志道に心指す 第五話/拾六「臥竜天醒」

■シリーズシナリオ


担当:小沢田コミアキ

対応レベル:11〜lv

難易度:難しい

成功報酬:4

参加人数:12人

サポート参加人数:2人

冒険期間:11月22日〜12月02日

リプレイ公開日:2009年04月30日

●オープニング

 松乃屋で呑み明かすことも近頃ではめっきりなくなった。この店も変わった。よく見た顔をいつの間にか目にしなくなる。そんなことが多くなった。冒険者の街である。流れる者は珍しくもない。
「三年か」
 物憂げな視線を酒面へ落とし、青年は目を細めた。
「如何された。貴殿らしくもない」
 そう応えて口にしかけ、男はふと口元を緩めて嘆息する。
「ああ、そうだったな。もうそんなになるのか」
 あの晩も、こうして皆で酒を酌み交わした。
 諸侯による神剣争奪戦の前夜。酒場の片隅で日ノ本を憂う一人の少年に突き動かされ、冒険者達は集った。青年にとってはそれが道志郎との出会いであった。それももう、今となっては古い話だ。
 青年が温くなった猪口を振る。
 不意に、横合いからそっと徳利が差し出された。
「お揃いで何の相談ですか。私もご一緒させて下さいですよ」
「おや、久しぶりだね。綺麗所は歓迎だ、自分からも是非お願いするよ」
 青年が席を空け、三人は杯を合わせた。
「道志郎さんからの連絡はやはり、まだ?」
 消息が途絶えて以来幾たびもギルドへ足を運ぶ日が続いた。だが遂に便りが来ることはなかった。
 男が沈黙を深くする。
(「道志郎。貴殿の目指す先にある光を、この目で見届けたいと思い続けてきたが」)
 仲間達と共に動乱の日ノ本を駆け抜けた日々。一介の冒険者ながら、この国の為に命を燃やしているという熱があった。
 ふと女が視線を遠くする。
「神剣騒動の時の約束、果たせないままになってしまったですね」
 あの時は敵同士に分れてしまったが、いつか日ノ本の為に共に戦おう。
 その時こそはきっと肩を並べて。
「もう3年も経つんですね。月日が経つのは早いです。本当に色々なことがあったですよ」
 江戸の大火。龍脈騒動。五条の乱。上州反乱。江戸落城。神剣騒動で渡り合った群雄達は今も歴史の大舞台で戦い続けている。その輝かしいばかりの武名と比べると、道志郎の足跡は何ともうら寂しい。
 こうしていつしか歴史に名は埋もれ、端役の一人として消えていくのだろうか。
(「道志郎‥‥」)
 青年が盃を煽った。
 舌に残るのは今宵も冷たい味気なさばかりだ。
(「どこへ行ってしまったんだ。お前の光はもう、消えてしまったのか‥‥?‥」)


 風に、稲穂の匂いが混じる。
 格子越しに仰ぐ空がいつしか高くなった。遠く鷹が輪を描いて飛んでいる。無骨な木枠に区切られた空だが、その先はどこまでも無限に広がっている様に見えた。書を繰る手を止め、若い侍は伸び晒しになった無精髭を擦る。道志郎その人であった。
 無宿人の繋がれる二件牢からこの揚り座敷へと移されて月は十を数えた。ここでは慎ましやかながらも自由があった。とりわけ道志郎は書物へのめり込んだ。儒学、軍学、宗教、歴史、礼法。中でも彼の興味を奪ったのは尊王を謳う水戸学の思想であった。日ノ本という土地を明確に一つの国家と捉える考えは、それまで彼の中にはなかったものだ。何よりも虜囚として批判的な目を持ちながら触れられた事が幸いであった。
 一年に渡る揚がり屋暮らしの疲れは見えない。寧ろ体つきは以前より一回り大きくなった様にすら感じる。その日、道志郎は髭を剃り下ろした。
「牢屋奉行殿、態々のお運び忝い。この道志郎、長きに渡る厚遇へ感謝を申し上げる」
「ならぬぞ。下獄の許しは出ておらぬ」
「大空の青雲を捕らえ――」
 その瞳が藩士達を捉える。
「しかもそれを留め置けると君は思っているのか?」
 肺腑から朗々と淀みなく声は告げる。
「伝えられよ。士、道志郎より光圀公へ申し告ぐ」
 黄泉人の狙いは水戸には非ず。
 常陸府中は旧国府。おそらくは常陸總社。
 祭神は――伊邪那岐命。
「才覚を以って広く人士を取り立て、まずは速やかに常州を平らげられよ。それこそが前君頼房公を超え、次代の器に足るを示す道なり。一刻も逸く源氏の正統を改め、東国の民を安んぜるべし。吾もまた、其が為に寸暇を惜しむべき者也」
 双眸の光は消えていない。
 寧ろ以前に増して鋭い。
「分からないか? 道志郎が水戸を発つ刻が来たと云っているのだ!」


