【神は死んだ】死と絶望の円舞

■シリーズシナリオ


担当:宮本圭

対応レベル:8〜14lv

難易度:難しい

成功報酬:2 G 49 C

参加人数:8人

サポート参加人数:4人

冒険期間:12月28日〜12月31日

リプレイ公開日:2006年01月05日

●オープニング

「『鍵』を渡してもらいたい」
 単刀直入な客人の問いに、先代プロヴァン男爵夫人アンヌは眉をひそめた。
「我が家の鍵でしたら、使用人が管理しておりますわ」
「とぼけるのが下手だな」
 客人は卓を挟んだ向こうに悠然と座っている。
 生れ落ちて以来、およそ家事と呼べるものはまったくやりつけないアンヌだったが、唯一刺繍だけは比較的好きだった。だが年のせいもあって、長時間の細かい作業はひどく疲れる。この日も例によって刺繍布を膝に置いたまま居間の卓の前でうとうとして、目が覚めると向かい側にこの不思議な男が座っていた。
「突然のご来訪は嬉しいけれど、あなたのご用件には応えられそうもありません。ご期待に添えなくて残念ですわ。せめてお茶でもお召しになりますか?」
「ここの使用人ならば、先ほど出かけられたようだが」
 嘘だ。この邸の使用人のローテは真面目な子で、出かけるときは必ずアンヌに声をかけていく。もし気を遣ってうたた寝している自分を起こさなかったのだとしても、どこか目につきやすい場所に書付のひとつも置いておくはずだ。
「あなたの夫が亡命中に手放した品だ」
「あの頃夫は色々なものを手放しました」
「古い古い品だ。『鍵』と呼ばれてはいるが、それはその品の役割からつけられた便宜上の呼び名にすぎない」
「まあ。どんな役割ですの?」
 救いは、相手が礼儀正しく振舞っていることだった。少なくとも自分の目的を果たすまでは、アンヌを貴婦人として扱うつもりらしい。乱暴を働かれるわけではなさそうだが、こうも応対が紳士的だとかえって不気味だった。
「鍵が果たす役割といえばそう多くはない。私が望むのは、閉ざされた匣を開き、中に秘められたものを暴くこと」
「匣、ですか。その中には何が入っているのかしら」
「破滅だ」
 室内がしんと冷えたようだった。
「地の底の匣が開かれれば、人々の魂は死に絶え、大地は穢れ、生き残ったわずかな者たちは怨嗟のあまり神を罵る。すでにいくつかの土地では破滅が放たれたし、いずれはこの国すべてがそうなる。時間稼ぎをしようとしても無駄だ、アンヌ・ギルエ殿。『鍵』がかつてゲオルグ・シュルツに託されたことは推測がついている。だが彼はもうそれを持っていない」
 彼にとってもあれは大事な品だ。売ったり捨てたりするはずがない。だとすれば行く先はひとつ、アンヌのところだ。追い詰められていくのを感じながら、それでも弱々しく抗弁する。
「‥‥もしそうだとしても、わたくしが男爵家に返したとはお考えにならないの」
「彼にもし男爵家の血縁だと名乗り出る気があれば、とっくにそうしているだろう。つまり彼は、それを望んでいない。だが一度は目録から消えた品がどんな経緯で戻ってきたか、彼の存在なしには説明できないはずだ。失礼ながら、あなたはあまり嘘が上手くはないようだし」
 唐突に、アンヌは背筋が寒くなるような事実に気づいた。
 ローテが出かけたというのが嘘なのは明らかだが、それでは今、彼女はどこにいる? 居間から話し声がしているというのに、なぜ様子を見に出てこない? あのよく気のつく子が。
 彼女が顔色を変えたのに気づいてか、男は満足げに目を細めた。
「もう一度だけ言う。ゲオルグから返された品を、俺に渡してもらいたい」



