【鳳凰伝】蠢動
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■シリーズシナリオ
担当:御言雪乃
対応レベル:11〜lv
難易度:難しい
成功報酬:10 G 86 C
参加人数:8人
サポート参加人数:5人
冒険期間:07月21日〜07月28日
リプレイ公開日:2008年08月01日
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●オープニング
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ふらりと現れた若者に気がついて、冒険者ギルドの手代は眉をひそめた。
その若者の顔に、手代は見覚えがあった。冒険者の一人だ。が、彼の記憶にある若者の顔は、いつも希望の光に輝いていた。眼前の若者の顔とは違って‥‥
「確か久保田源八様。どうかなされたのですか」
「いや――」
困惑した顔で、源八が告げた内容はこうだ。
先頃、故郷から便りがあった。幼馴染である遠藤小助が何者かに殺害されたというのだ。
「それだけならば問題はない――いや、あるのはあるのだが、問題はむしろ別のところにある」
「別のところ?」
手代が問い返すと、源八は重く肯いた。
「それり少し前、もう一人の幼馴染が殺されているのだ」
「それは――」
手代は息をひいた。
短期間に幼馴染が二人殺される。偶然とも考えられるが――
「遠藤だけならばまだしも、平山亀蔵まで殺されたとなると偶然とは思えなくてな」
「平山亀蔵‥‥あっ」
手代が眼を見開いた。
先ほど遠藤小助という名を聞いて何かひっかかるものがあったが、今平山亀蔵という名を聞いてその正体に思い至った。
手代はその二人の名を知っている。共に冒険者であったのだ。
その事を告げると、再び源八は肯いた。
「友達でな。冒険者を目指して江戸まで出てきたのだが、仲間は全て故郷に戻ってしまったのだ」
「仲間‥‥と申しますと?」
「あと三人おる」
源八は答えた。そして三人の名を告げた。
稲垣鶴太郎、岸井左馬之助、千尋の三人。すでに源八は連絡をとり、生存を確かめてあった。
「が、心配なのだ。三人に警告しても一笑に付すばかり。とはいえ手をこまねいていてもしもの事があったら‥‥」
源八が拳を握り締めた。そしてぎらと眼をあげると、
「依頼を出したい。友を守る為に」
●
それは三月ほど前の事であった。
江戸湾の只中に小船が揺れている。その上、二つの人影が見えた。若い男と女である。
男は青井新吾、またの名を緊那羅王といい、女は朱美といった。
「朱美」
緊那羅王が口を開いた。
「冒険者ども、おまえを見捨てたよ」
「えっ」
朱美がはじかれたように顔をあげた。しかしすぐに表情を曇らせると、
「仕方ない事です。わたしと、あの人達とは何の関係もないのですから」
「そうかな」
緊那羅王が笑った。
「おまえは冒険者に好意をもったはずだ。そして信じはじめていた。が――」
新吾の唇の端がきゅうと吊り上がった。
「奴らはおまえを見捨てた。踏みにじった。打ち壊した。そう、奴らにとって、おまえは小指の先ほどの価値もなかったのだ」
「やめて!」
朱美は耳を塞いだ。が、緊那羅王はその朱美の手を耳からもぎ離すと、
「冒険者はおまえを二度殺した。ならば、この俺がおまえの死に意味を与えてやろう」
告げると、緊那羅王は刃を朱美の胸に突き立てた。
「あ‥‥」
朱美の口から声にならぬ呻きがもれ、一筋の涙が瞳から零れ落ちた。
「新吾‥‥様」
「朱美」
緊那羅王は朱美の耳に口を近づけ、囁いた。
「おまえは馬鹿な女であったよ」
ニンマリすると、一気に新吾は刃を引き抜いた。鮮血が噴出し、群青の海を真紅に変えていく。新吾は狂ったような哄笑をあげた。
瞬間、海が煮え立った。豪と音たて、渦を巻く。
それだけではない。その渦に巻き込まれるように、明滅する呪文が海面で旋回している。
突如、渦が割れた。そして闇色の光が噴出した。
続いて雷が迸り出た。煌く紫光が空を焦がし、天を切り裂く。本来地を撃つはずの雷が、今、天を貫いたのであった。
そして――
割れた渦から、一つの人影が現出した。
金色の武具を纏った、七尺ほどの体躯の偉丈夫。長い豊かな黒髪を背に流し、彫刻的な顔立ちは神々しく、威厳に満ちている。