 その晩、城下は興奮で沸き立っていた。
 光圀公が元服を執り行う。例大祭の熱気も冷めやらぬ街は震えた。
「苦労をかけましたね忠勝」
 あれから半年余。
 黄泉人の手放した北部は取り戻したが、全土を覆った瘴気は晴れず、土地は痩せ行くままだ。今秋も見込んでいた石高を大きく下回った。
「民草を思わばこれしきの事。時に若君。此度の祝いに一献如何か。拙宅へお招き致そう。元服を前にお渡ししたき物が御座る」
 忠勝は渋面で居住まいを正す。
「亡きお父上から賜った陣羽織が御座る。馬上にそのお姿さえあらば、此度の戦、藩士達もさぞ奮い立ちましょう」
 今も常陸府中藩に巣食う亡者を討たずして、常陸が人の手に還る日は来ない。
 光圀が正式に藩主の座につくの待ち、藩は兵を起こす。
「機は熟し申した。若君の旗の下に戦う初陣、この忠勝が勝利をお約束致す」


 江戸。冒険者街、室町通り。
 長屋の一角で、旅荷を背に草鞋を締める青年の姿があった。
「ゆくのか」
 庇の陰には黒装束の男が背を預けて立っている。
 戸口を潜り様、青年は振り返りもせずにこう返した。
「どうも一つ所へ根を張り過ぎたらしい。旅へ出ようと思ってね。この際だ、血生臭い稼業は捨てて諸国を漫遊するのも悪くないかな」
 おどけたように肩をすくめる青年の背へ、男は投げかけた。
「勝算は、あるのか」
 青年の足が止まる。
 男は腕組みしたまま視線だけをじっと彼へ向けていた。
「――恩赦だ」
 公の元服という慶事に藩は民へ祝賀を示さねばならない。その一つが罪人の赦免。策と呼べるようなものでないのはわかっている。成るは針の様に細い道だ。
 とても仲間を道連れに歩めるものでは。
「まさか、一人で行くとは言うまいな」
 男の視線の先を追うと、通りには旅装束の仲間が独り待っていた。
「さては俺にも声をかけずに行くつもりだったな。水臭い」
 嘆息すると、彼は何事か投げて寄越した。
「文を預かっている」
 書面には旧知の名。
『一足先に、光圀様のお心を溶かして参ります』
 遠くパリからの手紙だ。
 文へ目を落とす青年へ一瞥をくれると、彼は歩き出した。 
「まったく。世話の焼ける」
 ふと足を止めると。
「どうした、急がねば日が暮れてしまうぞ」
 顔を上げた青年に彼はもう一度嘆息する。ふと振り返ると、もう男の姿は消えていた。
 ――忘れるな。風立つ所、俺はどこへでも現れる。
(「やれやれ。思えばあの晩もそうだったか」)
 水戸入りするのは、上弦の月が見える頃か。
 道志郎の志が成る道は余りに細い。だが一条の光でもあれば十分だ。
(「いいだろう、道志郎。どんな暗闇の中からだろうとも。お前が光を失くさなければ必ず自分が見出してみせよう」)


□■
 荒廃した水戸路は今日も酷く暗い。
 この城下で、その夜、あるお告げが齎されようとしていた。
 後に常陸へ暗い影を落とす、3つの神託である。


  主を前に笑う者は 遠くで死者に笑われている
  柔らかい樹が枯れるお祝いに しるしがひとつ選ばれるだろう


 神託を受けたのは、吉田の社の一人の巫女。
 不気味な預言は続く。


  中天の弓が地上を狙う晩 槍は決断を迫られる
  許されざる者を信じてはならない
  赤い花は 最後まで咲いてはならなかったのだから


 そして3つ目は――。

●今回の参加者

 ea0233 榊原 信也(30歳・♂・忍者・人間・ジャパン)
 ea0541 風守 嵐(38歳・♂・忍者・人間・ジャパン)
 ea3744 七瀬 水穂(30歳・♀・志士・人間・ジャパン)
 ea3869 シェアト・レフロージュ(24歳・♀・バード・エルフ・ノルマン王国)
 ea3988 木賊 真崎(37歳・♂・志士・人間・ジャパン)
 ea6476 神田 雄司(24歳・♂・浪人・人間・ジャパン)
 ea7394 風斬 乱(35歳・♂・浪人・人間・ジャパン)
 eb0712 陸堂 明士郎(37歳・♂・侍・人間・ジャパン)
 eb1555 所所楽 林檎(30歳・♀・僧侶・人間・ジャパン)
 eb1568 不破 斬(38歳・♂・浪人・人間・ジャパン)
 eb2244 クーリア・デルファ(34歳・♀・神聖騎士・人間・ノルマン王国)
 ec0205 アン・シュヴァリエ(28歳・♀・神聖騎士・ハーフエルフ・イスパニア王国)

