【風雲】二匹の竜

■シリーズシナリオ


担当:御言雪乃

対応レベル:11〜lv

難易度:難しい

成功報酬:13 G 3 C

参加人数:7人

サポート参加人数:1人

冒険期間:12月26日〜01月02日

リプレイ公開日:2009年01月19日

●オープニング


 駿府城内。
 三人の男が相対していた。
 一人は壮年の侍だ。巌のような重々しい気を体内に溜めている。
 源徳家康であった。
 その傍らに座するのは無骨そうな風貌の侍である。田舎武士然としているが、しかしその眼にやどっているのは冷たい理知の光であった。
 家康第一の謀臣、本多正信である。
 そして第三の男。
 これは若者であった。まだ二十歳にも満たぬだろう。
 しかし――
 薄く微笑を面にゆらめかせたその若者の何たる美しさか。神自らが彫り上げた芸術品としかいいようのない美貌を、若者はもっていた。
 北条早雲である。
「すでに武田は小田原に陣をはったとの事」
「うむ」
 正信の言に、家康は肯いた。
 まずは武田が動いた。続いて来るは伊達か新田か。
 家康の眼に炎が踊る。北条がごねた間に、敵は万全の体勢を整えたか。
 が、いずれは戦う相手だ。反源徳勢が小田原に集うなら、それも好都合か。
「政宗は出て来ぬ様じゃな」
「はっ。あの男の事ゆえ、確かな事は申せませぬが、やはり八王子の‥」
 家康は再び頷く。大久保長安の手腕が大とはいえ、長千代は非凡の英雄児と言える。事実、信康の廃嫡で戸惑う後継者問題に、早くも長千代を推す家臣もいるようだ。家康はまだ後継者問題が深刻なほどの歳ではないが――とまれ、まずは目前の戦である。
 八王子軍が江戸を牽制しているが、それでも家康が過酷な戦いを強いられるは必定。身震いせざるを得ない。敵の顔ぶれを見るならばだ。
 伊達。新田。武田。上杉。
 江戸を奪った乱世の梟雄、独眼竜伊達政宗。家康が比類なき権力を持っていた頃より反抗し、ついに家康が倒せなかった男、新田義貞。常勝の軍神、越後の竜上杉謙信。
 そして小田原城を守るのは甲信相の太守、甲斐の虎武田信玄。
 一度は上州の地にて家康は彼らの前に敗北を喫した。
 今回は違う、という思いはある。だが、勝てるか――その答えは未だ霧の彼方にあった。
 ただ兵力において、源徳軍の不利は明らかだ。駿河、伊豆の兵を接収しても敵軍の有利は動かない。
 戦は兵力差だけで決まるものではないが、
 やはり将か。
 伊達新田武田上杉の武将がまさか無能ではあるまい。無論、源徳軍の武将も歴戦の勇士揃い、些かも劣るものではないが――。
 あらためて家康は早雲を見た。
 まず、若い。嫡男だった信康よりも年下という。際立つ美麗は、家康に感銘を与えない。ただ家康は、これまでの早雲の行動で、彼の心が冒険者と同じと見ていた。それゆえ、身震いする恐ろしさがある。
(「冒険者が大名となり、天下の戦にて采配を振るわば、怖くないものがあろうか‥‥」) 
 早雲の事は、他の英雄達ほどジャパンでは知られていない。家康を含めた一部の武将の間にだけ端倪すべからざる存在として伝わっているだけだ。あの信玄をして、鵺のようなと云わしめた男。
「早雲」
 家康は口を開いた。
「駿河は小田原の隣国。お主の意見も聞こう」
「里見」
 気候の挨拶でもするかのような語調で早雲は答えた。
「里見か」
「そう、里見でござる。敵は武田のみにあらず、同時に伊達、上杉、新田を相手にするならば、お味方が足りませぬな」
 小田原を取るため、城攻めをするのに敵より戦力が少ないのでは話にならぬと。意外に感じたのは、早雲の策が存外に凡庸だからか。
「里見を動かすしかない。とはいえ、伊達も里見を警戒して千葉の後藤信康を温存しております。里見義堯は損得に聡い男にて、おそらくは源徳と伊達が疲弊するまで待つ算段でしょう。簡単にはいかない」
 さすがに関東指折りの風魔忍軍を抱えるだけあり、北条早雲は諸侯の事情に明るいようだ。
「なるほどのう。早雲は、里見を動かせると申すか?」
「ご命令とあらば」
 微笑しつつ、早雲は答えた。今の彼は家康の配下である。駿河藩の嫡流を人質に差し出し、駿河の譜代家臣からは主家を売った男と陰口を叩かれているが、一向に気にする様子も無い。
 早雲は、何かを思いついたかのように問うた。
「一つお尋ねしたい。家康様は江戸を取り戻し、その後、どうされるおつもりなのか」
「取り戻した後か‥‥」
 家康は彼に似合わぬ苦笑を漏らした。
 かつては天下をほぼ手中とした。
 今は、いつ朝廷から謀反人とされても不思議はなく、絶望的とも呼べる戦に臨んでいる。
 眼を細めて早雲を見すえ、家康はわずかに首を傾けた。
「さて」
 家康の返答は、間がぬけていた。
「この家康、ともかくも江戸を取り戻す事に大汗をかいておる始末であれば」
「ははあ」
 何を得心したか、早雲は微笑みつつ肯いた。


