志道に心指す 第五話/拾五「関難沁苦」
|
■シリーズシナリオ
担当:小沢田コミアキ
対応レベル:11〜lv
難易度:難しい
成功報酬:4
参加人数:12人
サポート参加人数:5人
冒険期間:02月17日〜02月24日
リプレイ公開日:2008年03月31日
|
●オープニング
水戸藩がついに黄泉討伐の兵を起こす。その噂が江戸へ届こうと言う頃になっても、常陸からの報せは届かぬままだった。“彡”からの伝は途絶えて久しく、道志郎の境遇をうかがい知るすべはない。ただ機の訪れを待ち続けてギルドへ通う日が続いた。
「待っていたぞ。文が来ている。水戸からの手紙だ」
今朝一番に届いたばかりの文だ。冒険者を見止めた番頭が手招いて寄越した。
「道志郎からの報せか?」
差出人の名は見慣れぬ男。道志郎の依頼で冒険に出た仲間達へと宛てている。以前に黄泉軍への陽動の兵として集った常陸の民達からだ。
『5日後、水戸藩が北の石橋宿の黄泉軍を攻める。半月ほど前から牢屋敷の道志郎と連絡が取れない』
城下町では来たる黄泉討伐を前に厳戒態勢が敷かれている。藩の存亡を賭けた大いくさだ。文面から、緊迫した水戸の様子が伝わってくる。関抜けの罪で捕まるまで、道志郎は彼ら水戸の民草と行動を共にしていた。虜囚の身となった今も、彼の身を案ずる仲間がまだ水戸には残っているようだ。
『俺達だけではどう動けばいいかわからない。道志郎の力になりたい。牢番から洩れ聞いた話しでは、どうやら別の牢へ移されたようだ。黄泉討伐と何か関係があるのだろうか』
――水戸。
「さあ、吐け。強情者め、隠し立てしてもためにならぬぞ」
暗い石室の壁に恫喝が反響する。暗い地の底へ繋がれ、道志郎は厳しい責め苦の中にあった。
「ああ、何だって話してやるぞ。常陸の民のためならば、この喉が枯れて血が吹き出ようとも。聞いてくれ、黄泉の侵攻には必ず何か別の狙いが――」
「まだいうか小僧!」
獄吏の杖が道志郎を据え打つ。傍らの侍が道志郎の髪を掴んで引き起こした。
「小僧、そらとぼけるなよ。いつまでもこの我らの眼を欺けると思うな。言え。度々関を抜けて何をたくらんでいた」
「本多忠勝殿を呼んでくれ。水戸藩の重臣に話がある」
言い終わらぬうちに侍の拳が道志郎の頬を打ち抜いた。転がる道志郎を獄吏が無理やり引き起こした。
「忠勝様に取り入ろうとしても無駄だ。我が藩の中枢に近づいて何をするつもりだった」
「野心などない。俺はただ無辜の人々を救いたいだけだ」
「ぬかしたな、野心などないだと?」
男が哄笑をあげる。
「痴れ者が。あの手この手で節操もなく権力へ擦り寄ろうとしておきながら、よくも言えたものだな。手下の冒険者を使い忠勝様へ取り入ろうとしたのは調べがついているぞ」
(「な、なんだって‥‥皆が‥まさかそんな‥‥」)
「図星を突かれて物も言えぬか。礼節も弁えぬような輩に忠勝様が応じられるものか」
冒険者達が忠勝との会見を断られたことはすぐに噂として広まった。手を変え品を変えて忠勝へ繋ぎをつけようとした行いは藩士たちに不信を抱かせるには十分だった。あげくに使いの者を寄越して呼びつけるなどという、藩の侍大将を目下に見下げるという無礼は、水戸中の侍達の怒りを買う結果となる。
「調べはついておる。忠勝様へ取り入ろうともこの則綱の目は欺けぬぞ。その方、伊達の間者であろう!」
ここ水戸で道志郎の信は地に落ちた。
武士の面子は主君の面子だ。道志郎の名の下に動く以上、冒険者達の行動は道志郎自身の行いである。道志郎に将たる道を歩む意思がなくとも、周囲はそのように彼を見るだろう。
国士道志郎に信義なしと風聞が広まれば、彼の大志を絶たれかねない。
「違う、俺は――」
「見苦しいぞ。狙いを言え。我が藩の黄泉討伐に乗じて何を企んでいる。どうした。言えぬといならば、お前の手下に吐いてもらう他はないようだな」
道志郎がここで選び取れる道は今やほとんどありはしなかった。
苦しげに道志郎が双眸を伏せる。
「約束してくれ。皆には手を出さないと」
「観念したか。では洗いざらい話してもらうぞ‥‥」
――江戸、冒険者ギルド。
「行くのか」
番頭の問いへ冒険者はこくりと頷きを返す。
「今回は依頼ではない。何かトラブルが起こっても、ギルドは後ろ盾になれぬぞ」
ギルドを通さず動く以上、冒険者を名乗ることはできない。ただの民草。素性の知れぬ浪人者だ。困難な道のりになるだろう。だがそれでも、道志郎ならばその道を進んだはずだ。
「助けを、求めている人がいる」
