●リプレイ本文
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「蛟じゃな」
琳思兼は云った。
「蛟?」
陸潤信(ea1170)は琳の叡智に煌く瞳を見返した。
「琳老師。蛟とは何なのですか」
「水精じゃ。水に関わる大蛇。‥‥恐らくは蛟竜であろうな」
「水精――」
潤信の、猛禽のように鋭い眼に憂いの翳がおちた。
「人間と物の怪達との境界がここまで混沌として来たなんて。‥‥これも何かの前兆なんでしょうか」
「わからぬ」
琳はかぶりを振った。深い知識を蓄えた彼の頭脳にしても、混迷極まる現在のジャパンの実相は読み取れない。
その琳と潤信のやり取りを耳にし、一人の男が身動ぎした。
隆々たる筋肉に覆われた巨漢だ。体躯は七尺をこえるだろう。高圧の気を身裡に秘めている。
名はファング・ダイモス(ea7482)。ビザンチン帝国のナイトである彼は、見送りの者にやや冴えぬ色の顔をむけた。
「どうした?」
問うたのは湖面の如き澄んだ瞳の侍で。名は陸堂明士郎という。
「何だか嫌な予感がするのですが。‥‥きっと気のせいでしょう」
「ならばいいが」
明士郎の声にも微かに懸念の色が滲んでいた。
ダイモスは一流の戦士だ。そのダイモスが不安を感じている。その勘をおろそかにするのは危険であった。
「依頼人の事か」
ふっと声がもれた。はっとして振り向いたダイモスは、背後に立つ一人の騎士の姿を見出している。
女だ。人形のように整った、しかし感情を欠いた相貌をしている。
女――カノン・リュフトヒェン(ea9689)は自嘲めいて云った。
「戦場で散った者、遺された者の為に願うのは大事な事だ。あの依頼人の心根は敬意に値する。が、何故か私は素直に手を差し出せぬ。それは私の魂が穢れつつあるだけなのかもしれぬがな」
「なら、私の魂は真っ黒ね」
ふふ、と笑ったのは金髪碧眼の娘だ。身ごなしが艶やかで、腰に長曽弥虎徹を落とし差しにしているところから見て侍――奔放そうな様子からして浪人であろう。名は伏見鎮葉(ec5421)といい、彼女は続けた。
「だって、私もこの依頼、何だか胡散臭いって思っているもの」
「それは自分も同じで候」
微かに響いたのは声。が、声の主の姿はない。
いや、あった。むっちりとした豊かな肉付きの娘の姿が。
が、それはよほど気をつけないと見とめられない。娘の姿は完全に物陰と同化していた。
「あんたは?」
「百鬼白蓮(ec4859)。伏見殿と同じく、この依頼を受けた者で候」
白蓮は答えると、ちらりと眼を冒険者ギルドの片隅にむけた。
そこには男と少女の姿があった。依頼人の陣内と、彼が連れている椿だ。
「火星洞という洞穴から珠を持ち出すことにて候が‥‥」
白蓮が口を開いた。
「しかし洞穴の名前には火がつき、大蛇は水というのはいささか気にかかる」
「確かに気になりますね」
肯いたのは一人の巨漢だ。岩のような体躯に似合わぬ能面に似た静かな相貌をしていた。
宿奈芳純(eb5475)という名の陰陽師は首を捻り、
「火と水は五行の法則からいっても対極にあるもの。それが一つ箇所にあるのはいかにもおかしい」
呟いた。そしてちらりと眼を転じ、おや、と声をもらした。
陣内と椿の姿が見えない。先ほどまでそこにいたはずなのに。
その事に気づいた大きな瞳が特徴的な美少年――いや、良く見ると二十歳をすでに過ぎた若者がギルドの手代に問うた。
「依頼を受けた白井鈴(ea4026)だけど。依頼人の陣内さんはどこに行っちゃったの?」
「さっき出ていかれました。寄るところがあるからということで」
「ふーん」
残念そうな声を発した者がいる。
眼をむけた手代の喉がごくりと鳴った。その者――女はそれほど麗艶で。
鴉の濡れ羽色の髪をさらりと背に流し、漆黒の着物を無造作にまとっている。その着物から覗く肌の何たる眩しさか。おまけに胸元に彫られた緋牡丹の刺青が、さらに女の美しさに妖しさをからみつかせている。
八人目の冒険者である木野崎滋(ec4348)は肩に桜華という日本刀を担ぎ上げると、