「どうであった」
 忍びやかな声がした。早雲の寝所である。
「小太郎か」
 床に座した早雲が問うと、部屋の片隅にぼうと人影が浮かび上がった。
 精悍な風貌の若者。風魔一族頭領、風魔小太郎である。
「ああ。で、どうであった、家康という男は?」
「さすがに東海一の弓取りといわれた男。でかい。が、つまらぬ男だ。一言で云ってしまえば、古いジャパンの根が衣を着ているようなモノだな」
「ならば」
「ああ。いずれは倒さねばならぬ相手だ。ジャパンの新しい夜明けを呼ぶ為にはな。が、今はともかくも里見だ」
「里見? 下総の里見義堯か」
「ああ。あれを残しておくのは面倒だ。伊達の牽制にも、動いてもらわねばならぬ」
「動くか? 義堯は源徳と伊達の動静を窺っているようだが」
「利口だからな、あの男は。まるで狐のように」
 早雲は可笑しそうに笑った。
「が、あの狐は飢えている。美味そうな餌には眼がない。突付けば巣穴から出て来るはずだ」
「突付くか‥‥ともかく月光をむかわせるか」
「そうだな。そして江戸で冒険者を雇わせろ。里見を動かせる知恵、冒険者ならばもっていよう」
「おい」
 小太郎の声が探るかのように鋭くなった。
「てめえ、何かたくらんでやがるな」
「ふふふ、わかるか」
 早雲は再び可笑しそうに笑った。
「もう一つ、冒険者に働いてもらう。まあ、ありていに云えばこちらが本命だ」
「本命? まさか、おめえ」
「ふふ、そのまさかだ」
 早雲の眼がきらりと光った。
「俺は伊達政宗に会う」
「伊達‥‥しかし、早雲」
「わかっている。会うといっても容易くはない事はな。俺には服部党がべったりと張り付いている。風魔の技量をもってすれば蹴散らすのは簡単だが、此度ばかりは力押しは許されぬ」
「ふん」
 早雲の言に小太郎は鼻をならした。服部半蔵率いる源徳忍軍を、風魔なら簡単に蹴散らせるとは、良く云ったものだ。まさか半蔵に油断はあるまい。難敵であるし、忍びの戦は武家ほど単純ではないが‥‥。
「家康に髪の毛一筋ほどの疑念すらもたせてはならぬからな。家康は俺を完全に信用してはおらぬ」
「‥では、どうする?」
「だからこその冒険者だ」
 早雲は云った。
「仕切りを冒険者に任せる。おもに服部への陽動だ。冒険者は目立つ。主持ちではないゆえ、考えておる事が読めぬ。服部の忍者を引き寄せるにうってつけだろう」
「わかった」
 小太郎がニヤリとした。
「蔵馬をむかわせよう」

●今回の参加者

 ea2011 浦部 椿(34歳・♀・侍・人間・ジャパン)
 ea2989 天乃 雷慎(27歳・♀・浪人・人間・ジャパン)
 ea8619 零式 改(35歳・♂・忍者・人間・ジャパン)
 ea9450 渡部 夕凪(42歳・♀・侍・人間・ジャパン)
 eb5249 磯城弥 魁厳(32歳・♂・忍者・河童・ジャパン)
 eb8703 ディディエ・ベルナール(31歳・♂・ウィザード・人間・フランク王国)
 ec0205 アン・シュヴァリエ(28歳・♀・神聖騎士・ハーフエルフ・イスパニア王国)