ただ、その眼のみ異様であった。
深い叡智のやどったその黒瞳には、蔑みの光があった。生きとし生けるもの全てを嘲笑っている眼だ。
さらに――
その身から放たれる気の凄絶さ、禍々しさはどうだろう。あまりに巨大、かつ高密度の霊気の為に周囲の空間が歪んで見える。
遥か空の高みに偉丈夫は屹立した。その傍らの空間に緊那羅王はうやうやしく片膝ついた。
「お待ち申し上げておりました」
「緊那羅王」
偉丈夫が緊那羅王を冷然と見下ろした。
「我の眠りを覚ましたのは、お前か」
「はッ」
面を伏せたまま、緊那羅王が応えを返した。
「時が近うござりますれば」
「時?」
偉丈夫の眼に好奇の色が動いた。
「ほほう、時が来たか。ならば我も動かねばなるまい。緊那羅王、他の八部衆はどうした?」
「各地に散っておりまする。ご命令あれば、すぐさま集結いたしまするが」
「其の儀には及ばぬ。で、彼の地には誰が?」
「修羅王が。それと霧隠才蔵なる者がおりまする」
「霧隠才蔵? 何者だ、それは?」
「人間でございます。されどかつては真田十勇士と呼ばれた恐るべき使い手」
「ほほう」
偉丈夫が柳眉をあげた。
「久しぶりに目覚めてみれば、なかなかに面白い者がおるようだな。よかろう。一度その面、見てみるとするか」
「御意」
緊那羅王が面を伏せた。
●リプレイ本文
●
日はそれほど高くない。されど陽炎はゆれて。
見送るは共に同族。人に似て、人にあらざる麗しき存在。
名はリュー・スノウ。そしてキドナス・マーガッヅ。
ゆくは八人。
ルーラス・エルミナス(ea0282)、リフィーティア・レリス(ea4927)、渡部不知火(ea6130)、蛟静吾(ea6269)、山下剣清(ea6764)、カノン・リュフトヒェン(ea9689)、小野麻鳥(eb1833)、所所楽柳(eb2918)。
待つは風か、はたまた――
●
残照も消え、相模に入った辺りで日が暮れた。次の宿場まではまだ少し距離がある。
剣清が足をとめた。
「そろそろ野営の準備をした方がよくはないか」
「そうだな」
肯くと、専属契約を交わした商人の許可を得て今回の依頼に参加した柳が荷をおろし、簡易テントを取り出した。すると剣清がするすると近寄り――ぎろりと柳が睨みつけた。
「これは僕とカノンが使う。キミは自分のものがあるだろう」
「ふふん」
リフィーティアは薄く笑った。その笑みはぞくりとするほど美しい。
「馬鹿か、あいつ」
「うん?」
テントを広げていた手をとめて、ルーラスが顔をあげた。
「馬鹿? 誰の事ですか?」
「山下の事さ。あんな女のどこがいいんだ?」
「柳さんですか?」
ルーラスが柳を眩しそうに見つめた。
「私は美しい方だと思いますが」
「おまえはガキだな」
年下のリフィーティアが嘲笑った。
「あいつの眼は鋭すぎる。瞳は大きくて綺麗だがな。肢体は細い。下手をすれば折れそうだ。かといって、ギスギスと痩せているのとは違う。肉付きはいいようだ。それに――」
「褒めているとしか思えませんが、私には」
「ば、馬鹿」
リフィーティアは多少慌てて顔をあげた。
空には星が瞬き始めている。そこが己のあるべき場所だといわんばかりに。が、リフィーティアは未だ己の真の居場所をもたぬ。
その星空を、静吾もまた見上げていた。その胸には、今朝方彼自身がもらした言葉が鳴り響いている。
救いを求めて来た掌を救えない。これほど悔しいものはないよ。
ならば――
と、答えてくれたのは観空小夜だ。
貴方の背負っている分も私が冥福を祈り弔いましょう。それでも足りないのであれば、全てを終わらせてから想って差し上げなさい。
微笑みながら空長たる小夜は云った。
そうなのだ。迷っている時ではない。
眼をきらりと光らせると、静吾は依頼人である久保田源八に向き直った。
「久保田君、注意してください」
「注意?」
源八は怪訝そうに眉をひそめた。
「アンタも危ないっていうことよん」
不知火が告げた。静吾は肯き、
「僕なりに推測してみました。殺害された二人――遠藤君と平山君の共通項は何か。それは久保田君の幼馴染であり、なおかつ共に十八歳である事です。そして久保田君も十八歳であり、そして駿河にむかおうとしている」
「ば、馬鹿な」
源八は一笑に付そうとした。が、静吾の厳しく光る眼がそれを制した。
「馬鹿ではありません」
静吾は云った。
