【鳳凰伝】久佐奈岐

■シリーズシナリオ


担当:御言雪乃

対応レベル:11〜lv

難易度:難しい

成功報酬:10 G 86 C

参加人数:8人

サポート参加人数:-人

冒険期間:09月15日〜09月22日

リプレイ公開日:2008年09月24日

●オープニング


 板敷きの広間の上、二人の男が相対していた。一人は壮年の男で、もう一人は二十歳ほどの若者だ。
 壮年の男の名は醍醐篤人、若者はその息子で名を醍醐朔也と云った。
「これを」
 篤人が桐の箱を差し出した。細くて長い――六尺ほどの長さの箱だ。
「父上、これは――」
「うむ」
 篤人が肯いた。
「草薙神社が襲撃された事は知っていよう。そして、この久佐奈岐神社の周辺にも禍々しき瘴気が漂いだしておる。もはやここも危ない。これをもって駿河を離れるのだ」
「父上」
 朔也は桐の箱を手にとった。
「いったい何が起こっているのでしょうか」
「わからぬ」
 暗澹たる顔で篤人は答えた。
「何者が、何を企み、何をしているのか。しかし、もしもの事があってからでは遅い」
「しかし」
 醐朔は呻いた。
 父の話だけでは雲を掴むようだ。敵の正体もわからねば、敵の目論みもわからぬ。さらに云えば、本当に敵などがいるのかさえも。
 それでも父は逃げろと云う。が、いったいどこに逃げれば良いのか。
「ともかくも、その箱をもって駿河を発て。雫の為に」
「雫の――」
 朔也の眼がぎらりと光った。
「承知しました。必ずや私が――」


 暗天に煌くものがある。
 星か――
 否。
 それは金色の武具であった。それを纏っているのは人である。
 いや、それを人と呼んでいいものか、どうか。
 七尺ほどの体躯の偉丈夫。長い豊かな黒髪を背に流し、彫刻的な顔立ちは神々しく、威厳に満ちている。が、その身から漂いだしているのは空間すら歪ませるほどの圧倒的な禍々しき瘴気であった。
 その偉丈夫の前に、二人、方膝ついた姿勢の者がある。
 一人は侍だ。獰猛とも残忍ともつかぬ光を眼に浮かべた、岩を彫り上げてつくったかのようなごつい体格をしている。
 そして、もう一人はその侍とは対照的な若者であった。やや細身の、それでいてしなやかな体躯をもっている。女と見紛うばかりに美しい相貌をしていた。
「修羅王」
 空に浮かんだまま、偉丈夫が口を開いた。
「はッ」
 同じく空に浮かんだまま、修羅王と呼ばれた侍が答えた。
「彼奴はどうなった?」
「未だ所在は掴めませぬ」
「未だ、だと?」
 偉丈夫の片眉がぴくりと動いた。それだけで修羅王が震え上がった。
「も、申し訳ありませぬ。が、彼奴の居所が知れるのも時間の問題であるかと」
「ならば、良い。急げよ。俺はあまり気の長い方ではない。才蔵」
 次に偉丈夫は若者に眼を転じた。
「草薙神社にアレはなかったそうだな」
「はい。しかし、もう一つの草薙を見つけ出しております」
「才蔵」
 修羅王がぎらりと才蔵と呼ばれた若者を睨みつけた。
「それは本当の事であろうな。うぬは動いてはおらぬはず」
「配下の者が調べ上げた」
「配下?」
 くくっ、と修羅王は笑った。
「すでに土鬼討たれ、うぬの配下はおらぬはず」
「霧隠衆は七忍。残る三忍はこの地に集結している」
 ニヤリ、と才蔵は笑み返した。
「そして、すでに一忍をむかわせてある」


 江戸の冒険者ギルドを一人の若者が訪れた。
 久保田源八。冒険者である。
「これは――」
 ギルドの手代が破顔した。
「依頼をお探しで?」
「いや」
 源八はかぶりを振った。
「依頼を出しにきたのだ」
「依頼を?」
 一瞬戸惑ったように眼を見開き――すぐに手代は笑みを取り戻した。冒険者が依頼人となる事は別段珍しい事ではない。
「では承りましょう。どのようなご依頼で?」
「久佐奈岐神社を調べてほしいのだ」
 源八は答えた。