「行っても聞かぬか。なら、道志郎によろしく頼む。その道の先には、奴が待っているのだろう?」
道志郎が選び取ったであろう道を、そして彼にしかできなかったであろう道を、道志郎なしに歩まねばならぬ。
余りに険しいその歩みはまだ道と呼ぶことすらできない代物だ。どこへ向かっているのか、当の道志郎にすらきっと分かってはいまい。まして彼の背を追う者達になどとても歩めぬものであろう。
しるべはない。道末も知れぬ。頼りはかすかな足跡だけ。それでもこの歩みを止めるわけにはいかぬ。
内なる道志郎の声に耳を澄ませ。
道志郎の志が、きっと導いてくれるはずだ。
■□
ほの暗い平野の道を、南へ向かう影がある。
ひどく鈍重な歩みだ。きるきると耳障りな金音は鎖のきしみ。肩に細い鉄鎖を引きずって、腰丈ほどの茂みをかきわけてのろのろと歩みは続く。
霧となって濃くよどんだ瘴気が足元へ絡みつき、風は不気味なうなりを上げている。
あああぁぁぁぁぁ‥‥
まるで幾千もの怨嗟があげる声なき悲鳴だ。引きずる鎖の先は瘴気へすっかり呑み込まれ、地をこする重い音だけが響いている。薄く霧の底へ透けて、もぞもぞと大地が蠢く気配がする。
あああぁぁぁぁぁ‥‥
突如。
ずうんと、重い震音が響き渡った。茂みの枯れ幹が踏みしめられて倒れたのだ。風が巻き起こり、瘴気がどろりと流れた。つかの間に晴れたそこへ見えたのは地表に散らばる無数の白い欠片。蠢く影。その小さな一つひとつが、常陸の民の成れ果ての亡者達であった。
男が天へ牙を剥いた。
おおおおおぉぉぉぉぉぉ‥‥‥!
びりびりと大気が震える。彼の体を異形の影が羽虫のように飛び廻っている。西の彼方へ沈みきろうとした太陽が、最後の茜陽で巨体を照らし出した。朽ち果てた鎧。腐った刀。細い指。地を這う亡者の叫びがその巨骨の周りで渦巻いている。
あああぁぁぁぁぁ‥‥
あああぁぁぁぁぁ‥‥
あああぁぁぁぁぁ‥‥
背に影を背に引きずり進むその様は、まるで陽へ挑もうとでもするかのようだ。太陽はもう山間へ消えいろうとしている。やがて、夜がこの国へ帳を下ろすであろう。
●リプレイ本文
半年振りに訪れた常陸の地は、記憶に残るその風景のままにうっすらと雪化粧を覚えていた。江戸から徒で二日。シェアト・レフロージュ(ea3869)がようやく水戸へ入ったのは、黄泉討伐のまさにその前夜のことであった。
見違えた。僅かな月日で街はこうも息を吹き返すものなのか。人の営みとはつくづく力強いものだと思う。この復興にはきっと為政者たちの尽力があったのだろう。広がる街並みにふと懐かしき人の名を思い起こし、彼女は胸を甘くした。
(「忠勝様‥‥」)
あるべき人の待つ地を故郷と呼ぶのなら、シェアトにとってこの水戸行は帰郷であった。
「シェアト殿、分かっておられるな?」」
不意に、傍らに立つ男が鋭い視線を向ける。物思いから引き戻された彼女は小さく頷いた。その時には、シェアトは一人の冒険者の顔へと戻っていた。
「‥‥承知しております。もう余り時がありませんね、急いで備えませんと」
「そうだな。思いのほか移動にかかってしまった。ゆっくりしている暇はなさそうだ」
戒厳下に置かれた街は明かりも少なく、明日に控えた決戦を前にじっと声を潜めている。今夜の宿を探して不破斬(eb1568)は旅荷を担ぎ直した。
行商人の夫婦を装って無事に関は抜けた。思った通り、江戸から続く街道の警戒は緩い。おそらく仲間達も無事に水戸入りを果たし、既に行動を開始しているだろう。
同じ頃。
街外れの廃寺に、微かに人の気配と灯りが洩れている。毀たれた堂には大勢の人の息遣いがひしめいていた。視線の先に立つのは、黒崎流(eb0833)。
「悪夢が繰り返されようとしている」
行灯に照らされ、熱を帯びた表情が暗闇に幾つも浮かぶ。
いずれも道志郎に惹かれて集まった者達とその縁者。
「闇が忍び寄るその時、黄泉の兵から水戸を守るには皆の力が必要だ」
「黄泉人の真の狙いは水戸城では無いかと懸念する」
傍らに進み出た陸堂明士郎(eb0712)の言葉でざわめきが走った。
「希望の灯を繋ぐのが我々の使命。道志郎殿の志を無にさせはしない。それを示す道は、我らの力で水戸の民を護るのみ。自分はそのために戦う」
「我々の為に戦ってくれ、とは言わない。我々こそがあなた達の為に来たのだから。戦うならば生きて戻れる保障はできない。だがその死は断じて無駄にはならない」
いつか、皆が平和で幸せに暮らす――あるべきその日の為に。
「武器を持つ者、武器を持てる者は共に行こう。怯まずに戦おう」