「‥‥では、『鍵』は奪われたのですね?」
「腹が立つことにね!」
 ユベールの問いに、ホリィは首元からほどいた襟巻きをいまいましげに机に叩きつけた。冒険者たちの報告を受けた怪盗に指示され、すぐにアンヌの邸宅に向かったのだが、すでに『鍵』である短剣は奪われたあとだったのだ。
「ゲオルグをさらったのは、彼が今も『鍵』を持っているか確かめるためだったわけか」
 今日は若い伊達男風に変身している怪盗は、今にも地団駄を踏みそうなホリィの剣幕を横目に、武器の手入れの道具を広げながら溜息をつく。
「彼が持っていないとなれば、次に行くべき場所は決まっている。報告にあったグレムリンがゲオルグを誘拐し、その結果を聞いてレオン自ら大奥方のところに向かったわけか。誘拐ははっきり言って作戦としてはお粗末だったが、こっちの脅迫はなかなかうまいやり口だ」
 感心してる場合じゃないでしょ、とホリィが顔をしかめるが、ユベールのほうは別のことが気にかかるらしい。
「その使用人の女性は無事だったのですか? アンヌ様は?」
「どっちも無事よ。少なくともその点については約束を守ったわけね。使用人の女の子のほうはずっと気を失ってたらしくて、物取りか何かに入られたと思ってるみたい。悪魔に捕まってたなんて教えても怖がらせるだけだし、うまく誤魔化しておいたけど」
「そうですか‥‥よかった」
 胸を撫で下ろすユベールを、ホリィは呆れた顔で見た。
「他人の心配なんてしてる場合じゃないでしょう。あっちが『鍵』を手に入れたってことは、次は生贄のあんたが狙われるのよ」
「あ、そうでしたね」
 笑いながら、怪盗は磨き終えた銀の短剣を取り上げた。ホリィは『この部屋、空気が悪いわよ』と言いながら、部屋の鎧戸に手をかける。
「おそらく、今度は敵も本腰を入れてくるはずだ。直接剣を交えていないからなんとも言えないが、そのレオンという男が相当な手練であることは間違いない。私とホリィだけでは護衛にも限界があるし、また冒険者に頼むべきだな」

●今回の参加者

 ea0508 ミケイト・ニシーネ(31歳・♀・レンジャー・パラ・イスパニア王国)
 ea1241 ムーンリーズ・ノインレーヴェ(29歳・♂・ウィザード・エルフ・ノルマン王国)
 ea1695 マリトゥエル・オーベルジーヌ(26歳・♀・バード・エルフ・フランク王国)
 ea2206 レオンスート・ヴィルジナ(34歳・♂・神聖騎士・人間・ノルマン王国)
 ea2562 クロウ・ブラックフェザー(28歳・♂・レンジャー・人間・イギリス王国)
 ea2843 ルフィスリーザ・カティア(20歳・♀・バード・エルフ・フランク王国)
 ea6337 ユリア・ミフィーラル(30歳・♀・バード・人間・ノルマン王国)
 ea7814 サトリィン・オーナス(43歳・♀・クレリック・人間・ビザンチン帝国)

