【信康切腹】越後へ

■シリーズシナリオ


担当:御言雪乃

対応レベル:フリーlv

難易度:難しい

成功報酬:0 G 93 C

参加人数:8人

サポート参加人数:6人

冒険期間:10月17日〜10月24日

リプレイ公開日:2007年10月26日

●オープニング


 三河城、奥。
 蝋燭の光のみが揺れる薄闇の中で、二人の男が相対していた。
 一人はジャパン摂政である源徳家康である。そしてもう一人は彼の第一の謀臣である本多正信であった。
「殿」
 正信が口を開いた。
「冒険者ども、依頼を受けましょうや」
「謙信を寝返らせることか」
 家康が眼を閉じた。彼の脳裏には金糸の髪揺れる一人の冒険者の相貌がよぎっている。
「受けるであろう。だが無理じゃ」
 謙信寝返りの件は、その冒険者がもらした言葉により思いついた事だが、成功すると考えての話では無い。まず無理であろう。謙信を寝返らせるより家康を翻意させる方が、まだ簡単なくらいだ。あたら有能な冒険者を死に送るだけの愚計といってもよかった。
 しかし関東での復権を目指す家康にとって、謙信の動向は何よりの大事。もし謙信寝返りを冒険者のみにて成し遂げる事ができるとするならば、それは予想だにしない僥倖といってよい。
「もし事がなれば、信康様の切腹の沙汰――」
「うむ」
 家康が頷いた。
「取り止めの理由としては十分であろう」
 家康の口元に微かに笑みが刻まれた。越後一国と引き換えなれば、助命に余りある。
 彼としても信康を死なせるには偲びないのである。何となれば家康の息子のうち、まず第一の器量は信康との評判が高い。家康としても期待をかけ、若輩ながら江戸城代を任せていた。
 その最愛の息子を死の祭壇にのぼらせねばならぬ父の苦衷はいかばかりであるだろうか。
 或いは信康を助けたいと思う者の筆頭は家康自身であったかも知れないが、だからこそ助命は無理であった。
「なれど相手は越後の竜じゃ。――死ぬであろうな」
「殿」
 正信がわずかに身を乗り出させた。
「その時は、どうなさるおつもりでござりますか?」
「その時か‥‥」
 家康が再び眼を閉ざした。蝋燭の光が、その横顔をただ不気味に黄色く染めていた。


 翌日。
 三河。源徳屋敷。
 その奥座敷から朗らかな笑い声が響いている。
「信康様がこれほど明るい笑い声をあげられようとは」
 楚々とした風情の女性が、喜びを隠しきれぬかのように微笑み、一人の若者を見た。
 どこか無頼の気配を漂わせた男。その右目は糸のように閉じられている。
「そなたのおかげじゃ、十兵衛」
「いや」
 若者――柳生十兵衛はかぶりを振った。そして至極真面目ぶった顔つきで、
「徳姫様の美しさにあてられては、どの男の頬も緩みましょう」
「‥‥」
 徳姫と呼ばれた楚々とした風情の女性の頬にぱっと紅が散った。が、すぐに徳姫はくすくす笑うと、
「ほんに面白い」
 と云った。
 と――
 ふいに徳姫の顔から笑みが消えた。その眼には恐怖の色さえ滲ませて、徳姫は十兵衛を見つめた。
「十兵衛、信康様は大丈夫であろうか」
 と、徳姫が問うた。
 信康切腹の取り止めと引き換えに、上杉謙信を寝返らせるという条件が冒険者に出された噂を彼女は耳にしている。噂する者は決まって暗い表情になり、「左様な無理難題、殿も酷い事をなされるものよ」と続いた。義父の真意は測りかねたが、それが無理難題であることは徳姫も察している。
「まずは」
 事もなげに十兵衛は答えた。すると徳姫の眼に喜色がわいた。
「ほ、本当ですか」
「はい」
 と――
 答えはしたものの、十兵衛の内心は違う。上杉謙信を寝返らせるは只ならぬ難事と彼は見ている。
 まずは謙信に会う事。それすら冒険者には困難であろう。
 一介の冒険者がただ訪ねたところで、一国の大名である謙信には会えない。それに仮にも先の乱では戦った相手、警戒されても不思議は無い。
 さらには肝心の謙信調略。
 本来調略というものは、時をかけて相手を蕩かしていくものだ。が、此度は刻がない。謙信の事も良くは知らない。よほどの奇術を仕掛けねばならない。
 成功する要素は皆無と言ってよい。
 その事は信康ほどの武将なら見抜いているはずだ。しかし信康は笑っている。ならば、道は一つ。
 十兵衛はちらりと空を見上げた。蒼穹の彼方――江戸で冒険者はどうしているだろうか。
 今、信康の切腹は一時沙汰止みとなっている。が、それは謙信調略の結果が出るまでの間の事だ。十兵衛がみるに、家康は霜月に移る前に此度の騒動に決着をつけようとしている。
「頼んだぞ」
 十兵衛はそっと呟いた。


