【消えた時間】空白を埋めるもの
|
■シリーズシナリオ
担当:STANZA
対応レベル:フリーlv
難易度:普通
成功報酬:0 G 65 C
参加人数:10人
サポート参加人数:-人
冒険期間:09月01日〜09月06日
リプレイ公開日:2008年09月09日
|
●オープニング
――ガンッ!
『いたっ!』
――ビリビリッ!
『あ、また‥‥!』
森の中を冒険者達に付き添われて歩く忘却の騎士は、低く張り出した木の枝に頭をぶつけたり、服の裾をあちこちに引っかけて鉤裂きを作ったり‥‥
自分の頭でイメージする身体感覚と、実際の体の大きさが違いすぎる事が原因なのだろうが‥‥それにしても。
「‥‥どんくさぁ‥‥」
傍を歩くウォルが思わず呟くほど、その動きはぎこちない。
これが、森の中を犬と一緒に走り回っても綻びひとつ作らなかった師匠と同一人物とは、とても信じられない。
だが残念な事に、コブや引っ掻き傷を作っては泣きべそをかいているこの大きな子供は、間違いなく彼の師匠、円卓の騎士ボールス・ド・ガニスだった。
「ちゃんと戻るのかな、記憶‥‥」
戻ってくれ。いや、戻って貰わなければ困る。何としてでも戻してみせる!
自らもまた半泣きになりながら、ウォルはそう堅く誓うのであった。
そして、漸く猫屋敷に辿り着いたボールスを出迎えたのは‥‥
『ぅおおぉじぃぃぃぃっっっ!!!』
暑苦しくも慈愛に満ちた、老執事。
『おおおお、話には聞いておりましたが、何とおいたわしい‥‥っ! この爺め、王子が無事快復なされる事を信じ、全身全霊をもって尽力致しますぞっ』
『‥‥爺‥‥』
だが、そんな興奮気味の執事とは対照的に、ボールスは落ち着いていた。
『爺が縮んだ訳じゃなくて、僕が大きくなったんだよね』
少し悲しげに、小さくなった執事をそっと抱き締める。
『こんなに、白髪と‥‥皺も増えて‥‥ごめんね。きっと沢山、苦労かけたんだ。それに‥‥こんな事になって、もっと苦労かけるかもしれない』
『何を仰います! 王子の為の苦労こそ、我が至上の歓びにございますぞっ! それに‥‥ああ、何というお優しい労りのお言葉っ! 爺は、爺は嬉しゅうございますぞおぉぉっ!!』
ああ、暑苦しい。執事って、こんなに暑苦しい人だったっけ? いや、度重なる心労で、きっとどこかのタガが外れてしまったのだろう。きっとそうだ。
『とにかく‥‥王子、今はご自分のお部屋でごゆるりとお寛ぎ下され。見慣れた物に囲まれておれば、何かしら思い出されるかもしれませんでな』
『うん、ありがとう』
自室へ向かう途中、そこかしこの物陰から何かがじっと様子を窺う気配が‥‥
『‥‥本当に、猫がいっぱいいるんだね』
だが、主人の様子がおかしいことを感じ取ったのか、猫達は誰も近寄ろうとはせず‥‥遠巻きに見守るばかり。
『何だか、ちょっと寂しいかも』
苦笑いを浮かべながら自室のドアを開けたボールスの目に飛び込んで来た、見慣れた筈の家具や調度。だが‥‥
『やっぱり、全然覚えてないや』
小さな溜息と共に、後ろ手にドアを閉める。
と、机の下に何か小さな‥‥置物の様な物が転がっているのが目に入った。
「‥‥また誰か、悪戯をして転がしたんですね」
小さく微笑み、それを拾い上げる。
『‥‥あれ? 今、何を‥‥?』
一瞬、何かを思い出した様な気がしたのだが。
拾い上げた物を、机の上に戻す。それは小さな木彫りの猫だった。
その頭を指で軽く撫でながら、ボールスはぽつりと呟いた。
『15年‥‥か』
自分の体の変化と爺の顔に刻まれた皺を見れば、それは確かな事なのだろうと、理解は出来る。
だが‥‥
『‥‥父上、母上‥‥』
机の上に、小さな雫がひとつ、落ちた。
『じゃあ、イギリス語は私が教えてあげるから!』
暫く後、とりあえず今後の方針を立てておこうと設けられた席で、ルルが嬉々として申し出た。
『まず、一番最初に覚えるべき言葉は‥‥やっぱコレよね』
ルルは腕組みをし、ひとりで納得した様に「うんうん」と頷きながら、ボールスの目の前に躍り出る。
『はい、言ってみて‥‥イギリス語ではね、愛の告白はこう言うのよ、I love you!』
早く言えと、ルルは満面の笑顔で自分を指差す。が‥‥
『‥‥君に言えって言うの? やだよ、そんなの』
『ちょ‥‥っ、やだよって、そんなのって何よ!? 良い!? これはね、全部の言葉の中で、いっちばん大事な言葉なのよ!? それに、覚えてないだろうけど、記憶をなくす前、私はあんたの恋人だったの。ね、わかるでしょ?』
『嘘だ』
『ちょ、なにソッコーどキッパリ否定してんのよアンタ!?』
『だって、君はシフールだもん』
『愛さえあれば、種族なんて関係ないでしょっ!?』
『そうかもしれないけど‥‥でも僕は‥‥静かな子の方がが好きだ。うるさいと、落ち着かないし』
このボールス、言い難い事をはっきりと仰います。‥‥いや、上手く猫を被っているだけで、元々そうだった様な気も‥‥?
