「‥‥そうだね、多分今も変わらないんだ」
 バートさんは、そして、そっと笑った。
「ウィルに帰ったら、もう一度両親と話してみるよ。彼女と子供の事、認めて貰えるように‥‥ありがとな、ノア君」
 その笑顔は今も胸に残っている。だけど、その笑顔は今は胸に痛い。だって「もう一度」は無かったんだ。盗賊に襲われた父さんの馬車、バートさんは僕を庇って命を落としたのだから。
 思い出さないように、キツくキツくした封印はけれど、ふとした弾みでほどけかけ心をかき乱した。そして、奥様との再会で封印は完全に解け‥‥蘇ってきた、痛み。
「死んだ人には償えない。だからせめて、生きている人に‥‥」
 許して欲しい逃げたい解放されたい、この苦しみから。ただその一念でノアは乳母車を押した。かつて何度か訪れた事のある、商家。だが、如何に利発な少年とて道を正確に覚えていられるはずはなく。
 しかし、パールを連れたノアは必死の面持ちで歩を進めていく‥‥暗闇へと。

●今回の参加者

 ea0502 レオナ・ホワイト(22歳・♀・バード・エルフ・イギリス王国)
 ea0907 ニルナ・ヒュッケバイン(34歳・♀・神聖騎士・人間・神聖ローマ帝国)
 ea0941 クレア・クリストファ(40歳・♀・神聖騎士・人間・イギリス王国)
 ea1458 リオン・ラーディナス(31歳・♂・ファイター・人間・ノルマン王国)
 ea1683 テュール・ヘインツ(21歳・♂・ジプシー・パラ・ノルマン王国)
 ea4358 カレン・ロスト(28歳・♀・クレリック・エルフ・イギリス王国)
 ea7095 ミカ・フレア(23歳・♀・ウィザード・シフール・イスパニア王国)
 ea7509 淋 麗(62歳・♀・クレリック・エルフ・華仙教大国)
 ea7511 マルト・ミシェ(62歳・♀・ウィザード・エルフ・ノルマン王国)
 eb4072 桜桃 真治(40歳・♀・天界人・人間・天界(地球))
 eb4097 時雨 蒼威(29歳・♂・天界人・人間・天界(地球))
 eb4191 山本 綾香(28歳・♀・天界人・人間・天界(地球))

●サポート参加者

クウェル・グッドウェザー(ea0447)/ 倉城 響(ea1466)/ ルエラ・ファールヴァルト(eb4199

●リプレイ本文

●迷い子を探して
「先ずは二人とも、深呼吸するのじゃ。そう‥‥少しは落ち着いたかの?」
 虹夢園を訪れたマルト・ミシェ(ea7511)が一番最初にした事は、リデアとクリス、責任者二人を落ち着ける事だった。
「‥‥はい」
「取り乱しました、すみません」
「良い良い。子供らを案じるがこその動揺じゃ‥‥じゃがの、こんな時こそ私達が冷静にならねば、じゃぞ」
 二人が落ち着くのを待って、やはり駆けつけたミカ・フレア(ea7095)は問うた。
「ノアに最近あった事、いなくなる直前の状況について教えてくれ」
「ノアに普段と違うところ、無かった?」
「わたし、見たわ。あのね、この間来たおばちゃんと話してて‥‥それからずっと恐い顔、してたの」
 ミカとクレア・クリストファ(ea0941)に応えたのは、アイカだった。
「成る程。じゃあそれが引き金になった可能性が高いな」
 ミカはリデアやクリスからも件の「おばちゃん」について一通り話を聞き、呟いた。
「家の場所は聞いてるんだな?」
 そちら方面を中心に捜索しよう、とミカ。
「他に、ノアさんが行きそうな場所の心当たりは無いですか?」
 問う事で、考えさせる事で子供達の動揺を抑えようと、淋麗(ea7509)。
「ううん。こっちに来てから外に出たの、この間のピクニックが初めてだったし‥‥それ以前の事は分からないけど」
「そうですか。なら、探す方向は決まりましたね、ありがとうアイカさん」
 礼を言うとアイカはちょっと顔をほころばせ、麗も頷いてやりながら皆を見回した。