 同じ刻。
 駿河。
 駿府城奥。
 ここでは二人の男が相対していた。
 一人は脇息に肘をつき、拳に顎を乗せて座った若者だ。まだ二十歳にも満たぬ年頃であろう。
 西洋人との混血とも見紛うばかりに整った顔立ちをしている。もしこの場に女がいれば――いや、女ならずともはっと息を飲むほどの美しさだ。しかし、その身には微塵も脆さのようなものは見受けられず。むしろ獣のしなやかさを秘めた体躯をしている。さらにはその身から溢れ出る精気。常人を遥かに凌駕するそれは、まるで竜が睥睨するかのように辺りを圧している。
 駿河国主、北条早雲である。
 そして、もう一人もまた二十歳ほどの若者であった。
 こちらは早雲と違い、鍛え抜かれた体躯をしている。衣服の上からそれとはわからないが、鋼をよりあわせたような筋肉に覆われているに違いない。
 それでいて、若者には肉圧のようなものは感じられなかった。まるで風のように涼やかな雰囲気をまといつかせている。
 風魔一族頭領、風魔小太郎である。
「‥‥信康の切腹を阻止する、か」
 早雲の形の良い唇が動いた。
「で、冒険者達は?」
「越後にむかおうとしている」
「越後、か‥‥さすがの家康も焼きが回ったと見ゆるな。それとも何か考えがあるか」
 早雲が薄く笑った。
「もし事がなれば江戸奪還に動こう。ならずとも、この春よりの膠着が揺らぐかもしれぬ」
「では源徳包囲網も崩れるというわけか」
「ところが、事はそう簡単ではない」
 早雲が小太郎から視線をはずした。そしてちらと眼をあげる。
「謙信は欲の少ない男だ。そのような者にはつけいる隙も少ない。脅しや賺しは通じまい」
「言うには及ぶ。冒険者如きになる調略なら、とうの昔に我らが成している」
 音に聞こえし風魔の頭領は吐き捨てるように言った。
「それだけではない」
 早雲の顔から笑みが消えた。
 華の乱と呼ばれる先の関東の大戦。その乱において、諸将の裏切りにあい、源徳は敗退した。
 その諸将のうち、武田と伊達の叛乱は有り得る事であり、早雲の想定内であった。が、さすがの早雲にも読めなかった事が一つある。それが上杉謙信の裏切りだ。
 義に篤い男。決して裏切る事のない男。
 そう見込んでの北条と上杉の同盟であった。しかるに、その謙信が裏切った。その事実は源徳家康のみならず、早雲にとってもまた重大事であったのだ。
「謙信裏切りの謎、もしやすると此度の事で解かれるかも知れぬ」
 早雲が再び小太郎に視線を戻した。その眼に氷の光にも似た薄蒼い煌きがやどっている。
 冒険者が越後で屍を重ねようと知った事では無いが、それだけで終って貰っても面白くないらしい。
「風魔の者を呼べ。越後にゆかせるのだ」
「すでに九郎を差し向けてある」
 小太郎がニヤリとした。対する早雲もまた美しい笑みを深くし、
「さすがに風魔小太郎。仕事が早い」

 刻に神無月中旬。信康切腹の日は、すぐそこまで迫っていた。

●今回の参加者

 ea2557 南天 輝(44歳・♂・浪人・人間・ジャパン)
 ea3874 三菱 扶桑(50歳・♂・浪人・ジャイアント・ジャパン)
 ea6649 片桐 惣助(38歳・♂・忍者・人間・ジャパン)
 ea8714 トマス・ウェスト(43歳・♂・僧侶・人間・イギリス王国)
 ea9450 渡部 夕凪(42歳・♀・侍・人間・ジャパン)
 eb4802 カーラ・オレアリス(53歳・♀・僧侶・エルフ・インドゥーラ国)
 eb4994 空間 明衣(47歳・♀・浪人・人間・ジャパン)
 ec0244 大蔵 南洋(32歳・♂・侍・人間・ジャパン)