●今回の参加者

 ea4927 リフィーティア・レリス(29歳・♂・ジプシー・人間・エジプト)
 ea6130 渡部 不知火(42歳・♂・浪人・人間・ジャパン)
 ea6269 蛟 静吾(40歳・♂・志士・人間・ジャパン)
 ea6764 山下 剣清(45歳・♂・浪人・人間・ジャパン)
 ea9689 カノン・リュフトヒェン(30歳・♀・神聖騎士・ハーフエルフ・フランク王国)
 eb1833 小野 麻鳥(37歳・♂・陰陽師・人間・ジャパン)
 eb2918 所所楽 柳(29歳・♀・志士・人間・ジャパン)
 ec0205 アン・シュヴァリエ(28歳・♀・神聖騎士・ハーフエルフ・イスパニア王国)

●リプレイ本文


 東海道を西へ。
 駿河を目前に控え、空には墨を流したような雲が広がりつつあった。嵐が来るのかもしれない。
「嫌な空だな」
 見上げ、呟いたのは山下剣清(ea6764)であった。そして好色そうな眼を左右の騎手に走らせた。
 カノン・リュフトヒェン(ea9689)とアン・シュヴァリエ(ec0205)。共に西洋人らしき彫りの深い顔立ちをもった美形である。
 まあもう一人、所所楽柳(eb2918)という美女もいるのだが、こちらは凛としすぎて、どこか中性的な感じがする。剣清としては苦手であった。
「それにしても駿河は騒がしいところだな。少し前にも火の神に関わるかもしれない三つ子の誘拐があり、霊山の鳴動があった」
 口を開いたのはカノンであった。そして応えの代わりに溜息を零したのはアンである。
「そして、クサナギ、ね」
 アンは空を見上げた。
「この国に何が起こりつつあるのかしら」
「わからんな」
 面倒臭げに吐き捨てたのはカノン達にも勝るとも劣らぬ美女――いや、美男で。
 リフィーティア・レリス(ea4927)。華奢な体躯ながらアビュダの使い手である。
「が、悪魔がからんでいるのは間違いない」
 そういうとリフィーティアは指で何かをはじいた。
 きらり、と小さな光がはね――アンの掌がぴしりと音をたてた。
「これは?」
 手を開き、アンが瞠目した。
 手の中に、小さな指輪がある。蝶の姿が内部に刻まれた、大粒の宝石がはまった指輪だ。
「そいつは悪魔の存在を感知する指輪だ。もっていろ」
「ありがとう」
 アンの満面が微笑みに輝いた。が、すぐにそれは暗澹たる苦悩の色に翳った。
 その様子に気づいた者が一人いる。小野麻鳥(eb1833)という名の陰陽師だ。
「どうした? 何か気にかかる事でもあるのか」
「うん‥‥いえ」
 アンは言葉を濁した。
 その答えは、本当であり、本当ではない。実は、アンの胸を重苦しく圧しているのは此度の件ではなかった。
 京で起こったジーザス教の弾圧。その背後に菩薩の存在があった事をアンは知っている。
 神の使徒を、同じ聖なる存在であるはずの菩薩が踏みにじろうとする。そこに愛はあるのか。慈悲はあるのか。正義はあるのか。
 その疑念は、神聖騎士であるアンに致命的ともいえる思いを生み出させつつある。それは神に対する疑いだ。
「気を引き締めよ。悪魔は心の隙につけこむぞ」
 麻鳥が警告し、アンが小さく肯いた。
 そのやり取りを耳に、蛟静吾(ea6269)は、理知的なその面に苦いものを滲ませた。そして太刀風の手綱を握る手に視線を落とした。
 その手には、今もある衝撃が残っている。真田十勇士の一人であった霧隠才蔵の刃を受け止めた時の衝撃でだ。もし才蔵がその気であったなら、あの場で自分で殺されていただろう。
「人が魔人に転生した。いや、奴は墜ちたんだ。誰しもが一歩間違えば墜ちる修羅の道に」
「霧隠才蔵の事かしら」
 問うたのは渡部不知火(ea6130)という浪人者であった。
「ええ」
「ふふ」
 不知火は薄く笑った。それは微笑に見えて、しかしどこか肉食獣が牙をむいたかのような獰猛さを秘めている。
「霧隠才蔵の件は‥今までも妙なモノが背後でちらほら、な裏付けが此れで出来ちゃったってトコかしらん」
 云うと、不知火は前に向き直った。その眼に蒼い陰火の如き光がやどっている。
 ――人外の力なんぞに何の意味があるのかは知らねえが。しかし、少なくとも斃すのに何の躊躇も要らん存在へ成り下がったのは確かだな。
 知らず。不知火の口辺に不敵な笑みが刻まれた。