「兎に角、ノアさんとパールさんの発見が先決です」
「はい。ノア君とパールちゃんを探すことに専念しましょう。今は焦っても仕方ないですから」
 同意するニルナ・ヒュッケバイン(ea0907)だが、その顔色は普段より青ざめているように見える。
(「心配なんだな、やっぱ」)
 そんなニルナに、リオン・ラーディナス(ea1458)は思った。子供達をこれ以上不安にさせないよう、気丈に振舞っているがやはり、ノアを案じているのだろう‥‥多分、この中の誰よりも。
「俺も‥‥俺も行く!」
 と、居てもたってもいられない様子で叫んだのは、ジェイクだった。
「遊びじゃないんだぞ。危険‥‥な可能性もある」
「分かってる。だけど、俺だって少しは役に立てるかもしれない‥‥目線とか先生達が気づかない事に、気づけるかもしれないし」
 真剣な顔だった。だから、ミカは一つ頷き、言い聞かせた。
「ただし、先生達から絶対に離れるんじゃねぇぞ?」
「僕も行く。ノアは‥‥ノア達は仲間‥‥家族、だから」
 怯えながら、振り切るように手を上げたのはチコだった。
「うん。じゃあチコ君は僕たちと一緒に行こう。でも、言う事は聞いてね」
 テュール・ヘインツ(ea1683)に頷くチコ。
「あたしも!‥‥あたしも行くわ、連れて行って!」
 そんなやり取りを見て、ルリルーも訴えた。
「ですが、あなたは女の子ですし‥‥」
 言いかけた山本綾香(eb4191)は、だが、思いつめた瞳に合い言葉を切った。チラリ、と仲間に目線で問う。
「‥‥いいわ。でも、決して私から離れない事。約束できるわね?」
 僅かな逡巡の後、真剣な眼差しで言い含めるレオナ・ホワイト(ea0502)に、ルリルーはこちらも負けないくらい真剣に、頷いた。
「先生‥‥」
「ダメです、貴方達はここにいて下さい」
 自分達も、と口々に言う子供達を留めたのは、カレン・ロスト(ea4358)。いつもの優しい顔に幾分厳しさをにじませ、思慮深げに言葉を紡ぐ。
「特にサナちゃん。未だ病み上がりなのですから。心配でしょうけど、私達を信用して残って下さい」
 ここでいつもの、柔らかな優しい笑みを浮かべるカレン。
「それにもしかしたら、ノア君達がひょっこりと帰ってくるかもしれません。その時に、ここに誰もいなかったら‥‥ね?」
 そこまでカレン先生に言われては、それ以上ワガママを言う事は出来なかった。
「分かりました。ここで先生達の帰りを待ってます‥‥だから」
「大丈夫、私達が必ず無事に連れ帰るわ」
 クレアは不安そうなサナの肩に手を置き、約束した。
「おにーさんが調査に集中できるように」
 その間に、時雨蒼威(eb4097)はクリスにカイザー烈ペン二郎・Xとサッカーボールを預けていた。
「‥‥」
 ペンギンに気づいた、猫のぬいぐるみを抱えたララティカがじぃっと見つめている。
「よろしく頼むぞ」
 カイザー烈ペン二郎・Xに囁く蒼威。子供達の気がが少しでもまぎれてくれると良いのだが、と願いながら。
「あいつなりに思うところがあったんだろうが‥‥無茶しやがる‥‥。ともかく、早いとこ見つけてやらねぇとな!」
 そうして、グッと拳を握り締めるミカに、同じ面持ちで桜桃真治(eb4072)は大きく頷いた。
「暗闇の中でも諦めなければ絶対にどこかに光が見つかるものだよな。子供達のためにも、母親のためにも私なりに頑張る!」
 光は諦めなければ必ず見つかる、と。

●大捜索
「赤子連れの7歳児もそういない、子供の足だしそう思うより遠くにはいないだろ」
 とにかく冷静に、蒼威に頷きそれぞれ散っていく。レオナと真治(+ルリルー)、ニルナとリオン、クレアと麗、ミカとマルト(+ジェイク)、テュールと綾香(+チコ)、そして、蒼威とカレンの組に分かれて。
「フェン、これがノア君の匂いだよ」