『何よ、それじゃまるで私がバタバタ騒がしくて落ち着かなくて、鬱陶しいって言ってるみたいじゃない!』
『‥‥そこまでは言ってないけど‥‥』
けど、何よ!? と、ルルは真っ赤に膨れ上がった。
『ダメだわ、やっぱり! こんなデリカシーのない子、私のボールス様じゃない!』
『いや、君のじゃないから‥‥僕、物じゃないし』
『問答無用っ!』
ルルはどこから持って来たのか、シフールサイズにしてはかなり大きめな棒きれを両手で振りかざした。
『思い出しなさい。自分で出来ないなら、私が思い出させてあげる』
ふっふっふ‥‥と、ルルは黒い笑いを漏らしながら、じりじりとボールスに迫った。
『ぶつけたのはどこ? ここ? ここね? じゃあ、行くわよ? せーのぉっ!』
――ばこーんっ!
『いたーっ!?』
『思い出した? ねえ、思い出した!?』
‥‥思い出せる筈がない。
『僕、乱暴な子は嫌いだ!』
『嫌い? 嫌いって言ったわね?』
――ぴきいぃん。
ルルの目が、怪しく光る。
『良いわ、こっちこそアンタみたいな泣き虫はお断りよ! さっさと元に戻んなさいっ!』
――ぶんぶんぶんっ!
『きゃあぁっ! やめてぇぇー!』
「この‥‥バカルル!」
棒きれを手に暴れ回る小さなシフールを、ウォルがむんずと鷲掴みにした。
「師匠泣かすなーっ!」
「ちょ、何すんのよ離してっ! こんな泣き虫、私のボールス様じゃないわっ!」
「お前のじゃないだろっ」
「今度こそ私のモノにするのっ!」
「ならねーっ!」
「やってみなきゃわかんないでしょっ!?」
『爺、助けてーっ!』
ああもう、何が何だか。
そして、結局。
記憶喪失の王子様には、家庭教師を付ける事と相成った。イギリス語と、イギリスの文化や慣習などについての一般常識、領主としての仕事を継続する為に最低限必要な知識や、自分を取り巻く状況など‥‥とりあえず急ぎ身に付ける必要のある事柄は、多岐に渡っている。
そして、もうひとつ。
『剣の稽古も、なさって頂かねばなりませんな』
その剣技に対する自信のなさ故か、今のボールスはウォルにさえ引けを取る様なヘッポコ剣士だった。
「ウソだろ‥‥?」
ウォルはがっくりと肩を落とした。
「なんでオレが師匠に教えなきゃなんないんだよ‥‥って言うかオレ、教えられるような腕前じゃないし‥‥」
まあ、そこは冒険者達に任せれば良いとして。
とにかくまずは勉強と、特訓。
既に色々と嗅ぎつけているであろう敵勢力が動き出す前に、何とか少しでも‥‥今よりはマシな状態にしておく必要がある。
『難しいかもしれないけど‥‥でも、僕がやらなきゃいけない事なら、やるしかないよね』
この王子様、何かと弱気で泣き虫な割には、肝だけは座っているらしかった。
●リプレイ本文
『あ、ええと‥‥初めまし、て?』
七神蒼汰(ea7244)は居心地が悪そうに、もぞもぞと体を動かした。
相手はジャパン出身の人間が珍しいのだろう、興味深そうに自分を見ている‥‥ほんの少し、首を傾げて。明らかに何も覚えていない表情だ。
「‥‥本当に、覚えてないんだな‥‥」
蒼汰はイギリス語で小さく呟くと、後ろに控えていたウォルに奇妙な形の魔法の指輪と共に、忍犬の瑪瑙を預けた。
「ボールス卿とはこれで会話が出来るから‥‥ちょっとの間、瑪瑙をよろしくな?」
そして、領主不在のタンブリッジウェルズに赴く為にペガサスの御雷丸に飛び乗る。
『あ、あの‥‥』
飛び立とうとする蒼汰を、ボールスが呼び止めた。
『ついでに仕事の書類とか‥‥持って来てくれる? 訳して貰えば僕にも出来そうなのとか、あと、今迄のもので、いらなくなったのとか‥‥参考にしたいから』
飛び立った純白の天馬を見送り、外見26歳中身11歳の円卓の騎士は羨ましそうに呟いた。
『良いなあ‥‥』
その背にヒルケイプ・リーツ(ec1007)が語りかける。
『最後の日に、皆で森歩きに行きましょう。その時にクリステルさんが乗せて下さるそうですよ?』
と、もう一頭のペガサスの飼い主クリステル・シャルダン(eb3862)を見る。
『ほんと!?』
と、動物絡みで瞳を輝かせる辺りは少しも変わっていないのだが。
『あ‥‥ええと、言葉、通じないんだっけ』
ふと気付いて口の中でごにょごよと呟いたボールスに、クリスは少し恥ずかしそうに微笑んだ。
『大丈夫ですわ。余り上手ではありませんが、覚えましたから‥‥これで、お話出来ますわね』
『え‥‥!?』
『実は、私も覚えて来たんですよ』