「道中訊きたい事があったのだがな」
云った。そして流れるように動きで腰に桜華を落とした。
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江戸より三日。
冒険者達は東海道を下り、駿河に辿り着いた。野営の準備をもたぬ者もあったが、潤信やダイモス、滋のおかげで夜露に濡れることもなく、今、彼らはぽっかりと口を開けた洞窟の前に立っている。
火星洞。
かなり大きな洞窟だ。数人が並べるほど横幅があり、高さは楽に立って歩けるほどだ。
「冒険者の方々か」
声がした。はっとして振り返った冒険者は、そこに二人の人影を見出している。陣内と椿だ。
「ようやく会えたな」
琥珀の瞳を陣内の面に据えると、滋は火星洞内の様子を尋ねた。
「かなり深くはあるが、奥まで一本道だ。迷うことはない」
「その奥に大蛇がいるのだな。‥‥で、これは陣内殿の主観でよいのだが、魔力をもつ存在にとって、その珠は価値あるものなのだろうか」
「さあて」
陣内はかぶりを振った。
「魔物の考えていることは良くわからぬ」
「本当に魔物だろうか」
ふっとカノンがもらした。
「神と呼ばれる精霊の事件が立て続けだ。今回の事もそれ絡みのような気がする。もし珠を動かす事で何らかの術式が崩され、大蛇はそれを防ぐ為に現れたのではないか、とな」
「術式など」
陣内の面に苦笑がういた。
「あの球にはそのような術は施されてはおらぬよ」
「しかし洞窟の名が気になりますね」
ダイモスが云った。そして陣内と椿、双方を交互に見遣ると、
「火星洞と珠に関わる由来について、父上殿より何か聞いてはおられませんか」
「いや、別に‥‥」
陣内は言葉少なに答えた。その面を見つめるダイモスの黒曜石の瞳に光が閃いている。
彼の騎士としての感覚が、陣内の身に一瞬たわめられたものを感得した。それは殺気ではなかったか。
同じ時、芳純もまた不審を覚えていた。故に彼は透明化し、陣内の記憶を読み取ろうと試みたのだが――
インビジブルの経巻をとるべく懐に入れた手を、芳純はとめた。
陣内がじっと見ている。八人の冒険者の動き全てを。下手な動きできぬ。
その間、鈴は椿を眺めていた。
可愛らしい少女だ。が、じっと眼を伏せたその姿は病的であり、心に受けた傷の深さを想起させる。
話しかけようとし、鈴は困惑した。何を話してよいのか思いつかないのだ。
すると滋が愛馬――蓮を連れ、椿に歩み寄った。
「火星洞から出てくるまで預かってくれないか」
滋が蓮の手綱を手渡そうとした。すると椿は無言のまま手を上げ――
滋の手がびんと引かれた。蓮が後退っているのだ。
「どうやらご機嫌斜めらしい」
「じゃあ、そろそろ出発しましょうか」
云うと、鎮葉は追いやるように手を振った。
「急いで。日が暮れちゃうわよ」
「確かに」
潤信は天を見上げた。鎮葉の云う通り、すでに日は傾きつつある。
潤信は拳大の大きさの石を取り出した。それは明山の拳石といい、結界を張ることのできる聖石であった。
その潤信の背にむかって鎮葉が声をかけた。
「私は残るわ。他にも大蛇がいるかもしれないし。そうなるとこの二人を誰かが守らなきゃならないでしょ」
ねえ、と鎮葉は陣内に微笑みかけた。
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墨を流したかのように暗黒の洞窟内に、ぼうっと小さな光が揺らめいた。冒険者のもつ提灯の光だ。
いったいどれほど歩いただろうか。すでに距離と時の感覚はなくなっていた。
と――
突如、芳純が足をとめた。彼の眼は、闇に青白く光る異様なモノの姿をとらえている。それはリヴィールエネミーによるものであった。
「あそこにいます」
「わかった」
滋が提灯を掲げた。他の者も皆、それにならう。
黄色い光が明滅し――
洞窟を奥を照らし出した。
そこに、いた。洞窟の主が。
それは陣内の云う通り、大蛇であった。蒼玉にも似た鱗に覆われた体躯は五間をはるかに超えるだろう。ゆるりととぐろを巻き、鎌首をもたげていた。
「私が」
