お江戸に暮らせば 弥生
|
■シリーズシナリオ
担当:小沢田コミアキ
対応レベル:1〜5lv
難易度:易しい
成功報酬:5
参加人数:10人
サポート参加人数:3人
冒険期間:03月31日〜04月05日
リプレイ公開日:2005年04月09日
|
●オープニング
季節は巡り、弥生。いよいよ草木も生い茂る芽吹きの月だ。街もすっかり春めいている。
「竹之屋新メニュー、ドネルケバブだよ〜♪」
ここ竹之屋でも例の料理対決の企画が追い風となり、花見を間近に控えた店内はにわかに活気付いている。出品メニュー開発の際に法穂にあがっていたドネルケバブは期間限定メニューとして常連客に親しまれていた。
「ケバブ一丁、和風ダレで!」
「こっちにもケバブだ。俺は本場のワインだれで頼まあ!」
「はい、ただいまお持ちしますね」
お千ちゃんも正式に竹之屋で働くことが決まり、常連客にも受け入られている。
「‥‥ケバブか。お千ちゃん、俺にもひとつもらえるか」
そう言ったのは正月に神社で揉めたあのヤクザ者だ。朱に落とし前をつけて以来はこうしてちょくちょう顔を出すようになっている。
「はい。ただいま!」
お盆片手にお千ちゃんが厨房へ消える。ふと男が口を開いた。
「そういや、あの用心棒はどうしてる」
「え、あ、‥‥はい!」
珍しくぼおっとしていた八雲。話しかけられて慌てて答える。
「朱さんは今日は長屋です! ねここさんに会いに行ってるはずです!」
「ねここ?」
聞けば、ひょんなことから長屋に居着いたメスの子猫のことらしい。
「メスの猫で、ねここ‥‥また安直な名前だな。名付け親の顔が見てみたいとこだな」
さてギルドでは。
「はわー、初依頼なのですよー」
やって来たのはすっかり長屋でもおなじみのクリアラだ。
「今回は皆さんに布教のお手伝いをしてほしいのですー。はいー。」
最近まったくといっていいほど信者の獲得に貢献していないクリアラはちょっと困ったことになっているようだ。
「だが漠然と手伝ってほしいっていってもなあ。何か案はあるのか」
「とりあえずこんなプランを用意してみましたー」
クリアラがなにやら手荷物をごさごそと漁り、チラシを取り出した。
「こんなプランではどうでしょうかー?」
《信者大募集!》
文字ばかりの経典はつまらないとお嘆きの方のために、教義は分かり易くすべて絵巻にてお届けします。第一巻早くも大反響。第二巻は今夏書店にてお求めください。人気記録係に執筆のオリジナル神話(書き下ろし)に、モチロン初回限定版は『大いなる父』フィギュア同梱!
またクリスマスは祝いたいけど正月も捨てがたいという欲張りなあなたには、お得な仏教掛け持ちプランをご用意しました! 忙しくて出家する暇がないという方は、いまなら在宅でも出家OK! お布施もモチロン掛け捨てではありません!!
「こんな感じでいってみようと思うのですよー」
首をかしげてにっこりとクリアラ。
「いいのか、こんな‥‥」
「はいー。どんどんお布施をしてくれるヘビーユーザーではなく、ちょっと興味はあるけど入信とかいろいろ不安だなあというライトユーザーの取り込みを苦慮してみましたよー」
さて、そんなクリアラだが。お花見では会場に布教所を作る許可を得ている。きちんとした布教所を作っておけば、料理対決の見物客が案内所と間違えてやってくるかも知れない。そこをこっそり頂いてしまおうとういう寸法だ。
「布教所の設置準備なんかの、こまごましたのもできる人にお願いしたいのですよー」
それなら、と番頭。
「適任なのがいるじゃないか」
「あ、ひょっとして罠屋さんですかー? 罠屋さんなら手先も器用そうですー。はいー」
それに答えて番頭はニヤリと笑って見せた。布教所設置の肝は、いかに見物客が案内所と間違って並んでくれるかにある。なおかつ一度引っかかった見物客をすぐには返さない工夫も必要だ。
「確かに手先も器用そうだが何よりも‥‥‥罠作りだしな」