ケイン・クロード(eb0062) がニコニコと微笑む。
『ええ!?』
『んー‥‥可愛くなりましたねえ、ボールス卿』
忍び笑いを漏らしつつゲルマン語で言ったのは、リース・フォード(ec4979)。
『あ、いや、お初にお目にかかります。リース・フォードと申します。仲良くして下さいね? ‥‥実は俺も、ゲルマン語は覚えたてなんだけど。変じゃないかな?』
『ううん、全然、変じゃないよ‥‥皆、すごいんだね』
三人がごく短期間にゲルマン語を修得した事を知り、ボールスは目を丸くした。
『僕にも、出来るかな‥‥』
いや、出来るかではなく、やらなければならないのだ‥‥と、真面目な11歳の少年は拳を握る。
『うん、でも余り根詰めると良くないからね?』
リースがにっこりと微笑む。
『にゃんこさんと遊びながらでも‥‥あ、猫は苦手なんだっけ?』
『‥‥うん』
故郷の城では、猫と接する機会が殆どなかったらしい。その為、どう扱えば良いかわからない、という事もある様だ。
『でも、ボールスさんはふわもこ好きだよね?』
と、デメトリオス・パライオロゴス(eb3450)。
『だったら、きっと猫さんも気に入ると思うよ』
『でも、余り遊んでる訳にもいかないから‥‥覚える事が沢山あるし、思い出さなきゃいけない事も‥‥』
ちらり、とクリスを見る。
『記憶の空白を埋めるものは‥‥大切な想い出、でしょうか?』
ヒルケが呟く。
『昔体験した言葉や風景、音や匂い。そういったものに触れたとき、何気ないものでも忘れていた思い出が蘇る事があります。大事な記憶ならそれだけ強く‥‥』
『そうだね。何気ない行動が現在の記憶に直結したみたいだから、色々体験して貰うのが良いかも』
それが過去と現在の架け橋にならないか、とデメトリオスは期待を寄せる。
『という事で、まずは‥‥これです!』
満面の笑顔でヒルケが差し出したのは‥‥
『酒場名物、気の抜けたエール!』
ええー!?
『駆け出しの頃は誰もがお世話になる、この懐かしくも残念な味。ボールス様もイギリスに来た当初は冒険者として馴染んだ筈ですよねっ!?』
『そ、そうなのかな‥‥』
勧められるままに一口‥‥だが。
『う、まず‥‥げほげほっ、げほ!』
咳き込み、咽せ返ってしまった。どうやらそれは、思い出の味ではなかったらしい。
『‥‥残念。では、もっと色々探してみますね!』
ヒルケはルルや執事から話を聞こうと、嬉々として屋敷の中へ駆け込んで行った。
一方‥‥
「ほれ、お土産だ」
蒼汰は出迎えたエルの頭をわしゃわしゃと撫で、お菓子の家を手渡した。
「七夕は出来なかったけど‥‥誕生日までには父さま絶対に帰ってくるから、もう暫くお利口にしててくれな?」
「うん! あのね、えりゅ‥‥る、おにーちゃんだから、だいじょぶだよ? なかないよ? える、いいこでまってりゅ‥‥る、もん!」
「そうかそうか、エルはお兄ちゃんだもんな。じゃ、またな?」
「うん、そーちゃ、ありがとー!」
嬉しそうに大きく手を振ったエルの許を去った蒼汰は、ボールスに頼まれた物を抱え‥‥
「ボールス卿はまだ暫く戻れそうもないので‥‥これまで通り城の事はよろしくお願いします」
城の騎士達に一通りの挨拶をし、再びペガサスに飛び乗った。
周辺の状況にも、特に変化はなし。未だに様子を窺っているのだろうか。
「これに関しては無駄足だった、かな。まあ、無駄でも何でも、やれる事はなんでもやらないとな」
「はてさて、かの円卓の騎士に指導とは、奇妙な事態になったものであるな」
ヤングヴラド・ツェペシュ(ea1274)は、例によって悪役じみた高笑いを猫屋敷の庭に響かせた。
「ふはははは、こうなったらば神聖ローマ直送の神聖騎士道を懇切丁寧に指導なのだ〜!」
さて、理論と実践どちらを優先すべきか。
「では、まずは明るいうちに実践の方から始めましょうか」
サクラ・フリューゲル(eb8317)が木刀を取り出し、ボールスに手渡した。
『改めまして神聖騎士サクラ・フリューゲルですわ。今回は剣術の手ほどきをさせて頂きます。どうぞよしなに』
ボールスの流派はサクラと同じノルド流。ノルマン発祥のこの流派を教えられる者は、このイギリスにはまずいないだろう。
『剣を習った事は、おありですか?』
『う、うん‥‥でも僕、剣は苦手で‥‥』
円卓の騎士が何を言うか。
『では、基礎は覚えていらっしゃるのでしょうか‥‥』
サクラは試しに基本の型を見せる。