黄泉討伐前夜、道志郎の下に結ばれたえにしは、黄泉への刃として固く結ばれようとしていた。首の皮一枚。辛うじて、命脈は繋がった。流は内にたぎる熱いものを抑えながら、秘めた刃を静かに研ぐ。
(「良くぞ報せてくれた。敵の顎が決定的勝利を噛み砕く瞬間‥‥」)
恐らくは、最後の。
(「――牙を叩き折る好機」)
辛うじて繋がった機。だが手にし得たのは脆くか弱い刃でしかない。彼らに出来るのは、ただ策を依り、切れ味を澄ますことだけ。宿で報せを待つクーリア・デルファ(eb2244)は砥石へ得物を当て、祈りの言葉を唇へ乗せた。
「使い手に幸があるように」
頼みにしていた吉田神社からは拠点の提供を拒まれ、仕方なしに城下の旅籠に仮の宿を取った。戒厳下の街は人通りも絶え、盛り場も静まり返っている。別働で水戸入りした仲間との伝は絶たれてしまった。
連絡役を買って出ていた七瀬水穂(ea3744)は浮かぬ顔だ。
「後は皆さん巧く動いて下さることを祈りましょう。明日の出陣の刻になれば状況も変わるでしょうが‥‥」
「藩が動いてくれたことはうれしいが、内通者のことがあるから素直に喜べないな」
カイ・ローン(ea3054)が口にすると、クーリアが刃物を研ぐ手を止め、ふと呟いた。
「道志郎さん大丈夫だろうか?」
「本当に牢の中で年越しさせちゃったから、ちょっと心配だ」
二人は江戸の冒険者仲間に武具の手配を頼んでいたが約束の期日になっても品は届かず、手元にあるのはカイが持ち込んだ薬瓶だけだ。後は今からどれだけの備えを築けるかだろう。
日向大輝(ea3597)は斬から罠の手ほどきを受けて来たが、素人の手での急場仕事では手に余る。協力者の手を借りて配置するには単純な造りにせざるを得ず、効果の程も期待できそうにはない。
「結局バリケードを巡らすのが手っ取り早いか。とりあえず配置だけでも絵図にしておくかな」
そこへ、会合を終えて陸堂らが漸く宿へと戻ってきた。
「話はついた。明日の出陣の後にでも防衛線を構築する手筈だ」
「黄泉軍の攻勢は手薄となった此処へ向けられるだろうね。残る策は一つ。迎撃の構えで敵を引き込み、後詰を待って打撃を与える」
陸堂と流が話し合った結果、水戸城を最終防衛線として那珂川に防衛線を敷くことで二人の考えは一致を見た。
「我々の拠点を彼らに手配してもらった。時が惜しい。すぐにでも移ろう」
水戸藩の了承を得ぬままのこの蜂起は下手をすれば謀反とも取られかねぬ危険な賭け。道は違えた。後は自らの行いをもって信を示すだけ。カイが得物を手に取る。
「道志郎さんの汚名を雪ぐには、俺達でこの騒動を収めることだけだ。行こう、皆」
仮に戦功を積もうとも、無礼の購いになりはしない。道志郎は不義の人であるとの風評を水戸の武士達から拭うことはもう出来ないだろう。
「歯痒いです‥‥立場さえ許すなら水戸藩へは今回のことの筋を通したいです。せめて謝罪だけでも行いたかったです」
同じ夜。
出陣前夜の古賀邸にルーラス・エルミナス(ea0282)の姿はあった。
関をやり過ごす策を講じたが機が巡らずまま時を逸した。結局、無策のまま軍馬を追って水戸入りしたのが今日の昼刻。仲間を離れた彼は、住職の紹介でひとり門戸を訪ねたのだ。
「先日の非礼に重ねて、夜分に突然お伺いしたというのにこうしてお会い下さり、本当にありがとう御座います」
「藩の門を叩くならいざ知らず、拙宅を訪ねられるのなら拒む道理もない。無論、今日この夜を考えれば些か考える所はありますが」
「感謝の言葉もありません。下賎な冒険者の身が藩の重臣を御呼び立てするという御無礼、私個人としてお詫びに参りました」
精一杯の謝意を表したいが、どう示せばよいのか言葉も出てこない。
それきり言葉を継げずに押し黙ったルーラスへ古賀は小さく嘆息を返した。
「貴殿らは心得違いをされておられますね。忠勝様は分を弁えはすれ、別することはない。貴殿らが冒険者であるから軽んじたのではない。信を置けぬ故に遠ざけたのがお分かりでないですか」
同じ冒険者とは言え、一行は藩が招き寄せた者達ではない。名も素性も知れぬ不審な輩として忠勝の前に立つ以上、信を得る為には最大限の労力を払うべきであった。胸襟を開いた態度を期待しておいて、裏切られたというのは筋違いというものだ。
「我らは礼を重んずる。それを知らずの振る舞いならば愚者。知って軽んじたならば不義者。どうして我らが信を置けましょう。共に矛を並べた貴殿を訝りたくはありませんが、私もまた藩士として信用する訳にはいきません」