「もう過ちをおかしたくはないのです。だから、わずかな可能性であろうと久保田君に危険が迫っているのなら、私は全力を尽くして守ります」
「蛟さん‥‥」
源八は言葉を失った。そして薄く微笑んだ。
そうなのだ。これが冒険者なのだ。
源八は思った。
この優しさ。このひたむきさ。この気高さ。――それらが冒険者をして冒険者ならしめているものではなかったか。
「という事でね」
不知火はニンマリした。
「偶然じゃない、と感じる不安の元も有るんじゃなぁい?」
「いいや、全く」
源八はかぶりを振った。では、と柳が口を開いた。
「キミたちが冒険者であった時の事を聞かせてくれないか。まず‥‥冒険者になった理由は何だ」
「腕を試してみたくなった。一言で云えばそういう事かな」
「それでは冒険の事だ。冒険者をしている間に、全員もしくは一部で共通の出来事などなかっただろうか」
「特にはなかったな」
源八が遠い眼をした。
「同じ依頼を受けた事はあったが」
「同じ依頼?」
柳の眼が鋭くなった。そして身を乗り出させると、
「何か思い当たる事はないか。命を狙われるような」
「さっきも云ったが」
源八は不知火をちらと見遣ると、済まなそうに眼を伏せた。
「俺には命を狙われる覚えはないんだよ」
「そんなはずはありません」
静吾が声をあげた。そして彼もまた質問を浴びせた。殺された二人の出生や生まれ育った時の事に関して。
が、源八はまたもや首を横に振った。
彫物師の息子であった遠藤小助、同じ浪人の息子であった平山亀蔵とは同じ長屋で過ごし、仲良くなった。それだけの事であり、その出生と育ちに関して特におかしな噂はない。
その源八の戸惑ったような横顔を見つめつつ、この時不知火の脳裏には一人の若者の面影が過ぎっている。
東雅宣。霧隠の忍びに命を狙われた神主だ。
「元冒険者‥‥そういや東氏も同様ね」
何気なく不知火が呟いた。
刹那、ぎらりと眼を光らせた者がいる。カノンだ。
「久保田殿、日本武尊と草薙剣と聞いて、思い浮かぶ事はないだろうか」
「日本武尊と草薙剣‥‥」
ふうむ、と源八は唸った。
駿河が故郷の源八の事である。当然日本武尊と草薙剣について知らぬはずはない。が、それはあくまで故郷に伝わる神話としてだ。
そう源八が答えると、カノンの眼の光が当惑に揺れた。
思えば悔やまれる。前回の依頼で安部帯刀を守りきれなかった事が。もし救えていたなら異聞の内容を知る事ができたかもしれぬ。
そのカノンの想いを読み取ったものか、ルーラスが拳を握り締めた。
彼は、命が好きだ。希望の根源であるその煌きを何よりも大切に思っている。
それなのに――
ルーラスは守れなかった。救いを求めてきた二つの命を。騎士であるはずの彼が。弱き者の剣であり、盾であるはずの彼が。
心中、ルーラスは慨嘆した。その胸を悔恨の炎がじりじりと灼いている。
「‥‥同じだな」
ぽつり、と。誰の耳にも達する事はなかったが、一人言葉をもらした者がいる。
ぬばたまの髪をすらりと肩まで流した陰陽師。麻鳥だ。
彼の冷然たる眼には、この時、ルーラスに重なって一人の若者の姿が映っている。ルーラスと同じく、命を救い得なかった事を悔いる優しき勇者――伊珪小弥太だ。
その小弥太は、今も救い得なかった娘――朱美の姿を求めて河原に足を運んでいるという。朱美を見つけるまで小弥太は彷徨うだろう。あれは、そういう馬鹿だ。
「久保田殿」
麻鳥の眼から幻視は消えた。
「友の殺害状況について聞かせてくれ。大量に流血してはいなかっただろうか」
「それは」
源八は眉間に皺を寄せた。そして迷いつつ肯き、あったろうと思う、と答えた。
「実際に確かめたわけではないので、はっきりとは云えないが。しかし文には首筋を切断されて殺害されたと記してあった。だから、おそらくは大量の血が噴出したのではないかと思う。――その事が何か?」
「いや」
源八の問いに、静かに麻鳥は答えた。
しかし――今、いやと答えたものの、本当のところ麻鳥には一つの考えがある。
伊珪が関与した江戸の件、被害者の共通は冒険者である事実、大量の流血がある事――これら三つの要素から、麻鳥は一つの推論を導き出していた。それは――
事情を知る冒険者を釣る餌。即ち、一連の殺人は冒険者を誘き出す為の罠ではないのかという推論である。
もしそうなら――
「鬼道八部衆、緊那羅王。相見える事ができるかもしれぬな」