●サポート参加者

天山 万齢(eb1540)/ 飛葉 獅十郎(eb2008

●リプレイ本文

 生臭い風だ。
 西からの陸風が強く吹きつける今日のような晩は、死臭がここまで運ばれてくることがある。今宵も底冷えのする酷い風だ。黒雲に覆われて今は見えない欠けた月も、憂いた顔で俯いているのだろうか。
「この屋敷を訪れるのは久しぶりですね、忠勝」
 水戸市中。本多邸。
「よくぞ参られた若君。碌にお持て成しもできず心苦しゅう御座るが」
「いいえ、構いません。今は等しく民も窮乏しているとき。それに清貧は亡父の教えでもありました」
「そうでしたな。ささ、奥へどうぞ」
 かつて忠勝は前君頼房より恩賞として陣羽織を授かった。そして今宵、それはその息子の元へと。光圀の元服式を遂に前夜に控えてのことである。
「お似合いですぞ若君。お父上の面影が御座る。いや、ご立派になられた‥‥」
袖を通した立ち姿を前にすると水戸の苦難の歳月を思い起こさずにはいられない。まだ童とばかり思っていたが、いつしか丈も伸び、随分と大人びた。
 忠勝は目尻の皺を深くする。
「洒落た持て成しは致せませぬが、せめてもと思い心ばかりの馳走を致した。今夜はどうか楽しんで下され」
 忠勝が家人へ合図を送ると、襖がすっと開いた。
「お懐かしゅう御座います、光圀様」 
暗い地上に星明り一つ。淡い銀光を湛えた衣に身を包み、シェアト・レフロージュ(ea3869)は目を伏している。
「先の戦での御身のご無事と此度の元服の喜びをお伝えしたく、月の道を渡り参りました」
 もう二年余りの歳月が隔たっていたが、心優しき幼君はその姿を覚えていた。水戸解放までの動乱のさなかに、異国の娘の姿があったことを。彼女の歌声を覚えていた。
「その節は世話になりましたね。面を上げて下さい。また、いつかの晩のように、唄を聞かせてくれますか」


  「冷たき空に冴えざえと
       輝き放つ望みの星よ 

   数多の星のさだめを繋ぎ
       天空(そら)に描くは 

   常に日満つる陸(おか)の 未来の標…」


冷たい夜空に震う琴の音。この暗月夜で冴え返るのは、だがシェアトの音声だ。黒夜と地上との間には、その歌声と竪琴の音とだけがあった。
 どれだけのあいだ聞き惚れていたのだろう。やがて調べが止み、琴を置いたシェアトは台詞を次いだ。
「例大祭の夜、幾名かには望む恩賞がございました。‥‥思うのですよ。十もの月を越える暗闇の中で輝きを失わぬ星があるならば。それは定めを動かす星になるのではと」
深い蒼の瞳が光圀へ、次いで忠勝へと向けられる。不遇の闇の中でなお輝きを放つ‥‥。シェアトにとって、まさに忠勝がそうであった。そしてそれに適う名を、彼女はもう一人知っている。
「星そのものは望みません。ですが、人がその輝きを仰ぎ見ようと願うのは、身の丈に過ぎたるものでしょうか」
縁を繋ぐ術を探して。
この水戸の地と、そこに集いし、星の定めの者達の。
 求め続け、ようやく巡り来た刻。
 伏していた目をあげ、シェアトはすがるように続けた。
「その者達の想いを汲む僅かばかりのお時間をどうか、どうか」


 おそらくこれが最後になろう。陸堂明士郎(eb0712)にはその予感があった。遡ること5日余り。間近に迫った元服式に浮き立つ水戸の中で、仲間達は悲壮な決意と共にあった。
「何としても誤解を解かねばな。自分が見出した将器、ここで潰えるのは余りに惜しい。断じてそうはさせぬ」
 本多忠勝に今一度見えなければならない。
 まずはその為の土台を築く。所所楽林檎(eb1555)は自らの責務をそう理解していた。驚忍として道志郎と一時の冒険を共にした姉に代わり、林檎はこの場に居る。
(「‥‥驚が表を得手とするなら、あたしは裏を得手とすべきと‥‥」)
 元服式までの数日間が勝負になるだろう。緊迫した面持ちの仲間達の中で、神田雄司(ea6476)だけは常からのように飄々としている。
 道志郎と最後に会ったのはもう何年も前のことになる。陸堂から文を受けるまで彼のことなどは忘れていた。そんな道志郎の為にはるばる京から駆けつける気になったのは、同志陸堂からの頼みだったからなのだろうか。それとも。
 陸堂から譲り受けた腰の太刀へそっと手をやる。その柄の感触を確かめながら、神田は左手で顎を撫ぜた。
「これも何かの縁ですね」
 垂れた髪を掻き上げ。
「所所楽さん、自分が用心棒としてつきますよ。まずは日が暮れるまでに宿をおさえますか」
「宿ならあたいに当てがある」
 クーリア・デルファ(eb2244)が以前に手配した宿なら何かと都合がよさそうだ。
「こっちだよ。あたいが店主に話をつけたほうが早い」
「通りに面した部屋に致しましょう。あたしが留守居を勤めます」
 手が空けば噂話を集めてみるのもいい。もっとも、この限られた時間ではそんな余裕など仲間の誰にもないかもしれないが。
「陸堂さんは‥?」
「古賀殿とは水戸解放以前にシビトを前に共闘した縁がある。御助力願えぬか掛け合ってみよう」
 使える手は全て試しておきたい。今は仲間達で手分けして、考えうる全ての可能性を試すべきだ。仲間達は慌しく水戸の町へと散る。
 そんな中で。
「さて困った。何故俺はここにいるのだろうね?」
 水戸の町を何とはなしに流しながら、風斬乱(ea7394)は呆れたように嘆息する。
 酔狂なものだと自分でも思う。いくら陸堂の頼みとはいえ、こんな辺鄙な土地まで足を運ぶとは。とりわけ水戸は因縁浅からぬ土地だ。その自分がこんな所まで来ることになったのは、他でもない。あの男のせいだ。
(「黒崎‥‥」)
 ギルドに通い続ける彼の姿を見て思ってしまった。似ていると。
「だからかね、こんな阿呆な状況になっているのは?」
 手を貸してやりたいと、思ってしまった。
(「お前は今も道志郎のことを信じて疑わないのだろう」)
 腰の黒刀へと手を当てる。
 かつて――闇鳩の二つ名で呼ばれた古い刻。乱がその身を刃と変えて、自らが信じた友のため戦ったように。
 あの男もまた、己の星を見つけたのだろうか。
「ならばお前が揺らいではいけない」
 彼にとってその星は仕えるべき存在だったのか。
 或いは乱がそうであったように、己の志を競い合う同志であったのか。
(「俺は今でもあいつを追っているぞ。なあ、直衛‥‥?‥」)