「しかし‥‥今も道志郎さんの義の下に多くの仲間が集い、動いています。どうか――」
「果たしてそれほどの人物であろうか。私にはとてもそうは思えません。現に、今も先日の非礼を捨て置き忠勝殿を蔑ろにしたままではありませんか」
「返す言葉もありません‥‥」
それきり言葉は絶えた。
百万言を費やしても、今となってはもう届くまい。信を得るは難く、失うはいとも容易い。逸したその機を取り戻すに、ルーラスただ一人の言葉では余りに無力であった。
夜が明けた。
神聖暦1002年、2月19日。遂に水戸藩の黄泉人討伐のその朝がやってきた。
軍勢が城門から姿を見せると、待ち受けた民草から喝采があがる。大勢の足軽を引き連れた侍達がゆうゆうと歩を進めていく。その数二百。水戸城の奪還より半年余。藩兵は力を取り戻した。亡き頼房の代とまではいかぬが、奇襲を受けて総崩れとなったあの時とはまるで違う。騎馬に跨った精強な鎧武者。槍を担いだ足軽たち。矢筒を背負った弓手。そして何よりも、その軍勢の先頭に立つ一人の武者の姿だ。
闘将、本多忠勝。
その脇には、昨夜ルーラスと会談した古賀の姿がある。
「忠勝様。件の冒険者がなにやら動きを見せているようですが」
「うむ。後事は則綱に預けてある。今は眼前の戦に専念せい。今日こそは亡者どもに遅れなどとるまいぞ」
「心得ました」
振り返らずにいうと、忠勝は首だけで行く手を見渡した。彼の威容を一目見ようと、大通りには水戸中の民が集まっている。その誰もが忠勝の名を呼んでいるのだ。
「見よ。民草の眼差しを。これが我らの守るべきものぞ」
忠勝様――。
不意に、その群れの中に懐かしき人の姿を見止めて、忠勝は動きを止めた。忘れもしない。喝采に沸く群集の中で一人静かに強い眼差しを向けるのは、シェアト。
(「‥‥この声を、いまも覚えておいでですか?」)
シェアトが上着の襟元へ手をかけた。はらりとそれをのけると、目に飛び込むは鮮やかな青と銀。衣と扇を抱くその姿へ、忠勝は眩しそうに目を細めた。
(「冥府の獄に繋がれた俺に差した一筋の光。人の命を天の有りようが導くというのなら、斯くの如きかと思いしものよ、星読みの姫よ」)
(「お懐かしゅうございます忠勝様。‥‥時がありません。どうか星の囁きと思いこのままお聞き下さい」)
視線を交わしたのは僅かな間。忠勝の軍馬が彼女の前を通り過ぎ、繋ぎ止められた思念だけが二人を行き来する。
水戸の窮状は巴里で知り合った斬から知らされた。彼から伝え聞いた情報をシェアトは思念に乗せる。
高鈴山から黄泉人が消えた事。雲野が生存しており、直筆の手紙を託した事。また、内通者の為に連絡が取れない事。その詳細をお庭番・春日へ伝える者がいる事。
――斬さんのお仲間が今も北東を警戒しています。
――冒険者らのことは耳に入ってはいる。歌姫の言とあらば疑う由もなし。だが、その伝の者までも信に足るかは俺一人の判断に余る。
――今更ですし信じて下さらなくても良い。でも‥‥
――必ず戻る。どうかそれまで‥‥
唐突にそこで思念は途切れた。
遠くなったその背へシェアトは深くこうべを垂れた。
「シェアト殿」
様子を見守っていた斬が促すと、無言で頷いてその背へ続く。
もう見えなくなった忠勝の姿を、シェアトは最後にもう一度だけ振り返った。唇を洩れた囁きは歌となり、常陸の空へのぼっていった。
日翳る営み続くとも
繋ぐ人の手 心は死なず
暁の空に輝ける
望みの星の支えとならん‥‥
■□
風には風の流儀がある。
炎のように燃え盛り圧倒する様でなく。津波のように全てを押し流す様でもない。
何処へでも現れ、事を成し、すぐに。
――消える。
(「接触は無事に成功したか」)
風の名は、風守嵐(ea0541)。江戸で吉報を待つ日輪稲生ら忍びの仲間達の期待を背負い、風の長たる嵐はこの地にいた。
シェアトの接触の後に、忠勝が配下へ何事か耳打ちしてやり取りする様子が見られた。そして討伐軍から数名が城へ戻ったのも嵐は見ている。それだけ見届ければ十分だ。後は仲間が何とかしてくれる。
誰にも悟られず不意に現れ事を成す様は、巻き起こったつむじのよう。
(「‥‥首尾はうまくいったようだな」)
そして再び空へと消えた。
嵐の窺っていたその先には、城門へ向かう冒険者の姿がある。
「止まれ、城に何の用だ」
「水戸解放の宴以来になりますね。あれはとても楽しい晩でしたわ」
手を止めた女侍は慇懃に礼を取ると、門兵の顔を見て懐かしそうに目を細めた。
「お忘れですか? 侍にして医師の七神斗織(ea3225)です」