さて。長屋では。
「お、祐衣ちゃん。今日もまた精が出るねえ」
やっぱり通りを伺っていた祐衣を見つけたのは、これまたやはり魚屋の親爺だ。
「か、勘違いをするな。私はおせいに会いに来ただけであって別に‥‥」
「ああ、こないだ拾ってきたっていう猫かい。今ならきよ坊と一緒に神社だろねえ」
神社を訪れると、境内には子猫が一匹と、それを囲んで子どもたちの姿。
「祐衣お姉ちゃんだ!」
「おせいは元気にしておるか?」
そう言って子猫の頭をなぜようとすると、きよが横から子猫を取り上げた。
「違うよ、おせいなんて名前じゃないよ」
と、そこへ。
「チビたち。やっぱりここだったか」
やって来たのは噂の罠屋だ。
「ねここさんは元気にしてるか?」
「だからそんな名前じゃないもん」
「む。ならば名を何と言うのだ」
すると子どもたちは声をそろえて。
「わいるどふぁんぐ!」
しばらく前のことだ、ちょっとした事件が縁で長屋では子どもたちで子猫を一匹飼うことになった。みんなでご飯の残りを持ち寄って餌を与え、子どもたちで協力して世話をしている。だがどうしたことか、名前がきちんと決まらずみんなで好きなように呼んでいるようだ。これではどうにも都合が悪い。
「こりゃ、名前も早いとこ何とかしないとな」
●リプレイ本文
第五話 信じる者は。
昼時の竹之屋。
「ヤの字さん! 聞きたいことが‥」
香月八雲(ea8432)に話し掛けられて例のヤクザ者は辺りを見回して見せたが、どうも自分のことらしいと気づくと苦笑を漏らした。
「俺のことか? まあ‥‥好きに呼ンでくれ」
「最近よく来て下さいますけど」
切り出しにくそうに八雲は視線を彷徨わせる。
「もしかしたらヤの字さんも、朱さんに会えないと変な気分になるのですか?」
男はそれに少し笑ったようだった。
「‥‥かもな。あの阿呆の顔を見ないと張り合いがな」
その答えに満足したのか八雲は一頻り頷いてみせると、やがて。
「ありがとうございます!」
普段通りの元気な笑顔を見せた。とそこへ。
「長屋に下げ重の配達を頼めるか」
「木賊さんのお兄さん、いらっしゃいませ!」
今日は子猫目当ての客が長屋を訪れたので出前を取ることになったのだそうだ。
「ボクもおせいさんを一目見に行きたいな♪」
話を聞きつけてミリフィヲ・ヰリァーヱス(eb0943)も厨房から顔を出した。
「俺はワイルドファングちゃんって聞いたけどな」
タイミングよく山岡忠臣(ea9861)も店へ顔を出すと、さりげなく八雲の手を取った。
「長屋に寄ってくんなら、俺様が送ってってやるとするぜ」
八雲は少し驚いた様子だったが、もう一方の手でフィヲの手を握ると、もうすっかりいつもの元気な姿だ。
「はい、ありがとうございます!」
ファブニール・グラビル(ea4217)は長屋を訪れていた。蓄えた髭を扱きながら、考えるのは聞きつけて来た噂のことだ。
「ふむふむ、わいるどふぁんぐとな。‥‥これはまた大層な名前、ひょっとすると神社に祀られておる神剣やも知れぬでござる」
と、やって来たはいいが長屋に集まっているのはチビ達の姿。
「わいるどふぁんぐとは、また強面なる名を持ってきたものよの」
「――いかん、イギリス語じゃねえか」
「それなら野生の牙ってとこかな」
「‥‥これは仔猫だがの?」
今日もきよ達に混ざって遊んでいるのは御影祐衣(ea0440)と、偶に顔を出しては面倒を見ている木賊崔軌(ea0592)だ。グラビルは、二人の話から自分が勘違いをしていたと気づくに至り、半ば愕然としながら辛うじて苦笑をもらした。そっと輪に入ると、子猫を撫でながら
「まあ、これはこれで可愛いものでござるな。‥‥中々立派な名前でござろう」
「にしても『牙』ねえ、なんか犬っぽくないかソレ」
しゃがみ込んで子猫を抱き上げると、崔軌は小さな手を摘んで。
「猫といえば牙より爪だろ、ついでに爪って訳、何よ?」
「クローね」
「――百歩譲る。わいるどくろー‥で通称クロとかどうよ?」