●サポート参加者

蛟 静吾(ea6269

●リプレイ本文


 神聖暦一千四年。
 凍りつくような寒風の中、ふらりと異形の者――河童が江戸城堀端に現れた。
「磯城弥魁厳(eb5249)か」
 声がした。発したのは堀端に佇んだ老人である。
「左様」
 河童――魁厳が答えた。老人の発した声音は囁くようなものであったのに、どうやら魁厳は聞き取ったらしい。驚くべき聴力である。
「北条早雲が事で参りました」
「早雲? 駿河国主の早雲か」
「はッ。政宗公との会談を望んでおるとの事」
「ほう」
 黒脛巾組小頭である老人の声音に愕然たる響きが滲んだ。
 北条早雲といえば源徳の軍門にくだったはず。その早雲が敵将の伊達政宗と会おうと目論むとは――
 小頭のみにての判断は危険であった。
「よかろう」
 しわがれた声で老人は答えた。

「伊達かい!」
 江戸町外れ。茶店の縁台に座した渡部夕凪(ea9450)が心底から可笑しそうに笑った。
 彼女は北条家家臣。それも北条家印籠を持ちたる、云わば早雲の戦友とも呼んでいい存在である。
「主殿も動き出した様だねえ‥新たなる世への初陣、此方もしくじる訳にはいかないやな」
「しかし」
 呆れたように肩を竦めてみせたのは、花吹雪をまとった白鷺のような艶やかな娘で。名を浦部椿(ea2011)という。
「相も変わらず突飛な事で。前は小田原大久保で、今回は伊達。‥‥表裏比興とか梟雄とか、そんな二つ名が似合いそうになってきたな」
「そういうとこ、楽しいんだけど♪」
 天乃雷慎(ea2989)は楽しそうだ。
「その早雲の事なんだけど」
 好奇心に溢れた眼を、アン・シュヴァリエ(ec0205)は一人の男にむけた。燃えるような真紅の髪が特徴的な――いや、特徴的といえば、その眼であったろうか。飢えた、しかし哀しい狼のような眼をしている。
 零式改(ea8619)。この男もまた北条家家臣であった。
「早雲様がどうした?」
「妹から聞いたんだけど‥‥家臣たる改なら知っているでしょ。彼は民の持ちたる国を作ろうとしてるのかしら?」
「そうだ」
 ぶすりとして改は肯いた。
「早雲様は大名を潰し、民自身が治める国をつくろうとされている」
「へえ」
 アンは目を丸くした。
「早雲って駿河の大名なんでしょ。その大名が大名を潰そうとしているの?」
「悪いか?」
「悪くはないわ。面白いと思っただけ」
「雷坊」
 改とアンのやり取りを耳に、蛟静吾が雷慎に声をかけた。
「噂には聞いていましたが、どうやら雷坊が惚れた男はとんでもない事をたくらんでいるようだね」
「静吾さん」
 雷慎は眼を輝かせた。静吾の背後に十人ほどの綺麗な娘がいたからだ。おそらくは芸者であろう。
 静吾は兄のような眼で雷慎を見た。
「こういう事は男たるボクの方が得意なもんさ」
「さすがだねえ」
 夕凪が静吾の肩をぽんと叩いた。そして仲間を見渡し、
「じゃあ、皆、六日後には揃って無事な顔を見せとくれよ?」
「江戸の方は頼みましたよ」
 ゆったりとディディエ・ベルナール(eb8703)が応えた。
 まさに春風駘蕩。が、彼がこれからむかうところは屍山血河である。やろうとしている事は源徳家康をむこうにまわしての大芝居である。それを思うと背筋が凍りつかざるを得ないはずなのに。
「わかったよ。それじゃあ、ゆこうかねえ」
「ああ」
 夕凪に促され、一人の若者が歩みだした。
 女と見紛うばかりの、秀麗な美貌の持ち主。風魔の蔵馬であった。