流の紹介で仲間に加わった斗織は、かつて水戸城奪還に加わった侍。道志郎とも親交のある彼女は水戸藩との橋渡し役を買って出たのだ。
「忠勝様よりお話が通っておられるかと思いますが、今日は渡辺則綱様、古賀様、そして春日様へお目通り願いたく参りました」
「これはしばらく。暫し待たれよ、上に確認を取って参ります」
その後、すぐに斗織は城内へ招き入れられた。だが、奥の間へ通されたきり、その後は何の沙汰もない。やっと則綱が現れたのは、もう夕刻へ差しかかろうかという頃だった。
「お待たせして済まなかったな、突然のことで城内でも対応に苦慮しておってな」
忠勝の一の腹心、渡辺則綱。
幼き光圀に代わり、忠勝のおらぬ城内を一手に取り仕切り、留守居を務める実力者。だが彼が背任の徒でないという保障はない。斗織の使命とは彼の目を掻い潜り春日へと伝を届けること。雲野の腹心であった彼女ならば、信を置ける。
「古賀は討伐に出払っており、春日は光圀様のお傍を離れられぬ。この私が話を聞こう」
「ご無沙汰しております。これは少ないですが‥‥」
江戸から持ち込んだ薬を手土産に差し出そうとするが、則綱は厳と首を横に振る。
「貴殿からそのようなものを頂く理由がない。お気持ちだけ頂戴しておこう。して、隣の御仁は」
則綱が鋭い視線を差し向ける。
「突然のお伺い、ご無礼をお詫び致す。不破斬、道志郎の名代として参った」
その名に則綱が眉を動かした。
「斗織殿、これはどういうことかな」
「私はあくまでも渡辺様と不破様とのお引き合わせを買って出ただけですわ。不破様は高鈴山へ直に足を運び、その様を見届けたお方。その言葉、軽くはございませんわ」
「聞こう」
憮然とした面持ちで則綱は斬へ向き直った。
あらゆる手札を切り、ようやく機は訪れた。もう伏せるものはない。
今まで体験した全てを斬は包み隠さず語り伝えた。
「雲野が‥‥。信じられんな。先の戦で命を落としたと聞いていたが、まさか」
「高鈴山にて我らも一度は雲野殿に刃を向けられました。だが道志郎は雲野殿と巫女様の信を勝ち得た。我らは共に御岩を窺う亡者の群れと戦ったのです」
だがやがて雲野からの連絡は絶えた。御岩神社は黄泉軍に蹂躙され、屍一つ残さず息絶えた。
「過日、我らの仲間が忠勝様へ接触を持とうとしたのも、これを伝えんがため」
「信に足るという証は」
「雲野殿直筆の文が御座る」
前回の依頼文は間違いなく雲野のもの。その確信が斬にはあった。仲間を頼って特別にギルドから借り受けたそれを懐から取り出す。
「改めよう」
手を伸ばしかけた則綱を斬は頑として制する。
「恐れながら申し上げる。如何に則綱殿とはいえ、この文をお預けするにあたわず」
これは冒険者の生命線。
譲る訳にはいかぬと、斬の言葉に力が篭る。
「真贋は、雲野殿が信を置いたお庭番の忍びにして、今も唯一この城内に身を置かれる春日殿その人に見定めて頂きたい」
「私からもお願い致しますわ。則綱様、そしてお庭番の慧雪様、いずれのお手も介さずにどうか春日様へ直接お取次ぎ願いますわ」
「弁えぬか。我を疑うは、忠勝様を疑うも同じ。ひいては光圀様とこの水戸藩を愚弄するも同じぞ」
「私も同じ意見です」
不意に、障子の裏から声がする。
「怪しげな連中を光圀様のお側へ近づける訳には。まずは我らの手で改めてからにすべきかと」
新お庭番頭目・慧雪。
この男も容易に近づけてはならぬ。斬は警戒を強くする。
「おそらくは御岩の難を逃れたであろう雲野殿が、藩へ援けを請えぬままに消息を絶ったのは、ひとえに内通者の動き故。その雲野殿が身の危険を顧みず我らを頼んだのがこの文。命にも代え難きそれを、易々と御渡しする訳にはいかぬ」
「言わせておけば。貴様らのような不貞な輩と我ら水戸藩士、どちらが信を置けるか言うまでもないであろうが」
則綱の声が怒りに震える。
慧雪が斬の前へ進み出た。
「我らが真贋を改める。文を御渡し願おう」
「およしなさい、慧雪」
突如として奥の襖が開き、一人の少年が供を連れ立って現れた。
少年の名は。
「光圀様!」
「その者の言う通りです。我々が改めようというのでは意味を成さない以上、春日へ直接見定めて貰う他はないでしょう」
「しかし」
「下がりなさい。春日、あれを」
傍らの娘がこくりと頷いた。斬が書状を差し出すと、その上を視線がつぶさになぞる。
「間違いありません。雲野様の筆跡」
「光圀公、雲野殿の伝、確かにお届けした。北東から黄泉の奇襲の恐れがある。いま民衆と一部の有志が防衛線を張ろうと動いております。長く保てそうにはありません。どうかお救い下さい」