●サポート参加者

御影 涼(ea0352)/ 木賊 崔軌(ea0592)/ 小 丹(eb2235)/ 鳳 令明(eb3759)/ ミッシェル・バリアルド(eb7814)/ アルミューレ・リュミエール(eb8344

●リプレイ本文


 渡部夕凪(ea9450)は東海道を下っていた。
 武蔵国品川宿、相模国小田原宿――
 愛馬水松を疾らせる夕凪の脳裏には、義弟たる木賊崔軌とのやり取りが何度もよぎっていた。

「確か、そう‥‥白隠っつったか」
「白隠!」
 愕然たる夕凪の様子に、かえって崔軌の方が驚いた。
「ど、どうしたんだよ。有名な坊主なのか」
「あんたねぇ」
 夕凪が呆れて溜息をついた。
「駿河には過ぎたるものが二つあり。富士のお山に原の白隠‥‥聞いた事ないかねぇ」
「ねえなあ」
 と、崔軌は屈託ない。それよりも、と崔軌は声をひそめた。
「風魔が俺らを囮として使ったのは北条と上杉を秘密裏に接触させるため‥駿河の事で俺が知ってるのはその程度だ」

 夕凪は知らず、唇を噛み締めていた。
 もし崔軌の話が真実であり、自身の想像が的を射ているならば、源徳の為に白隠を担ぎ出すのは困難となる。その疑念を抱きつつ、やがて夕凪は原宿に辿り着いた。聞き行けば、今白隠は故郷に戻っているという。

 白隠とは小柄で、鶴のように痩せた人物であった。接しているとひどく気持ちが良い。滝の飛沫を浴びているように、心身が洗い清められている心地がするのだ。
「不躾ながら、お願いしたき義あり参上仕りました」
 夕凪は名乗った。そして以前に白隠とかかわったであろう義弟の名も告げた。
「おお、あの」
 白隠が表情が緩んだ。
「ぬし、あの者の身内であったかよ」
「はい」
 頷くと、夕凪は切り出した。此度の一件を包み隠さずに。
 元来腹の探り合いなど性にあわぬ夕凪である。向かい風なら胸を張った方が気分が良い。
「体裁なぞと引き換えに死なすは惜しい、父御に似ぬ実直な男と其を思う男‥二人の為、いささか身勝手な理由にて奔走致しております」
 そこで一旦言葉を切ると、夕凪は金茶の瞳をきらりと煌かせた。
「源徳公との縁薄く、かつ上杉公の御心を動かすやも知れぬ御仁を私は他に存じませぬ。無理は元より承知‥何卒御力をお貸し下さい」
「よかろう」
 至極あっさりと、白隠は快諾した。これには夕凪の方が面食らい、
「よ、よろしいのですか」
「ああ、面白そうじゃからな」
 白隠がニヤリとした。
「で、儂はどうすれば良いのじゃ」
「書状をいただきたい。内容は禅師の御心のままに」
 夕凪が云った。己が命を預けねば、とても頼めた筋合いではない。
 その心底を確かに白隠は読んだ。その上で彼は楽しくてたまらぬように笑ったのだ。
「不借身命。ぬしの方がよほど坊主のようであるな。よし」
 頷くと、白隠は立ち上がった。
「ゆくぞ」
「禅師、どこへ?」
「越後へ、じゃ」
「え、越後!?」
 愕然とし、夕凪ほどの女が息をひいた。すると白隠は片目を瞑ってみせ、
「越後の竜とかぬかす若造の顔が見とうなった」
「それは有難い事ですが、しかし」
 夕凪が言葉を途切れさせた。対する白隠は草鞋を履きつつ、ふふんと口を歪めている。
「早雲めの事か。あやつは良い顔はせぬかも知れぬが放っておいてかまわぬ。いや、むしろ早雲めは、その事を望んでいるような節もある」
「早雲公が」
 夕凪が呟いた。
 その瞬間、彼女の背にぞくりと寒気が走った。
 源徳家康と上杉謙信。その二人を見下ろすようにして立つ巨大な幻影を、確かに夕凪は見たと思ったのだ。