「便りにしてるからね」
 鼻先にノアの服を差し出すテュールと、真剣なチコに、テュールの愛犬は「オン!」と頼もしげに鳴き走り出す。
「とりあえず、お祖母さんの家の方向に進んでいるようですね」
「うん。このまま無事に進んでくれてたら安心なんだけど‥‥」
 その後を追いながらの綾香に頷き、テュールは表情を引き締めた‥‥チコと手を、しっかり繋ぎながら。
「サンキュ、ありがたく使わせてもらう」
 真治はリオンに借り受けたフライングブルームで空の人となると、双眼鏡で周囲を‥‥遠くまで確認し始めた。
「こう見ると、やっぱ広いよな」
 見下ろすウィルの町並み。季節柄か、通りを行く者たちの顔は皆、どこかウキウキと晴れやかで。
「だけど、見つけてやらなくちゃ‥‥どっかで泣いてる、今、苦しんでいる子供がいるなら」
 真治は、だから、目を凝らした。相方のレオナは地上で聞き込みに入っていた。
「すみません、乳母車を押した子を見ませんでしたか?」
 ノアの姿は目立つ筈‥‥レオナの予想通り、目撃情報は確かにあった。だが、虹夢園から離れるに従い、その足取りを追うのは難しくなっていった。
「ルートを外れてる‥‥厄介な場所に行っちゃってないといいけど」
 思わずもれた呟きに、繋いだ手がキュッと強く握られた。気づく、唇を噛み締めるルリルー。
「あたしが‥‥あたしがあの時、変な事言ったから‥‥」
「違うわ、ルリルーのせいなんかじゃない」
 レオナは手を握り返すと、気丈な笑みを浮かべて言った。
「大丈夫。先生達がこんなに頑張ってるんだもの、すぐ見つかるわよ‥‥見つけてみせるわ」
 ルリルーは俯いていた顔を上げると、「うん」と大きく頷いた。
「脇道で休んでるかもしれないしね、細かい場所も目を通して行こう」
「はい。あの、乳母車を押した子を見かけませんでしか?」
 リオンとニルナは地道に、確実にルートを潰していく。
「虹夢園の先生達が総出で、どうかしたのか?」
「お願い、力を貸して欲しいの」
「分かった。俺、父ちゃんや母ちゃんや近所の人たちに声をかけてみる」
 クレアは、そう請け負ってくれたのがあの時、石を投げ入れた少年だと気づき、知らず微笑んだ。
 こんな時だけど、こんな時だからこそ、余計に嬉しくて。
「私達も負けていられないわね。お願いね、麗」
 麗は穏やかに頷き、そして‥‥。
「そりゃあ本当の話か?」
 厳しい顔のミカが無意識に手をポキポキ鳴らしたのは、空の輝きがゆっくりと薄れ始めた頃だった。このまま暗くなる‥‥夜になるのは避けたいと、焦りが見え始めた頃。
「嘘はつかない方が良い。俺はともかく、このシフールさんは小さいが気が短い」
 端正な顔立ちで涼しげに告げるのは、偶然合流した蒼威だ。とはいうものの、眼鏡の奥の瞳は鋭い光を放っている。
 ノア達を探し始めて暫し。正直、目立つ子供達だ、もっと簡単に見つかると思っていた。
 だが、目立ちすぎるが為、また、迷走しているのか同じ所を何回も行き来している為か、その足取りを追うのは意外と難しかった‥‥それはやはり、冷静な蒼威をも些か焦らせていた。
 意外なほど多くの人が、ご近所の人たちが捜索に協力してくれたからこそ。
「あっああ。気になって声を掛けたら、妙にビックリして‥‥すげぇ勢いであっちにすっ飛んでいっちまった」
 詰め寄られた男がビクビクしながら指し示したのは、ミカやマルトが案じていた方向‥‥即ち、あまり治安のよろしくない方角だった。
「皆に伝えるのじゃ。一刻の猶予もない、とな」
 マルトに頷き、ミカは羽根を羽ばたかせ‥‥空を行く真治に連絡をとった。
「私は一度、虹夢園の様子を見に帰ります。もしかしたら‥‥ノア君たちが戻っているかもしれませんし」
 その間にカレンは蒼威に許可を取り、虹夢園へと戻っていく。可能性は低いかもしれないが、道を外れた事に気づいたから、その可能性はゼロではない。