平伏する斬へ、則綱が一瞥をくれて嘆息した。
「北方からの増派は我らにとっても一番の脅威。細心の警戒を払っている。あの日の二の舞には絶対にならぬ」
「心配には及びません。忠勝は負けませんよ」
おもてをあげて下さい、と心優しき君主は微笑んだ。
「水戸解放の戦には、多くのことを教えられました。人の営みはとても力強いもの。たとえ焦土となろうとも灰の下に必ず命は芽吹きます。故郷を取り戻すその覚悟さえあれば、なせぬことはない」
「我が藩に秘策有りだ。見ていろ、石橋宿攻略に二日とかかるまい」
暫し時を先後する。
水戸を発った藩軍は二日の行軍の後、石橋宿近郊に陣を敷いた。総勢二百を数える軍の士気は高い。明くる早朝、遂に黄泉討伐の戦端が開かれた。名将本多忠勝に率いられた水戸軍は亡者達を蹴散らしながら宿へと迫る。この勢いなら、或いは。様子を窺っていた榊原信也(ea0233)の胸中に期待が芽生える。
(「これで敗れればもう水戸藩に後はない。‥‥全精力をかけて勝負に打って出たってとこ、か」)
逸早く水戸入りした信也は今日まで水戸藩軍の規模を洗っていた。兵力、軍装、将。通常の戦ならばまず遅れは取るまい。対する石橋宿の守りはそう堅くない。近辺と市中を徘徊する魑魅魍魎の魔物を数に入れれば上回るが、勝負はどう転んでもおかしくない。
(「後は、敵の後詰だな。‥‥ここから繋がる道は南の旧国府を除けば、北の奥州、そして北東の高鈴山か」)
ふと、信也が視線を切った。見上げた空にはこちらへ向かって飛ぶ来る白い影。天馬だ。討伐軍の手前で地へ舞い降りると、乗り手は鞍を降りて取次ぎを願った。すぐさま警戒を取った水戸兵を、忠勝が片手で制する。
「天馬はその背を許す者を自ら選ぶと聞く。御身は黄泉の手の者ではないとお見受けした」
「七瀬水穂と申します。討伐軍の将、本多忠勝様にお伝えしたいことがあります」
北の空はいまだ以津真天が目を光らせている。ここまで辿り着けたのは天馬の機動力と水穂の力ゆえだ。水穂は仲間達の動きと水戸軍撤退の支援について語り伝える。忠勝は終始無言で耳を傾けていたが、やがて愉快そうに高笑いをあげた。
「心遣いはありがたいが、心配は無用だ。後詰の動きがあらば我が藩の斥候から報せがある。何より、我が軍に負けなどない」
その時だ。
石橋宿の各所で次々と火の手が上がった。水穂の視線が素早く戦場を走る。
単なる失火とはどうも様子が違う。兵の動きが素早い。火の手から逃れようとする亡者を討ち洩らすまいと、市中をぐるりと包囲していく。
「あれは、もしや。火計ですか?」
いかに不死の亡者達といえ、躯を焼かれれば灰に還るほかはない。
だがそれは、取り返すべき街を焦土へ変える諸刃の策でもある。
「たとえ街は焼けても、人が故郷を忘れさえせねば、その手で作り直すことができる。これが光圀公の決断よ。その覚悟さえ持てるならば、故郷を失うことは恐れることではない」
「話は分かりました。子どもの使いで来たのではありません、せめて私も助太刀させて下さい」
「戦は武士の本分。民草の手を借りる由はなし」
「女の身といえ、私は志士です。皇国の版図を侵す者が相手ならば私の戦でもあるです」
「これは失礼した。承知、しからばお願い致す」
石橋宿の包囲は完成しつつある。
亡者の一匹も逃すまいと敷かれた囲みには風上で穴を空けられ、逃れてきた所を待ち構えた藩兵が次々と討ち取っていく。周囲には延焼を防ぐための野火止が作られて被害を最小限に食いとどめる。水戸藩側へ傾いた勝の流れはもはや戻せない。火計の策が効かない空からの脅威へは、水穂が頼もしい力となった。火球による援護で次々と以津真天どもを撃ち落としていく。
馬上の忠勝が激を上げる。
「一匹も逃すな! 黄泉など恐るるに足らず、我らの手で捲土重来を果たすのだ!」
その前日、那珂川流域。
城下町を発った冒険者たちは、水戸の協力者ら100名近くと共にここに防衛線を張るべく動いていた。
まずは総出で防御柵作りが始められたが、なかなか作業は進まないでいる。
ふと、日向が手を止めて北の空を見遣った。
(「御岩にはもう何もなかった、つまりすでに事は成した後」)
黄泉軍は水戸城を落とした後に長い間動きを見せなかった。その彼らが手間をかけて御岩神社を攻略したが、水戸軍の撃破の為だとは考えづらい。それが日向の疑問だった。この常陸を穢し尽くす。ただそれだけが黄泉の目的にすら思える。その先には、何があるというのだろう――?