●サポート参加者

クレア・エルスハイマー(ea2884)/ シェアト・レフロージュ(ea3869)/ ルーロ・ルロロ(ea7504)/ マナミィ・パークェスト(eb0594

●リプレイ本文

 教会は街中から離れた、閑静ともいえる立地にあった。ユベールが起居を許されているのはその建物の一角の小さな部屋である。たとえばレオンスート・ヴィルジナ(ea2206)のような大きな男がそこにいるだけで、狭苦しく感じるぐらいに。
「とりあえず、外出禁止ね」
 だが当の本人は自分が部屋を狭くしている一因であることなど気にも留めず、寝台で半身を起こしているユベールに向かってそう言った。自分たちが護衛に力を尽くすのはもちろんだが、それにはユベールの協力も欠かせないというのだ。
 曰く『この人の場合、自分の身が危ないからって安全にしてるとは限らない』とのことで、クロウ・ブラックフェザー(ea2562)もその意見については同感だったのか、大きく首を縦に振ったものである。
「むしろ我が身可愛さに部屋に引きこもるような人なら、却って安心して守れるんだけどな‥‥」
 ユベールにはかつて兄レオンを探すためと称し、ろくな探索の技術もないのに単身地下遺跡に潜ろうとした前科がある。自分のことを省みず相手のことを思う気性は美徳なのかもしれないが、そういう相手を護衛する側としてはたまらない‥‥もちろんさすがにそこまで口に出して言いはしないが、リョーカは改めて厳しい言葉を重ねる。
「無断での単独行動は、危ないから絶対にやめてちょうだいね。狙われてるっていう自覚はあるんでしょ? 何かあったら、あんただけじゃなくたくさんの人に災厄が降りかかるのよ」
 こういう責任を自覚させる言い方のほうが彼には効く、と踏んでの言葉なのだろう。わかっています、と神妙な顔でユベールが頷き、とりなすようにムーンが緩やかな微笑を見せた。
「少しの間の辛抱です。そう長いこと窮屈な思いはさせませんよ」
「私たちも、できるだけのことはさせてもらうわ」
 同じ白の司祭であるサトリィン・オーナス(ea7814)の言葉に安堵した顔を見せ、よろしくお願いします、とユベールは頭を下げた。とにかく、と言いながら、リョーカは寝台脇に並べられた品々を示した。
「色々ありがたい物を持って来たから、心安らかにお祈りしてね」
 聖骸布、聖なる釘、ヘキサグラム・タリスマン‥‥そこにあるのは冒険者たちが悪魔対策にと持って来た、ありとあらゆる聖なる品々である。ムーンリーズ・ノインレーヴェ(ea1241)に至っては、魔よけのつもりなのか聖水を彼に振りかけようとして、使い方が違うだろうと皆に叱られた顛末もあった。ちなみに本来は、アンデッドを退治するためにまくものである。
 冒険者たちが持ち込んだ魔法のアイテム群を選別していると、マリトゥエル・オーベルジーヌ(ea1695)とルフィスリーザ・カティア(ea2843)のふたりが香草茶を手に入室してきた。お口に合うかわかりませんけど‥‥とルフィスが茶器を渡す。
「いえ、ありがとう。いい香りです」
 彼の衰弱は魂を奪われたことによるものだから、本当は薬草も魔法薬も気休め以上の効果はない。ムーンがリカバーポーションを飲ませようとしたとき、薬の無駄だからやめなさいと止めた怪盗も、これに関しては何も言わなかった。部屋に入ってきたもうひとり、マリはといえば、座るところさえない室内を呆れたように見回している。
「ちょっと、もう。病人の部屋になんでこんなに人がいるのよ」
 お茶の穏やかな香りで満たされた室内はあらためて狭く、ここにいる面々だけでほぼ満杯である。この場のアイテムの使い方を説明する、という名目でひとまずマリが残ることなり、残りの面々は表に出た。もしレオンがユベールを奪いに来たとして、この部屋で彼を迎え撃つようなことがあればそれは最悪の事態といっていい。

 見下ろした石の中の蝶は、今のところぴくりとも動かない。魔法の指輪をはめた手を下ろして、近くにはおらんようや、とミケイト・ニシーネ(ea0508)が首を振っている。同じようにミケの手元を覗き込んでいたユリア・ミフィーラル(ea6337)も、安堵か落胆かわからない大きな溜息を洩らした。
「奪いに来るとしたら、やっぱり昼はないかな?」
「さてなあ? こればっかりは、うちらは向こうの出方を窺うしかあらへんし」
 教会を囲む木柵にもたれつつ、冒険者たちは周囲の警戒にあたっていた。この教会の老いた司祭が、冒険者たちの前を通り過ぎざま軽く会釈していく。近くの村まで説法に行っていたのだそうだ。
 頭上の空はどんよりと曇っていて、昼間だというのに薄暗い。建物をまばらに取り囲む冬枯れた木立が、まわりの風景のうすら寒さを一層増していた。バターを塗ってチーズを乗せただけのパンをかじりつつ、ユリアは隠さず眉を顰めている。
「いつ来るかわからないから、凝った料理が作れないんだよねえ‥‥」
 それは嘆く論点が違うのではとユリア以外の全員が思ったのだが、普段料理人を営む彼女にとってそれは嘆くに値する事らしい。これもおいしいですよ、というルフィスの言葉も、あまり慰めにはなっていないようだ。ちなみにリョーカはといえば、渡されたパンをほとんど二口でぺろりと平らげてしまっている。
「ユベール様に近づく者は、誰であろうとまず警戒しなくてはならないかもしれません」
 パンを水で飲み下し一息ついたルフィスが、ぽつりとそんな言葉を洩らす。どういうことや? と尋ねるミケに、彼女は一瞬言葉を選ぶように考え込んだ。
「悪魔には皆、姿を変える力がありますから。そのレオンという方にしろ、彼の配下にしろ、ひと目で敵とわかる姿で来るとは限らないでしょう? むしろ味方に姿を変え、こちらの油断を誘うほうが、可能性としては高くはないでしょうか」
 悪魔の変身を暴く方法はごく限られている。
 神聖魔法のデティクトアンデットが一番確実だろう。だがあいにく今回それを使える者はいない。となれば、石の中の蝶のようなアイテムの反応を見るしかないわけだ。だがこの方法の場合は悪魔の具体的な場所を知ることができないから、たとえアイテムが反応していたとしても、目の前の相手が悪魔か否かを判断するのは難しい。
「誰であれ、まず疑うしかない‥‥ってわけね」
「腹立つやっちゃな、悪魔いうんは。なんで味方同士で疑い合わなあかんねん」
 ルフィスのいわんとすることを察したリョーカの言葉に、憤然とミケが口元を曲げる。その剣幕にあわてたように、ルフィスがとりなしの言葉を入れた。
「で、でも、悪魔がいればまず石の中の蝶が反応するはずですから! それに結界もあります。疑い合うのは、蝶が羽ばたきはじめてからでも遅くはないと思いますよ」
「それもそっか‥‥今から疑心暗鬼になることもないよね」
 手のパン屑を払い落としながら、ユリアがほっとしたような表情を見せる。もう一度ミケの手元を覗き込むが、やはり蝶はぴくりとも反応していないようだ。
 だがこの見通しがデビルというものを非常に甘く見ていたものであったことが、後になって最悪の形で判明する。

