夢色のタピスリー4
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■シリーズシナリオ
担当:マレーア
対応レベル:5〜9lv
難易度:難しい
成功報酬:3 G 85 C
参加人数:11人
サポート参加人数:-人
冒険期間:07月06日〜07月15日
リプレイ公開日:2005年07月12日
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●オープニング
「さ〜てと、一枚織りあがった。これで、10枚‥‥。う〜ん、マットばっかり作りすぎた」
「リュシアン、仕事区切りついた? あ、大分できてきたんじゃない?」
幼馴染の来訪を、今日の彼はちゃんと出迎えた。
「ああ、エレ。まあ、なんとかね。でも、マットばっかり織っててもしょうがないし、腕が鈍ってしまう。もう少し複雑なのを織りたいなあ」
「そう? 相変わらずいい作品に見えるけど‥‥あ、これ綺麗」
普通に見てみれば、これらも結構凝っている様に見える。
四隅に花があしらってあったり、中央に百合の花が織り込まれてあったり、格子柄で線の色合いを一色ごとにグラデーションに変えてあったり‥‥。
少し凝ったものでは夜の黒に月と星が散りばめられているものもあった。
中には一枚だけだがタピスリーよろしく海の風景が織り込まれているものもある。
エレが綺麗と声を上げたものそれだったが、リュシアンはああ、それ、とつまらなそうに肩を竦めた。
「それは、マットとしては使えないと思うんだ。街でデッサンした時の風景が綺麗でつい織っちゃったけど、それを足元で踏んづけたりテーブルの上に置いたりしないだろ?」
「そうだけど‥‥なんか勿体無いわね」
ツンと指先で突付いたエレにそれよりも、とリュシアンは織り機の椅子から身を乗り出した。
「これ、どう売ったらいいだろう? 工房があったころはさ、直営の店に出すのや注文品が多かった考えたこと無かったけど、どんな店に売り込むのかな? あと、どのくらいの値をつけて出したらいいのかな?」
「‥‥リュシアン。それ考える前に織ってたの?」
「実は途中で気がついた。でも、止まらなくなっちゃって‥‥」
「もう‥‥。まって、父さんと相談してくるから」
呆れたような口調と、小さな微笑を浮かべてエレは牧場に戻っていった。
やがてやってきた父と、リュシアンが何かを話して、そして荷物と一緒にでかけて行ったのをエレは部屋の掃除をしながら見送った。
彼らは寄り道をせずに冒険者ギルドにやってきた。
「ちょっと頼めるかな?」
入ってきた男性には見覚えが無かったが、その後ろに立つ青年には見覚えがあってギルドの係員は少し考えてから手を打った。
「あんたはこの間の織り師だな?」
「その説はお世話に‥‥」
側に保護者がいるせいか、少し礼儀正しくリュシアンは頭を下げた。
ギルドの中に軽く目をやった後、リュシアンの叔父だと名乗った男性は依頼を出す。
「こいつの試作品のタピスリー、まあ、性格にはマットなんだが、それを売って欲しい」
そう言ってテーブルの上に並べられたマットは10枚。一枚一枚色や、柄は変えてある。
波をモチーフにしたもの、緑の若葉を思わせるもの、模様は無いが虹のように薄く色合いが変えてあり白から最後には濃い紫に変わっていくものもあった。
独特な幾何学模様を織り込んであるものもあって、職人の拘りを感じさせる。
「そういうことなら、商人ギルドにでも行った方がいいんじゃないか?」
まるで花畑のような夏草のマットを指で持ち上げながら係員は言った。それももっともだが、と前置いた上で叔父は声を潜めた。
「一番の問題はこいつに商売の知識が全く無いことなんだ。やる気は無いわけじゃないが技術以外の事を教える前に親が死んだもんだからな。だから、こいつに商売の仕方とか繋ぎの仕方、あと、売り込みの仕方とかを教えてやって欲しい」
それが、一番の依頼内容の目的だと、彼は語った。