(「水戸が落ちたことで、何が変わった? 再び水戸を取り戻されたことで奴らは何を失った? そして、御岩としたことで得たものは何なんだ?」)
奴らの狙いは、水戸とは別のところにあるのではないだろうか。
だが、疑念はそこで手詰まり。それ以上を考える手がかりも、答えを導く何かも日向は手にしていなかった。
「それでも今はやるしかないか」
陣頭では陸動が指揮を執り、互いに声を掛け合いながら作業は続いた。
「敵の侵攻をこの寡兵で押し留めるには、渡河を図る隙を突く他に機はなし。ここを第一の防衛線と心得られよ」
水戸軍は明日にでも石橋へ到達するだろう。時間はない。
民草の中には数人の職人達も居合わせており、彼らが中心となりながら工程が進められていく。クーリアも一行の中でただ一人の職人だ。鍛冶仕事と木工では畑が違うが、手先の器用さでは素人に負けない。
「木工は専門ではないですけれど、泣き言はいってられないか。マイスターグレイバーを存分に振るえるよい機会ですからね」
連日の作業では慣れない仕事で怪我をする者も出たが、医師でもあるカイが手当てに当たる。
「これで大丈夫だ。今度はヘマはやらないようにな。‥‥神の加護があらんことを」
十字を切ると、淡い輝きがカイの身を覆った。これで皆の少しは作業も捗るだろう。
「簡単な応急処置くらいなら教えられる。ないよりましだ、せっかくだから覚えていってくれ」
夜が明けて二日目を迎えてもまだ行程は終らない。思うように進まない作業の様子を、馬上の流は苦しげな面持ちで眺めていた。
考えていた武具らしいものはほとんど都合がついていない。間に合わせでなるだけ長物をかき集めたが、弓兵隊を満足に設えられなかったのは手痛い。このまま戦となれば苦しい用兵を覚悟せねばならぬだろう。馬首を返して流は辺りを眺め渡す。
構えは縦深防御。時を稼ぎ、その間に後方で撤退を急ぐ。
(「敵が追撃に逸って軍を深追いさせたならば、存分にその横腹を食い破って見せよう」)
水戸まで逃げ切れれば城の兵力を頼ることも出来る。それに期待しよう。
「黒崎さん、何とか形にはなりそうだね」
不意に、様子を見に来たクーリアが隣へ並んだ。
「あたいとしても、なるだけ民草に被害は出したくないよ。もちろん、あたいらに力を貸してくれたあの連中からもね。その点、退路はきちんと確保できているし、後は黒崎さんの用兵振りを期待しているよ」
「いざとなれば道返の石を使ってでも何とかして貰うさ」
と、カイ。日没を過ぎて何とか作業の目処は見ええてきたようだ。日向も火罠を張るのによい場所を辺りに探し始めた。
「死人相手じゃなければ噴き出す炎がこけおどし位にはなるんだけど、あいつらには関係なしだろうな‥‥」
「いざと言う時の無理は覚悟の上だ」
陸堂が厳然と口元を結ぶ。
民草の援けを得られたとはいえ、黄泉を相手にはものの数ではなかろう。最後は、自分たち冒険者の力が頼みとなるだろう。その時こそが自分の出番だと、陸堂は静かに身を震わせる。
「水戸への最短の撤退ルートは榊原殿から入手した。石橋での戦況と黄泉軍の動きについてももうじき榊原殿が報せを持ってきてくれる筈だ」
だが、彼に代わって現れたのは水戸藩の急使であった。
「話は聞いておる、その方ら民草を煽動するという冒険者らだな。即刻、水戸へ戻るがよい」
「否、断じて従えぬ」
進み出たのは陸堂。
「たとえ水戸藩に刃を向けることになろうとも、水戸の民を守る為ここは退けぬぞ」
「北東よりの後詰など我が藩の忍びからもそのような報せは入っておらぬ。徒に民を惑わすことは許さぬぞ。冒険者らよ、貴様らの仲間からの報せは既に入っておる。その上での藩のお達しであるぞ。異を挟むでない」
一触即発。
そこへ割って入ったのは、空を駆け来た天馬と水穂だ。
「陸堂さん、早まっては駄目です。石橋宿での緒戦は水戸方の圧勝、懸念されていた黄泉の後詰も現れませんでした。防衛線を張る意味はひとまずなくなったです」
21日早朝に戦端を開いた水戸軍は瞬く間に石橋を攻め落とした。事前の情報通り、石橋の守りはそう堅くなく敵主軍の気配も見えない。火計を使った電撃戦で、夕刻までには完全に宿を制圧する。常陸国の主要な宿場として栄えた石橋を焦土と変えることと引き換えに、街道の要から黄泉は払われた。