「絶対だめー!」
とまあチビ達から白い目で見られる崔軌。と、そこへ。
「にゃぁ―んちゃぁ――――――ん♪」
やって来たのは渡部不知火(ea6130)だ。今日は猫の着ぐるみ姿、全力で可愛がる気満々。体躯に似合わぬ小走りでさささっと駆け寄る不知火。一瞬、背景にアニメ処理で妙なキラキラ感が見えたような気がして、思わず目を擦るグラビル。
「子猫の餌を持ってきたよ〜♪」
そうこうしていると竹之屋からフィヲ達もやって来た。フィヲが賄いの残りを子猫に与え、チビ達へも餌の食べさせ方や注意を丁寧に教える。
「それから、おせいさんには塩分の取りすぎにも注意してあげないとね〜。ボクはこの名前が好き♪」
「おせいは、その‥‥その‥‥」
「ま、名前がこう定まらないと面倒ではあっても、まずはチビ共の好みが優先だがな」
皆の輪の中で、子猫は餌を平らげて甘える様にきよの手に体を擦り付けている。
「ねここさんも私としては気に入っておる、何よりも愛らしいではないか」
「人なつっこい子猫! 可愛いですよね」
子猫を抱き上げて八雲がうっとりした表情を浮かべた。そして思い出した様に振り返って。
「そういえば朱さんはどこですか?」
「暫く前まで森兄と一緒にいたようだが、行き違いになってしまったようだの」
「朱さんの顔を見て行きたかったですが、今回もご一緒出来ないのですね」
最近余り顔を合わせていないのか、しょんぼりした顔を覗かせる八雲。その頃、朱雲慧(ea7692)はというと。
「‥‥っちゅう訳なんや」
長屋の裏手で大神森之介(ea6194)と密談の最中だ。
「なるほどね。朱くんの友人が同じ仕事場で働いてる娘さんに思いを寄せていて、そのことで友人が悩んでる、と」
「せや。ほんまにこれはワイの友人の話なんやけど、その娘さんに常連客がちょっかい出してきよって。このままやと二人でデートっちゅう話になりそうでワイも困っとるんや」
途中からかなりボロが出ている気もしなくもないが、親身になって森之助は耳を傾けている。
「その人が相手の事をどう思うかじゃない? 難しく考えると重くなるぞ?」
余計な言葉は付け足さずに、はっきりと口にする。
「あの時からずっといつもの調子が戻らへん。何でワイは、こない苛ついとんのやろ‥‥?」
朱が弱々しく足元へ視線を彷徨わせる。じっと見守る森之介の視線に気づいて慌てて取り繕った。
「ってワイの友人が言っとったんや」
「そうねえ‥‥そのオトモダチが感情に対して『正直』か『素直』かもキモだと思うわよ?」
「って聞いとったんか渡部はん‥‥!‥」
「その御仁は相手をどう思っておるのかの? 好ましく思うのであればそれで良いと思うが」
不意に背後から不知火に声を掛けられ、しかもしっかり祐衣にまで聞かれてしまい事の他狼狽する朱。一方の祐衣は至って真面目な顔だ。
「いきなりで戸惑いがあるのなら友人として始めるがよかろう、急いては事を仕損じるゆえに」
「あくまでワイの友人の話なんや。他言は無用にって、そこ笑うなー!!」
そんな慌てた様子の朱に不知火は笑いを堪え切れない。
(「――と、真剣に悩んでるとなると真面目に答えるべきだな。これに関しちゃ」)
「正直と素直、似たようなモンだが心構えがちぃとばかり違うだろ? 照れ入って誤魔化しそうなのを押さえ込むか、心の中に有るものそのままに、か‥どっちをぶつけたいかにも依るだろうぜ」
諭すような口調で語りかけると、真剣な顔で朱は頷いた。
「転ぶのは上等だが、突っ走らん程度に悩め若者」
どんと背を押すと不思議とそれだけで力が沸いてくるようだ。漸く元気を取り戻した朱は皆に頭を下げると、竹之屋へ帰っていった。やがてその背が見えなくなると。
「アレってどう思う?」
堪えきれず二人を振り返った森之介へ、不知火はお見通しとばかりに含みのある笑い。森之介も可笑しそうに苦笑を漏らす。
「朱くんってあれで気づかないと思ってるのかな」