 江戸城。
 かつて源徳家康の居城であり、現在は伊達政宗が住まう千代田城とも呼ばれる巨城の城門前に、今、二つの影が現れた。夕凪と蔵馬である。
「わかるかい」
「ああ。一人、二人‥‥十ほどもいるか」
 夕凪の問いに蔵馬が答えた。
「伊達の忍びかねえ」
「黒脛巾組だな。どうということはない」
 平然と蔵馬が云った。
 その直後だ。一人の老人が木陰から姿を見せた。
「風魔か」
「ああ」
 夕凪が印籠を示した。北条家印籠だ。
 それをみとめると、老人は背を返した。
「主がお待ちでござる」

「北条早雲殿の使者とはお前達か」
 問われ、夕凪は顔をあげた。
 眼前に一人の男が座している。
 隻眼だ。野心と覇気が炎のように残る独眼に踊っている。
 奥州の梟雄、伊達政宗であった。
「渡部夕凪。北条家家臣でございまする」
 夕凪は名乗ると、
「我が主、北条早雲との会談を承諾していただきたく、罷り越しましてございまする」
「ほう」
 政宗の独眼に興趣の光が閃いた。
「早雲殿が俺に何の用であろう?」
「さて」
 答えたのは蔵馬だ。
「ただ狸の顔は見飽きと申されておりました」
「はっ」
 政宗は爆発したように笑い出した。
「早雲と言う男、噂以上の、うつけ者のようだな。よかろう。会おうぞ」
「では承知くださるので」
 夕凪の顔に喜色が満ちた。江戸方の仕事は遂げた。これで混乱な依頼の半分は果たした事になる。
「政宗公には望まれる会談場所はおありでしょうや?」
「俺が決めてよいのか。早雲殿は敵方、とらえて殺してしまうやもしれぬ」
「それも仕方ありませぬ」
 凄絶に夕凪が笑った。
「ここで死ならば、我が主はそれまでの男」
「ふふふ。ぬかすわ」
 政宗はニンマリとすると、
「江戸外れに会談の場を設けよう。それでよいな」
「はッ」
 夕凪は深々と頭をさげた。


 激戦が続く小田原。
 源徳の兵達は愕然として眼を見開いた。戦場に花が咲いたのである。
 いや、花ではなかった。女だ。どうやら芸者であるらしい。十を越す多数の女が次々とある陣中に吸い込まれていく。
「あれは北条殿の陣ではないか」
「戦場に女を呼んで、何をするつもりだ」
「宴を催すそうな」
 源徳兵のある者は眉をひそめ、ある者は吐き捨てた。が、同時に得心もした。あの北条早雲ならばさもあろうと。大地に屍が伏し、空に向かって戦の煙が立ちのぼるこの場所で、宴とは人を馬鹿にしている。

 陣中に笛や三味の音が流れた。そこだけ一足先に春が訪れたような風情である。
 早雲が中座したのは、やや経ってからの事であった。一人の巫女が早雲に酌して後に立ち上がり、それを追うようにして早雲もまた立ち上がったのである。
「早雲様」
 天幕の外。陰から改が呼んだ。早雲は足を忍ばせると、
「大変な騒ぎだな。これで、また俺の評判が下がる」
 ごちた。今も両軍の戦いは続いているのである。それを一手の大将が陣中で宴会など馬鹿も極まった話だ。が、本人はまんざらでもない様子。雷慎はくすりと笑った。
「案外、早雲様らしいって思われてるんじゃないかな」
「で、早雲殿」
 椿が良く光る眼をむけた。
「ご用意はよろしいか」
「ああ。宴を開いたはいいが、これからどうするのだ」
「これを」
 巫女姿の娘――アンが桃の花の散った、純白の振袖を掲げて見せた。
「何だ、それは?」
「早雲が着るものだよ。女に変装するんだ」
「なるほど。面白い」
 早雲はニヤリとした。
「俺が女装し、女達に紛れて小田原から離れるのだな。まさか一国の主が芸者に混じって戦場から姿を晦ますなどとは、さすがの家康も考えぬ。――って、嫌だ!」
「どうして?」
 アンが小首を傾げた。
「今、面白いって云ったよね」
「確かに云ったが‥‥女の格好なんかするのは嫌だ」
「駄々をこねないで」
 にこにこしながら雷慎が云った。まるで玩具を見つけた子供のようだ。
「僕達に任せるんでしょ」
「そうだ」
 笑いを噛み殺しつつ、声をあげた者がいる。
 精悍な風貌の、只ならぬ気の持ち主。風魔一族頭領、風魔小太郎だ。
「いつもはお前のめちゃくちゃに俺達が付き合ってやってるんだ。たまにはお前が付き合え」
「貴様、他人事だと思って――」
「往生際の悪い」
 椿が早雲の帯に手をかけた。するするとほどく。するとすかさずアンが振袖をかけた。
「うーん」
 雷慎が感心したように唸った。
「早雲さんは綺麗だから、パリッと鮮やかな着物の方がいいと思っていたけど、清楚なのもなかなか」
「くくく。ほんとに綺麗でちゅねー」
 小太郎がからからと笑えば。早雲はぎぎりと歯を噛み鳴らせた。
「野郎‥‥いつかぶっ殺してくれる」
「もう、動かないで」
 叱りつけ、アンは化粧にとりかかった。早雲は、そのままですでに芸術品だ。あまり手をかける必要はあるまい。
「これをこうして‥‥それから、こう‥‥」
 やがてアンが手をとめた。化粧が終わったのだ。
 振り向き、アンが問うた。
「どう?」
「‥‥」
 冒険者達は絶句している。小太郎ですら言葉もない。彼らは、これまでこれほど美しい女を見た事がなかった。