 神託の噂はひっそりと町へ広まりつつある。
 嫌な予感がする。何かよくないことが起きる予感が。そしてその裏には、必ず何者かの影がある筈だ。
(「あの時、水戸藩に這い寄る毒の存在に触れる事が出来た」)
 風守嵐(ea0541)の手に握られたのは、一振りの手裏剣。
 雲野の名を借りた嵐を消そうとしてしくじったのは、敵が見せたこれまでのところ唯一の隙だ。
 ならば追ってみせよう。
(「雲野や道志郎のように、己の義に生きた者達の為にもな」)
 夕暮れ時で賑わい始める酒場の一角。酒を舐めながら独り言のように嵐が呟く。
「光圀公の元服式が済めばいよいよ府中への遠征が始まるようだ。指揮を執るのは、忠勝。留守居は則綱が勤めるようだな」
「やっぱり頼みの綱は忠勝さんという訳ね」
 背中越しにもう一つの声。
 少女に身を変えたアン・シュヴァリエ(ec0205)だ。
 黄泉人のことは遠く海の向こうでも噂に聞いていた。神聖騎士として心を痛めずには居られない。京の乱を経て己の信仰に揺らぎが生まれている彼女だが、それでも願いは一つ。せめて自分の手が届く範囲の人を救いたい。
「こっちからも一つ。昨日はシェアトさん達と一緒に吉田神社を訪ねたけど、空振り。特に3つ目の神託については堅く口止めされてるみたい」
 神託を受けた吉田の社の巫女にしても、藩によって外部と接触することを禁じられているようだ。直接話を聞くことは叶わなかった。
「いっそのこと水戸の忍びなり何なりが仕掛けてくれれば、少しは進展するんじゃないかしら」
「あまり無茶はするな。心得のない者が、本物の忍びを出し抜けるなどと甘く見ない方がいい」
 そっちはどう動くのと、アン。
「調べねばならぬことがある」
 嵐は掌中の手裏剣を握り締める。
 当てがないことはない。だが、どうやって接触したものか‥‥。
「分かったわ。こっちは、神田さん達が神託についてまだ聞き込みを続けてみるって。何か不吉な予感がする。私も神託が気になるわ‥‥」
 仮に、順に何か起こるのだとしたら。今回は「一つ目」。
 仲間から離れて町に潜った榊原信也(ea0233)はそのことがずっと頭から離れずにいた。
 笑う‥嘲う‥‥嘲笑う‥裏切り‥‥?‥。主とは光圀。死者は黄泉人。すると、第一の神託の意味する所は。
 ――光圀公を裏切っている内通者は死者の勢力と繋がっている?
「やれやれ‥‥考えるほどに、悪い可能性しか浮かばない、か」
 柔らかい樹と言われて思い浮かぶのは一つしかない。御岩の社の、三本杉の巫女。
「巫女は死んだか。そして、新たな生贄が選ばれようとしているのかも知れない」
 もしもそれが光圀であるとならば。
 それを止める鍵は第二の神託に隠されているのだろうか。
 『槍』とは忠勝に他ならない。一体、彼にどんな決断が迫るのだろう。もしも『許されざる者』が内通者を暗示するのならば。
「‥‥『赤い花』は、血だろうな。おそらくは」
 しかし信也の表情は晴れない。『最後まで』という言葉が気にかかる。この地では、余りに多くの血が既に流れたのだから。
 信也が空を仰いだ。
 今宵は三日月。
(「中天の弓が地上を狙う晩、か。下弦の月の晩のことかと思ったんだがな‥」)
 毒が活性化するならば元服式の夜であろうと、嵐も漏らしていた。
 しかし下弦の晩まではまだ二十日以上ある。元服式とは時期が合わない。
 何かが足りない。
(「‥‥何か見落としがある筈なんだ。考えろ、一体何が‥‥」)