「雲慧殿の友人は何を躊躇っておるのだ?」
祐衣だけは何も分かっていない様子だったが、そんな祐衣の頭を不知火がそっとなでる。
「躊躇うのも勉強の内よん、イイオトコになるにはね♪」
「報酬は1G8Cですー。ちゃんと相場通りでいきますよー。その代わりきちんと働いて貰いますけどねー。はわー」
クリアラ・アルティメイア(ea6923)の依頼で花見会場では着々と準備が進められていた。
「『本職仕事』として受けるからには遊び一切無しだが?」
大工仕事なら本領発揮ということで、正式に依頼を受けた木賊が皆の指揮を執っている。
「案内所に擬装した布教所も良しだが。万が一下手打って結果料理対決に水差すのもなあ‥」
何やら真面目な顔で考え込む崔軌。
「皆で対決自体を楽しみたいって八雲達の希望も盛り込むとなると‥‥」
「他の屋台の中間辺りに立てるのが良いと思います! ううん、布教の時はあまりうるさくしない方が良いかもしれないです! 孫子もこう仰いました!静かなること林の如しと!」
崔軌が図面に視線をおろす。屋台の営業に支障の出ない位置取りを考えるならば。
「屋台で買った物食べる席を提供するのが早道か。全力の花見客はゴザとか所持だろうが、噂聞きつけて見物に来た客はそうでも無かろ?」
崔軌は手早く作業に取り掛かった。流石に本職とあって手際もよく手助けも必要なさそうだ。
「それじゃあ俺は看板でも作っておくか」
忠臣も、クリアラとお近づきに慣れるということでちゃっかりついてきている。
(「いくら俺様でも一度に数人の女性を相手取るのは無理ってもんだ。フィヲちゃんや祐衣ちゃんやお千ちゃんには悪いが今回は諦めて貰って‥‥」)
何だか最近うまく事が運んでいるようでいつも以上に幸せそうな忠臣。
「もてる男は辛いぜ」
男衆が力仕事をやっている間に、クリアラは教会で下準備の最中だ。当日の宣伝用に衣装を用意したりと慌しく走り回っている。
「対決準備でお世話になりましたから、今度は私がお手伝いをしますね! 最近調子が良くない気がするのですが、きっと気のせいです! 諺で言う、山岩が木からですよ!」
「子供の頃はよく教会に連れて行かれた記憶があるけど‥‥どんな事してたか良く憶えてないや」
駆けつけたフィヲ達もお手伝いだ。
「え〜〜と、黒のジーザス教の教えは‥‥聖なる母の教えだっけ。え? 違う? うわぁ〜〜ホントに殆ど忘れちゃってるよ‥」
「とりあえず、聖書の要約ぐらいはしておきたいですからねー。絵巻物とは行かなくても、分かり易く、楽しい聖書を心掛けますよー」
急ピッチで作業は進められた。フィヲも竹之屋に掛け合って、休憩所でスープを振舞える様に話を取り付けている。崔軌からも舶来の酒が差し入れに入ったりと、準備万端だ。
「それでは、最後に会場の確認に行ってきますー。忙しいですよー。報酬は花見が無事に済んでからお支払いしますねー。はいー」
「ボクの分の報酬は、デートでも良いよ〜〜なんちゃって♪」
「クリアラさん!」
呼び止められた彼女へ、八雲が頷く。
「上手く行くって信じていればきっと信者も獲得出来ます! 諺で言う、信じる者は救われるですよ!」
それに大きく頷き返すと、クリアラは駆けていった。
さて長屋では。
「ちんまいちゃん達が育ててるんだし尊重するのが一番だとは思うわぁ。どの名でも、ね? ‥ただ、ゴッツイ名よねえ‥」
祐衣と不知火が、きよを相手に子猫命名論争を続けていた。
「おきよ、そなたが権俵米や金銀光と呼ばれたらどう思う? その者のその者らしい名が良いとは思わぬか、おきよも、おきよだからこそ良い名と思うぞ。だいたい何故その名なのか。意味を知ってての事なのか?」
すると。
「あのね」
きよが子猫を抱き上げると、鼻を小さくつついた。そうして鼻先をくすぐると、子猫はにぃっと口元を吊り上げる。生え揃い始めたばかりの幼い歯が覗く。その中で一本だけ、犬歯の先が小さく欠けている。
「ね?」