●罪の子
 ――兄はもしかすると、私を憎んでいるのかもしれません。
「私たちの母は‥‥生まれつき重い病気を抱えた人でした。レオンが無事生まれたのも、奇跡だったといわれたほどだそうです。後になって二人目の子を身ごもったときも、母は迷わず産むことを選びました。それが私です」
 もとよりジーザス教では堕胎は罪だ。それ以外に選択肢はなかったのだともいえる。だがユベールがこの世に生れ落ちた代償は、体の弱い母親の命にほかならなかった。
「私がいなければ、兄から母親を奪うことにはならなかった」
 それが正しい考えではないとわかっている。でもどうしてもその思いが消えないのだと‥‥そう嘆いたユベールは今は寝台の上で目を閉じている。その寝顔を見ながら、マリは小さく首を振った。
「よろしいですかな」
 背後からかけられた声に面を上げると、教会のあるじである老司祭が立っている。
「よく眠っているようだ」
「ええ」
 実の兄に狙われているのだ。呑気に過ごしているように見えて、実際にはなかなか気が休まらなかったに違いない。顔なじみも混じった冒険者たちの見張りがあるという安心からか、久々にぐっすりと眠ることができたのだろう。
 サトリィンの目がちらりと部屋の端を見る。ヘキサグラム・タリスマンの結界は未だ続いている。この司祭が悪魔の化けたものであれば、室内に入ったとたんに身動きが鈍くなるか、少なくとも不快ぐらいは示すはずだ。
 司祭の老いた足取りは、なんの躊躇もなく部屋に踏み入ってきた。昏々と眠り続ける若者を見下ろして、老人はくしゃりと皺だらけの顔をゆがめた。笑っているようにも、泣いているようにも見える。
「本当に‥‥よく眠っている」
「あの、大丈夫ですか?」
 司祭の肩が震えているのを見てとって、心配になったサトリィンが声をかける。
 しゃっ!
「危ない!」
 鋭い刃のきらめきを見てとったマリが、サトリィンを引き倒した。布の裂ける音が響き、二人は床に倒れる。騒ぎを聞きつけて駆け込んできたクロウとムーンが、急いで司祭を取り押さえようとした。見かけによらず力が強い。ムーン得意の攻撃魔法も、さすがにこんな場所でこんな相手に放つわけにはいかず、仕方なく慣れぬ体力勝負に加勢している。
 なんとか刃物を相手の手から叩き落して、クロウが吠える。
「どうしたんだよ、司祭さん! あんた、今までこの人をかくまってたんだろ!?」
「ああ‥‥そうだとも。そのとおりだ‥‥だが‥‥」
 ――そもそもそれが間違いだったのだ。
 司祭の落とした言葉に、冒険者たちは部屋の空気が冷えていくような思いを味わった。

 小さな村がある。
 最近村の司祭が亡くなって以来、老司祭が週一度説法を行っている村だった。村人はやさしく、善良で、そして老いた司祭に敬意をもって接するひとびとだった。よければ新しく村の教会を預かってくれないかとさえいわれていた。
「失いたくはないだろう?」
 覆面の男はそう言ったという。
「俺には簡単なことだ。たとえ魔法陣がなくとも、こんな小さな村など一時間もかかるまい。小悪魔どもには赤子や子供の魂はいい獲物になるだろう。俺みずから殺してやるのもいいな。血をすすり肉を食らう俺の姿に逃げ惑うここの連中を、追いかけてひとり残らず殺してやる。炎の好きな悪魔がいないから、焼け野原にできないのが残念だが」
 説法のあとの井戸端でまるで天気の話でもするように、男はそうやって話しかけてきた。おそらくこの男にはそれらが可能なのだろうと司祭は思った。このような狂気に満ちた言葉を、常人の口が紡げるだろうか。
「おまえの預かる若い司祭を、俺に預けてくれさえすればいい。簡単なことだろう?」
 悪魔。
 司祭の語彙の中に、男をあらわす言葉は他にない。