ニヤリ、と。麻鳥の端正な面を、凄絶な笑みが彩った。
●
駿河に至り、冒険者達は四方に散った。
実家を訪ねるという源八と共にゆくのはリフィーティアと静吾、稲垣鶴太郎のもとにはルーラスと不知火、千尋のもとにはカノンと麻鳥、岸井左馬之助のもとには剣清と柳がむかった。戦力分散は愚作ではある、とは剣清の台詞であるが、掴んだ情報量が少ない為に目星もつけられぬ。決め打ちは危険であった。
とはいえ、変転自在の冒険者の事だ。ただ手をこまねいていたわけではない。
ルーラスが次善の策を講じた。亡くなった二人を弔う為の宴をもうけるという口実で、駿河各所に散っている三人を一箇所に集めようとしたのであった。
結果、千尋のみ動いた。稲垣と岸井の二人はかかっている仕事がある為に、今いる地を離れられぬという。故に四人の冒険者が各地にとどまる事になったのだが――。
さすがに稲垣と岸井の二人は元冒険者であった故に、冒険者達の護衛の申し出を快く引き受けた。すでに源八からの文も届いており、二人にはそれなりの心積もりもあったようだ。
一方の千尋はひたすら源八のもとに急ぎ――
道中、麻鳥が問うた事がある。クサナギと日本武尊についてだ。
が、千尋の答えは源八と同じであった。さすがの麻鳥の面にも失望の色が濃い。
その時、カノンがふともらした。
「やはり異聞の事が気にかかる」
「異聞?」
聞きとがめ、千尋が問うた。ああ、と肯き、カノンが語ったのは草薙神社襲撃の顛末である。
刹那であった。千尋の顔色が変わったのは。
「千尋殿、どうしたのだ」
「いえ‥‥草薙神社の跡取りであった醍醐朔也とは知り合いであったものですから」
「醍醐朔也?」
カノンの眼の光が不審に揺れた。
確か草薙神社の跡取りは瑞穂であったはず。朔也など知らぬ。それに瑞穂の姓は安倍だ。醍醐などではない。
その事を告げると、千尋は小さく笑った。
「草薙神社と勘違いされたのですね。私が申し上げているのはもう一つの草薙――久佐奈岐神社の事です」
「何っ!」
雷に撃たれたかのように、はっしと二人の冒険者は顔を見合わせた。
●
源八は石段を登っていた。先には鶴太郎と小助の墓がある。
時は昼をやや過ぎた頃。夕刻には千尋が着くはずであった。
その源八を挟むように二つの人影。
白き陽光の中にあってなお白く輝くリフィーティア、霧の飛沫散らすかのように颯爽たる静吾である。
その静吾が源八をとめたのは墓地半ばまで進んだ時であった。同じく足をとめたリフィーティアの眼はとらえている。墓石の前にうっそりと佇む雲水の姿を。
墓に雲水。それ自体はおかしなところはない。
が、静吾の鋭敏なる感覚器は察知している。雲水から漂い出る黒雲の如き殺気を。
「久保田君!」
叫びつつ静吾は抜刀した。そして背後に視線を走らせる。
敵中に土鬼あり。襲撃の可能性は四方上下にある。
「おおっ」
応えて、源八もまた抜刀した。
その構えを見て、リフィーティアはニヤリとした。そして雲水に向き直った。
「何者だ、おまえ」
「クサナギはどこだ」
リフィーティアを無視し、雲水が問うた。が、源八に答えはない。雲水は笠の内からしわがれた含み笑いをもらした。
「その様子では知らぬようだな。ならば死ね」
「させぬ!」
リフィーティアが動いた。疾風と化して雲水を襲う。
瞬間、雲水の手から黒炎が噴いた。それは禍々しい炎の塊となってリフィーティアへと疾り――
リフィーティアは右に跳んだ。それは一瞬リフィーティアの姿が消失したとしか思えぬほどの迅速の業で。
が――
まるで追尾する能力でもあるかのように炎塊がリフィーティアにぶち当たった。
「くっ! ――ティルナ! 」
がくりと膝をつきつつ、リフィーティアが叫んだ。一息遅れて、空を裂いて疾る太陽光が雲水を灼く。メイフェのティルナの発するサンレーザーだ。
「リフィーティア殿!」
「動くな!」
リフィーティアのもとへ駆け寄ろうとした源八を静吾が制した。そして眼を閉じ、感覚の糸を張り巡らせる。
必ず土鬼がいるはずだ。潜み、こちらの隙を窺っている。どこだ。土鬼はどこだ。
「!」
かっと静吾が眼を見開いた。そして地に刃を突き立てた。
「み、蛟殿、な、何を――」
「‥‥」
愕然として呻く源八の前で、静吾は三条宗近を地より引き抜いた。刃は真紅に染まっている。
斬った! 土鬼を、霧隠の忍びを!