 駿河国。庵原郡庵原村に久佐奈岐神社はある。
 すでに冒険者達は庵原村に入り、久佐奈岐神社まではわずかの距離を残すのみとなっていた。
「さあて」
 不知火は辺りを見回した。そして全身の感覚器を研ぎ澄ませた。
 久佐奈岐神社を知る者がいるのである。すでに霧隠才蔵がかぎつけていたとしてもおかしくはない。
 そして――
 不知火は見出した。久佐奈岐神社を。そして境内からこちらにむかってくる一人の若者の姿を。
 年の頃なら二十歳。生真面目そうな相貌をしており、背に六尺ほどの長さの桐の箱を負っている。
 何者か。
 と、疑念をもったのは冒険者達ばかりではなく、その若者もまた同じであったようで。
 そそくさと冒険者達の前を通り過ぎようとし――
 その背にむかい、しばらく、と呼び止めた者がいる。剣清だ。
「もしや貴殿、久佐奈岐神社の方ではないか」
「うん?」
 若者が足をとめた。するとすかさず静吾が続けた。
「僕達は冒険者。ちょっと調べたい事があり、こちらに伺ったのですが」
「冒険者‥‥」
 ふうと若者は溜めていた息を吐いた。どうやら若者は冒険者の事を知っていたようである。そして若者は名乗った。
「私は醍醐朔也。久佐奈岐神社宮司、醍醐篤人の息子です」
「おお、貴殿が朔也殿か」
 麻鳥が声をあげた。彼は、依頼人である久保田源八の友人――千尋からその名を聞いていたのである。
 麻鳥が千尋の名を告げると、若者――醍醐朔也は破顔した。
「千尋は元気でしたか」
「ああ」
 答えたのはカノンである。
「朔也殿の事を心配していた」
「私の事を心配?」
「ええ」
 怪訝そうに問い返した朔也に対し、静吾は一連の出来事を語って聞かせた。そして此度の来訪の目的も。
「なるほど‥‥」
 朔也の顔色が変わった。そうと気づき、静吾は声をひそめた。
「その様子では、こちらでも何か異変があったようですね」
「もう一つのクサナギ‥草薙神社の安部殿が示した人物がもし醍醐殿ならば、こちらの方も危ないと思っていたけれど」
 不知火が苦いものを口に含んだかのような声音で呟いた。静吾は肯くと、あらためて朔也の全身を見回した。
 笠をもち、袴をはいている。旅装だ。
「どこかにゆかれるのですか?」
「駿河を離れるのです」
「キミが?」
 柳の柳眉がはねあがった。
「何故キミが駿河を離れなければならないんだ?」
「それは‥‥」
 朔也が口ごもった。
 何かある、と思いつつ、柳は朔也を見返し――そしてあらためて気づいた。朔也が背負っている桐の箱に。
 クサナギという言葉から連想されるのは、当然剣である。そして朔也が背負っている箱の大きさや形状から、中身として類推されるのもまた剣だ。が――
 いや、と柳は思う。
 あの箱の中に入るものは、決して剣とは限らない。剣の対は剣ではなく‥‥むしろ鞘があるべきだ。では――
「その箱だな」
 柳が云った。
 はっと身動ぎし、朔也は睨みつけるように柳を見返した。そして小さく肯いた。
「て事は、箱の中身は今駿河にあっちゃあならねえモノなんだな?」
 不知火が問うた。朔也は答えない。が、その必死の眼が全てを物語っている。
 と、アンが何気ない口調で問うた。
「箱の中身は何なの? 見せてもらえないかな」
「だめです」
 さすがに朔也は断固たる態度で答えた。その様子では冒険者が箱を預かる事も拒否するだろう。
「ともかく」
 不知火が腕を組んだ。
「もし敵が私達の考えている者なら、追手と化すのは並の奴等じゃないわ。箱を逃がす先に、何ぞ宛があるのかしら」
「い、いえ」
「そうか」
 不知火は眼を伏せた。
 彼の知る限り、霧隠才蔵ほどの者から朔也を守りきれる手練となると多くない。思いつくのは柳生十兵衛か鬼一法眼というところだが‥‥。
 妹の話では柳生十兵衛は行方が知れず、そして鬼一法眼と不知火は一度顔をあわせただけの間柄である。すんなりと鬼一法眼が頼みをきくとは思えなかった。
「よし」
 静吾が進み出た。
「行き先はともかく、まずは駿河を出る事が先決です。僕が同行しましょう」
「あなたが」
 朔也の顔が輝いた。
「お願いできますか」
「任せておけ」
 剣清が腰の姫切の柄に手をかけた。その身から漂い出す殺気には、すでに氷の冷たさが滲んでいる。
「俺は残るぜ」
 リフィーティアが告げた。そして美しい相貌にニヤリと笑みを浮かべると、
「これだけの面子がいれば、俺がいなくても大丈夫だろ。何より異聞ってのを聞いてみたいしな」
「私もだ」
 とは、カノン。常に後手にまわっていた冒険者が先手をとる為には、まずは異聞の内容を知る事が必要と判じた為であった。
「では」
 静吾が促し、五人の冒険者と朔也が久佐奈岐神社を後にした。残る三人の冒険者は神社の奥へ――異聞へとむかって歩みだした。  