「それから、冒険者ならドレスタットやこの周辺に詳しいだろう? 本格的なタピスリーを買ってくれそうな貴族とかも知っていたら教えてやって欲しい。いくら技術があっても売れないものを作るには本式のタピスリーは作るのに時間がかかりすぎる」
「タピスリーってのは、人も織りこめるのか?」
「人物のタピスリー? それこそ、俺が父さんから受け継いだ技術の見せ所さ!」
「ふむ、心当たりが無いわけじゃない。ドレスタットや、バルディエ領には名のある貴族や、最近海賊退治で名を上げた若い騎士とかもいるしな‥‥」
まあ、そういうのには冒険者の方が詳しいだろう。
「そうだ、リュシアン。外の馬車から財布をもってきてくれ」
「財布? 忘れたのか? 解った」
外に出た甥を確認して依頼書を用意する係員に彼はもう一つの目的を囁いた。
「あと、もう一つ。あいつの護衛も頼みたい」
「護衛? 織り物職人になんで?」
もっともな疑問を問いかける係員に、彼は先だってリュシアンを狙って男達が工房を襲ったことを、また狙われるかもしれないという心配と共に話した。
「あいつの、技術か、知識‥‥それが狙われているのかもしれない。そして、当然狙う奴はあいつがタピスリーや織物で収入を得るようになることを嫌うはずだ‥‥」
なるほど。係員は納得する。
「だが、いつまでも工房に篭らせておくわけにはいかないし、もう少し世渡りってもんも覚えてもらわなきゃならない。ってわけであえて外に出すことにした」
タピスリーの値段のつけ方、売り方などは冒険者に任せるという。売り上げが出ればその1〜2割を冒険者の依頼に割増すとも。
「叔父さん、財布無かったよ」
「ああ、カバンに入ってた。すまんな。と、いうわけだよろしく頼む」
見本に数枚の織物を置いて、二人はギルドを出て行った。
「タピスリーね‥‥。売れるかな?」
手に取った品の確かさと、正反対の微妙な不安を係員は何故か感じずにはいられなかった。
●リプレイ本文
●はじめての行商?
並べられたマットと言う名のタピスリーを冒険者達はじっーっと見つめていた。
暫くの間、沈黙が厳しいように周囲に立ち込める。
「そんなに変かい? 父さんに比べればまだまだなのは解ってるけどさ」
沈黙を我慢しきれずに製作者リュシアンはそう、問いかける。
その問いかけに冒険者達は揃って首を振った。
「これの宣伝文句は新進気鋭の職人が作り上げた、綺麗な絵柄のマット。これだけの物を作れる職人はノルマン広しといえどもそうはいない‥‥。といった感じですかね」
「えっ?」
氷室明(ea3266)はそう言いながら小さく微笑した。
「十分美術品と呼べるレベルだろう。工芸品としてどの程度の値段をつけるべきかは、難しいところだがな」
腕を組み考えるディアルト・ヘレス(ea2181)の言葉をルメリア・アドミナル(ea8594)が補足した。
「美術品ならばある程度以上の階級の方を顧客の主眼に、値段も高めに、そしてクオリティを高めるのが基本です。作品そのものも評価されるでしょう。工芸品として売りに出すならばある程度はレベルを下げ、その分数をこなして単価を下げ広くタピスリーを見て貰う手段も取れるでしょう」
「ふうん、商売っていうのも随分大変なんだね。あたしはまったくの素人だから解らなかったよ」
リュシアンへの商売講義をセルフィー・リュシフール(ea1333)は一緒に興味深そうに聞いている。
「まだまだ、知らない事が多いですわね。私も勉強しないといけませんわ」
ここにも生徒が一人。エスト・エストリア(ea6855)もタピスリーと仲間達の顔の間を何度も視線を往復させて考えている。
「欲がない事は美徳かもしれませんが‥‥。所帯を持てば妻子を養う必要がありますし、怪我や病の事に備えた蓄えも無いと苦労する事になります。将来の事を考えるなら、多少の甲斐性は身に付けておかないと苦労する事になりますよ」
明の言葉は真実で、なればこそ両親は苦労し自分もまた工房を失ったのだ。無知を指摘され俯くリュシアンだったが、その落ち込みかけた背中をトントンと小さな手が叩いた。