 他方の冒険者の事である。彼らは北国街道を辿った。
 中山道を追分宿へ。そこから善光寺宿を経て、高田宿に向かう。
 が、ここに一人だけ善光寺宿に残った者がいる。南天輝(ea2557)だ。
「すまねえ」
 輝が声をかけた。相手は境内をゆく五十半ばの年齢と見える僧侶である。
 場所は善光寺。信濃の古刹であった。
 この地は輝の知り合いが依頼を受けて訪れた場所である。その時から輝はどこか気にかかっていたのであった。
「宝界寺等の事件は大変だったようだな」
 そう前置きし、次に輝は問うた。
「ちぃっとばかし聞きたい事があるんだが。おめえさん、上杉謙信公は知っているかい」
「いいえ」
 僧は答えた。これは輝としては意外であったが、本当のところ僧が知っているのは、むしろ武田信玄の方であった。
 仕方なく輝は、
「詣でる土豪の者達から聞いた事はないのか」
 と、問うた。すると僧は小さく頷き、
「お噂だけは。なかなか信心深いお方だそうで」
「その信心深いお方が、先の江戸の乱の際に裏切りなんぞという真似をしでかした。その件について、何か心当たりはないだろうか」
「それは」
 と戸惑う僧に、輝は詰め寄った。
「俺はある者の命を繋ぐ為にも謙信公のことを知らねばならない。噂でもいい。あの行動に原因があったというのは知らないか」
「知りませぬ。しかし」
 僧は穏やかな笑みを浮かべた。
「そのお方‥‥。どこのどなたかは存じませぬが、大したお方なのでございましょうねえ。貴方様のような方にそこまで云わせるとは」
「気に入っちまったんだ」
 輝は眼をあげた。その蒼穹の彼方、他の冒険者はひたすら越後を目指しているはずだ。
「頼んだぜ」
 輝はそっと呟いた。


 越後に着いたのは、韋駄天の草履を使った三菱扶桑(ea3874)、カーラ・オレアリス(eb4802)、大蔵南洋(ec0244)、そしてセブンリーグブーツを使った空間明衣(eb4994)が先であった。
 そのうちの一人、明衣が向かったのは高田宿近くの村であった。
「で、謙信公というのは、どのような人物なのだ?」
 怪我を負った村人の治療を行いつつ、明衣は尋ねた。
 すでにこの時、明衣は村人達とかなり心安い関係になっていた。金銭的に余裕のない村の者は医者に診てもらうことなどめったになく、その一件だけで明衣は有難い存在であったのだ。
「それは偉いお方でごぜえます。何せ毘沙門天様の生まれ変わりであらせられますでなぁ」
 治療を受けている初老の男が答えた。
「ふむ」
 と明衣は頷いた。今の答えは道中で旅人から得たものと同じであったのだ。出立前に会いたかった柳生十兵衛は三河にいるということで、それ以外の事前情報はない。
 明衣の感触としては、越後において謙信に対する不満は少ないようである。そうなると疑念がさらに膨れ上がる。評判通りの人物であるなら、謙信は何故源徳を裏切ったのか。その疑念を明衣は男にぶつけてみた。すると男は小首を傾げ、しばらくして、
「源徳様に義がないのでござりましょう」
 きっぱり云い切った。
「そうか」
 頷くと、明衣は治療の手をすすめた。胸に暗澹たる思いを抱きながら。


「ちぇすとぉ」
「ええいっ」
 裂帛の気合とともに、同時に二影が踏み込んだ。一瞬の後に、袈裟に薙ぎ落とされた木剣が対手のそれを叩き落としている。
「それまで」
 制止の声が飛び、南洋は木剣をおさめた。