 何より、虹夢園に残している子供達も心配だったし。
「待ってろ、ノア。今、行くからな」
 疲れた顔に決意を浮かべるジェイクに頷き、ミカは飛ぶ。ゆっくりと迫りつつある闇を切り裂くように。

●闇の中から
「どうしよう‥‥どうしたら‥‥」
 暗い路地裏で、ノアは震えていた。どこで道を間違ったのか、迷い込んでしまったのは薄汚れた‥‥あまり治安のよろしくないらしき場所だった。
 何より、乳母車の中、パールの息が荒いし顔も紅潮している‥‥先日までのサナみたいに。
「熱を下げる‥‥クスリ‥‥水‥‥」
 知識はある、病気の時は薬を使って温かくして安静にして‥‥カレンがやっていたように額に濡れタオルを置いても良い。
 知識はあった、けれど、それをどう実行すれば良いのか、それが分からなかった。
「僕はまた‥‥何も出来ないんだ‥‥」
 震える。それどころか、このままだとパールまで、あの人の娘まで殺してしまうかもしれないのだ。
 震えが止まらないノアの元に、物陰から一匹の犬が飛び出してきたのは、その時だった。
「!? ダメだ、パールから離れて!」
 咄嗟に身体を投げ出すように‥‥あの時のバートさんみたいに動いたノアに、犬の目がふっと優しく細められた。
「え‥‥せん、せい‥‥?」
 犬‥‥否、ミミクリーで変身した麗は一つ頷くと、ぐるりと元来た道へと頭を向けた。仲間達に、知らせる為に。
 ややあって、暗い路地裏に鋭いオカリナの音が響いた。
「良い子ね、大丈夫よ」
 いち早く駆けつけたクレアは汗ばんだパールを慣れた仕草で腕に抱くと、ハーブを咀嚼し口移しで与えた。次いで水‥‥小さな口がコクン、と嚥下するのを確認し、ホッと息をつく。
「‥‥」
 怒られるのを覚悟してか、キツく唇を噛み締めるノアを、だが、マルトもミカも誰も、叱らなかった。
 ただ、動かない‥‥思いつめた、憔悴した顔で立ち尽くすノアにどう声を掛けるべきか思案して。
「ノア君はパール君とおばあさんを会わせてあげようとしたんでしょ、偉いね」
 そんな中、優しく声を掛けたのはテュールだった。
「でも、パール君は今は具合が悪いから無理させちゃダメだよ。だから今日は一度帰ろう?」
 諭すように、説得する。
「俺は事情も詳しくないし、その子を祖母に預けるも良いかとは思うが‥‥」
 対照的に冷静に切り出したのは、蒼威だ。ノアの事情もノアが抱えた思いも知らない‥‥だからこそ、自分は冷静に、客観的に対処できると自負していた。
 だから、蒼威は理性で諭した。
「その子の体調崩してまで急ぐより、ゆっくり皆と考えても問題ないなかろう。それとも皆が信用出来ないか?」
「そんな‥‥っ!?」
 瞬間、ハッと顔を上げるノア。その瞳に映る、優しい人たち。拒んでも拒んでも手を差し伸べてくれた、自分にこれ以上の過ちを犯させないでくれた。
「うん。前から聞きたかったんだけど、ノア君は僕や虹夢園のみんなのこと嫌いなのかな?」
 そして、ダメ押しのようにテュールが小首を傾げる。
「なんか避けられてる気がするからさ。僕にいやなところあるなら治すようにするから教えてくれないかな」
 その言葉で今度こそ、ノアは絶句した。もうダメだと思った、白旗を揚げるしかないと悟った。
 これ以上、この人たちの優しさを、拒絶できなかった。これ以上拒絶したらそれこそ、自分の心は「死んで」しまう。大切な人たちを失う痛みで、今度こそ。
「人は一人じゃ生きられない。皆、誰かを支えて、誰かに支えられて生きてるんだ」
 と、心中を見透かすように、真治が小さく笑った。その腕に、ファー・マフラーで包んだパールを抱いて。
「‥‥見つかってよかった」
 小さな温もりが、その重みが嬉しかった。無事で見つかってくれた事が本当に嬉しかった。