『ノルド流は『柔良く剛を制す』を基本とした流派で、一撃の重さより手数とスピードを重視します』
しかし、11歳当時の彼は本当に剣技が苦手だったのだろう。その型をなぞったボールスの動きは正確ではあるものの、ただ型通りに動いているだけ。とても実践で役に立つレベルのものではなかった。
「‥‥ほんとに、どうやったらコレが円卓の騎士になれるんだろ‥‥」
見物していたウォルが、思わず溜息をつく。
「ウォルも何か気付いた事があれば言って下さいね?」
「あ、うん‥‥」
サクラに言われ、生返事を返すが‥‥気付くも何も、ただのヘタレとしか言い様がない。
『ボールス様、貴方は何の為に剣をとりますか?』
『え‥‥?』
やがて一通りの訓練を終えて尚、おどおどと自信のなさそうなボールスにサクラは言った。
剣を取るにあたって一番大事なのは意思。凶器をいかなる理由で持ち、何故相手に向けるのか‥‥その意味を知り覚悟を持てば自信も付くのではないか。
『私は大事な人を護りたいと思っています。それは矛盾しているかも知れませんが、それでも今は必要だと‥‥そう思っています。ボールス様、あなたは何故、神聖騎士たる道を選ばれたのでしょうか?』
『僕は‥‥ただ、剣を持つ事が王子としての定めだったから。そうしなきゃ、いけないから‥‥』
剣を下げ、俯いたまま、ボールスは言った。
『本当は王様になんか、なりたくなかった。レオンがなれば良いって、ずっと思ってた。レオンの方が剣の素質もあるし、皆から可愛がられる人気者だし、見た目も綺麗で派手だし‥‥僕なんかよりずっと、王様に相応しいって‥‥』
ぽつり。
小さな滴がその胸に落ちた。
『でも、僕は長男だから‥‥僕が後を継ぐしかないから、だから、一生懸命頑張ってきたのに‥‥』
継ぐべき国は、既にない。
『‥‥我らは慈愛神の地上代行者である』
その様子を見てヴラドが言った。
『我らの力は戦士の力や業、侍などの闘気、魔道士の魔法とは違い、己の持つ力ではない、と心得よ。我らを媒介として慈愛神が地上に奇跡を成されるのである』
『‥‥?』
『大いなる母が我らを選ばれたのは、我らに護るべき存在があったからである。だがしかし、個人的な気持ちのみで戦うは神聖騎士にあらず。‥‥たとえ幾度も愛する者を失い、信じる者に裏切られようと、我らは慈愛を失ってはならぬ』
でも、と、ボールス。
『父上も母上も、僕の目の前で殺された。ずっと味方だと思ってた人達に裏切られたんだ。僕とレオンを逃がす為に、何人もの人達が死んだ。それでも‥‥?』
『それでも、慈愛を失ってはならぬのだ』
『そんなの‥‥この道は、周りが勝手に押し付けたものだ! 僕が選んだんじゃない!』
それは、本来のボールスなら決して言わない‥‥恐らく考えてもいないだろう事。彼を変えたものは、失われた記憶の中にある筈だった。
『‥‥やはり記憶が戻らないことには、先へは進めぬのであろうか‥‥?』
しかし記憶が無いのは苦しい事ではあるが、必要な記憶、楽しい記憶だけが蘇るわけではない。辛く苦しい記憶を再び呼び覚まし、再び苦痛に苛む事になりはしないだろうか。
『例えば、エルちゃんの母親はいないのであろう?』
『‥‥誰?』
今のボールスには自分に息子がいる事など想像も出来ないだろう。
だが、意外にも彼は嬉しそうに微笑んだ。
『僕‥‥お父さんなの? ねえ、僕‥‥良いお父さんに、なれた?』
『エルはとーさまが大好きですよ?』
城から戻った蒼汰が顔を出す。
『だから頑張って思い出してあげなきゃ‥‥ね』
『でも、その前に‥‥』
少し休憩にしませんか、と、お茶のセットを手にしたクリスが微笑んだ。
「おいらはイギリス語を教えるね」
「俺もイギリス語担当かな」
お茶の時間が終わり、今度は語学のお勉強。先生になるのはデメトリオスとリースの二人だ。
「懐かしいなあ。ケンブリッジに留学するからって、必死になって覚えたことが思い出されるよ」
「へえ、学生だったのか。その頃はどうやって覚えたの?」
「まずは似ている所から。その方が覚えやすいし‥‥反対に異なる所も注意しながら、かな」
猫屋敷に来て、既に数日。周囲の殆ど全てがイギリス語を話す中、ボールスも挨拶や簡単な会話程度なら自然と覚えしまっていた。
それに、やはり一度は覚え、身に付けたもの。覚え直すのも早い‥‥ただし、色々な人の口調が混ぜこぜになったりはしていたが‥‥。
「でも、この調子なら言葉の問題はすぐに解決しそうだね」