 長殿、と。三度呼ばれ、ようやく小太郎は我に返った。
 振り向いてみれば、そこにはディディエの姿があった。
「‥‥お前か」
「では、ありません。頼んでおいた事はどうなりましたか」
「家康暗殺の噂か」
「はい」
 ゆるりとディディエは肯いた。
「家康さえ現状を受け入れれば、という考えの方々が私達冒険者の中にもいると聞きましたのでね。国を纏める為に家康に死んで貰わねば、という思想に凝り固まった冒険者が暗殺を企んでいるという噂を流しても真実味がありましょう」
「まあな」
 小太郎は認めた。
「戦の霍乱は風魔の最も得意とするところだ。任せておけ」
「それなら結構です」
 ふうわりとディディエは微笑んだ。


 北条の陣がざわついたのは日が傾きかけた頃であった。
 時を同じくして芸者達が陣から立ち去ってゆく。
「さすがに服部党も諦めたようだね」
 アンがほっと胸を撫で下ろした。椿がふふんと唇を歪める。
「服部党は優秀だ。疑ってはいるさ。だが両軍入り乱れたこの場では手が足りない。どうしても隙は出来る。まして風魔が仕掛けたのだから、分かっていても対処せぬ訳には行かぬ」
 椿が早雲に眼をむけた。その時、早雲は禁断の指輪の力により身体そのものが女と化している。
 椿の面を複雑な色がかすめた。
 女らしく見せる為、彼女は早雲になよやかさを演じる事を指導した。最初はぎごちなく振舞っていた早雲であったが、今では完璧に嫋やかに女を演じている。
「巧く女になりきってもらう分には困らないのだが。‥‥巧過ぎると負けた気分になるのは何故だろう」
 ぼそりと椿がもらした。
 その呟きが聞こえぬところ――
 雷慎が早雲に甘えていた。
「おねぇ様」
 ごろごろ。ほっぺをすりすり。
「もう、だめでありんす」
 ほほほ、と早雲は笑い、
(てめえ、どういう了見でくっつきやがるんだ)
 雷慎の頭を拳でごりごり。雷慎は首をすくめながら、
(まだどこに服部党の眼があるかわからないんだから、もっと仲良くしなきゃ)
「ほほほ」
「ふふふ」

「ずいぶん楽しそうだね、あの二人」
 アンが苦笑した。椿はつまらぬとばかりに、ふんと鼻を鳴らす。
「放っておけ。それよりも魁厳の事だ。奴が服部党を誘い出してくれたおかげで陣から忍び出る事ができたようなものだ。が、遅い‥‥」
 不安の滲む眼を、椿は西にむけた。