心中、静吾は快哉をあげた。
刹那だ。
静吾の身が凍りついた。凄愴の殺気に吹かれて。
何者か、いる!
そうと知りつつ、しかし静吾には身動きもならない。それは手練れの冒険者すら呪縛しうる圧倒的な殺意であった。
それでも――
ぎちぎちと刻むような動きで振り向き、静吾は眼をあげた。
そして、見た。寺の屋根の上に立つ一人の美丈夫の姿を。
長い髪を風になびかせたその相貌は女のように美しい。が、その身にまといついているのは壮絶無比の闘気である。いや、禍々しき瘴気といった方がよいか。
「な、何者――」
きらっ。
静吾の問いが終わる前に、空間を銀光が流れた。いいしれぬ恐怖にうたれた源八が反射的に手裏剣を放ったのである。
それは狙い過たず美丈夫の眼に突き刺さり――
苦鳴にも似た声をあげたのは冒険者の方であった。美丈夫が何事もなかったかのように手裏剣を引き抜いたのだ。むろん、その眼には傷一つない。
くく、と美丈夫の血を塗ったかのような真紅の唇から笑いがもれた。
「手に入れたぞ」
美丈夫が云った。その身から放たれる霊気によって空間が歪みつつある。
「俺はついに手に入れたぞ、悪魔の身体を!」
美丈夫が叫んだ。その瞬間、きゅうと美丈夫の唇が吊りあがった。
そこまでが限界であった。
「リフィーティア君!」
静吾が絶叫した。
「源八君を連れて逃げろ!」
「わかった!」
答え、リフィーティアが源八を連れて駆け去っていく。すでに雲水の姿がない事は確かめてあった。
が――
それらの事実は静吾の脳裏からは消え去っている。彼の眼は、ただ眼前に迫る美丈夫の姿のみ映していた。
「ぬん!」
ほとんど無意識的に静吾は刃をふるった。迅さ、威力共に達人の域にある一撃である。
誰が想像し得ただろうか。その一撃があっさりと受け止められようとは。
「いいうでだ」
美丈夫が微笑った。その切れ長の眼が金色に光っている。魔眼であった。
「己の命を捨て、仲間を救う、か。その技量と度胸に免じ、今日のところは見逃してやろう。今日は俺の転生の日でもあるしな」
「き、貴様!」
静吾が飛び退った。
「何者だ!」
「霧隠才蔵」
空に舞い上がりつつ、美丈夫が答えた。
遠くなる。
空の一点に消え去る霧隠才蔵の姿を見遣り、しかし静吾は動かない。いや、動けない。
静吾がようやく身動ぎしたのは、全身を濡らすものが冷たい汗である事に気づいた後の事であった。
「あれが‥‥霧隠才蔵」
静吾の口から、彼自身気づかぬひび割れた声がもれた。
この時、静吾は悟ったのだ。このジャパンにおいて初めてであろう、彼が目撃したものについて。
人から魔物への変貌。それは魔界への人の転生の瞬間であった。
ともかくも冒険者は依頼を果たした。今度こそ命を守りきったのである。
そして、その果てに冒険者はある一つの手掛かりを得た。それこそは久佐奈岐――
もう一つの草薙神社であった。