膝に乗せた猫を弄びながら、リースが言った。
「ほら、ボールス卿もどうですか? にゃんこさん、可愛いですよ?」
言われて、ボールスはおずおずと手を差し出す。
「‥‥噛みつかない?」
猫はどちらかと言えば引っ掻くものだと思うが。
「‥‥あ。柔らかい‥‥犬より、ずっと」
「気に入った?」
デメトリオスが尋ねた。
「寒い時は猫達と一緒に寝てたみたいだね。もう朝晩は冷えるし、一緒に寝てみるのもどうかな‥‥ほら、寝起きの直後とか、何気ない動作がきっかけになって、色々思い出したりするかもしれないし」
「うん‥‥そうだな。早く、思い出さなければです‥‥」
やはり焦っているのだろうか。猫の背を撫でるボールスの手が止まる。
その俯いた頭に、リースは思わず手を伸ばした。
「ずっと思い出せなくても、これからいくらでも作り上げていけますよ。貴方は貴方ですから」
くしゃくしゃ。
「でも‥‥思い出さなきゃ‥‥このままでいる訳には、いきません、から」
「うん。もちろん思い出せたなら、ずっといいですけれど‥‥寂しい思いをしている人は、沢山いますからね? でも焦らないで下さいね。私なんかでよければ、いくらでも話し相手になりますから」
「‥‥」
「そうだ、まずは覚えている事からお話しして貰おうかな‥‥イギリス語で。小さい頃の思い出とか‥‥話せる事だけで構わないから」
「うん‥‥かたじけない」
誰が教えた、そんな言葉。
「言葉の勉強は順調の様ですね」
会話教室の様子を遠巻きに眺めているウォルに、シャロン・シェフィールド(ec4984)が声をかけた。
「ウォルも混ざれば良いのに」
「うん、リースにもそう言われた。知っといて損はないって。でも‥‥」
なるべくなら関わりたくない。大切な人の、自分が抱いているイメージとは全く違う姿‥‥それを間近で見る事は、やはり辛い事だ。特に、まだ子供であるウォルには。
「オレなんかより辛い人がいるのは、わかってるけど」
「ごめんなさい。ウォルの大変な時にお手伝い出来なくて」
「何だよ? 大変なのはオレじゃなくって‥‥」
「そうかもしれませんね。でも、ボールス卿はきっと、大丈夫。良い仲間に恵まれましたね。どれだけ出来るかはわかりませんが、今回からは私もお手伝いしますから‥‥元気出して下さいね?」
なでなで。
「‥‥撫でんなーっ!!」
その日の夜、食事として出されたのは、材料が見えなくなるまで煮溶かしたスープだった。
「‥‥確か、初めてボールス卿にお会いしたのはこの屋敷の方達が風邪を引いて寝込まれた時で‥‥、やはりスープから作り出したのですよね」
覚えのある香りや、過去に食べた事がある料理等からふっと古い記憶を思い出したりする事もあるものだ。ボールスの記憶回復にも活用出来ないかと、マイ・グリン(ea5380)は今回、過去に出した事のある料理を一通りおさらいしてみようと計画していた。
「‥‥何か‥‥思い出される事はありますか?」
そう尋ねられ、真っ先に答えたのは‥‥
「うわー、なんか懐かしいな、これ!」
ウォルだった。
確かに、ウォルが最初に食べたのもそれと同じ様なスープだった。だが、肝心のボールスは‥‥
「美味しいです‥‥けど、特に何も‥‥」
思い出せないらしい。
「だって、あの時は‥‥具合が悪かったの、僕では‥‥あれ?」
何か少し、思い出しかかっている様だが‥‥
『‥‥くそ‥‥っ!』
――ダン!!
ボールスはもどかしそうに、拳をテーブルに打ち付けた。
『もう少しで、何か掴めそうなのに‥‥っ!』
「‥‥大丈夫、焦る事はありませんわ」
握った拳に、クリスがそっと手を重ねる。
『でも‥‥皆、僕の為にこんなに‥‥頑張ってくれてるのに、何も思い出せないなんて‥‥!』
やはりまだ、感情に任せた言葉はゲルマン語になる様だ。
『君の事だって、思い出さなきゃいけないのに!』
だが、クリスは黙って首を振った。
辛くないと言えば嘘になる。だが一番辛く、そして傷付いているのは記憶を無くした本人‥‥自分まで悲しんでいては、余計に傷口を広げてしまうだろう。
「‥‥今日はもう、休みましょうか」
「そうだな、昼間色々詰め込んだし‥‥」
と、蒼汰。
「寝てる間に整理が付いて、ついでに何か思い出せるかもしれない‥‥つーか、子供は寝る時間ですよ?」
――ぺしん。
ハリセンを一発。勿論、手加減しつつ、ではあるが。
(「‥‥反応なし。むー、やっぱり思いっきりやらないとダメか‥‥?」)
そこ、自重しようね?