「ただ此処にいてくれるだけで、生きていてくれるだけで良いんだ。それだけで私達大人はおまえ達からたくさんのものをもらうんだ‥‥きっと、おまえの大切な人たちだって、そうだった筈だ」
 安堵のあまり、涙ぐんでさえいながら、真治はそう言葉を重ねた。腕の中、パールの重みを愛しく感じながら。
「‥‥ごめんなさい」
「違いますよ、ノア君。こういう時は『ありがとう』ですよ」
 真治の言葉を、皆の顔を噛み締めるように心に刻むように、ノア。
「私は、無責任だったのかもしれません‥‥でも、いつまでも逃げていては前には進めないと思うんです」
 ニルナはそんなノアにゆっくりと向かい、歩を進めた。
「人は過去の思い出を決して忘れることはできません、もちろんそれは良い思い出ばかりじゃないですよね‥‥つらいこと、恐いこと、悲しいこと‥‥どうしようもない気持ちが自分自身を苦しめる‥‥」
 距離を詰める。向き合う。
「‥‥だけど、ノア君は両親に愛された思い出もあるはずです」
 そして、ノアとの距離をゼロにする。
「そんなに焦らないで‥‥ゆっくり、ゆっくりで良いんです‥‥前に一歩、踏み出してみませんか?」
 癒すように、心に開いたままの傷を包み込もうとするかのように、抱きしめる。
「私はいなくなったりしません‥‥それが例え寿命と言う抗えない運命であったとしても永遠に‥‥ずっとです」
 ここにいる、側にいる、一緒にいる‥‥温かな思いと共に、心を寄り添わせて。
「さぁ、一緒に帰るとしよう‥‥皆で一緒に、お家に帰るのじゃ」
 差し出されたマルトの年輪の刻まれた手は、温かかった。
「‥‥」
 無言で、蒼威が羽織らせてくれた防寒服も、また。
 そして、見守ってくれているクレア達の眼差しも‥‥とてもとても温かくて、優しい。
 それは知っていた温もり、かつて確かに知っていて‥‥喪った温もり。
 辛くて辛くて、あの喪失感もう二度と味わいたくなくて、拒んでいた温もり。
 だけどそれはやはり温かくて‥‥限りなく優しかった。
 それを認めて、ノアはようやく悟った。自分がずっと、あの日からずっと、凍えていたのだと。

●おかえりなさい
「良かった‥‥本当に‥‥」
 虹夢園に戻ってきたノアとパール、皆を、カレンは満面の笑みで出迎えた。
「あっ‥‥ごめんなさい」
 思わず抱きとめるように迎え入れてから、ノアがこういうのが苦手だと気づき、離れる。
 だが、そのノアは真っ赤な顔で下を向き‥‥それは決して拒絶でない気がして、もう一度抱きしめる。
 クリスとリデアも口々に喜びながら、近所の皆さんに知らせる為に、リオン達と入れ違いに外に駆け出していく。
「勿論、皆を心配させた罪は重いですよ。罰として、お掃除当番1ヶ月の刑と処しましょう」
 そうして、少し悪戯っぽく言うと、カレンは後ろで聞こえてくる子供達の足音を聞きながら、微笑んだ。

「おまえ達も頑張った‥‥良い子で待っててくれたな」
 真治は不安そうな顔の子供達の頭を一人ずつ順番に撫でながら、作ってきておいたお菓子を配った。それと、はぎれで作った、小さなお守りとを。
「‥‥」
「あのね、ララティカが『ありがとう』だって」
「ああ。気に入ってくれたなら嬉しいぞ」
 微笑む真治、それでも、パールを覗き込むと子供達の顔は心配そうなものになり。
「そう不安がってちゃ、本当に不安な事が起こっちゃうわよ?‥‥心配しないで、先生達を信じなさい。ね?」
 と、レオナが奏でたのは、優しい旋律。心を落ち着かせる、不安をそっと拭い去るような。
「今は、祈りましょう‥‥パールが元気になる事を」
「何はともあれ落ち着いて、ね」
 タイミングよく、温かなスープを持ったリオンが現れた。美味しそうな香りが、沈みがちな部屋に柔らかく漂う。
 ニルナに肩を抱かれたノア、その手に温かなスープのボウルをそっと手渡す。春とはいえまだ肌寒いこの時期、冷たい手を‥‥心を温めようと。