「でもね、ルリはこれ、とっても綺麗だと思うの。一緒に売り込み手伝うから、がんばろう? ね?」
そう言って笑いかけてくれるルリ・テランセラ(ea5013)にさらに落ち込んで見せるほどリュシアンは情けない男では無いようだった。
「ああ、知らない事はこれから勉強していかないとな。とにかく‥‥頑張るからよろしく頼むよ」
無論それこそが依頼なわけだから、断ろうとするものなどいない。
「若い者はいいのお。エレ殿とリュシアン殿の仲といい、前向きな思いといい実に微笑ましいわい」
少し離れた所からフランク・マッカラン(ea1690)はカッカと笑う。若い者を守り導くのが年寄りの役目。表舞台は彼らに任せて自分は下調べに徹しようと決めていた。
「自分は護衛をしておくつもりだ。そちらの方はよろしく頼む」
勿論、とフランクはイワノフ・クリームリン(ea5753)に頷いて見せた。
「そちらは頼んだぞ」
と指を立てて。
「まあ、そんなに自分に卑屈になる必要は無い。誠実に事実を話せば、必ず相手は信じてくれる。どうしてもダメな時は‥‥俺達もいるんだしな」
リセット・マーベリック(ea7400)は李風龍(ea5808)の言葉にも考えごとの表情を崩さなかったが、他の仲間達の頬には同意の笑みが浮かぶ。
リュシアンは謙虚に、丁寧に、頭を下げた。
●工芸品と芸術品
「難しいものですね‥‥」
商人ギルドの館から出てきた明の言葉にはため息が微かに孕まれていた。
「これが、いい品である事は間違いないと思うけど、売るとなるとそれはまた別問題だからねえ」
市場への立ち入りに許可を出してくれた係員は、品物を見た後、こう忠告してくれた。
「良い品に正しい値段。それが商売の第一歩だ。値段という品質保証が無いと信用は得られないし、商売としても続かないぜ」
そして、アドバイスしてくれた値段はマット1枚に最低のもので5G、一番手の込んでいる物では20G。
冒険者達にもそれは思いのほか高い値段となった。一般人の一月分の給料を遥かに超える。だから、そう言われてリュシアンの顔はあからさまに歪んだ。冒険者達の後ろで地面を蹴る。
「そんなに、高くなってしまうのか? 俺は、少しでも多くの人にタピスリーを楽しんで貰いたいのに」
「リュシアンさん‥‥」
細いリュシアンを呼んだ声に彼は振り帰った。そこにはリセットが真剣な顔でリュシアンを睨み、いや、見つめている。
「なん‥‥ですか?」
「ようやく、解ったんですよ。ずっと、引っかかっていた事が‥‥」
疑問符を浮かべたままのリュシアンにリセットは笑いかける。協力を断られた時からずっと考え続けてきた事。
「リュシアンさんと父君は『技術で人を精神的に幸せにする』のが目的。私は『技術により社会の生産力を向上させ人を物質的に幸せにする』のが目的。でも、多くの人には『技術で金を儲ける』のが目的。金に対する認識はそれぞれ『考えない』『不可欠な道具』『目的そのもの』人それぞれで、だから噛み合わなくて当然なんですよね」
誰も間違っているわけではない。ただ、考え方が違うだけだ。
「でしたら、いっそ染色ノウハウを全て公開してはどうでしょう? 今の現状ではあなたの知識と、技術は美術品クラスでどうしてもそれなりの値が付く事は避けられません。知識を公開し、量産化すれば、あなたの知識の価値は低下してしまいますが、良い技術で作られた良い工芸品に触れて幸せになる方は、増えると思いますよ?」
「‥‥それは‥‥」
直ぐに答えが出せる問いではない。だから、リセットも返事を急がせはしなかった。
「私達は、ちょっと別件の心当たりを当たってきます。一枚、見本をお借りしてもいいでしょうか?」
柔らかく微笑んで彼女は海の風景のタピスリーを手に取った。細かく、精緻に描かれた波模様や海の絵柄はきっと‥‥。
「じゃあ‥‥いく?」
ぬいぐるみを抱きしめたまま小さく首を傾げたルリに冒険者達の半分が頷いた。
「明さん、イワノフさん、風龍さん、セルフィーさん、ディアルトさん、後を‥‥お願いしますね♪」
後を‥‥の意味を、目配せしたエストの言葉の意味をリュシアン以外は理解する。彼らが目でした合図を確かめて、冒険者達は二手に別れ、動き出した。