 少し、時は戻る。早雲の陣中にて宴が催されている最中に。
 宴会からやや離れたところに、ふっと人影がわいた。魁厳である。
「さて」
 足を踏み出しかけて、魁厳の動きがぴたりととまった。
 気配がする。殺気だ。すでに囲まれている。
「チッ」
 魁厳は舌打ちした。どうして囲まれるまで気づかなかったのか。
 いや、そもそもここは北条の陣中である。風魔とは話が通っているはずなのに、この殺気は‥‥!
「ぬしは磯城弥魁厳‥‥伊達の忍びが、北条の陣に何用だ?」
 声がした。
 魁厳は戦慄する。耳元で聞こえたが、姿が見えない。
 刹那、魁厳の身が爆ぜた。
 微塵隠れ!
 服部党の忍者に捕えられるより一瞬早く、魁厳の身は爆煙の中に消失している。
 わずかに離れた場所にゆらりと魁厳の姿が現出した。
 くくく、と魁厳の口から忍び笑う声が流れた。
「服部党の忍び如きにわしがとらえられるか。くっ」
 魁厳の嘲笑が苦鳴に変わった。その背に数本の手裏剣が突き刺さっている。
 はじかれたように振り向いた魁厳は見た。うっそりと立つ一人の男を。
 逆光で顔は分からない。が、吹きつける凄絶の殺気が相手の尋常でない様を告げていた。
「‥‥妙だな。魁厳ほどの忍びが脆すぎる」
 男が嗤った。
「何を企んでおるか、聞かせてもらうぞ」
「ぬっ」
 死を恐れぬ忍びが、恐怖を覚えた。
 ほとんど本能的に魁厳は再び微塵隠れを発動させた。さらに、さらに、さらに――
 伊賀服部党の包囲陣は鉄壁と聞く。ただ恐怖から夢中になって印を結んだ。彼だけならば死は決していたが、風魔が影から必死の助勢を行った。この場での魁厳の捕縛は早雲の、そして風魔の破滅に他ならない。


 北条の陣に源徳の使者が現れた。
「先ほど伊達の暗殺者を発見し、服部党の者が撃ち殺しました由」
「そうか」
 答えたのは――
 早雲だ。数名の風魔忍びに守られている。
「早雲殿を狙い、伊達の磯城弥魁厳と数名の忍びが陣中に入りましたのを撃退しました。残念ながら、首領の魁厳は取り逃がしましたが‥‥」
「いや宴など催した早雲の不明にござる。だが本命は家康様に相違あるまい。くれぐれもご用心くだされとお伝え願いたい」
「承知いたしました」
 源徳の使者が取って返した。
 それを見送り、早雲はほっと息をもらした。
「どうやら誤魔化せたようだな」
「そのようですね」
 ディディエもまた安堵の吐息をつく。
「さて、世をたばかる大芝居、ご覧いただくとしようか」
 早雲が云った。その眼は哀しき狼のもの――改の眼であった。言うまでもなく、討たれた伊達忍びとは小太郎の手の者達だ。 


 早雲の到着が遅い。
 やや不安を覚え始めた夕凪の眼前には、すでに屋敷に到着した伊達政宗が座している。
「早雲殿は家康に降伏する際も、散々に遅れたそうな」
 政宗は夕凪に早雲の事を尋ねた。
「あいや、しばらく」
 と夕凪は答えた。待ち合わせの茶店で蔵馬が待機している。早雲が到着次第、こちらに導く手筈だ。
「寒鴉の群れより抜けるには多少の手間もかかりましょう。今暫く遅参平にご容赦を」
 と政宗が肯いた時だ。政宗の側衆が早雲の到着を告げた。
「来たか、早雲!」
 政宗が立ち上がった。
 刹那である。戸が開き、一人の若者が姿を見せた。早雲だ。
「お待たせした」
「いいや」
 政宗は不敵にニヤリとし、早雲は乙女の如く微笑し――
 共に若く、共に覇気に溢れた乱世の英傑二人。
 今、北条早雲と伊達政宗、相対す。
 その場にいた冒険者達は幻視した。二匹の龍が互いに睨み据えながら天に翔けのぼってゆく様を。
「では早雲殿の話とやら、うかがうとするか」
 政宗の眼に刃の光が踊った。


 早雲と政宗の会談はすぐに終わった。現実的に、長時間の滞在は不可能でもあった。周辺の警備にあたっていた冒険者達の前に、一刻も経たずに早雲と政宗は姿を見せる。
 一体何が話し合われたのか。
 当然、冒険者達にはわからぬ。ただ、悪戯の相談をしたような笑みを浮かべた二人の様子が印象的であった。
「では」
「いずれ」
 早雲と政宗は別れ――
 
 極秘とされた報告書の最後には、こう記されている。
 去りゆく早雲の微笑はいっそう深くなり、政宗の笑みはすぐに消えて恐い顔になったと。