 住職の紹介で陸堂が仲間を伴って邸宅を訪ねたのは、更に翌日の晩を待ってからのことだ。
「忠勝殿にお会い出来るなら重畳だが、我々の立場では無理は言えない事は重々承知。目通りが叶うならば非公式なものでも構わぬ。何卒お願い致す。もはや自分にはこうして古賀殿を頼る他に当てがない」
「あたしからもお願いします。もしも御許しが頂けたならば、決して失礼に当たらぬよう責任を持って段取りを整えます。堅くお約束致します‥」
「頭を上げて下さい。私にどこまでお力添えできるか。陸堂殿には、いつかのご恩がある。出来得るのならばそれに報いたいが」
 古賀にも忠勝との面会を保証することはできない。まして道志郎の罪を赦すよう働きかけるとなると、彼の手には余る。
「忝い。厚かましくもお尋ねするが、忠勝殿へ非礼に当たらぬ様、場所等の選定にも知恵をお借りしたく。ご存知であるならば、忠勝殿の食べ物の好みや趣味等も聞けたら嬉しく。たとえば茶を嗜むのであれば、一服点ずるも良いかと」
 同行していた七瀬水穂(ea3744)もすがるような目を向ける。
「落ち着いて話せるような極力格式の高い料亭がないか、ご教授願えれば幸いです。一見さんお断りされそうですが、これでも自分は志士ですからね。使えるものは活用しておくです」
 些細な行き違いであったとはいえ、忠勝の気分を害したのは確かだ。一体どうやって償えばよいのか。冒険者の真剣さに驚きもしながら、古賀は楽しげな笑い声を漏らした。
「最低限の礼を弁え無礼な行いをさえしなければ、忠勝様は気さくなお方だ。それにあの方は堅苦しい場はお嫌いでしょう」
 拘るべきは格式や礼法ではない。
 彼の大切にするもの、それを尊重するということ。
「形はどうあれ、誠意を尽くしさえすれば決して軽んじるようなお方ではない。陸堂殿が実際に言葉をかわすことがあれば、案外うまく運ぶかも知れない。もっとも私には、その道志郎という青年の人物までは図りかねるが」
「そうであるとよいのだが」
 陸堂は釈然としない顔だが、クーリアが続けて問う。
「ともかく今まで礼を尽くせなかった事を考えると、あたい達にできる限りのことはしておきたい。それで相談なのだが。水戸の武士階級には水戸学という独特の思想があると聞く」
 初めは商人筋から話を聞けないかと考えたが、武士の学問なのだから、商人にあたっても学べる道理がない。
「忠勝殿に謝意を示すためにも、水戸学を知っておきたい。どうかご教授願えぬだろうか」
「数日やそこらで我ら水戸武士の心を理解できるなどと思わぬ方がよい」
 ぴしゃりとはねつける様に古賀。
「あたいは決してそのようなつもりじゃ‥‥」
「もっとも、我らのことを理解しようと努めるそのお気持ちはよく伝わった。余り期待はしないで頂きたい。だが貴殿らのその気持ちさえあれば、きっと案ずることはないだろうな」
 彼らの信じる星が、真に定めを動かす星なのならば。その光が、目指すべき先へ導いてくれるだろう。
 手は尽くした。もう他に策はない。
 後はただ天命を待つのみ。
 水戸への滞在の最後の晩。窓辺に吊るした扇子と簪が揺れるのを何とはなしに眺めながら、林檎はこの数日間のことを思い起こしていた。
(「‥‥あたしに出来る限りの手は打ったかと。それでも、もしも叶わなければ‥‥姉様は赦してくれるでしょうか‥」)
 元服式をもう間近に控えて町は興奮を隠せない。
 そんな町の賑わいの中で、シェアトは通りに佇み竪琴を爪弾いている。
 光圀と水戸の繁栄を。そして、神託の不安が払われ街の人々の歓びが永く続くようにと。願いを乗せて、その歌はいつまでも途切れることなく。
(「神託は辿るでなく宿命の選択の詩。もしも叶うものならば‥‥」)
 不意に、傍らのアンがそっと袖を引いた。
 通りを真っ直ぐに、こちらへと向かう侍の姿。
「失礼仕る。シェアト・レフロージュ殿に相違ないな」
 彼女が頷くのを待って、男は切り出した。
「本多様の使いで参った。ご同行願えぬだろうか」
 ふと見上げると、欠けた月は黒雲に隠れて見えない。
 定めの星はあの雲の上で今も輝いているのだろうか。
「お待ち申し上げておりました。参りましょうか、縁を繋ぎに」