「だからって‥‥!」
 タリスマンの結界はいまだ続いている。司祭は完全に人間なのだ。ただレオンの脅しに屈し、彼に手を貸そうとしたにすぎない。初日はムーンフィールドが張ってあったが、司祭も魔法をかけられるの現場を見ているので、魔法の効果が切れるまで実行を遅らせたのかもしれない。顔を歪めたクロウが、やっとのことで司祭を取り押さえる。
「村の人たちが助かっても、ユベールさんや、他の人たちがひどい目に遭うんだぞ!」
「なら村を見捨てろというのですか」
 一瞬詰まる。クロウが答えるよりも早く、腕の下の体から力が抜けた。マリのスリープに眠らされたのだ。問答してる場合じゃないでしょう、とマリは軽く肩をすくめ、ムーンは不快げに眉をひそめる。
「我々もうかつでしたね。力押しで来るとは限らないのに」
 ただいたずらに人を殺そうとする悪魔など下っ端にすぎない。人の心の間隙に付け入って疑心を撒き、憎しみを育て、魂を堕落させる‥‥それこそが悪魔の本領なのだ。そして、そうやって動かした『人』は、結界にも石の中の蝶にも引っかからない。
 知恵の効く悪魔ほど必要のない殺戮を嫌い、より狡猾な手段を好むとされる。実際レオンは、隠居した貴婦人の邸宅で、少なくとも肉体的には誰ひとり傷つけず『鍵』を奪ってみせたではないか。あらかじめ人質をとった上で取引を持ちかけるような相手が、馬鹿正直に真正面から来るはずがない‥‥それはわかっていたはずだったのに。
 本当はどうするべきだったのだろう。冒険者たち以外との接触を一切断ち、ユベールを他者から隔離すべきだったのか。それともユベールの体に負担がかかるのを承知で、この教会から別の場所に移せばよかったのか?
「ユベールさんは?」
 サトリィンの言葉に、一瞬皆立ちすくんだ。振り返って寝台を確かめる。ユベールは呆然と司祭を見下ろしていた。
 そして外が‥‥ミケたちが見張っているはずの、教会の外が騒がしいことにも、今更のように気がついた。鎧戸を開け放った外では、驚くほどの数の悪魔たちが空を覆っている。

 彼を責める気にはなれないと、ユベールは言った。自分がその立場におかれたとき、絶対に同じ方法を取らないなどという保証などないからと。
 だが自分がここにいなければ、彼がああやって苦しむことはなかった。ユベールを奪うのが失敗に終わったことは、老いた司祭の心により一層深い傷を与えたに違いない。自分の存在は、そもそも最初から母親の命を奪うことで存在していた。自分の手も心も、ただ誰かを傷つける種子でしかないのだろうか。
 どうすればいいのかわからなくて、ユベールは泣いた。冒険者たちには声のかけようがなかった。
「どうすれば‥‥」
「教えてやろう」
 窓際に留まって彼を見下ろしていた鴉が、そう言った。
 ヘキサグラム・タリスマンは行動を阻害するが、完全に拘束するわけではない。ムーンが聖なる釘を打ち付けるより早く、鴉は室内に入り込んでいた。
 かたちが変わる。ユベールのよく知る兄の姿に。その間も教会の外では戦いが繰り広げられ、ミケの石の中の蝶はその間ずっとせわしく反応していた。だがそれは、目の前のグレムリンたちに対してのみだと、外で戦う誰もが思っていたのだ。
「このっ」
 攻撃しようとクロウが剣を抜いたが、ユベールの体を盾にされて臍を噛む。それをかいくぐって命中したマリのムーンアローも、彼にとっては涼風ほどの力しかないようだ。腕にかかる重みに笑いながら、レオンはいつになく楽しげに弟に囁く。
 ――おまえさえいなければよかったのだ。
 聖なる釘の結界は、入り込もうとする悪魔は確かに拒むが、それ以外の者には寛容だ。悠々とした足取りで彼が教会の裏から出て行くのを、誰も止めることができなかった。
 ユベールは一度も振り返ろうとはしなかった。