応接室に現れた男性に、ルリは弾けるような笑顔を見せた。
「お父さま♪」
「元気そうでなによりだ」
飛びついて首元に抱きつく。頬に優しくキスをする。どこから、どう見ても彼女と、目の前の人物は親子に見えた。優しい父と甘えん坊の娘に。
実はバルディエは、これまでに何度か、敵から娘を護るために娘と瓜二つの彼女を利用していた。そして、娘の危険を肩代わりしてくれる者が難かろう筈がない。それ故、彼女を娘と同等に扱っているのだ。今もそうする理由こそが、娘を守るためのものだとしても。
また芝居にせよ、その目は慈愛に溢れ、眼差しは実の娘に注がれる物と違わなかった。
「アレクス卿。お忙しい中お時間を頂きましてありがとうございます」
ルメリアとリセットが丁寧にとった礼をアレクス卿と呼ばれ、お父さま、と呼ばれた男性は手で払った。
「楽にするがいい。今日は娘のおねだりを聞きにきただけだ。で、見せたいものとはなんだ? ルル」
「うん、これ!」
ルリ、ではなくルルと呼ばれて本当に微かに浮かべた表情は、殆ど誰にも気付かれない。気付かれないようにして、彼女はリセットと一緒に一枚のマットをテーブルの上に乗せ、広げる。
「ほほう、これは‥‥」
為政者として、上質の美を知る事ができる立場の人間として彼は、そのマット、いやタピスリーを見た。糸だけで描かれた精緻な絵画は声をあげる価値があると見たのだろう。
「実は、このタピスリーの作者についてお話があるのです」
交渉ごとに少し長けたルメリアが、まずアレクスに話しかけた。ルリが、所々で作者であるリュシアンの人となりを話し、技術の確かさについても援護射撃をする。
「‥‥と、まぁこのように、現在この街にはなかなか優れたタピスリー職人がおります。貴族社会では評判を上げ、あるいは下げるための戦いが頻発すると聞いております。この職人の技術を活かされてはどうでしょうか?」
アレクスは少し眉を上げた。失礼とまではいかない。だが、リセットの言葉はアレクスの胸に棘を挿した。それが真実であるが故に。
「あのね、お父さま。お父さまと一緒のタピスリーを作ってもらうのは、ダメ? きっととっても綺麗なタピスリーになると思うの」
おねだりのポーズでルリはアレクスを見上げた。その表情に彼の頬に小さく笑みが浮かぶ。バルディエは仕種の一つ、言葉の選び方一つまでそっくりな娘に愛おしさを覚えてた。
「肖像画風でなくても夢を形にする、リュシアン様の作風は、物語を愛するルル様への贈り物に最適だと思いますがいかがでしょう?」
父親として、貴族として、そして為政者として呼びかけられ、いくつかの思いを交差させる時間が数瞬。
アレクス・バルディエは強い眼差しで冒険者達を見た。
「いいだろう。技術の程を試させて貰う。課題は我が娘。それをモチーフにタピスリーを作れ。出来次第で後のことは考える! 少なくとも、掛かった費用は全額払う。損はさせぬ故、物惜しみするなと伝えよ」
カッ、カッ。靴音を響かせて彼は退室した。
「我が‥‥娘」
大きな背に眼差しを贈り続けるルリの胸に過ぎるものを、側で待つ二人は知らない。知っていても知らないフリをしていた。
冒険者達はそれぞれにコネクションを利用して、知りうる貴族達に繋ぎをとろうとした。多くは失敗に終ったがアレクス卿以外にもう一人、面会を受け入れて冒険者と会った人物がいた。
「お久しぶりです。奥方様」
サクス家の奥方は夫よりもやり手の経営者であり、為政者であると依頼を受けたことのある冒険者の間では名高かった。いかに面識があるとはいえ一介の冒険者が簡単に会える人物ではないが、エストの申し出に応じた事自体が彼女の見識の深さを実は表していた。
「先ほど品物を拝見しましたわ。なかなかの技術を持つ織り手ですわね」
ディアルトのアドバイスを得て、先に執事に品物を見せ、取次ぎを頼み、そしてエストは今ここにいる。
「マレシャル様達のご武勲を記録なさるのにこのようなタピスリーは如何でしょうか?」
「そうですわね‥‥」