芳純が印を組んだ。呪光が法輪のように彼の身をとりまく。
(私は陰陽師の宿奈芳純と申します。恐れ入りますが貴方様のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか)
(我ハ清羽流)
蛟の思念が芳純の脳内に流れ込んだ。
それを強烈な言魂をもっていた。気をつけねば脳神経が灼ききれかねない。
(清羽流様)
こめかみをおさえつつ、芳純は念話を続けた。
(私は、洞窟内にある珠に用があってまかり越しました)
(帰レ)
蛟の言魂が芳純の脳内で爆発した。さすがにたまらず、芳純は蹲った。蛟の放った超高圧の思念は、彼の脳内に無視できぬ損傷を与えている。
「大丈夫か」
芳純の側にしゃがみこみ、潤信は眼をあげた。その瞳が薄紅色に光る。
(待ってください)
潤信は心中に叫んだ。
(我々は敵ではありません。珠に平和祈願する依頼人の為に来たのです)
(愚カ者メ)
蛟の眼が蒼く燃え上がった。
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春にしては生ぬるい風が吹いていた。
その風に頬をなぶらせつつ、鎮葉は陣内と椿に眼をむけた。
「二人が出会った経緯について話してもらえないかしら」
「何故だ」
陣内が問うた。
「戦没者の為に念をこめるというのに、椿だったっけ――この子だけ特別連れてきたのはどうしてかなぁとか思ってね」
「それは――」
陣内が言葉を詰まらせた。すると椿がふっと顔をあげた。
「村の生き残りがわたしだけだったから。だから可愛そうに思って陣内様が連れてってくれたんだ」
「ふーん。あんた、けっこうしっかりと喋れるんじゃない」
「‥‥」
椿がふいっと視線をそらせた。鎮葉は肩を竦めると、何気ないふうに笑って、
「まああんたたちがどうして知りあったかなんで、正直私にはどうでもいいことなんだけれどね。ともかくもう少し待ってちょうだい。すぐに仲間が珠をもって戻ってくるから」
告げた。瞳の奥に刃の光を忍ばせて。
その時、そらせた椿の瞳にも光がやどっていた。それは鎮葉と同じ刃の光であった。
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蛟の身から冷気が迸り出た。
氷礫の混じった豪風。アイスブリザードだ。
「きたぞ!」
ダイモスが荒ぶるヴィーフリの盾を掲げた。同時にカノンは白銀の竜の盾、滋は浄玻璃鏡の盾をかまえる。
「くっ」
滋の口から苦鳴がもれた。盾を使っているとはいえ、すべての氷嵐を防げたわけではない。
が、強靭な体力を誇るダイモスには効かない。分厚い彼の筋肉の鎧が蛟の放つアイスブリザードすらはねかえしてしまう。
それはカノンも同じだ。盾で身を守りつつ、彼女は叫んだ。
「テレパシーを続けろ!」
「わかりました!」
潤信が答えた。
その時だ。潤信の身が蒼く染まった。氷柱に包まれたのだ。
「しまった」
カノンが呻いた。
蛟はアイスブリザードが効を奏さないとみて、アイスコフィンによる攻撃にきりかえたのだ。抗呪法であるレジストマジックはカノン本人にのみ有効なもので、他の者に施呪はできない。
「まずいな」
同じようにダイモスもまた歯軋りした。
彼の肉体的戦闘能力は常人を超えた遥か高みにある。が、その分魔力に抵抗する能力は低い。
鼻血を拭い、芳純がよろよろと身を起こした。
(清羽流様)
蛟の蒼光を放つ眼が芳純にむけられた。
刹那、ダイモスが飛び出した。これ以上テレパシストを失うわけにはいかない。
「私が相手をしてあげましょう」
ダイモスがデュランダルをかまえた。嵐の力を凝縮してつくりあげられといわれる魔剣である。
蛟の憤怒に燃える眼がダイモスに転じられた。
その瞬間だ。ダイモスの脇を疾り抜けた者がある。鈴だ。
その手が光っていた。ライト・リングによるものだが、その光が蛟の注意をひいた。
その間、闇をましらのように馳せる別の影があった。
こちらは白蓮だ。疾走の術を発動させた彼女の脚力はすでに人外のそれと化し、黒豹のように珠に迫った。
あれか!