「だけど七瀬さん、俺達はそう簡単に引き下がる気はないよ」
「自分も退くつもりなどない」
カイや陸堂は一歩も引き下がらない。
その中で早々に警戒を解いたのは日向だ。
「止そう。陸堂さん、黄泉の狙いはやはり別だったんだ」
悪い予感が当たったようだ。初めからこの胸騒ぎを信じることができていれば或いは。日向が苦々しげに目を伏せる。
「だが日向殿、敵の主力はまだ姿も見せていない。石橋の水戸軍は健在といえ、黄泉の脅威はいまだ――」
その時だ。
つう、と。足元を伝って生ぬるい何かが忍び寄った。暗い常陸の大地を張って何かがゆっくりと流れてくる。
「これは」
流が足元のそれを掬いとると、どろりとした感触と共に異臭が鼻を突く。瘴気だ。それも一際淀んだ恐ろしく濃い瘴気。空気そのものが腐り膿んだかのように、重く濁っている。
それは見る間に、踝、脛と嵩を増していく。
「この方角は、南西‥‥一体、何があった――?」
同時刻。
石橋宿より北東。
敵の後詰の可能性を探っていた信也は、およそ信じ難い光景に直面していた。
「‥な‥んだ‥‥これは‥‥?‥」
街道を少し離れた所に茂る森。それを石橋へ向けて突っ切るようにして道が出来ている。その場だけ木々は根元から折れ、重なり倒れている。まるで巨大な足が踏みしめたよう。
――何かが、やって来た。
ぞくり。信也の背を冷たいものが伝う。
とても巨大で、禍々しい何か。それがやって来た先は。
(「――御岩神社!」)
数刻後、水戸城。
時を置いて瘴気はこの城下町へも流れ込んだ。
「急報! 石岡の旧国府が黄泉軍の急襲により壊滅! 常陸府中藩、総崩れとなっております! 」
常陸府中は水戸藩の分家として水戸の南西にあたる石岡の旧国府に領を構えていた小藩。
水戸藩の石橋攻めの裏を掻くように、敵の主力は常陸国の更に奥へと駒を進めた。水戸を含めた中北部の制圧も終らぬままにこれほど前線を伸ばすなど、補給を考えれば通常の戦では考えられぬこと。この侵攻を夢想にすらもしていなかった常府は抵抗の間もなく蹂躙された。
水戸城へ次々と報せが舞い込んでくる。
「常府藩、藩主並びに重臣、いずれも消息は不明」
「敵主軍に巨人の姿ありとの報せが多数入っております」
「石橋の忠勝様から急報! 北街道の攻略を中止、直ちに水戸へ帰還されるとの由」
「常陸一帯に重い瘴気が立ち込めております。瘴気の発生源は北西方面」
伝令を聞く則綱は見る間に青筋立っていく。
伝令の一人が去り際にこう言い加えた。
「杉の木無しと名乗る者から目通りを願いたいとの由」
――丑の刻。吉田神社の境内にて待つ。
常ならば捨て置かれる話だが、彼を知る者には別だ。
雲野を、いや今の彼の境遇を知る者ならば。
その晩遅く。
果たして、そこには男の姿が会った。遠目にも異様なのは、すっぽりと視界を覆った白い目隠し鉢巻。そのようないでたちの者など、この水戸に二人といない。誰の脳裏にも浮かぶその名は、お庭番前頭目。盲目の雲野。
月は千切れ雲に隠れ、曇った光が境内の木々を見下ろしている。遅い。刻はとうに過ぎた。藩からの報せが来る気配はない。男が踵を返そうとしたその時だ。
(「――――――!―――」)
風を切る音。刹那の間隙も置かずに男が全身で振り返る。
視界が微かに捉えたのは飛び来る刃。咄嗟に首だけでかわす。切っ先は皮一枚でこめかみを掠めた。紅い飛沫が小さく舞う。男の視線が射線の先を素早く追った。
暗い木々の向こう。見通せない暗がりの先。微かに匂う殺気の残り香。男の右手が手裏剣に伸びるが、やがて止まった。遠い。襲撃者の気配は闇の向こうに遠ざかりつつある。
(「逃したか」)
瘴気含みの生ぬるい風が頬を撫でた。
はらり、と切れた目隠しがすり落ちる。白い鉢巻。
現れた顔は、風守。
(「嫌な風だ」)
雲野にはどうしても死んでいて貰いたい者が水戸藩中にいるようだ。やはり偽の伝令にくいついてきた。水戸藩の奥深くまで毒が回っているのは最早疑いようがない。だがこんな柔な毒では俺を殺せなどしないぞ。嵐は視線を険しくする。
腰をかがめて嵐が足元へ手を伸ばした。掌に握られたのは、血汚れた一振りの手裏剣。尻尾は掴んだ。これを辿り、食らいつくまで。
(「‥‥水戸へ春風を吹かせる、必ずな」)