 いつ果てるとも知れぬ沈黙が続いた。
 シェアトと忠勝。そして光圀。その傍に侍る御庭番の春日。座敷間に響く四人の息遣いが酷く近く感じられる。
「忠勝、私は‥‥」
 縋るような視線を向ける少年へ、忠勝は渋面で首を振るばかりだ。
「光圀様のお望みのままに。若君のお心をおとどめすることはこの忠勝にはでき申さぬ」
 勇ましい陣羽織に身を包みはしても、その姿は酷く幼く見える。父との突然の死別から今まで。その身を頼りとする者達の心に応えるままに少年は生きてきた。双肩にかかる重責に耐え続けてきた。その幼い体で。
「次代の藩主として。ここでどう振舞うのが正しいのか。今の私には分かりません。でも忠勝、私はこの者達の話を聞いてみたいと思う」
 最後に向けた瞳には、少年が初めて見せる自らの意思があった。
「仰せのままに若君」
 忠勝が家人へ何事か囁き告げ、再び沈黙が座敷の主となる。
 半刻余りが過ぎた。
 すっと隣間への襖が開く。礼服に身を包み平伏した冒険者達へ忠勝の厳しい視線が注がれる。その見えない圧力を肌で感じながら、林檎の表情へいつになく険しいものが走る。
「このような機会をお与え下さった光圀公の寛大なる御心に、我ら一同、心より謝辞を申し上げます」
「結構です。よく来てくれましたね」
「面を上げよ。若君がお前達の話をご所望だ」
 値踏みするような忠勝の視線へ、面を上げた陸堂の眼光が飛び込んでくる。
「剣侠、陸堂明士郎と申す。お招き頂き、まことに幸甚の至り」
「冒険者らの集団であると聞いておる」
 口上も半ばで切り出した忠勝へ対し、陸堂は深く頭を垂れて返す。
「忠勝殿にも初めてお目にかかる。この場を借りてこれまでの非礼の段お詫び致す。何卒ご容赦願いたい」
「若君の前だ。瑣末な事はよい。話を続けるがいい」
「聞かせて下さい。貴方達の信じる道志郎とは、どんな青年なのか」
 陸堂は懐から取り出だした書簡を差し出す。旧知でもある上州金山城執政の由良具滋からの、道志郎の身元を保証する旨の認められた書状だ。
「道志郎と我らの水戸での活動については是に」
 受け取った報告書へ一瞥を落とすと、忠勝は鼻を鳴らす。
「しかし分からんな。その道志郎とやら、なぜこの水戸の為にそうまでして動く」
「水戸の為ではない。ただ無辜の民の為だ」
「信じ難いな。則綱からの報告では、俺や光圀様に取り入ろうと策謀していたそうだが」
 誤解の根は深い。だが水戸藩との協調こそが黄泉へ対抗する唯一の手段であると、水穂は固く信じていた。
「立場は違いますが、国や民を黄泉の勢力から守りたいという想いは同じ筈です。覚えておいででしょうか。本多様とは石橋宿の戦でご一緒することができました」
「その節は世話になったな。だが何ゆえ一介の素浪人にそうも肩入れする、火使いの娘よ」
 何故とそう自問して、水穂は答えに詰まった。
 道志郎には一体何があるというのだろう。知恵も力も、この場の冒険者達には遠く及ぶまい。心中の迷いを振り払うようにして水穂は続けた。
「現状、黄泉人の策謀に後手後手に回ってしまっています。だからこそ協調して対抗していくことはできないでしょうか」
「何卒道志郎の解放をお願い致す。我ら一同、道志郎と共に黄泉に抗することで重ねての無礼の償いを致したい」
「出過ぎた真似を申すな。たかが浪人風情に何ができる」
 この場に集った者達の力量は並みの侍などとは比べるべくもない。だが大局を動かすとなると話は別だ。
(「うう‥‥流石は音に聞こえた本多忠勝。それも誤解がある上ではとても一筋縄ではいかないですよ。でも水戸藩とは別の情報源、行動力は有効だと思うです。何としてでも協調をできるよう目指すです」)
 しかし、続けて出てくる言葉がない。
 如何に水穂とて材料のないまま取引はできない。列席していた信也が悔しそうに目を伏せる。陸堂はなおも縋るが。
「信じて頂けぬか。道志郎に私心なし。ただこの地の民を、いや日ノ本に生きる民草を救いたいだけなのだ」
「笑止。佞言で若君を惑わそうとて、この忠勝の目が黒い内は断じて許さぬと知れ」
 忠勝の意思は固い。道志郎の釈放はもはや不可能に思えた。
 末席からその声が上がるまでは。
「道志郎なる人物が現れるまでは全てを見届けようと思ったが」
 乱がおもむろに足を崩し、窮屈そうに小さく息を吐く。
「得られぬ理解を求めても時間の無駄だ。端から俺達にはその男を語る術などない。――俺達は道志郎という男の志の下に集った。そして忠勝殿、あんたは彼を知らない」
 並んだ顔を見回して。
「彼が登場しないことには物語は始まりはすれど進まないと思うが?」
 しんと静まり返る座敷。
「忠勝」
 そう名を呼んだ光圀の瞳には、既にもう答えがあった。
「亡き父の代わりこの国を治めること。真の君子とは何か。その背に追いつくことばかりを考えてきました。しかし、歩むほどに私には遠く及ばないと思い知らされるばかりだった」
 その眼差しを前にして、忠勝にはもはや異を挟めよう筈もなかった。
「この者達をそうまで信じさせる青年。彼がどんな人物なのか私は知りたくなりました。或いは、私が探していた答えがそこに見つかるのかもしれない‥‥」