 久佐奈岐神社。社務所、奥。
 そこで三人の冒険者達は醍醐篤人と相対した。
「日本武尊異聞についてお知りになりたいとか」
「ああ」
 麻鳥が肯いた。
 すでに来訪の目的は告げている。さらに麻鳥は神社周囲にファイヤートラップまで施していた。これで敵の不意打ちもある程度は凌げるはずである。
「その前に、久佐奈岐神社のご神体について聞きたい。先ほどご子息の朔也殿が桐の長箱をもっておられたが、まさか」
「その通りです」
 篤人はあっさりと肯いた。
 麻鳥は眼をきらりと光らせ、
「では続けてお聞きしたい。そのご神体とは何なのだ」
「知りませぬ」
「なっ」
 リフィーティアが顔色を変えた。
「宮司がご神体を知らないはずがないだろう」
「そうだ」
 カノンが肯いた。こちらは顔色一つ変えてはいない。
「この期に及んで隠されては困る。敵が何度も口にしたクサナギという言葉から考えて、敵の狙い、その行く道、行く先にこの国の神話が絡むは必定。が、我々はクサナギの正体すらわからぬ。このままでは奴らと戦えぬのだ」
「だから話してはいただけまいか。ご神体の事、そして日本武尊の異聞の事を」
 鷹揚たる態度で麻鳥が云った。そして一連の事件の顛末を口にした。
「私は‥‥」
 口を開き、篤人はすぐに溜息を零した。そして本当に何も知らないのだと答えた。
「そんなはずは」
「いや」
 篤人は、抗弁しかけた麻鳥を制した。
「知っていればお教えするのに吝かではない。ですが、本当に何も知らぬのです」
「では異聞について知る者は存在しないと?」
「いや」
 篤人の顔を苦渋の翳が覆った。が、すぐに思い切ったように眼を見開くと、
「それは娘の雫が」
 云いかけた、その時だ。
 ばさりと羽音が響いた。
「しまった!」
 はじかれたように立ち上がったカノンの視線の先――空を舞う鳥の姿があった。まるで墨を落としたように、灰色の空にそれは黒々とした影を刻みつけていた。