「‥‥ま、何はともあれ、まずは冷めないうちにドウゾ。こう見えてもオレ、腕は上げたつもりなんだけど、どーかな?」
 わざと茶化したように、気軽さを装うのもまた、リオンなりの優しさであり気遣いだ。
「あ、でもマズかったら容赦なく言ってくれよ。遠慮のし合いは無しって事で」
「‥‥美味しい、よ。僕、こんな美味しいの‥‥久しぶりに‥‥本当に久しぶりに‥‥」
 スープを口に含んだノアの瞳から、涙が零れ落ちた。ポタポタポタポタと、それはやがて頬を伝って。
「まぁ自信作だし‥‥何より、これはキミの為に作ったから、な」
 頭をぽむぽむっと叩くと、リオンは他の子供達をグルリと見回した。
「とりあえず、今はノアとパールを休ませてやろう、な。モメ事解決には、他の先生方も頑張っているからさ。ここは一つ、信じてもらえないかな?」
 大好きなリオン兄ちゃんの言葉に真っ先に頷いたのは、チコだった。そして、ジェイクに促され部屋を出る中、アイカがためらいがちにリオンを見上げた。
「リオンお兄ちゃん、パール‥‥いなくなっちゃうの?」
「まだ誰とも、お別れじゃあないよ。だから、何も心配しないでいい」
 リオンは安心させるよう、ニッと笑んでやった。
「そうだ。後で、協力してくれた地域の方々にちゃんとお礼言って回ろうな」
 そして、リオンは思う。半分、祈るような心持で。
「ここの子供達に必要なのは罪の意識なんかじゃない。それぞれの色で、それぞれの夢を持つことだ」
 それぞれ家族から一人、取り残されてしまった子供達‥‥心の奥の苦しみを悲しみを痛みを、少しでも癒して。
 いつかは‥‥それぞれの色で夢を描けますように、と。
「大丈夫だからな。どんな過去でも過去があるから未来があるんだ。絶対に大丈夫だから‥‥」
 そして、真治もまた子供達の、その未来に有りっ丈の願いを込めて繰り返した。
 繰り返し繰り返し「大丈夫」だと告げる真治を、ララティカがじっと見つめていた。

「でも、本当に良かったです。パールちゃん達が無事で」
「ねぇ、僕‥‥リデアさんに一つ確認したい事があるんだ」
 一方。ホッと安堵するリデアをじっと見つめ、テュールは問いかけていた。
「パール君のお母さんの報告がどこからかあったってことは実は調査してたりするの?‥‥チコ君の事も、調査してたりする?」
 気になっていたのだ。前にリデアが教えてくれた、皆が虹夢園に来る事になった理由。その中で、チコの身元はハッキリしていなかった‥‥誤魔化された、気がしたから。
「調査してるんだったら、状況知りたいなと思って。戻れるところがあってそこが幸せになれる場所なら応援したいからさ」
 リデアはじっとテュールを見、次いで周囲を窺った。そして、誰もいないのを確認して尚、声をひそめる。
「チコに帰る場所はありません‥‥売られた、と。少なくとも何がしかの金品と引き換えに親元から離されたようです」
「‥‥そう、なんだ」
 状況は分からない。推測するしかない‥‥けれど、チコにとってそれはやはり、辛い記憶であるだろう。
「それに‥‥」
 更に小さく‥‥囁くように言いかけて、だが、リデアはその先を溜め息に変えた。
「いえ、今は‥‥少なくとも今はこの話題は止めておきましょう」
 微かに聞こえ始めた声達に緩く首を振り‥‥視線を真っ直ぐテュールへと向けリデアは告げた。
「ただ一つ確かな事は、ここがチコが初めて手に入れた『家』だという事です」
「‥‥そっか」
 ポツリとそれだけを吐き出し、テュールは目を閉じた。近づいてくる皆の声‥‥その中にチコのもの、自分を呼ぶ嬉しそうなチコの声が聞き取れた。

「カレンせんせい、パールはほんとうに、かえらないの?‥‥おかあさんのところに」
 おねむな目をこすりながら、最後までパールの枕元に残っていたショーンがポツリともらした声。
「分かりませんわ。でも、どうなるにしろ、パールちゃんの事を一番に考えて上げないと、ですね」