 風が流れを変えた。
 流れ行く黒雲を見上げ、嵐は辺りに張り詰めだした気配に身構える。
 本多邸へ一挺の駕籠が着いたのは夜半も過ぎようかという頃合であった。警護の侍に囲まれながら駕籠より現れた人物を遠目に捉え、思わず嵐の口元が緩む。
(「‥‥成長したな、道志郎」)
 入獄して以来始めての下野であったが足ぶみに衰えは見られない。座敷へ通された道志郎は居並ぶ冒険者達を一瞥し、次いで光圀へと視線を向ける。注がれる仲間達の視線を浴びながらも、一顧だにしようともせず中央へと歩いていく。
 不意に、末席に顔を連ねる木賊真崎(ea3988)に気付き、道志郎は表情を動かした。だがそれも僅かな刹那のこと。堂々と一同の前に座すと忠勝らへ目礼を送る。
「問答の機会を頂き深甚に思う」
「上慢するなよ小僧。本来ならば貴様のような罪人が若君に目通りなど叶わぬのだぞ」
「よしなさい忠勝。道志郎といいましたね。聞かせて下さい。なぜそうまでして民の為に動くのです」
 道志郎の表情には、皆の視線を一身に注がれながらも揺らがぬ気概がある。
「ならば問おう光圀公。貴殿は息を吐き日々の糧を食らうのに何か理由がおありなのか」
 言葉を発するに微塵の迷いも見られない。
 朗々と発せられるその言はさながらは尽きぬ泉のようだ。
「水戸北部の平定を果たした手腕、まずはお見事。だがなぜすぐに水戸府中の奪還に乗り出されぬのか。今ものうのとのさばる魍魎どもを捨て置き、水戸の民に真の安寧は来ぬ」
「小僧。言わせておけば‥‥」
「この道志郎に一振りの剣か、さもなくば死を与えよ。天がまだ俺を見捨てぬのならば、府中奪還の活路を開いて見せよう」
「府中こそが黄泉人どもの狙いだというが、そこに何の根拠がある。仮にそうだったとして、何の当ても供えもない貴様が、どうして活路を開けよう」
「用意ならここに御座る」
 上がった声は不破斬(eb1568)だ。仲間の想いに任せようと黙って成り行きを見守ってきた彼だが、今この刻こそ己の身の置き場と彼は理解していた。
(「考えてみれば俺が聞いたのは『北部』の社だった。敵が御岩を落とした以上、次が別の方角ではないとは限らぬ。例えば、南西。襲撃された地域の付近」)
 京の動きではイザナミは敵。なれば対をなすイザナギはどうか。知人の天山万齢の示唆は、これまでこの水戸北部の聖域を洗ってきた彼にとって非常に興味深いものだった。
 支藩である水戸府中藩は確かに小藩。石高も知れている。だがそこには常陸總社がある。イザナギの祀られた社が。總社までの経路は調べ上げてある。発てというなら今すぐにでも出立できる用意がある。
「畏れながら申し上げる。狙いの場所が御岩のような聖域であれば良いが‥‥連中に人が混じっている以上残された時間はそう多くない筈」
 忠勝こそ信じてはおらぬが、巫女や雲野が生存している可能性はまだ残されている。藩とて無碍に捨て置けはせぬだろう。かといって藩士を送る程のことでもない。
(「‥‥そこで冒険者の必要が出てくるはずだ。待っていろ。必ず見つけ、救い出す。それもまた俺の目指す道の先にあるのだ‥‥」)
 道志郎は終始振り向かなかったが、その背を通して斬は感じていた。彼と仲間達が今も同じ志のもとに繋がっていることを。その身を遠く隔てられていた今も、彼に道を見た仲間達と深い信頼とで結ばれている。
 それをまざまざと見せ付けられた光圀は誘われるように問うていた。
「教えて下さい、道志郎殿。まことの君子とは、為政者とは一体‥‥」
「お止め成され若君、仮にも水戸の藩主足る者がこのような素浪人風情に――」
 忠勝の言葉は、光圀の真摯な横顔を前にして半ばで掠れ消えた。
 道志郎は幼君の瞳を真っ直ぐに見据えたままで応えない。
 沈黙の時が流れた。
 障子越しに銀光が座敷を淡く照らした。黒雲が走り、月が顔を出したのだ。道志郎の影が長く伸びる。クーリアは障子の隙間からその光景を仰ぎ見た。
 見事な上弦の月だ。
 中空に高く銀の弓張りが地上を見下ろしている。
(「‥‥弦‥?‥‥」)
 刹那。クーリアの脳裏に閃きが走る。
 中天の弓は弦を上へ向けてその弧を描いている。ならば矢の向いた先はまさに――。
(「地上を、狙う‥‥」)
 その時であった。
 障子を、天井を。僅かの殺意をも匂わせぬ唐突さで凶刃が突き破った。
「道志郎ッ!」
 陸堂と斬が彼の前へ身を翻したのはほぼ同時であった。
「俺はいい、光圀公をお守りするんだ!」
 一瞬にして室内は暗闇に包まれた。
 暗闇の中で白刃が踊る。
 神田が思わず腰へ伸びかけた手で空を掴み、歯噛みする。得物は門を潜る時に預けたままだ。歴戦の冒険者達とて無手で抗う術はない。術師の水穂にしても林檎らを守るので精一杯だ。そこへ轟音が起こったかと思うと襖が薙ぎ倒された。
「曲者めが、姿を現せい!」
 諸肌を脱いだ忠勝の手には座敷へ飾られていた小振りの槍。畳へ差した月光が忍装束の男達を照らし出す。
 春日が光圀の手を引いて庭へと駆け出た。一人の追っ手とて通すまいと忠勝が立ちはだかる。その後背をついて一振りの刀が襲い掛かかる。
 血飛沫が舞った。
 身を挺して飛び出したクーリアの胸を、刺客の刀が貫いている。