言いながらも彼女の目が息子の記録、だけを考えているのではない事はエストにも解る。
「では腕を見せて頂きましょう。海賊退治をモチーフに一点。全ての技術を使ってお見せなさい、と伝えて下さい」
報酬は作品の出来を見てから。退室を促した女主人の言葉に従ったエストは、成功の喜びと、同時に何故か一抹の不安を感じずにはいられなかった。
●伸びる黒い腕
(「予想通り過ぎる展開だな‥‥」)
小さく舌を打ちながらイワノフは後を追っていた。
ほんの少し前のことだ。
「突然ですが、宜しいでしょうか?」
リュシアンが市場で荷を広げて間もなく、並べられた品を覗き込み声をかけてきた人物がいた。
「はい? なんですか?」
いかにも上流階級の人間。そう言った風情の男がリュシアンが織ったマットの一枚。夏草のタピスリーを手にとって息をつく。
「これは、素晴らしいものです。確かな技術で織られて‥‥見事ですね」
「そうですか? ありがとうございます」
照れながら答えるリュシアンに周囲の注目も集まる。今まで高値に遠巻きだった商人や通行人たちも徐々に足を止め始める。
「で、これは売り物なのですよね、ぜひとも買いたいと我が主の仰せなのですが‥‥」
「主? それは、どのような人物かお伺いしたいものだ」
さりげなくディアルトは男とリュシアンの間に立った。
「これは、今後の売り込み用なのでお渡しはしかねるのだが?」
ギロリ、睨みつけるような顔で彼は威嚇する。しかし、それを止めたのはリュシアン自身だ。
「お話だけでも伺いにいきましょうか?」
「では、見本をいくつか持ってこちらへ‥‥ああ、貴方がた、店を開けても宜しいのですか?」
付いていこうとしたセルフィーやディアルトを手で制して男はリュシアンを促した。無理について行こうとも思ったが、そっと動いた姿を見て彼らは座りなおす。二人、イワノフと風龍は追いかけていた。リュシアンと男を。
予想通り過ぎるほど予想通りに男がリュシアンを促した道は路地裏に向かっている。そして、また予想通り周囲から男の合図でごろつきの外見を持つ者達が溢れてきた。
「止めろ! 離せ!」
「まったく! 予想通りだぜ!」
「動くな! リュシアン!」
ローブを投げ捨て風龍は一気に握り締めた拳をリュシアンを捕らえていた男の腹に埋め込んだ。蛙の鳴くような音を喉から吐き出して、男は膝を地面に付ける。と同時にリュシアンの両腕は解放された。
「ヤバイ!」
「逃げろ!」
蜘蛛の子を散らすように男達は散って行った。
残されたのはリュシアンと一枚のタピスリーのみ。
「一枚?」
イワノフは彼を立たせながら首を捻った。
「おい、見本は何枚持ってきたんだ?」
「二枚ですけど‥‥」
自分達の逃亡よりも、リュシアンの確保よりも先に持っていったものがタピスリー。二人の間に言葉にできない何かが、走って消えた。
「失敬‥‥おや?」
フランクは目を見張った。今は聞き込みの帰り道、上等の服を着た人物と路地の角で正面衝突したところ。その人物の横に転がったものに、だ。
「いえ、失礼!」
彼は大慌てで立ち上がるとブレンダン商会のドレスタット店に、一人の人物が駆け込んでいく。丸めた分厚い布を持って‥‥。それに彼には見覚えがあった。
「あれは、さっきの?」
虹色のマットの眩しい赤が、まだ彼の目の裏には残っていた。
●夢色の織り手
タピスリーはその後、市場で眼を留めた商人や、ディアルト、エストら冒険者の仲介で見本を残しなんとか完売した。安定需要が叶うのであれば定期的に仕入れてもかまわない、と言ってきた人物もいる。まず成功と言えるだろう。冒険者にも約束の報酬が渡された。リュシアンもまた、少し商売のなんたるかを知ったかもしれない。
だが、彼が『商人』になるのはもう少し先の話になりそうだ。彼に示された、二本のタピスリーの注文。
『バルディエ家より 娘の肖像』
『サクス家より 海賊退治の物語』
「人物のタピスリー! 腕がなるぜ」
腕まくりをする彼の顔はもう、職人であり、芸術家、そして織り手の透明かつ、愚直な眼差しになっていたのだから。