 慎重に言いながら、ぎゅうっと抱きしめてやる。肌で感じている事だし仕方ない事なのだが、子供達は皆多かれ少なかれ家族を‥‥母の温もりを求めている。
 特に、まだ幼いショーンは‥‥けれど。
「ぼくだいじょーぶ、だよ。ぼくはパールよりおっきいから、まもってあげないとだから」
 片言で、必死に強がるショーンを、カレンは一つ手でもう一度強く抱きしめた。
 そうして、そんなショーンとカレンのやり取りを聞くともなしに聞いていたレオナは。
「‥‥幸せの形は人それぞれ‥‥って言うけど‥‥ね」
 すやすやと安らかな寝息を立てるパール、その髪を優しく撫でながら、小さく吐息をもらした。

●真実の形
「子を思わない母親がいないことはあなたにも分かるのではないですか。パールさんを置いたのは、パールさんのことを思ってのことなのではないでしょうか」
 一方。パールの祖父母の元を訪れた麗はそう、説得を試みた。
「極寒の季節、己の服を子に与えていた母‥‥それは、命懸けの行為では無いかしら?」
 同じく、クレアも訴えた。それは深い愛情なくしては絶対に出来ない行為だ‥‥必ず何か、事情があった筈だと。
「パールの幸せを願うなら、真実を知るべきだわ。あの子は今も、健気に待ち続けて居る‥‥その心を無駄にしたくないから」
「あなたは‥‥あなたも本当は分かっている。後悔、していらっしゃるのですね?」
 会話しながら注意深く観察していた麗は、見抜いていた。二人に応対しているのは専ら祖母だったが、冷ややかさを装いながらその実、彼女の言葉や態度の端々には苦悩と気遣いとがにじみ出ていた。
「後悔など‥‥」
「本心を話していただけませんか? でなければ私達はいつまでもたどり着けません‥‥これからのパールさんの行く末に」
「そして、真実に。真実は明かされるべき‥‥そうだろう?」
 その時、蒼威が姿を現した。怯えた様子の中年男性を一人、半ば引きずるようにして。
「悪いが、少々調べさせてもらった。ご夫人の認識は疑うべき点が多々あったものてな」
 言葉通り、蒼威はマルトと共に調べた。
 パールの母親らしき女性が落ちた川の周辺で聞き込み、また、マルトの魔法でも調べた。
 更に蒼威は祖父母の商家でも話を聞いて回り‥‥そして、知った。虹夢園が開校した頃‥‥パールの母親が『事故』に遭った頃から体調不良を原因に休んでいる‥‥この男の存在を。
「奥様‥‥旦那様‥‥あっしは別に‥‥」
「そうか‥‥雇い主の命令を遂行するため子供を奪おうと‥‥冬の川に突き落としたのか。そして殺人の罪を恐れて、今まで全てを黙っていた、と」
 蒼威の淡々とした追求。実際には推測でありカマかけであったのだが、男は途端に顔色を変えガタガタと震えだした。
「違いやす! あっしは、あっしはそんなつもりじゃ‥‥彼女が勝手に足を滑らせて‥‥っ!?」
 元来は善人なのか、素直に引っかかった『犯人』に内心苦笑しながら、蒼威は黒い瞳をチラと絶句する祖父母に向けた。
 と、クレアが口を開いた。責めるでも侮るでもない、静かな口調で。
「同じ母親ですから‥‥この狂おしい程の痛み、貴方達も親なら判る筈」
 表情もまた、静かだった。なのに何故か‥‥何故だろう、どこかひどく悲しげで。
 同時にひどく『強さ』を感じさせた。
 そう。今のクレアは騎士でも先生でもなく‥‥一人の母として夫人と対峙していた。
「それくらいで勘弁してやって下され」
 唇を噛み締めた夫人、その肩に手を置き言ったのは、パールの祖父だった。
「これとて分かっております。分かっておりました。だからこそ、若い二人を試したかった‥‥二人がしっかりやっていけるのかを」
 二人だけでやっていけるのかを。だが結果、頑張った息子は帰らぬ人となり。
「ご指摘の通り、これもワシも‥‥自分を責めておるのです」