「本多様はここで倒れる訳にいかない方だ。あたいの事は気になさらずに――」
 言葉は半ばで途切れ、鮮血へと変わる。すぐさま槍の一突きが刺客を屠るが、その脇を縫って刺客達が一斉に駆け抜けた。
「させぬ!」
 一瞬早く、既に冒険者が回り込んでいる。しかし丸腰。そこへ表から信也が駆け入って来た。
「乱、真崎。受け取れ!」
 すぐさま鞘を抜き捨て、二人は挟み込むようにして立ち塞ぐ。追っ手の足が止まった。その背に迫らんとする忠勝へ道志郎が叫ぶ。
「やめろ忠勝殿、ここは俺達に任せるんだ!」
「貴様らなぞに任せられるものか、若君はこの俺がお守りする!」
 頼みの槍はさっきの一撃でもう半ば折れている。だがそれでもこの武人の歩みを阻めはしない。
「止せ、この道志郎を――信じろ!」
 力強いその声を耳にして忠勝が身を震わせる。思わず足を止めてしまいそうになった自分を忠勝は恥じた。
(「若君にもあれだけの気概があればな。あの方は余りにお優しすぎる」)
 だからこそ守らねばならない。たとえこの身を盾としてでも。
「止すんだ、忠勝殿――!」
 忠勝が全てを悟った時には、一手遅かった。
 追いついた。そう思った瞬間。刺客が一斉に振り返り、白刃がその向きを変えた。
(「よもや‥狙いは、この‥‥俺か‥‥」)
 宙を舞った鮮血は、風に運ばれて降りしきった。本多邸の片隅にひっそりと植わる、紫陽花の上へと。決して咲かぬその緑の葉を赤い花弁へと変えて。
 一呼吸遅れて、通りで待機していたアンと共に騒ぎを聞きつけた藩士達が踏み込んで来た。
「ここよ、急いで!」
「忠勝様!!」
 もはや忍び達に退路はない。抜刀した藩兵達がじわじわと囲みを詰めていく。
 その時だ。信也が鋭く叫んだ。足元から立ち上る一筋の煙に気付いたのだ。
「‥‥よせ‥下がれ!」
 言い終わらぬ内に強烈な爆炎が藩士達の肌を舐めた。轟音が響き、襲撃者達は粉微塵となって散った。
 今宵の惨劇の、余りに唐突な幕引きでった。
 春日に守られた光圀はかすり傷一つなく無事であった。しかし忠勝は深手だ。治療にあたった林檎が力なく首を振る。
 左太股、右上腕、そして左の脇腹。刃は忠勝の肉体を三箇所に渡って深く切り裂いていた。幸いにも傷は臓腑には達していない。すぐに神輝によって傷は塞がれたが意識は未だ戻らない。その痛々しい傷跡を撫ぜる光圀の背に誰もが言葉を失う中、ただ独り、道志郎だけが気炎を発する。
「立たれよ光圀公。君子の器たる者が、その器の中身を悲しみだけで満たして如何する。足元を振り返ってはならぬ」
 光圀は立ち上がった。
 弦月の落とす影に隠れた表情は窺い知れない。
「例大祭の夜、降り行く桜吹雪を目にして、在りし日の父の背中を思い出しました」
 暗い月夜を見上げるその瞳には、今何が映し出されているのだろう。ひとり立つ背中をただ銀光だけが照らしだしていた。
「しかし何のことはない。私自身だったのですね、古(ふ)り行いていたのは」
 振り返った横顔はもはやかつての幼き少年のものではなかった。瞳は氷の刃で呑んだかのように冷たく厳しい。それは既に、その身一つで万の民の前へと立つ、一人の藩主の姿であった。
「道志郎殿。あなたの諫言には礼を言わねばなりませんね」
 見守る冒険者達から思わず安堵の溜息が漏れる。しかしそれはすぐに青褪めた呻きへと変わる。
「‥‥だが、水戸藩主であるこの私への度重なる不敬。断じて見過ごせません。その不遜は死罪を持って相当とする」
「馬鹿な‥‥」
 冒険者達からあがりそうになった抗議の声は、光圀の向けた眼光の前に一呑みにされた。
「道志郎へは水戸府中への偵察の任を命ずる。魑魅魍魎の跋扈する府中への単独行。生きて帰る術はなし。これをもって死罪の執行に代えるものとします」
 剣か死を。それは道志郎が望んだものだ。光圀へ向ける道志郎の視線に初めて好奇の色が浮かんだ。
「光圀公のお裁き、謹んでお受けする。この道志郎、沙汰あるまで今一度縛につこう」
 光圀は、それに応えようとはしなかった。
「慧雪、いるのでしょう。姿を見せなさい」
「は」
 音もなく暗闇から形をとって現れたのは、現お庭番頭目。
「あなたには道志郎の監視を命じます。任半ばで死なばよし。仮に生きて事を成さば、水戸へ戻り再び獄へつくまでを見届けなさい」
「御意に」
 かくして道志郎は三度獄を抱く。
 駕籠へ乗り込む彼を見送る乱の唇の端には、小さく笑みが覗く。
(「道志郎なる人物よ。機を見極め、冒険者の前に現れることは出来たようだな。さて、俺にどんな舞台を用意してくれるかね」)
「あいつが信じた彼を俺も一つ信じることにしよう」


 襲撃者を追跡しようと静観していた嵐の思惑は外れた。
「だが、いま一つの件は無事に運んだようだ」
 以前の襲撃で敵の残した手裏剣。その持ち主を半ば予感しながらも、嵐は確かめる術を持てずにいた。お庭番の内情をよく知る唯一の人物である春日は、光圀の傍を片時とて離れない。
 忠勝邸襲撃の後の混乱さなかに訪れた偶機。密かに接触を持った春日からの返答は。
 ――お庭番頭目、慧雪の物に相違ない。
「尻尾は掴んだ。お前の毒が水戸を冒すのが早いか、或いは我らが先んずるか」
 決着は、水戸府中にて。
「覚えていろ。雲野の礼は、返させて貰う」