闇にあって白蓮の眼は蛟の背後にある珠を見とめた。それは彼女の眼が夜目が効く故だけではない。眼を事前に閉じ、彼女は闇に眼を慣らしていたのであった。
もらった!
白蓮の手が珠を掴みとった。蛟が気づいたが、時すでに遅し。
襲いかかった蛟をすり抜け、白蓮が出口にむかって疾った。
が――
白蓮がよろけた。その背で水塊が弾けた為だ。
その水塊の正体がウォーターボムと白蓮が気づくより早く、蛟の牙が彼女の喉に迫った。
カンッ。
と、かたい音を響き、蛟の動きが一瞬とまった。
蛟の鱗をうったそれは何であったか。おお、鈴の手裏剣、甲賀卍だ。
カッ
蛟が再び牙をむいた。まさに蛇の素早さで白蓮を襲う。が――
横からすっとのびた刃が蛟の牙を受けた。滋の刃だ。
「斃したくはないが、仕方がな――」
最後まで滋は言葉を発する事はできなかった。彼女の身も氷柱に閉じ込められてしまったからだ。
「ぬっ」
カノンが迫った。唯一彼女のみアイスコフィンは無効だ。
カノンのクルセイダーソードがはねた。蛟の鱗が宝玉のように飛び散り、蒼い血がしぶく。
「頼む、大人しくしてくれ」
カノンの刃が振り下ろされた。蛟の眉間めがけて。
それは一刹那であったか。それとも永遠か。
カノンの刃は蛟の眉間の寸前でとまっていた。どうしても蛟を斬る事ができなかった。甘いと笑われようと。
(‥‥何故、斬ラヌ?)
(それは我々が冒険者だからです)
芳純が答えた。
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火星洞の入り口に人影が見えたのは、辺りが黄昏の色に満ちた頃であった。
「珠は?」
鎮葉が問うと、潤信は袋を掲げてみせた。
「ここに」
「ありがたい」
陣内が駆け寄り、手をのばした。
と、その手がとまった。潤信のそれが掴みとめたのだ。
「まだ渡すわけにはいきません。蛟に聞いたのですよ、あの珠の正体が何なのか。原山津見神を封印した珠。それをどうして陣内さんが欲するのです」
「じゃっ」
刹那、椿の足がはねあがった。まるで毒蛇のように爪先が空間を疾り抜け――電光の迅さで潤信が飛び退った。
その潤信の手に袋はない。袋は椿の手に移っていた。
椿の顔に笑みがういた。禍々しき、それは魔的な笑みだ。
「これさえ手に入れば、もはや用はない」
「逃しません!」
空を翔けるようにダイモスが椿との間合いを詰めた。
抜き打ちは迅雷。が、一瞬早く空間が爆ぜた。
「くっ」
咄嗟に顔を腕で庇い、すぐにダイモスは周囲を探った。
すでに椿の姿はない。陣内もまた。
「やられちゃったわね」
無念そうな鎮葉の声が流れた。
「まんまと珠を盗られちゃったわね」
「本物はここだ」
滋の掌の上に赤い光を放つ珠があった。
「蛟――清羽流が私達を信頼して預けてくれたものだ。むざと渡しはしない」
滋が云い――
珠を放り上げた。すると珠は意思あるものの如く明滅し、赤光の尾をひきつつ飛び去っていった。遥か空の彼方にむかって。
「清羽流は云った。お前達の手により封印を解けと」
滋は火星洞を見遣った。そして祈った。何百年もの間、ひたすら珠を守り続けた清羽流の為に。
今は安らかに眠れ、と。