「‥‥僕、まだ眠くありません」
半ば無理矢理にベッドに突っ込まれたボールスは、毛布の下から目だけを覗かせると不満げな様子で言った。
「でも、疲れたでしょう? ゆっくり休んだ方が良いわ」
ベッドの脇に座り、クリスはまるで小さな子供にする様に、ボールスの髪を撫でる。
「寝付けなければ‥‥何かお話でもしましょうか?」
その言葉に、ボールスは暫く間を置き‥‥ぽつりと呟いた。
『‥‥子守‥‥歌‥‥』
「‥‥え?」
『なんでもないっ』
咄嗟のゲルマン語が聞き取れず、聞き返したクリスに、ボールスはくるりと背を向け、頭の上まで毛布を引き上げた。
そのまま、どれくらい経っただろうか。
『‥‥母上の顔が、思い出せないんだ』
もう寝てしまったのだろうか‥‥そう思って立ち去ろうとしたクリスの背に、小さな声が聞こえた。
『母上には、殆ど会った事がなかった‥‥会わせて貰えなかった。父上に会う時も‥‥僕は王子で、父上は国王。親子として接してくれた事なんて、なかった。だから僕は‥‥王様なんかより、普通のお父さんに‥‥なりたかったんだ』
ボールスは寝返りを打つと、毛布から顔を出した。
『ごめんね、変な話して‥‥おやすみ』
「お休みなさい」
見上げたボールスの額に、軽く口付ける。
大きな子供は、くすぐったそうに首を竦めた。
翌日‥‥
「ふむ、王子の記憶の手掛かりになりそうなもの、ですと?」
ヒルケに尋ねられた執事は首を捻った。
「ええ、特にイギリスに来てから馴染んだ歌や匂い、食べ物などわかれば、少年時代から先の記憶に繋がるのではないかと思って」
「ふうむ‥‥」
執事の首は、ますます急な角度を作る。
「近頃は余りに馴染みすぎて‥‥まるで生まれた時からこの地で暮らしている様な気さえしておりましたので」
これといって、思い当たる物がない、らしい。
「ふむ、この執事、まだまだモウロクしてはおりませんぞ!」
誰もそんな事は言ってない。
「しかし、わしらに聞くよりも‥‥やはり皆様方の方がお詳しいでしょう。それに‥‥」
老執事は言い淀んだ。
確かに、手掛かりになりそうなものはある。例えば、亡き奥方の肖像画など。今は倉庫の奥に仕舞われているそれを見せれば、何かしらの反応があるかもしれない。だが‥‥
「過去は過去、ですからな」
執事としては、いっそこのまま思い出さずにいて欲しい、そんな気持ちさえあった。
一方、同じ様に記憶の手掛かりについて調べていたデメトリオスは‥‥
「ボールス様の違う所? ああなる前と後で?」
尋ねられたルルは、即座に答えた。
「泣き虫!!」
‥‥確かに、昨日も何かというとぽろぽろと涙を零していた。それもまた、本来のボールスには滅多にない事。
そして今も‥‥
前の日に剣術の基礎のおさらいを終えたボールスには、今日はケインとの実戦が待ち受けていた。
「ね‥‥ねえ、危ないよ、真剣なんて‥‥ぼ、木刀に、しませんか?」
抜き身の剣を手にジリジリと後ずさるボールスに、ケインはゲルマン語で話しかける。
『江戸に戻る前に、貴方とは一度真剣に戦ってみたかったんです。‥‥お手合わせ願えますか?』
記憶を戻す手掛かりになればと、いつかの手合わせを再現しているのだ。傍らでは少し心配そうな様子でクリスが見守っている。‥‥誰か一人、足りない気はするが‥‥まあ、それは仕方がない。
『なに? 江戸? 戻るって‥‥?』
『問答無用‥‥行きます!』
右の小太刀で牽制、左でボディ狙いのブラインドアタック、ただし、わざと外し‥‥機を見てローキックからハイキック‥‥と見せかけたソニックへ繋げ‥‥と、頭の中で動きを組み立てていたケインだったが。
『痛っ!!』
初手の攻撃で、あっさりと当たってしまった。
ボールスの頬に鮮血が散る。当たった場所は以前と同じだが‥‥違いすぎる。何もかも。
「‥‥当たっちゃうんですか、これが‥‥」
なんか、悲しい。ケインはがっくりと肩を落とした。
‥‥剣の稽古は、諦めた方が良いかもしれない‥‥。
「あーあー、また泣いてるし‥‥」
それを遠くから眺めていたウォルもまた、大きな溜息を漏らす。
「ほんと、泣き虫だよね」
背後でデメトリオスが相槌を打った。
「でも‥‥絶対、良くなるからさ。必ず元に戻してあげようね」
「ん‥‥」
その励ましの言葉に、ウォルはふと何かを思いついた様に呟く。
「ショック療法も、必要かな‥‥」
「気分転換に、馬にでも乗りませんか?」
剣の稽古から解放されたボールスに、愛馬レオポルドの手綱を引いたシャロンが声をかけた。
途端に、ボールスの目が活き活きと輝く。
「うん、乗ります! 乗馬は、僕、得意です!」
「‥‥え?」
元々の乗馬の腕前は、シャロンも聞き知っている。だが、記憶を失っている今はその技術も失われているだろうと予想したのだが‥‥
騎士になる為の訓練のうち、乗馬は唯一の得意科目だったらしい。
ボールスは馬のたてがみを優しく撫で、何か一言二言呟くと、身軽に飛び乗った。
「ねえ、ちょっと屋敷の周りを一周して来て良いですか?」
「え? あ、はい‥‥ど、どうぞ」
宛てが外れた。シャロンは拍子抜けした様な返事を返すと、颯爽と走り去る後ろ姿を見送った。
‥‥まあ、言い気分転換になったみたいだし、結果オーライですよ‥‥ね?