 もっと甘やかしてやれば良かったのか、若い二人を手放しで信じてやれば良かったのか‥‥繰り返す問いに答えは出ない。
「もし後悔してらっしゃるなら、もう一度やり直す事は‥‥築き上げる事は出来ませんか?」
 そんな祖父母に麗は提案した。
「彼女はあなたの愛するバートさんが愛した人ではないですか。つまり、彼女はあなたの娘でもあるのではないですか」
 同じ大切な人を喪った痛みを悲しみを抱いているから、こそ。
「あなた方と嫁、娘の三人で仲良く暮らせないでしょうか?」
「あの子はまだ若い‥‥これからまだやり直せると、憎まれてもそれがあの子の為だと‥‥私は間違っていたのでしょうか」
 気丈に振舞っていた夫人がポツリ、もらした声はひどく弱弱しかった。
 勿論、息子の忘れ形見を手元におきたいと思ったのも本当。それでも、義理の娘の事も考えていたのも本当だったのに‥‥何故、どこで間違ってしまったのか。
「誰が間違っていたわけじゃないのよ、きっと。それでも、それぞれに思いや譲れないものがあるから‥‥」
 クレアは痛ましげに‥‥或いは、どこか痛みを堪えるように呟いた。
「ですが、考えてみて下さい。道は‥‥未来は開かれているのですから」
 そうして、麗たちは祖父母の元を後にした。
「この気持ちは母親にならないと分からないのでしょうか」
 帰り道、思う事があるのかポツリともらした麗の呟き。拾ったクレアはそっと胸に手を当てた。
 目的の為に、クレアは我が子と別れた。だが、子供の笑顔は、愛しい我が子の笑顔は今も在る、確かにこの心に。
 だからこそ、願う。子供達の幸福を。
「誇り高き月よ、崇高なる夜よ‥‥遥か地より、あの子達に恩寵を」
 見上げた視線の先には、クレアの知る月とよく似た月が淡い光を投げかけていた。

●一筋の光
「とりあえずケガは治っているようですし、一時的なショック状態なのかもしれません」
 幾分自信なさげに告げたのは、パールの母親(推定)を看た綾香だった。
「そうか‥‥良かった」
 突然の綾香たちの訪問。母親と思われる女性を看護している男性は迷惑がる風もなく、ホッと安堵の溜め息をついた。
「ようやく意識が戻ったんだが、正直身元が分からなくて‥‥その、身一つな有様だったから」
「事故、だったのじゃ」
 今頃、あちらでも決着がついておる頃か‥‥考えながら、マルトは溜め息をついた。
 子供を奪われまいと、死に物狂いだった母親。追い詰めまいとしたが故に、かえって追い詰めてしまった追っ手。
 全てが、歯車が少しずつ狂って。
「じゃが、お前さんはまだ生きておる。お前さんの子供も、また‥‥」
 その言葉に男が小さく息を呑むのが分かったが、マルトは構わず続けた。
「だからきっと、大丈夫じゃ」
「子供‥‥私の‥‥子供‥‥」
 女性は呆然と呟いた。実感が湧かないのか、どこか危うい雰囲気で。
「彼女が出来るだけ外を出歩かないよう見ていて欲しい」
 ミカは男に頼んでから、母親の前に飛び。
「あんたの娘さんは今、虹夢園ってトコで預かっている。会いたくなったら、いつでも来てくれな」
 その一言だけ告げると、その家を後にしたのだった。
「いろいろ問題がありますけど‥‥時間をかけてゆっくりと解決したほうがいいかもしれません」
 二人の様子を思い出し、綾香は気遣わしげに呟いた。少なくとも男性はパールのお母さんを憎からず思っているようだったから。
「記憶の事も、これからどうするのかも、暫くは彼女自身に任せるしかないのぅ」
 緩く首を振り、マルトは小さな明かりを振り仰いだ。
「今は一縷の望みにすがるしかない」
 微かにもれる明かりに希望を託すように。
「ケイトさん‥‥?」
 その明かりの下。小さな小さな服を手にした女性の頬を涙が伝った。
「分からないの‥‥でも、何だか急に‥‥」
 止め処なく流れる涙の雫が、母子の服をポツポツと濡らした。