「謙信様?」
 井戸傍で汗を拭いつつ、上杉家の家臣である根岸信五郎という若者が問い返した。春日山城下の神道無念流道場の中庭においてである。
「そうです」
 南洋が頷いた。
「謙信様は義に篤いお方と噂にお聞きし、縁あれば微力ながらお仕えしたい思うておりました」
「それは良い!」
 信五郎の眼に喜色がわいた。
「貴殿の示現流のお腕前が陣に加わるのならば、謙信様もお喜びになられるはず」
「信五郎殿にそう云っていただけると心強い。それはそうと、この国の方から御覧になって実際謙信様とはどのような方でございますかな?」
「貴殿のおっしゃられる通り、素晴らしいお方です」
 信五郎が答えた。その眼には憧憬の光が浮かんでいる。
「義を重んじる謙信様のような武将は、ジャパン広しといえど見当たりますまい」
「なるほど。ではやはり、そのような方には天下をとっていただいた方が良うござるなあ」
「それだが‥‥」
 信五郎の表情がわずかに曇った。
「当の謙信様にはその御意思がどうも希薄なようなのだ」
「ふむ」
 南洋は腕を組んだ。
 信五郎の見立てが真実とするなら、謙信には天下への野望はないと断じても良いだろう。とにれば、やはり気になる。源徳を討った理由が。
「謙信公が源徳を討った理由はご存知なかろうか」
 南洋が問うた。すると信五郎は少し考え込み、やがて云った。
「詳しくは知らぬし、これは噂であるが‥‥源氏嫡流を蔑ろにし、じゃぱんを専有しようとした源徳を討つは天意である、と謙信様は申されたそうだ」


 同じ頃、カーラは林泉寺を訪れていた。
 林泉寺とは長尾家の菩提寺であり、六世住職である天室光育から謙信は学問を習っている。そして今、カーラと相対しているのは七世住職である益翁宗謙であった。
「謙信公とお会いしたいのです」
 カーラは云った。同じ僧侶ということで面談は叶ったが、益翁宗謙の協力が得られるかどうかはわからない。が、真実謙信の事を憂える想いが通じぬはずがないとカーラは思っていた。
「謙信殿と?」
「はい」
 カーラは大きく、しかしはっきりと頷いた。
「お噂では謙信公は信義の人。それが自らの節を曲げて裏切りに走った。変節漢――当然、公の脳裏にはこの言葉が過ぎっておられるはず。であれば、その言葉が謙信公を苦しめていらっしゃるのは想像に難くありません。私は一人の僧、一人の人間として、苦しみと迷いの中にいる衆生を導いてさしあげたいのです」
 静かな、それでいて心の内に染み入るような声音でカーラは告げた。
 が――
「そのお心は見上げたものですが、謙信殿に会う必要はありますまい」
「必要はない!?」
 愕然とし、カーラが問い返した。
「な、何故ですか?」
「謙信殿に迷いはないからです」
 益翁宗謙が答えた。それこそ迷いのない声音で。


 四人目の冒険者、扶桑はふっと嗤った。
 先日会った家康の面をよぎった一瞬の表情。そこに扶桑は家康の父親としての苦悶を見てとったのだ。
 ――いくら東海一の弓取りと謳われても、やはり人の親か。
 そう思い――それ故に、尚更扶桑は家康が許せなかった。愛する子に名誉ある死を与えてやることすらできない、家康の度量の狭さに、である。
「‥‥半!」
 壺振りの声が響き、扶桑の意識は現実に引き戻された。
 ついと手をのばし、扶桑は一升徳利をとると、口に含んだ。強い酒が喉を焼く。
 げふっ、と息を吐くと、扶桑は立ち上がった。そして代貸に歩み寄って行く。
「ちょっと聞きたい事があるんだが‥‥近々また戦が起きそうな予感がするので、その時に誰に雇われるのが一番の儲け口か見極める為に諸国を回っているんだが、心当たりはないか?」
「儲け口?」
 眉をひそめ、しかしすぐにふっと代貸が笑った。
「ここをどこだと思ってるんだ。越後だぜ、越後。ここには上杉謙信ってえ殿様がいるじゃねえか」
「上杉謙信、か‥‥。謙信はそれほどの男か」
「ああ。なんせ負け知らずだからな。戦は勝ってこそなんぼだ」
「なるほど」
 扶桑はニヤリとした。すると代貸が扶桑の腕をぐっと掴んだ。
「おめえ、つかえそうだな。うちの組の用心棒にならねえか」
「俺はそんなに安くねえ」
 扶桑が代貸の手を振り払った。
 恐るべし。たったそれだけの動作で、いかなる手練か代貸の肘の関節は抜けたのであった。 