「よーし、気分転換が終わったら、次は勉強だ」
戻ったボールスの目の前に、今度は書類の山が積み上げられる。
「がんばろーな。最終日はみんなでピクニックに行くんだから♪」
「う、うん‥‥」
この、積み上がった書類の山‥‥何となく見覚えがある様な。そして、何となく逃げ出したい気分。
だが、11歳のボールス少年は真面目で勤勉だった。
「よろしく、お願いします」
逃げない、負けない。‥‥まあ、泣きはするけど。
蒼汰からはタンブリッジウェルズの現状と簡単な歴史的、政治的背景の解説を、そしてクリスからは自らが深く関わってきたフォンテ村の事や、村での温泉開発等についての解説を受ける。
そうしながら、積み上がった書類に目を通し‥‥話言葉はまだしも、文字はそう簡単にスラスラと読める様にはならない為、必要な所は二人に訳して貰いながら、ボールスは驚く程のスピードで知識を吸収していった。
「部下に任せられる様な書類なら、もう一人で処理出来るんじゃないですか‥‥?」
蒼汰が呆気にとられて呟く。
だが、ボールスは首を振った。
「まだまだ‥‥知らない事が多すぎます。全て、僕一人で出来る様にならないと‥‥皆にこれ以上、迷惑かけられないし」
「なーに言ってんスか!」
――すぱーん!
「いたーっ!? 何するんで‥‥あれ?」
こんなシチュエーション、前にもあった様な。しかも何度も。
だがやはり、喉につかえた小骨のように、その記憶はなかなか表に顔を出してはくれなかった。
「‥‥あ、行ったね蒼汰、思いっきり」
通りかかったリースがくすくすと笑う。
「蒼汰の言う通り、一人で背負う事なんて、ないんですからね? その為に部下もいるし、俺達冒険者もいるんですから」
リースはまだ可笑しそうに笑っている。
「ああ、そうだボールス卿。シャロンがさっき、ゲルマン語を教えて欲しいような事を言ってましたよ?」
「‥‥僕に?」
「そうです。余裕があったら行ってあげて下さいな」
「んー、じゃあ切りも良いし、お茶にしますか?」
蒼汰が立ち上がる。
「城から持って来たお茶やジャムもありますし‥‥もしかしたら、それでまた何か思い出せるかも」
その日のお茶には、マイ特製のクランセ・カーケが添えられていた‥‥ただし、ミニサイズの。
あれは、その高さと大きさがウリだったのだが‥‥小型化すると、何だかとっても普通だ。かといって今の季節、あのサイズでは食べきれないうちに傷んでしまうだろう。
「‥‥これも何か、曰くのある物?」
ボールスの問いに、マイが答えた。
「‥‥はい。去年の聖夜祭で‥‥いえ、その件については、私よりも‥‥」
と、クリスを見る。
「え、あの‥‥」
ご指名を受けて、クリスは去年の聖夜祭の様子を説明した‥‥ただし、ものすご〜く端折って。
「ええと‥‥よく、わからないんだけど?」
「あの、でも、詳しく話して私の記憶を押しつけてしまってもいけませんから‥‥」
まあ、それも一理はあるだろうが。
「でも、この調子ならすぐに思い出せそうですね」
思い出したら詳しく教えて貰おうか‥‥と、報告書を読んであらかた知っている筈のシャロンが微笑む。
「あ、シャロンさん‥‥僕にゲルマン語、教えて欲しいって‥‥?」
「ええ、お暇でしたらお願い出来ますか?」
「良いけど、でも僕より上手い人が‥‥」
だが実は、これも記憶を取り戻す為の訓練の一環なのだ‥‥多分。
ウォルの師匠でもあるボールスの事だ、何か責任感というか、誰かに何かを教える、世話を焼くという行為が記憶を戻す引き金になるのではないか。シャロンはそんな期待を抱いていた。一方的に記憶になるものを与え続けるだけでは難しいのではないかと。
「うん‥‥じゃあ、手が空いた時にでも。でも、今の僕には記憶を戻す事より、仕事を覚えて皆に迷惑かけない様にするのが優先‥‥」
「まぁーだ言ってる!」
――すぱぁーん!