子猫はもう一度にぃと笑う。いつしか祐衣の頬も緩んでいる。
「でも、ちょおっと呼び辛いかも知れないわねーぇ」
「それならば拙者に良い案があるでござる」
顔を出したのはグラビルだ。長屋から何やら工具を持ち出してこれから出かける所らしい。
「ジャパンに昔から伝わる小話にちなんで、『わいるどふぁんぐ=おせい=ねここさん』という名にしてみては如何でござろうか?」
「わいるどふぁんぐ‥」
「‥おせい‥‥」
「‥‥ねここさん」
きよと祐衣、そして不知火が続けて名を呼び、そうして三人は互いに顔を見合わせた。
「うん! そうする! 祐衣おねえちゃん、ほら、かわいいよ?」
きよに手渡されて、祐衣は恐々ながらも子猫を抱き上げた。温もりを確かめる様に、祐衣はそっと頬を寄せる。
「‥‥‥‥ふわふわだの」
こうしてひと悶着あった末、子猫の名前論争は無事に決着を見せたのだとか。
「ところで」
向けられた視線に気づいて、グラビルは畏まって頭を下げた。
「申し遅れた。拙者、この長屋に越して参ったグラビルと申すもの。刀鍛冶を営んでおるでござるよ。触れ合う袖も他生の縁でござる。これからアルティメイア殿のお手伝いに駆けつけ様かと思い至りましてな」
袖を捲ると、鍛え上げられた腕を叩いてグラビルは笑顔を覗かせる。
「職人の意地にかけて立派な物を作って見せるでござるよ!!」
そうして今日も一日が終わり。竹之屋が店仕舞いを終えた頃、八雲は店の裏手へ朱から呼び出されていた。
「何の用事なんでしょう? ちょっとどきどきしますね」
八雲を待っていたのは、いつになく真剣な表情をした朱だった。
「ワイの本心は香月はんのデートの話に反対やったんや」
何度も心中で繰返したその言葉で切り出すと、朱はたどたどしくも語り始めた。
「この間のアレは‥‥流石にワイもあの後は心穏やかやなかったんや」
何から言葉にしていいか分からず唇が小さく震える。本当ならずっと傍で見守っている筈の気持ち。朱はもう一度確かめる様に胸を押さえると、小さく嘆息した。再び顔を起こすと、そこには薄く照れ笑い。
「ワイは香月はんのことが好きや」
「はい! 私も朱さんのこと大好きですよ!」
思いがけず朱が目を見開く。
「朱さんも同じ気持ちで嬉しいです! 竹之屋の皆が私も大好きです!」
その笑顔は他の誰へ向けられているのとも同じ普段通りの八雲の顔だ。朱の表情に寂しげな色が差そうとした時だった。
「あ、朱さん! 怪我してますよ!」
八雲が朱の顔を覗き込んだ。唇の端が切れて血が滲んでいる。ふと八雲が朱を見上げた。
「‥‥‥あ‥」
「‥八雲はん‥‥」
瞳に映った互いの顔が近い。小さな八雲の方を包み込もうと、朱が掌を寄せる。その時だ。
「っと八雲ちゃん、んなとこにいたのか」
振り返ったそこに忠臣の姿があり、二人は慌てて離れて見せた。その間に割り込んで入ると、忠臣は八雲の手を取る。
「キミの事を思いながら選んだのさ。本番のデートの時に付けて来てくれると嬉しいな」
そういうと、八雲へ真新しいかんざしを手渡した。その隙に忠臣はそっと朱に囁く。
「残念だったな。八雲はもう俺様に夢中さ」
勝ち誇った笑みの忠臣。だが今日の朱に今までの煮え切らない態度はない。かんざしを挿した八雲が振り返って、笑みを返す。
「八雲はん、よう似合ってるで♪」
「ありがとうございます!」
二人の間の微妙な空気の変化を感じてか、忠臣だけは釈然としない風に肩を竦めている。
「ま、けど確かに似合ってるぜ八雲ちゃん。今からデートが楽しみだぜ」
――そして、季節は巡り。春。
「なるほどね。ありがとう総兄」
長屋街の外れ。不審人物の噂を知らされた森之介は、それなとなく界隈を見て回ってた。
「唯吉さんも借金について今はどうなってるんだろう。おきよちゃんの事もあるし気になるよね」
とはいえ、証拠もないのに下手に動いては住民を不安にさせるだけだ。
「暫くは交替で見回りをした方がいいかも知れないね」