 扶桑達四人に遅れ、トマス・ウェスト(ea8714)と片桐惣助(ea6649)が高田宿に入ったのは三日目の夜であった。明くる早朝、トマスは春日山城下へ、そして惣助は栃堀の巣守神社へと向かった。

 ふらり、ふらり、と。トマスは春日山城下をゆく。
 異国人との好奇の眼差しが降りかかってくるが――当のトマスは何とも思っていない。けひゃひゃひゃ、と笑いながら情報源ともなる怪我人を探して歩く。
 しかし、そう町中でそう簡単に怪我人と出くわすはずもなく。コアギュレイトで誰かつかまえてやろうかとも思ったが、小丹から目立つなと注意されているので、それもやめた。
「困ったね〜」
 さして困った風でもなくトマスは呟くと、手近の町娘に近寄って行った。
「しかし、なかなか栄えた町ではないか〜。ここの城主君はさぞかし立派な御仁なのだろうね〜」
 と、声をかけた。すると娘はどぎまぎしつつも、はい、と小さく頷いた。
「しかしこのご時世、城主君も大変だろうね〜」
「政の事は良くわかりません。でも一向衆の一揆が起こって謙信様は困っていらっしゃるとか聞きました」
「一向衆の一揆?」
 トマスは眼を眇めた。仏法僧になりたての彼は良く知らなかったが、近頃流行りの新興宗教だろうか。戦国の世ならば無理もない。
「信心深いといっても、本当に信仰しているのは毘沙門天だけなのかも知れないねえ〜」
 けひゃひゃひゃ、とトマスは再び笑った。


 惣助が巣守神社に着いた時、すでに陽は中天にあった。
 巣守神社とは謙信が戦勝祈願をする場所として有名であり、またここには謙信が信仰したという毘沙門天が祀られている。そこに旅の植木職人として神社に入り込もうとした惣助であったが――
「濫りにうろうろされては困る」
 宮司に拒絶された。宮司はにこやかな人物で、この時も笑みを満面に浮かべつつ惣助を追い出そうとしたのである。
 惣助としては謙信の人柄など問いたい事は山ほどあったのだが、どうにも取り付く島がない。仕方なく立ち去ろうとした、その時――
 惣助の視線の端にとまったものがある。
 人間だ。総髪の、人形めいた端正な顔立ちの青年であった。
 ――誰か?
 美しい顔立ちを除き、青年におかしな点は見当たらない。が、一瞬ちらと視線をかすめただけに過ぎないが、どこか印象に残る青年であった。

「――おい」
 声に、厠に立った惣助が振り返った。
 宿の廊下。すでに暁の光が差し込んでいる。
 刃のように鋭くはしらせた惣助の視線は、すぐさま向かいの宿屋の屋根の上に立った精悍な少年の姿を見出している。
 その少年の顔を惣助は知っていた。確か――
「風魔の九郎さんでしたね」
「おめえとは縁があるなぁ」
 けらけらと笑うと、少年――九郎はましらのように道を飛び越えると、音もなく地に舞い降りた。
「で、どうだい。謙信裏切りの謎は掴めたかい?」
「ほお。良くご存知で」
 惣助が微笑った。それは優しげでありながら、彼の身からは凄絶の殺気が噴き出ている。しかし九郎は惣助が放つ殺気なぞ微風ほどにも感じぬらしく、更にけらけらと笑った。
「そんなに怒るない。他でもないおめえの事だから、良い事を教えてやろうと思ってよ」
「良い事?」
「ああ。早雲様が云ってたぜ。理屈にあわぬ謙信裏切り。その大奇術のタネは理屈を超えたものではないのか、とな」
「理屈を超えた‥‥」
 呟いた惣助の脳裏を、この時彼の主である御影涼の言葉が過ぎった。
 ――推測だが、謙信公裏切りの裏に毘沙門天の夢のお告げ等があったのではないか。
「――まさか」
 惣助が主の推測を口に出すと、今度は九郎がほおと唸った。
「その事、確かに聞かせてもらったぜ」
 その言葉が終わらぬうち、九郎の身は宙を待っている。塀を飛び越え、さらに宿の屋根に飛び移り――敢えて惣助は追わなかった。それよりも彼には気にかかる事がある。
 総髪の青年――もしや‥‥。