はい、お約束。
さて、皆が楽しくお茶に興じている、その頃。
ヴラドはひとり、政敵の動きを探索する為に王宮や貴族達の集まるサロンなどを渡り歩いていた。
「大抵の場合、宮廷の雀たちは噂好きなのだ。何かボールスどのの身辺が漏れたり、向こうの動きが漏れ聞こえてくるかもしれないであるな」
だが、聞こえて来たのは‥‥
「‥‥北海の‥‥」
「‥‥港町が、津波で‥‥」
「‥‥死者、多数‥‥」
北海の港町、メルドンで起きた惨事。その被害の大きさに、流石の雀達も個人的な噂話に花を咲かせている場合ではないと感じているらしい。ボールスに関する話を耳にする事は全くなかった。
「しかし‥‥これを今のボールスどのに聞かせて良いものであろうか?」
恐らく彼は、そんな時に自分が動けなかった事を激しく悔やみ、自分を責めるだろう。
「今のボールスどのは、その現実に耐えられるであろうか?」
そのような現実に直面した時に折れてしまう心では、悪魔に隙を突かれてしまう。その時の為の精神的な鍛錬が、まず必要だろう。
「‥‥暫くは、告げずにおく方が無難であろうな‥‥」
そして、最終日の朝。
まだ暗いうちから、屋敷の厨房からは良い匂いが漂っていた。
「そうか‥‥今日はピクニックだっけ」
匂いに釣られて起きてきたボールスが、厨房を覗き込む。
こちらに背を向けているクリスは作業に熱中しているのか、人の気配にも気付かない様子だった。
「昨日も遅くまで勉強に付き合ってくれたのに‥‥」
何だかとても申し訳ない気分だった。同時に、何やら胸の奥が疼く。このまま後ろから抱き締めたい気分‥‥
だが、ボールスはそうする代わりに、脇のテーブルに並べられた料理に手を伸ばした。前にも同じような事があった様な気がする、と思いながら。
――ぺち。
「つまみ食いは‥‥」
「はい、いけません、ね」
くすくす、くすくす。
思い出した訳ではない。が、完全に忘れてしまった訳でも‥‥ない、か。
「ウォル、行き道だけでも乗っていきますか?」
ボールスとクリスを乗せたペガサスを見送り、シャロンはウォルに声をかけた。
本当は馬くらいそれなりに乗りこなせる。だが、今シャロンから誘われているのは憧れの二人乗りだった。
こんなチャンスは滅多にない!
「うん、乗る!」
その時何故か、頭の隅にサクラの姿がチラついたりしたのだが‥‥
「では、私の前にどうぞ?」
「う、うん‥‥」
シャロンはウォルを自分の前に座らせて、しっかりと身体を添えた。そのまま、馬はゆっくりと歩き出す。
「‥‥あ、ちょ‥‥ちょっと、たんまっ! 止めてっ!!」
「どうしたんですか?」
見れば、ウォルはユデダコよりも真っ赤になっている。
「え、う、あ、あの、なんか、モゾモゾして、気持ち悪い‥‥いや、イイ、のか? と、とにかくっ!」
ウォルはシャロンの腕を振りほどくと、転がり落ちる様に馬から下りた。
「お、オレ、歩くからいいっ!!」
歩くと言いつつ、猛然と森の奥へ走り去る。
「んー、若いってイイねえ」
その背を見送り、リースがじじむさい事を呟いた。
「どうやら心配する事もなかったみたいだな」
一足先に森の広場に降り立った上司達の姿に、蒼汰は安堵の溜息を漏らす。
「深く考えず、目を閉じて深呼吸してはどうでしょう? 風が木々を撫でる音、虫の声、緑の香り。鳥の歌。それらを感じるのも気持ちいいですよ」
森の中へ分け入り、ヒルケのアドバイスに従って目を閉じたボールスの背中に‥‥
――ぼとっ。もぞもぞもぞ。
「き‥‥やあああぁッッ!!!」
すさまじい悲鳴が森の空気を切り裂いた。
「む、虫! 虫ーっ! やだ! とって! とってとって早くーっ!!」
ボールスは半狂乱の様子で上着を脱ぎ捨て、シャツをはだけ、更には‥‥
「やめーっ!」
ズボンに手をかけた所でストップがかかった。
子供じゃないんだから、流石にそれは拙いでしょ‥‥いや、中身は子供だけど。
「もう‥‥いない?」
付いていた虫を払い、着せかけられた服に袖を通しながら、ボールスはまだベソをかいていた。
ああ、なんか可愛い。ものすごく。
「記憶喪失って喪失している間の事は記憶が戻った時忘れちゃうって聞いた事あるけど、そしたら、俺達とこうやって話している事も忘れちゃうのかな」
その様子を見ながらリースが呟いた。
「それはそれで、ちょっとだけ寂しかったり、ね」
だが、ボールスが元通り元気になってくれるのが一番だ。
それからはただ遊んだり、レンジャーのヒルケに森歩きのコツを教わったり、今までの出来事を肴に思い出話で盛り上がったり‥‥
しかし、ボールスは知らなかった。ピクニックから戻った後、今日の夕食には更なる恐怖が待ち構えている事を。
洋風素麺やスープパスタ、肉と野菜の串焼きなど、思い出の料理の数々を披露してきたマイの、最後のメニュー。
それは‥‥
「‥‥以前、私の悪い病気が出た時の実験料理なので‥‥、解毒剤こそ添えてありますけど、ごく普通の料理なので気にされなくても大丈夫です」
何だか、冷や汗が出て来た。
そこにタイミング良く、何かバタバタと蠢く物を入れた袋を持ったウォルが現れる。
袋の中に入っていたのは‥‥まあ、ご想像にお任せしましょう‥‥師匠の反応と共に。