 冒険者達は馬を駆り、稲瀬川を渡っていた。数日前の嵐により橋が流されてしまったからである。
 水量が増しているが、この場に留まるのは危険であった。故にこその強行軍である。
 先頭は剣清であった。同乗しているのは不知火である。続いて静吾と朔也、そしてアンと柳が続く。
「気をつけてください」
 静吾が大きな声をあげた。
 彼の張り巡らせた感覚に触れる殺気はない。が、水中での戦闘はいかにも不利だ。襲われるとしたら、この場である公算が高い。
「わかっています」
 アンが答えた。その身が震えるほど緊張して――だからこそ、満面に笑みを浮かべて。
 その背には布で包んだ棒状のものがある。敵を撹乱させる為、レイピアに布を巻きつけてあるのだった。
 この前の敵は土だったから、次は木かしら?
 などと思い、リンが周囲に視線をはしらせた。
 と――
 突然、静吾が手綱を引いた。すると剣清もまた慌てて手綱を引き、
「どうした?」
「殺気が――」
 静吾が答えた時、水中からビュッと刃が突き出された。咄嗟に静吾は身を仰け反らせて避け――しかし重心を失い、水飛沫をあげて川に落下した。続けて朔也もまた。
「おのれ!」
 不知火は呻いた。水中にあっての騎馬は身動きがきかない。
「ちいぃぃぃ!」
 抜刀しつつ、不知火が川に踊り込んだ。剣清は朔也を拾い上げんと馬を進めるが、水の流れが急な為に上手くいかない。
「くっ」
 唇を噛む柳であるが。突如、その身が炎に包まれたかの如く真紅に染まった。かと思うと、その炎は前に座したアンに燃え移ったかと見えて――
「アンさん!」
「わかっているよ!」
 答えるアンの身は漆黒に染まった。黒の呪法、レジストマジックの発動である。
「敵は?」
「わかりません!」
 アンの問いに答えたのは、こちらもまた業物である三条宗近を抜き払った静吾である。
 水は濁っており、敵の姿を見出せない。が、水中とは思えぬ迅さで行動している事は確かなようであった。
「ええい!」
 敵影を見た――そう思った刹那、不知火は刃を水中に突き刺した。
 が、手ごたえはない。敵影の残滓を見てからの攻撃では遅いのだ。
 不知火が叫んだ。
「蛟、わかるか?」
「い、いや」
 苦痛に顔を歪めながら――すでに敵のよって足を斬られていた――静吾は答えた。
 かつて土中の土鬼を斃した静吾である。が、轟く水音は彼の感覚の感度を著しく低下させていた。
「ぬっ」
 不知火が苦鳴をあげた。返し技を行えぬ背を斬られたのである。
「このままでは‥‥アン!」
 不知火が叫んだ。武器が届かぬ敵に唯一効果があるのは呪法だと判断した為である。
「まかせて!」
 叫び返し――すぐにアンは愕然とした。
 呪法――ブラックホーリーが発動できぬ。レジストマジックのせいだ。
「だ、だめ。後半刻は魔法を使えない!」
「何っ!」
 不知火が呻いた。が、その呻き声が最後まで響く事はなかった。不知火の身が瞬時にして氷柱の中に閉じ込められてしまったからだ。
「アンさん、クサナギを持って逃げよう!」
 柳が絶叫した。
 逡巡は一瞬。すぐさまアンは愛馬ジークを進めた。
 忍びは裏をかく事を常道とする。ならばアンの仕立てた偽者を本物と思い込むのではないか――その一事に柳は賭けたのである。
 そして――
 まさに柳の策は的中した。水をかきわけ進むジークの身が氷に包まれたのだ。それはとりもなおさず敵を引き寄せた事を意味する。
 何でその隙を見逃そう。剣清が朔也を引き上げ、反対の岸をめざした。その後を太刀風に乗った静吾が追う。
「ま、待ってください」
 突然朔也が声をあげた。そして背後を振り向いて、叫んだ。
「何者か知れぬが、聞け。私は何ももってはおらぬ。当然、その者も」
「何?」
 声とともに、水中からぬらりと人影が現れた。青白い顔色の、細面の男だ。濡れた髪がべたりと頬にはりついている。
「もってはおらぬ、だと」
「そうだ」
 肯くと、朔也が桐の箱の封を解いた。中は空であった。
「これ以上、冒険者の方々には迷惑はかけられぬ。私の役目も達せられた。本物のクサナギは、今頃はすでに駿河を抜け出ているはず」
「やはり」
 柳がニヤリとした。
 彼女は朔也と出会った時から、ずっと桐の箱内の音を探っていた。そして物音一つしない事に気がついていた。そこから柳は、ひょっとすると箱の中には何もないのではないかと疑っていたのであった。
「ふふふ。引っかかったのは僕達だけじゃなかったようだな」
「お、おのれ――」
 歯噛みする音は、男が水中に没するとともに消えた。後には只、怒涛のような水音だけが残されていた。